院長雑感詳細

院長雑感(122号)

この6月、日本病院会の医療安全管理者養成講習会、鹿児島県看護協会による同講習会と相次いで養成のための講習会が開催され、挨拶や講師を務めた。2006年の診療報酬改定で、専従の医療安全管理者を配置するなどの要件を満たした病院では、「医療安全管理加算」をとれることになったために、さまざまなところで講習会が開催されている。
 私は2007年3月に、「医療安全管理者の質の向上に関する作業部会」(厚労省医政局)で部会長を務めたが、医療安全管理者の業務を医療の質(Quality)、安全(Safety)、リスク管理(Riskmanegementt)に大別した。当初はリスク管理中心の研修が多かったが、最近では前2者に重点を置いた研修になりつつある。
 また、今度の日本看護協会の会長に医療マネジメント学会の医療安全対策委員長の坂本すがさんが、東京都の看護会長は嶋森さんと、医療安全対策にかかわってこなければ会長に相応しくない時代になっているというような話もした。
 看護師に限らず、病院の運営や経営には、医療安全管理は基本である。
■ 患者数
 5月の入院患者数は363.4人で、計画に対し8.6人の減となった。平均在院日数は17.7日と全く問題はない。外来は161.1人と、12.2人の減となった。
■ 診療報酬点数と損益計算書
 5月の診療報酬点数は、計画比で入院では464,997点の増、外来では66,038点の減で、対計画では入院が以来合わせて、398,959点の増となった。また4月からの累計でも150,348点の増になった。
■ 青春のほろ苦い話
 私が東京の都立府中病院で働いていたのは、1974年から76年の2年間で、まさに青春の真っただ中だったといえる。
 先日、この院内ランで弁護士のこだませんせいの「大相撲八百長」問題に対する鋭いご指摘を引用させてもらったが、その「つながり」で、今度は「ドイツ語学校」でのほほえましくもほろ苦い「青春物語」が紹介されている。多忙を極めているだろうこだませんせいが、(もの好きにも!)その語学学校に通ってきている若者の「恋の橋渡し役」を買って出て、「クラスの飲み会」まで設定してあげたという話である。私の時代から40年近くが経つているのに、「似たようなことも多いもんだなあ」と苦笑しながら、東京行の機内でキーボードを叩いている。
 当時、府中病院の神経内科の先生方の間で、にわか「外国語会話ブーム」が湧き起こった。「花ちゃんが、アメリカ人の女性から英会話を勉強しているらしいよ。どうもその先生の金髪に参っているらしい」という噂話が伝わってきたときの驚きと、パラドキシカルな取り合わせに抱腹絶倒したものである。H先生はかなり高齢の岩手県の出身の先生で、ズーズー 弁丸出しで、「日本語もよく聞き分けられないのに(お前の鹿児島弁も似たようなもんだろう、という影の声が聞こえてくる!?)、英語でもないだろう」と、我々口の悪い医師の間では、ささやかれたものである。
 それから間もなく、世話好きでシニカルなS先輩、一年後輩のB先生の3人が、渋谷のドイツ語学校に通うことになった。こだませんせいの場合は朝のクラスということだが、我々の場合には夕方のクラスで、病院が引けてから約一時間近くかけて電車を乗り継いで通ったものである。
 私が劣等生の気持ちがよくわかったのは、このクラスでの体験だった。ドイツ人の女性教師にあてられるといつもしどろもどろで、わずか一時間ちょっとの時間だったかと思うが10時間近くにも感じられた。20人くらいのクラスは外資系の企業に勤めている女性が多く、英語は流暢で、その上にドイツ語もというレベルの高いクラスだったのである。我々も大学時代にはドイツ語は必須科目だったという自負もあり意気軒昂と乗り込んだわけだが、3人とも「できの悪い、何のために受講しているのかよくかわからない劣等生」というレッテルを貼られてしまうのにそんなに時間はかからなかった。こだませんせいも「日本人とは思えないくらい、へたくそでもしゃべり続ける」と書かれているが、きっと謙遜されているに相違ない。先生はアメリカやイギリスでも弁護士活動をされておられるくらいの語学にも長けておられるわけで、我々の「できない」とはレベルが違うのだと思う。
それにしてもせんせいが、ドイツ語にも挑戦されるという意気に敬服する。
 さて我々3人が、この拷問のような時間を耐えられたのは、講義が終わってからの楽しい「食事会」が待っていたからである。S先生は軽妙な話術が得意で、B先生は話術も面白いがオーボエやピアノ演奏ではプロ級の腕前だった(その証拠に、その後サントリーホールで公演や海外にも演奏旅行をしている)。私だけが何の才能もなかったが、一人だけ独身というアドバンテージを持っていた。
 S先生はこだませんせい同様にお世話をすることが大好きで、独身だった私の身の上を案じて「恋のキューピット」役を演じてくれた。しかしどうしてか、恋が実ることはなかった。加齢現象も加わって詳しいきさつなど忘却の彼方に押しやられてしまったが、ひょいとその女性の名前などが思い浮かんだりするのも不思議である。
 後日談になるが、H先生はしばらくして亡くなられ、S先生と私がアメリカに、B先生はイギリスにそれぞれ留学し、ドイツ語学校での苦しい体験が報われることはなかった。
■ 豊かで便利な生活からの決別
 今回の大震災、そして計画停電の教訓として、「今までのライフスタイルでよかったのか」ということも、日本人一人ひとりに問いかけられた命題ではないだろうか。もっと具体的に述べると、「今の日本人に、豊かで便利な生活との決別は可能か」と置き換えてもいい。
 日本中どこを歩いても、煌々と昼間のように電気のついたコンビニが至るところにあり、喉が渇けば自動販売機にありつける。一寸した所に行くにも車を走らせ、プラグをコンセントに差し込めば、いくらでも自由に電気を使うことができた。
 ところが、このような便利な社会は砂上の楼閣の上に成り立っていたことがはっきりした。福島原発事故の影響で、首都圏で電力不足に陥り、計画停電が現実のものとなったのである。
 それでは豊かさに慣れきった今の日本人に、ライフスタイルの変更が可能だろうか。よっぽどの覚悟がなければ、無理なような気がしてくる。 
 「晴耕雨読」という言葉がある。文字通りの意味は「田園で世間のわずらわしさを離れて、心穏やかに暮らすこと。晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもって読書する」ことをいう。太陽が昇る時間から仕事を始めて、太陽が沈んで暗くなると仕事を止めるような生活スタイルである。夏時間を採用するのもその一つであるし、プロ野球でもデイゲームが増えている。
 公共の交通機関を利用するなど、車社会の見直しもできないものかと考える。
 ただ自らのライフスタイルに当てはめても、その変更は容易ではない。朝の通勤にたまに鹿児島市と加治木間の定期バスに乗ることがあるが、ほとんど乗客はいなくて空気を運んでいるようなものである。私の場合も車を止めてこのバスに替えられるかというと、帰りの時間などが気になり二の足を踏まざるをえない。また田舎では自家用車が唯一の足になっており、私の患者さんもほとんどが自家用車を利用している。ガソリン税をもっと高くして、価格を大幅に上げたらバスに替わる人もいるかも知れないが、禁じ手ともいえる。
 またオール電化の見直しも急務となる。震災前に東京電力では一般家庭に対しても、オール電化の推進をPRしていたということである。原発事故がなくても電力事情にそれほどの余裕がなかったというのに、どのような料簡かと疑りたくなる。おそらく会社内での部署間の連携不足や、コミュニケーションが取れていなかったのではないだろうか。
 アメリカなど西欧諸国では、ラスベガスなどの歓楽街や大都市のネオンのけばけばしさには驚かされるが、一般家庭では極めて質素で暗い明かり中で生活している。もっとも大型の冷蔵庫など、エコとは無縁の生活スタイルといえるのかも知れないが。
 ところで日経の経済教室では、電力料金に関する行動分析で、「消費者、小幅上げでも節電」という記事を掲載している。それによると、省エネに対する意識はできていても、人間はアメとムチを与えないと、頭ではわかっていても行動してくれないという。行動経済学という難しそうな理論では「人間は過剰な現状に拘泥し、なかなか習慣や規範を変更しようとしないステータスクオ(現状維持)バイアス」があるのだという。卑近な例が愛煙家の禁煙で、喫煙家の50%が禁煙を考えているというが、禁煙には踏み切れない。禁煙に導く方法は、一箱600円まで煙草価格を引き上げることだそうだ。同じように節電を実行するもっとも手っ取り早い方法は、電力量料金の引き上げだという結論であるが、いかがなものだろうか。
 いずれにせよ、家庭でもできる節電対策は徹底してやるようにしなければならない。「喉もと過ぎれば」に終わらせてはならない。
■ 豪雪の里に夫婦二人
 テレビを見終わったとき、ほんわかと温かい気持ちになれる、何とも不思議なドキュメンタリー番組だった。案内人(語り手)の倍賞千恵子の語りも、この番組の雰囲気に相応しい。NHKサンデーアンコールで、「にっぽん紀行・豪雪の里に夫婦ふたり」という番組である。
 山形県の月山と朝日連峰に囲まれた、林業を生業とする古寺集落での話である。この地域は冬の間は3メートルを超す豪雪地帯で、集落は町から孤立する。集落といっても、一時は20数軒の人家があり小学校もあったが、現在では佐藤三男・あさよさん夫妻と石子貞吉さんの2世帯3人の高齢者だけである。この3人が互いに助け合いながら、自給自足の慎ましやかな暮らしを続けている。番組では主に佐藤夫妻の生活振りを克明に追っており、三男さんが78歳、幼なじみだった奥さんは5歳年上の姉さん女房で83歳、二人の日常がほほえましく撮れている。
 姉さん女房だったこともあって、若い頃からあさよさんのペースで日常生活が営まれている。あさよさんは足が弱くなり雪下ろしもできなくなって、寡黙な三男さんが黙々と一人で雪下ろしに余念がない。冬の間の食料は、山菜やクマの肉など、整然と並べられた壺やバケツに蓄えられている。現代的な価値観からすれば決して豊かな生活ではないが、そこには悲壮感というようなものはなく、むしろ二人の間に独特の「幸せ感」というものが漂っている。
 それでも老いや病気は容赦なく、この2人の生活にも影を落としてくる。
 1月、道の両側に雪の崖ができた道を、スノーボードの後にあさよさんを乗せて、三男さんは2時間もかけて町の病院まで連れて行く。あさよさんは5年ほど前に脾臓の腫瘍摘出を受けていたが、その再発を心配してCTを撮りに行くのである。結果は(どうしてなのかよくわからないが)一月後にしか結果がわからないということで、一月後の2月に、また同じように雪道を二人で聞きに行く。
 「ご心配要りません」と医師から告げられたあさよさんは、待合室の片隅に待っている三男さんの前を黙って通り過ぎる。三男さんもあえて結果を聞くこともなく、二人で町のスーパーに行き、三男さんの好物だというサンマを2匹求める。このあたりの雰囲気で、病気の結果が自ずから三男さんにもわかったのだろうが、「ゆっくり聞けるから」と家に着いてから話を聞くところがいかにも二人の生活の間合いである。時間がゆったり、静かに流れている(「やらせ」ではないかと勘ぐりたくなるような成り行きである。でもこの二人、とても大根役者には真似のできないような存在感がある)。
 2月の節分には二人で、家の隅々まで落花生をまき、3月3日には、雛祭りの人形を飾る。そして今年も、5月12日にやっと除雪が終わって町への道が開通するのだという。
 番組はここで終わるが、このような二人の生活がいつまで続けられるのか誰にもわからない。この二人に限らず、日本全国で似たような生活を送っている老夫婦は多いのではないだろうか。
 自分の、現在の生活スタイルを問う番組ともいえそうである。
■ モノからパッケージ型のインフラ輸出へ
 5月8日の日経一面に、「官民インフラ輸出」という大見出しで、「政府と国内有力企業が組んで環境配慮型のインフラを輸出する計画」について報じている。具体的には東芝とパナソニック連合がインド電力供給体制を整備し、三菱重工業などがシンガポールで電気自動車を活用した交通システムを、富士電気がベトナムの主要都市に環境監視ネットワークを構築するという。
 ただ今回の原発事故で、原子力発電プラントの海外輸出は難しい局面を迎えているということだが、それでもインフラ輸出は原発プラントだけではないわけで、国策として推進していかなければならない。
 しばらく前の同じ日経の一面に、「高速道3社で海外事業」という大見出しで、「東日本など運営・管理の新会社」を設立するという。本文を読むと「ベトナムやインドでの有料道路の運営、管理などの受注を目指す。施設の建設だけでなく運営委託まで含めたパッケージ型のインフラ輸出の促進は、政府の新成長戦略の柱と位置付けている」。
 その他にも、次世代路面電車や水事業、次世代火力発電所、電力系統システムなど公共交通網や発電・送電、水処理施設など大型インフラ整備への「輸出」が活発になっている。
 思い起こせば日本の高度経済成長の牽引車になったのは海外への輸出にあり、その主力製品は繊維やおもちゃに始まり、日本のお家芸といわれたモノづくりや技術を基本とする電化製品や車などであった。これらの製品で1980年代から90年代にかけては世界市場を席巻できていたが、2000年代ごろから台湾や韓国、そして最近では中国の追い上げで悪戦苦闘している。特に韓国は官民一体となった輸出戦略とウォン安もあって、日本の得意としてきた分野で急速に追い上げ、追い越しつつある。日本の高い技術力や丁寧なモノづくりも、価格競争を前に分が悪くなっている。
 それでは今後日本が輸出で生き残る道はどこにあるのかというと、このパッケージ型のインフラ輸出であるといわれている。すなわちモノを単体で輸出するのではなく、システム全体や付随するサービスまで含めて輸出し、海外で事業展開するのである。このパッケージ型という言葉の意味は、競合している他国との違いを日本の誇る有望技術をパッケージ化して相手国のニーズに答えるというものである。モノや技術の輸出だけでなく、インフラ整備の事業も獲得することで、必要な設備・技術の導入機会を確保し、その事業からの投資収益まで獲得できるので利益の幅も拡がる。
 たた経済効果も業種により異なるようで、原子力発電事業やエンジニアリング会社が大規模化学プラントを受注したとすると波及効果は大きく、設計図や部品、ケーブルなど大きな波及効果が見込める。一方、水事業では設備投資の大半は管網敷設や土木工事に費やされ、日本が得意とする膜のようなハイテク分野への投資額は全体の1%程度にとどまるようだ。
  いずれにせよ昔から言い古されてきた言葉であるが資源に乏しい日本、人材と輸出で勝負しなければ活路はない。
■英語公用化の是非(前)
 加速度的にグローバル化していく時代にあって、世界的なビジネスに勝ち抜くためには企業として「英語を公用化」していくべきなのか、あるいは長期的に考えるとその副作用により企業発展の阻害要因となるのか、議論は尽きないようである。おそらく後世の歴史家の判断を待つことになろうが、深刻な経済不況下の日本の企業にとっては死活問題ともいえよう。3回にわたって、「英語」にまつわる話を書くことにする。個人的な「恨み節」として、これほどまでに時間をかけて勉強したのに、特に会話に至っては全く実りのない人生になってしまった。
 さて大震災前のニュースとして、ニュージーランドに語学留学している学生が、地震の犠牲になったニュースが駆けめぐったのは数ヶ月前のことである。
「日本人が集まるここ日本で、英語を使おうなんてばかな話」、ホンダの伊東孝紳社長は記者会見で、「グローバル企業として英語を社内の公用語にすべきでは」との質問に対しその可能性を一蹴(いっしゅう)し、「英語が必要なやりとりは英語でやる。時と場合によって使い分ければいい」と強調した。
 最近、衣料品店「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングや楽天が、英語を社内公用語にする方針を表明している。そのためか、大学生の就職先人気企業ランキングで楽天は200位圏外に急落した。
 私の属している日本神経学会でも、外国人の参加の多い(といっても数人)シンポジウムでは、英語でのディスカッションとなってきている。ほんの少数の外国人のために大多数の日本人が不自由な英語を強いられることになる。そうは言うものの、国際化の時代に対応するには、かねてから英語に親しみ、英語を流暢にしゃべれないとついていけない時代になっているのも事実である。
 英語を社内公用語として採用し、今や世界の企業として急成長している会社に韓国のサムスン電気がある。サムスンは1997年のアジア通貨危機と、金大中政権による財閥解体政策の影響で経営が窮地に追い込まれたことがきっかけになって、李会長は海外の先進技術や洗練されたデザインなどを取り込んで付加価値向上を追求することとした。
 その過程で、海外の技術者やエンジニアとの共同開発や、海外の現地企業や消費者たちを調査分析する為にはハングル語では当然難しく、英語を彼らとの共通言語とするのは自然であり必然的な流れであったという。
 サムスンの事例から、英語を社内公用語として定着させる為のポイントをあげるとすれば次のようになる。サムスンが生き残るためには海外に学び、海外に打って出なければ企業としての生き残りはないというコンセンサスに立って、社員は英語を当たり前の道具として使えなくてはならないという強烈なマインドセットを全社員が持ったことである。また採用時にも「TOEIC730点以上」を条件とするなど、これからサムスンを目指す人材に対してもサムスンでは、英語力が必要となることを明確に打ち出したのである。
■ 英語公用化の是非(中)                                                       
さて世界を相手にビジネスを展開していく上で、社内公用語を英語にすることで得られるメリットは2つあるという。一つは、世界の多くの企業と円滑なコミュニケーションが取れるようになり、顧客や協力企業との交渉がスムースとなり海外現地法人でのマネジメントを行いやすくなる事である。もう一つが、社内公用語を英語とすることで、海外から優秀な人材を集めやすくなることである。これは、社内公用語が英語であれば優秀な人材が集まるというよりも、社内公用語が日本語のままでは、海外の優秀な人材を集めることは難しいといった方が正確である。楽天の三木谷社長も、この2点のメリットについて、「世界で事業を成功させるには、スタッフレベルの英語のコミュニケーションが重要になってくる。海外の優秀な人材を得るためにも必要」と、その重要性を認める発言をしている。
 この様な英語公用化への流れに対し、塩野七生(しおのななみ、文藝春秋)さんは「最近笑えた話」として英語公用化を笑止千万の話として論評している。塩野氏は現在イタリアに住みながら「ローマの話」など数々の物語を執筆し、我々を楽しませてくれている。
塩野さんによると、外国語を日本で無理に話すことを強いると精神的にバランスを崩し破綻をきたしてしまう。すなわち塩野さんの場合、日本に帰ってきて言語というスイッチを切り替えて、「日本語漬け」が頭と心に休養を与えており、さらに想像力を自由に羽ばたかせるとすれば母国語に勝るものはないと言っている。
 また同じ文芸春秋の新年号では、数学者の藤原正彦さん(アメリカやイギリス生活が長い。新田次郎の息子)と古代中国の偉人に焦点をあてた小説を書いている作家の宮城谷昌光さんが「英語より『論語』」と題する対談を行っている。なんとそのサブタイトルは、「英語の公用語化で企業はつぶれる。日本人が依るべきは、中国の古典にあり」というものである。
 言わんとするところは英語を話せるようになることよりも、中国の古典を読んでその教養を身に着ける方が今の日本人にとって大切である。「坂の上の雲」の時代に活躍した人たちは、江戸時代に寺子屋や藩校で四書五経を読み武士道を体得していたから大局的な世界観をもつことが出来た。日本の政治的リーダーも「論語を学べ」と進言している。
 現代の日本の政治的リーダーと目される人たちは、深沈厚重のリーダーというより、頭はよくて才長けて弁舌さわやかな人たちがもてはやされ、その実は中身がないというのである。
 今後グローバルな世界で企業のビジネスマンたちが活躍していくためには、英語が出来るということは必須の条件である。ただ言葉は、お互いがコミュニケーションを図るための道具であり、会話が流暢にできるということが英語が出来るということにはならない。
喩え英語は下手でも、相手の考えを聞きたいと思えば必死に耳を傾けるのである。
■ 英語公用化の是非(後)
 最近のニューズウィーク最新号(2011年5月25日号)では、「日本人の英語」というタイトルで特集を組んでいた。
 そして「『英語ができる日本人』という明治以来の悲願がかなわないのは、完璧さへの執着を断ち切れず英語と対等に向き合えないからだ」と述べているが、この論には私にもよく肯けるところがある。日本人は植民地経験がない単一言語国家で、巨大な国内市場があるため経済の外国依存度が低い。日常的なニーズがなく、言語系統的に母国語と関連性のない外国語を国民の大多数が身に付けた例は世界のどこにもない(東京学芸大学金谷教授)」そうである。
 多くの日本人が英語に苦手意識を持つ根本的要因は、学習法や教材選びといった小手先のハウツウより、むしろあまりにも完璧な英語を目指そうとする意識にあるという。日本人のような非ネイティブ語者にとっては英語は本来、ビジネスや旅先で重宝するためのスキルの一つであるのに、強烈な憧れのせいで、特別な存在としてあがめられ、頭の良さや人材の価値を示す指標ともなってきた。想いが強すぎて相手の等身大の姿を冷静に判断できずに、見当違いの努力に時間を費やしたり、勝手に諦めて落ち込む、報われない恋愛のようだというのである。
 確かにこのような分析、自分の場合に当てはめてもよく分析されていると思う。中学からすると何十年も英語を学んできたのに、英語が満足にしゃべれないのである。私などこの間3年間も留学までしてきたというのに、今やほとんど忘れてしまった。語学というものは日常的にしゃべらないでいると、どんどん退化してしまう。たまに話す機会があると、文法を気にしたりするうちに、言葉がでなくなる。
 ところがこの世界共通語としての英語は劇的に変わりつつあるという。世界の英語話者の7割を非ネイチイブが占める今、パリの多国籍企業の会議室やドバイの建築現場で飛び交うのは、ネイティブの規範にとらわれない「シンプルで適度に適当な英語」なのだという。お国訛りが強烈な発音でも、時制や単語が間違っていても互いの意図を理解できれば十分という考え方が急速に市民権を得つつある。
 完璧な英語という呪縛を断ち切って、もっと気楽なスタンスで英語と向き合うことである。「受験英語という『審判』が要求する厳しすぎるストライクゾーンに萎縮して、ボールを投げられない日本人がたくさんいる(グローバルインパクト代表、船川氏)。「国際ルールのストライクゾーンがいつの間にか格段に広がっていたとわかれば、安心して投球練習を積める」という比喩はよくわかりやすい。
 アメリカなどでもタクシーの運転手さんなど英語の話せない人はたくさんいるし、たとえ話せても文法など滅茶苦茶である。むしろ日常の会話より、メールやきちんとした文章をかけることの方が貴重なわけだが、どうも日本人は日常会話の方を重視して、話せないとコンプレックスを感じるのである。逆に、芸能人が流暢な英語をしゃべれると、妙に尊敬してしまうこともある。羞恥心の少ない若者が外国にしばらく住む機会に恵まれたら、少なくとも会話レベルはマスターできるのである。
 結論として、「愛憎半ばする英語への幻想を断ち切り、『敵』の姿を冷静に見極めれば攻略法はおのずから見えてくる」と金谷さんは話している。
■ 大和し美わし
 川端康成の美意識~東山魁夷と安田靫彦~(日経2011:5月29日、浦田憲治)は読み応えのあるエレガントな企画である。紙面を開いた途端、あの東山魁夷による「北山初雪」の静謐な美しい絵が飛び込んでくる。小見出しには「奈良の三輪山のふもとを通る山の辺の道には川端康成、東山魁夷、安田靫彦が揮毫した歌碑が建つ。3人は「大和し美(うるは)し」のこころで結ばれていたとある。(なお、「し」は強調語)。
 私はこの三輪山(奈良県櫻井市)の麓の井寺池にはまだ行ったことはないが、3人の歌碑が建っていると聞くと出かけたくなる。事の発端は1971年、櫻井市の米田商工観光課長が文化人に記紀・万葉集から歌を選んで、山の辺の道に歌碑を設けようという妙案を思いつき、川端康成や棟方志功らの賛同を得たことに始まるという。
 翌年川端は候補地として井寺池の堤を選び、「堤の線が途切れないように歌碑は低くして下さい」と注文もつけた。そして「大和は国のまほろば たたなずく 青かき山ごもれる 大和し美し」を書くことになったが、「あれは古代の英雄、倭建命の絶唱です。私のような者がそれを書くのは気が引ける」と言っているうちに、ガス自殺してしまった。やむなく川端夫人の了承を得て、ノーベル賞の授賞式で語った「美しい日本の私」のペン字原稿から拾い集めて歌碑を作ったという。
 3年後の75年に東山は櫻井市で「やまとしうるわし」のテーマで講演し、歌碑について次のような感想を述べた。「先生ご自身の、この世との決別のこころがこもっているのではないか。日本の美を生涯かけて追求した人の、魂の最後の安らぎの場として、あそこより適当な所はないと・・・」。
 東山と川端との出会いは1955年頃、東山が「新潮」の表紙絵を描いていて、編集者に川端邸に連れて行かれたことに始まる。その後、川端の小説の装幀を手がけたり、自分の絵を送呈したが、その一つが前述の「北山初雪」で、ノーベル賞の祝いとして贈られたものだという。
 東山と川端は「二人ともお互いを理解し、影響し合っただけでなく、喜びも分かち合っていた」と文学と美術の魂の交流を語る人もいる。二人とも家庭環境が似ており、川端は「孤児の感情」を、東山は肉親を全て失うなど孤独感という点でも結ばれていた。
 ところで東山の歌碑は川端のそれの近くにあり、「かぐ山は 畝火(うねび)ををしと 耳成と 相あらそひき 神代より かくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも つまを あらそふらしき」と、万葉集の天智天皇の歌だという。
 一方安田の歌碑は、二人の歌碑から歩いて7,8分の所に建っている。「山吹の 立ちしげみたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく」という万葉集の高市皇子の歌だと。
 安田は川端と1948年に、川端の初めての全集の表紙画16枚を描くことがきっかけで、「大和し美し」のこころで深く結ばれたようだ。
  私が驚いたのは、この二人が良寛を介して結びつきを深めたということである。安田は画壇の大御所だっただけでなく、良寛の書画の収集や研究で知られていた。古美術を集めていた川端は、気にいった品が入ると安田邸に持参し至福の時間を過ごしたが、そこで良寛の書画に出会う。「美しい日本の私」では良寛の「形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす秋はもみじ葉」という辞世の歌を紹介している。 そして「その人の辞世が、自分は形見に残すものは何も持たぬし、何も残せるとは思わぬが、自分の死後も自然はなお美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう、という歌であったのです。日本古来の心情がこもっているとともに、良寛の宗教の心も聞こえる歌です」と書いている。
 3人の巨匠が、歴史と伝統の大和を核にして美しく静かな交遊を育んでいたたおやかな時代から、一転して不安と混沌の日本になってしまった。アンバランスな近代化のつけのような気がする。
■ Spill-Proof(スピルプルーフ)
 「アメ玉を食べたのですか」と毎朝お茶を持ってきてくれる内村さんの、何とも鈍臭いお言葉である。確かに部屋中にそのような匂いがしないでもないが、そこがちょっと「匂い」と「香り」の違いである。違いのわからない所が、北山と頴娃町の差かな。
 外来日の予約名にSさんの名前を見つけた。いつもは薬のみの処方が続いていたのに、今日はご本人が来られたのだろうかといぶかりながら名前を呼ぶと、年齢よりはるかに若くエレガントなSさんが現れた。20数年前に両手が少し震えるということで受診され、またお父さんにも震えがあるというので、「良性の家族性震戦でしょう」ということになり、アルマールだけ処方してきた患者さんである。
 「今日はまたどうして?」と聞くと、「小川さんから、時には顔を出しなさいと言われたものですから」と笑いながら答える。ちなみに小川さんは、外来に勤務していた頃から彼女が主宰するフラワーデザイン教室の生徒である。「飲み込みの悪い生徒ですみませんね」と保護者のような余計なことを言うと、「とんでもありません。いい生徒さんです」とお世辞を言ってくれる。「へえ、お父さんも97歳になりましたか。でもお元気で何よりです」というような他愛のない会話のあと、帰る頃になって袋から変なものを取り出す。
 「先生のお部屋に置いて欲しいと思いまして・・・」と四角形の箱の上に小さなウイスキーの瓶を被せたようなものを取り出した。「スピルプルーフというもので、いい香りが部屋中に拡がります」と言いながら、素早く部品を組み立ててくれる。瓶の中央に差し込んだ芯からオイルを吸い上げ、木製の蓋から香りが拡がる仕掛になっている。
 「後で読んでみて下さい」と言われた利用書は、全て英語で書かれており米国製である。
それにしても「スピルプルーフ」とはどのような意味なのだろうか。スピルバーグやフールプルーフなどならよくわかるのであるが。
 みなさんはよくご存じのことと思うが、フールプルーフは「産業の分野において、使用者が誤った操作をしても危険な状況を招かないように、あるいはそもそも誤った操作をさせないようにと、配慮して設計されていること」である。例えば、フタを閉めないと回転しない洗濯機・脱水機、人が座っていないと噴射されないウォシュレット、ギアをパーキングに位置させないとエンジンがからない自動車などである。医療安全の分野でも、できるだけこの考え方に基づいた機器が導入されている。
 ところがこのスピルプルーフの利用書にも「倒れてもこぼれないお部屋を汚さないリードなしのディフューザー 、お子様や可愛いペットが遊んでいて容器を倒してしまっても、Wood WickのSPILL-PROOF(スピルプルーフ)ならこぼれてしまう心配はありません」と書かれている。案外、フールプルーフを意識したネーミングなのだろうか。
 内村さん、明日からは「リンゴのようないい香りですね」と言って下さいね。でも一寸心配になるのは、訪問者が「この人、おかしいのじゃないの。部屋は散らかり放題なのに、なんというアンバランス!」と思われること、「石川さゆりの天城越えの(移り香)のように、体に染みこまないのか」ということである。世の中のこと、心配の種は尽きない。
■ 明治生まれの男の気概
 仏教には「年忌」といって、人が亡くなってから毎年巡ってくる命日に供養する儀式がある。亡くなられてからの歳月で、1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、25回忌、33回忌、50回忌などがその主なものである。実際にはこの年忌から一年引いた年月が、実際の死亡してからの年数ということになる。通常、菩提寺のお坊さんにお経などあげてもらって、追悼供養などを行うものである。
 先日、義祖父の33回忌の宴があり、お坊さんが到着するまでの時間、私の82歳の義母がその思い出を懸命に語った。
 実氏は明治30年の生まれで、昭和54年に81歳で亡くなられた。私は昭和51年に結婚したので、関わりは3年ほどと短かかったこともあって、細かな会話などの記憶はあまり残っていない。もともとは福岡県の生まれだったが、東京歯科医学専門学校を卒業し、20歳代の後半(大正11年)に、県立鹿児島病院の初代部長として招かれた(鹿大歯学部前史、佐藤八郎による)。その後、昭和になってから鹿児島市の現在の中央公園内に歯科医院を開業し、戦後になって山形屋の隣(現在の病院の場所)に、歯科医院を移転している。
当時は歯科医院そのものも少ない時代であり、県の歯科医師会の重鎮としても活躍していたという。
 「私は、自分の父を3歳の時に亡くしましたので、義父は本当のお父さんのようでした。嫁に来たときに義父から、『竹のように生きなさい』と言われたことをよく憶えています。そこで当時住んでいた部屋のふすまを、素直というか単純というか、竹の図柄の入ったものにしました。義父は、人生には悩んだり壁にぶち当たったとき、竹のようにしなやかにしっかり生きなさいと言いたかったのだと思います。竹にはたくさんの節と根がありますが、この節と根が竹の生命力を支えています。そこで今日は掛け軸も、先日山形屋で買ってきた『竹に雀』にしました」。床間をみると、岐阜県にお住まいの山口さんという日本画家の描かれた、竹林にかわいらしいすずめが5羽戯れている様子を描いた掛け軸が掛けられている。
 「義父は、厳格で威厳のある昔気質の人でした。寡黙でしたのでみんなは怖かったと言っていましたが、私には優しい義父でした。子どもが生まれた時にはその喜びようはありませんでいた。自信家で、完全主義者で、努力家でもあり、自分の健康な歯を全部抜いて、自分で作った義歯にしていたほどでした。でもお義母さんは、『実さんに作ってももらったんだけど、この前歯は曲がっている』と笑っていたものです。手先が器用で、孫たちが石などを持って帰ると、さっそく動物など造ってくれていました」 それにしても自分の歯を抜いてまでいい義歯を造ろうとする姿には、明治生まれの男の迫力を感じる。「職人気質で、物を大切にするようにと、歯科用のハサミや針など自分で丁寧に研いでいました。いい針で治療しないと患者さんに痛い思いをさせると、患者さんにはやさしい義父でした」。孫には殊の外やさしかったようで、いろいろな動物のおもちゃを手作りで作ってくれたらしい。たまたま残っていたというきれいに磨かれた黒い石に、数匹の鹿の背中に猿が乗っている銀製のおもちゃなど精巧で躍動感もあり、さすがに器用な手つきが伺える傑作である。
 義弟によると、義母はこの2日ほどよく眠れなかったようだ。年をとると(とらなくてもそうだが)よくあることで、何か行事を控えると頭の中が一杯になってしまう。特に女性にとっては、33回忌を仕切るということは大仕事のようで、私の母も父の33回忌を済ませたときには、「もうこれで責任を果たせた」と言っていたことを思い出す。義弟によると眠れなかった原因の一つが、「あめあめふれふれ」という歌詞のを誰が歌っていたのかが思い出せなくて、眠れなかったのだという。
 「義父は、当時はやり出した八代亜紀のファンで・・・」ということを話すためだったらしい。
■ 賞味期限
 「賞味期限」という言葉の意味は、「美味しく食べられる期限」のことである。2007年に「赤福」が賞味期限の切れた売れ残り商品の再利用などを図ったとして世間の非難を浴びたが、その当時よく使われた言葉である。ただ人の能力についても波及して、「○○首相の賞味期限はとうの昔に終わっている」と巷でささやかれたりする。
 5月29日の夜、希代のヒットメーカー筒美京平の特集があった。1960年代後半から1980年代にかけて昭和の歌謡界をリードしてきた作曲家で、文字通り第一人者であったといえる。30年に及ぶ作曲家生活で発表された作品は約2600曲、NO.1ヒット37曲、ベスト100以内には500曲以上がチャート・インという神業とも言うべき厖大な作品を残している。
「サザエさん」など、「ええっ、これも筒美の作曲だったの」とビックリする曲は多い。
 この夜は珍しく筒美ご本人も登場した。昔からテレビなどへの露出は嫌っていたようで、そのために「筒美京平」という名前は、何人かの作曲家の共通のネーミングだと誤解されていた時期もあったという。
 登場した曲は私にはいずれも懐かしいものばかりで、今でも全然「賞味期限」を感じさせないのものばかりである。筒美によると、時代の流れを鋭く察知することにもっとも神経を使い、自分が好きかどうかやいい音楽かどうかより、売れる音楽かどうかに視点を置いたという。もっともうれしいかったのは、知らない街で自分の作った曲を口ずさむ人に出会ったときだという。
 さて5月29日の日経の文化欄には、歌人の佐佐木幸綱が「詩歌の賞味期限」というタイトルで一文を寄せている。佐佐木はあの佐佐木信綱の孫で、早稲田大学の教授として「サラダ記念日」の俵万智にも大きな影響を与えている。
 佐佐木氏は「詩歌にも賞味期限があるのだろうか」と問題提起している。
 ある県の高校の研究事業で、話のかみ合わない場面に遭遇したことがあったという。
 しんしんと雪ふるなかにたたずめる 馬の眼(まなざし)はまたたきにけり(斎藤茂吉)
 ここでいう馬のイメージは斉藤の時代には、脚がどーんと太い農耕馬であるが、生徒は足の細いサラブレットの馬を思い浮かべる。すると、たたずむ馬のイメージも、まばたきする眼も異なってくる。しっくりしない原因は、時代の変化にあったようである。
 また俳句では、昔は教科書の定番だった「降る雪や明治は遠くになりにけり(中村草田男)」も、明治生まれの人がほとんどいなくなった現在、教科書からも姿を消したという。
今でいえば、昭和は遠くになりにけり、だったらしっくりとくる。佐佐木は「教科書としては確かに賞味期限が切れたと言えるだろう。が、一方、生々しさが消えて、古典としての味わいを持ちはじめた、とみることもできるのではないか」と述べている。 
 そんな折、今歌壇では、昨年3月に90歳で他界した竹山広の歌が注目されているという。
 居合はせし居合はせざりしこと つひに天運にして居合はせし人よ
 あたかも東日本大震災を予見したかのようであるが、実際は阪神大震災の時の歌だという。
 竹山は長崎で爆心地から1400メートルの地点で被爆し、原爆の歌を残した歌人としても知られている。彼の最初の歌集「とこしへの川」は瓦礫となった長崎の街を歌っているという。そんな体験を持つ竹山だからこそ、阪神大震災の折にあのような短歌を作ることができた。「竹山のこれらの歌は、賞味期限が切れるどころか、ますます輝きを増したように思える」というのが、問題提起に対する答えである。
■ 終末期における人工栄養
 数年前にがんで亡くなった私の義父は内科医だったが、自らの終末を悟り「点滴はしないでよい」と頑強に主張して、数日後に安らかに亡くなった。自分の病院だったのでわがままが許されたわけだが、一般的には現在の日本の医療のもとでは意外に難しい事ともいえる。
 また私が外来で診てきた89歳の男性は軽い認知症も併発していたが、肺炎を起こして入院した。経口摂取が困難となり、胃ろうを造設するかどうかが大きな問題になった。外来での長い間の奥さんとの話の模様や患者本人とのやりとりから、経鼻カテーテルで様子を見てくれるように主治医に頼んだ。本人の意志は正確にはつかめなかったが、これでいいのではないかと考えている。
 このように、高齢で認知症だったり、また難病の末期の患者に対する人工栄養(ANH:Artificial Nutrition and Hydoration)の問題は、現場の医師の判断を悩ませている。
 日本医事新報の4月号で、「人工栄養に”葛藤”する医師~日本老年医学会の調査が映す今~」というタイトルで、認知症末期患者への人工栄養の実態とアンケート調査の結果を取り上げている。
 ところで人工栄養のような問題が生じるようになった背景には、次のようなことが考えられる。延命治療の考え方が変化し、「食べられなくなったら人生の最後」から、「人工栄養ででも延命をはかるべきだ」という考え方にシフトしてきたこと、PEG(経皮内視鏡的胃ろう造設術)が手技的に簡便にでき、診療報酬点数も手厚くなったことが挙げられる。
そして従来は老人保健施設や特養のような施設では胃ろう患者は敬遠されがちだったが、最近では経口摂取の場合のマンパワーやリスクを考えて、胃ろう患者の方が歓迎される傾向にある。
 日本老年医学会が会員医師4506人に調査用紙を配布し、1554人(有効回答率:34.7%)から回答を得た結果をシンポジウムで発表している。その結果、44%の医師がANHの中止を経験している。その理由は「下痢や肺炎などの医学的理由」が68%、「患者家族がANHの中止を強く望んだ」が43%、「医師として、ANHの継続は患者の苦痛を長引かせると判断」が23%の順になっていた。
 また認知症末期で経口摂取困難な患者の家族に対して、53%の医師が「PEGを選択肢として提示する」と回答、「末梢点滴を選択肢として提示する」の53%と同数だった。
 一方欧米では、苦痛の少ない最期を実現するためにはANHを行わないことが緩和ケアになると考えられており、「ANHの差し控え・中止は倫理的に妥当」とされている。
(日本医事新報、No4536)
 この問題、いのちの問題として結論の出ることではないが、目を背けて通れない時代となっている。(人工栄養は現代医学の進歩の賜であり、決して否定するものではありません。あくまでその適応は考えていくべきものだという視点です)。
■ 病院紹介DVD
 平成24年度看護師採用募集用の「病院紹介DVD」が完成した。昨日は、川内市の鹿児島純心女子大学を訪問した際にお披露目をさせて貰ったが、極めて好評だった。
 このDVD、教育担当師長の後藤さんと筋ジス病棟師長の的場さんを中心にして、看護部の総力をあげて完成にこぎつけたものである。後藤さんと的場さんの日常から察して、技術的にもセンス的にも想像できない傑作となっている。軽快な音楽をバックに、たった5分間でこれほどの内容を網羅できたことに驚いてしまう。就職説明会(6月12日)でこのDVDを観た優秀な学生は、きっと南九州病院のブースに殺到するに違いない。
 看護師の採用が、鹿児島でも左うちわの状況ではなくなっている。以前は採用数の数倍ほどの受験者の時代もあったが、7:1看護の導入でどこの病院も採用数を増やしたことや、関東や東海などの病院から強力な勧誘活動が展開されていることが背景となっている。そこで当院も、就職説明会に「リキ」がはいってきたということである。
 DVDではまず、「採用を希望する病院調書」と「看護部の案内パンフレット」がめくられ、そして病院の紹介にはいる。正面の建物全景(アメリカハナミズキの新緑が風にそよいでいて心地よい)と「病む人に学ぶ」という院是に始まり、日本医療機能評価機構からの「Ver6の認定書」も。
 次は病院のある姶良市加治木町の説明になる。空港から車でわずか10分の距離にあると紹介し、姶良市巡りでは、新道屋の加治木まんじゅう、ムネリン(ソフトバンクの人気選手)が毎年自主トレーニングする姶良総合運動公園と川崎電気工事の実家と看板(よく探し当てたなあ!事後承諾になったがスタッフが訪問して諒解を得ている)、姶良港なぎさ公園(どこにあるの?)、美人の湯(船津温泉、制作者の後藤さんの住んでいる所。何度も入浴しているハズだが)、蒲生町の大クス(恋愛祈願中の教育担当師長!という文字もみえる。よく見ないと、どこにいるのかわからないけど)などが、制作者の独断と偏見
で取り上げられている。でもよくここまで、忙しいのにこまめに撮りに行ったなあ。
 病院の紹介では外来待合室に始まり、病棟は外科(楽しい職場ですの集合写真)、内科(是枝先生の満面の笑顔)、小児科(赤ちゃんを抱いている看護師、かわいいねという文字)、神経内科(若手を指導している様子)、筋ジス(患者さんの日常のお世話をしていますという集合写真)、重症児(たくさん食べてねと食介の様子)、緩和ケア棟(病室から眺められる錦江湾と桜島の絶景)までを看護師の仕事(ガーゼ交換、点滴準備、食事介助など)ぶりを織り交ぜながら紹介する。チーム医療などにもそれとなく触れていることも素晴らしい。その後、手術室、放射線科、臨床工学室もちゃんと紹介している。極め付
きは在宅医療部で、内田先生が一色さんを訪問している様子が、自然によく撮れている。内田先生が肩を揺すりながら笑っているのは、病院内ではあまりお見受けしたことはない。
 認定看護ナースの紹介では皮膚排泄と化学療法を紹介し、5人の認定ナースがいることも。モデル人体を使った新人看護技術研修(採血、導尿、経管栄養、吸引などで、「安心だわ」のフレーズ付き)、院内研修(倫理、接遇)、入職後の1,2,3年目研修(医療安全、救急処置、看護課程の展開や事例研究、看護研究)の様子などにも触れている。急性期と慢性期を廻るローテーション研修や時間切迫・多重課程シュミュレーションなる研修もある。おまけは看護宿舎の部屋の内部まで。
 最後には「よし、ここに決めた!」と、希望第一位に「南九州病院」と書き込む様子がわざとらしく示され、なんと最後には、山田君の描いてくれた私の顔写真まで登場させている。拍手と紙吹雪が舞っていたのは、よくわからない。
 見終わった感想として、病院の理念として患者さん本位の医療を行いたいという気持ちがよく伝わってくる、また登場した当院スタッフ全員の素晴らしい笑顔が強く印象に残った。
■ ヒヤリハットの賞味期限は
 我々は簡単には防ぎ得ないことは重々承知の上で、それでも「安全」を追求していかなければならないのである。 
 重症児病棟の患者さん(28歳)の足の付け根あたりが腫れているということで、「どうも骨折らしい」ということになり、近くの整形外科に診てもらった
。案の定、大腿骨の骨折で、患部をキルシュナー固定などしてもらって帰ってきた。悪いことは続くもので、数日後に45歳の患者さんが、やはり同じ部位の骨折を起こしてしまった。
 はっきりした原因はわからない。重症児病棟ではリハビリや介護処置の時に不自然な力が加わって骨折することもあるが、今回のようにいつ骨折したのかがわからないことも多い。28歳の患者さんの場合は、日頃不随運動が激しいのでベッド柵などにぶつけてしまったのかも知れない。いずれにせよ、歩行できなくて寝たきりの患者さんの場合には、年齢にかかわらず骨は非常にもろくなっているので、ちょっとした不自然な力が加わると、簡単に折れてしまう。不可抗力に近いことではあるが、患者さんの家族からしてみれば、「もうちょっと気をつけていてくれれば」と言いたくなるだろう。
 高い到着点を目指して、細心の注意を払いながら処置にあたるしかない。
 ところで「ヒヤリ・ハット報告制度」の賞味期限は切れてしまっていると広言する医療安全の専門家もいる。私は「まだ賞味期限は失われていないし、医療現場での医療安全対策の第一歩である」 と思っている。
 当院の「今週のリスク情報(No492)」では、「実施直前の確認行動で未然に防げた事例が報告されています」という大見出しで、23年度上半期(1月から5月)のレベル別ヒヤリハッと報告件数の棒グラフが示されている。
 グラフから、電子カルテ(医療の質・安全管理システムSafe Master)の導入以降、それまで月平均60件前後だった報告数が100件を超える数になっていることがわかる。ちなみに5月は、ヒヤリハット105件中0レベル(間違ったことが実施される前に気付いた事例)は41件で、全体の38%である。
 そして「当院のヒヤリハット報告より」、0レベルの2事例が提示されている。
・内服確認時、分包化された薬袋の錠数を数えると、指示よりも錠数が0.5錠多いことに気付く(看護部)。
・節分の行事に使用した豆の入ったビニール袋3袋が不明になった。病棟を探し2袋発見。残りの1袋は家族が持ち帰っていることが分かった(療育指導室)。
 前者に関しては、病棟では薬の管理は誤配薬がないように、確認のためにダブルチェックを日常的に行うなど徹底的に行われている。ただそれでも時々、誤薬は後を絶たない。
 後者に関しては、重症児病棟の医療を知らない人にはよくわからないことかもしれない。数ヶ月前にある病院で、ビニール製の手袋を置き忘れて、それを患者さんが異食して窒息死するという事故があった。もし、ビニール袋が病棟に置き忘れていたら、同じ事故が起きないとも限らない。おそらく療育指導室はこの事故をよく知っていたので、所在の確認を徹底的に行ったのだろう。医療安全的での解釈は「情報の共有である」の大切さということになる。
 この「リスク情報」の最後は、「0レベルのヒヤリハッと報告が、患者様の安全と医療者の注意喚起に繋がります」という大文字で締めくくられていた。

院長雑感

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