院長雑感詳細

院長雑感(123号)

東京に行ってビックリするのは、部屋が暑くて暗いことである。節電への意識の高さを実感できる。もちろん当院でも、一致協力して節電に取り組んでいる。当院の九電との契約電力は、最大で803KWHということだが、昨日出された企画課からの資料では、土日を除いて750KWHをちょっと超えるくらいである。一度だけ瞬間的に800KWHを超えたらしいが、30分間以上持続しなければいいと言うことなので、その時には「Warning情報(走って知らせる)」を発したいと思う。ちなみに一日の中で使用電力の高い時間帯は、検査の多い9時30分から11時ということである。
 世の中に運不運はつきものだが、先日の東京行き、非常についていた。台風の進行の合間を縫って、日帰りが出来たのである。鹿児島空港10時10分発のANA622便(8時05分発は欠航)、台風6号を左手に見ながら(もちろん現実には見えないけど)東京へと航行した。さすがに出発から到着までずっと厚い雲の中を飛行して、所々で大きく揺れた。こんな時にこそ機長が航路状況などを説明すると大きな「安心」につながるのだが、この便の機長からは一切説明はなかった。現在歯科で治療を受けているが、あらかじめ説明があってから処置を受けると、あの「嫌な音」にも耐えることができる。適切な説明は患者や乗客の安心につながるものだと、あらためて実感する。
■ 患者数
 6月の入院患者数は371.3人で、計画に対し13.2人の大幅減となった。平均在院日数は16.0日と全く問題はない。外来は154.7人と、3.8人の増となった。
■ 診療報酬点数と損益計算書
 5月の診療報酬点数は、計画比で入院では214,921点の減、外来では220,211点の増で、対計画では入院・外来合わせ5,290点の増となった。また4月からの累計でも155,636点の増なっている。
 一方、損益計算書では、6月は108.1%(調整後)で、また4月からの累計でも107,5%(調整後)で、前年より悪いがまあまあというところである。
■ 正しく恐れる、必要なだけ悲しむ
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)で闘病中の一色さんから、アメリカのダグラスさんという(一色さんと)おなじALS患者のホームページを紹介してもらったことがある。ダグラスさんは当時40歳をわずかに越えており、妻、息子、そして犬と暮らしているが、ALSにまつわる膨大な情報をインターネット上に提供されている。
 そのなかで、私の「ALSと付き合っていくための12カ条」というものがあり、その第3項は、「必要なだけ悲しむ」こととなっている。(Coping with ALS、1999年1月20日Douglas E.Eshleman。ホームページから訳したものを利用)。その説明は次のようなものである。
 いくら希望をもちつづけても、この病気自体がとても深刻なもので、数年で死んでしまう可能性が高い病気であることも事実です。夢、目標、将来に対する計画なども失われてしまいます。パートナーとともに歳を重ねることも、子どもたちがりっぱな大人になる姿を見ることも出来ないかもしれないことに気づいてきます。病気が進行するにつれて身体の機能は次第に失われることになり、このことは好きな身体活動も次第に失われていくことを意味します。体が弱っていくと友人のなかには離れていくものもあるでしょう。なぜなら、彼らはそのような人間の傍にいるだけで苦痛に感じるようになるからです。このよ
うに多くのものが失われてしまうことを深く悲しむことは、私たちにとって大切なことなのです。泣き叫び、涙を流し、愛する人を抱きしめ、そして一緒に悲しむ。必要なだけ悲しむことが大切です。そして、この病気を診断されて特に数ヶ月間は悲しむものなのです。
 実にリアルであり、自らの病気を通してしか至ることのできない境地と箴言である。最後のこの病気だと診断されて数ヶ月間は、深刻に「悲しみ」、そこから開き直って、必要なだけ悲しもうというメッセージのように解釈できる。でもこのことは、わかっていながら非常に難しいことである。きっと一色さんもさまざまな困難を乗り越えながら、「必要なだけ悲しむ」境地に至ったのだろう。
 似たような表現に、原発事故の放射線物質の汚染の危険性に遭遇したとき、「正しく恐れる」という言葉が流行っている。
 もともとは寺田寅彦が1935年の浅間山噴火の時に書いたもので、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」がもとになっている。
 東京電力福島原子力発電所の事故は、現在まだ進行中の事態であり収束への工程表も描き切れていない。3月11日の大震災と大津波による惨事から3ヶ月以上が経って、事故当時の様子も少しずつ分かってきた。ところが放射能汚染の量や範囲も書き換えられたりと、発表されたものを真実としてどこまで受け取っていいものかも揺れる部分もあり、風評被害も拡がっている。放射能汚染は桜島の灰などと異なり目に見えないし、またその影響が今後何十年も続くことを考えると、当事者の深刻度は計り知れないものがある。
 そこで「正しく恐れる」ということを考える時、根底になるものは正しい真実が報道されているかにかかってくるように思う。正しい報道なら、自分の考えでそれぞれ対応し、正しく恐れることもできる。ところが真実が隠されているとなると、無用の不安に駆られたり、過剰な反応となることもあり得る。「正しく恐れる」の前提は、あくまで「正しく報道される」ことにある。
■ たかがテレミンソフトなれど・・・
 たかがテレミンソフト、されどテレミンソフトなのである。
 薬剤科から6月21日のサイボーズに、次のような情報がもたらされた。
「震災の関係で供給不可能となっておりましたテレミンソフト坐剤の製造が再開され、問屋への供給も安定的にできるようになったという連絡がありました。なお10mgは、本日購入しております。また、2mgも34個在庫がありますのでいつでも処方していただいて結構です」というものである。
 「座薬、それも便秘の座薬(麻薬ではない!)一つでそんなに騒がなくても」と思いがちだが、事はそんなに簡単ではない。テレミン以外でも、エンシュアリキッドという経腸栄養剤の供給も缶製造工場が被災したために供給不足になり、この栄養剤で命をつないでいた患者さんには大きな不安が拡がった。当事者である一人ひとりの患者さんにとっては、生死に関わる大切なことだったのである。
 先日、久しぶりに6病棟の和行のベッドサイドをお邪魔した。「まだ、生きていたのか。びっくりするね。聞いた所では、座薬事件というものがあったそうだが」と言うと、待っていましたとばかり、「いや、本当に困りましたよ。レシカルボン座薬でいいのじゃないかと言われるんですが、私の場合はテレミンではないと駄目なんです。いろいろ手を尽くしてもらって、青雲病院の近くの薬局に在庫があることが分かり、母ちゃんに私の代わりに便秘になってもらって、分けてもらっているんですよ」と言う。
 和行は1974年、小学校4年の時に当院に入院し、現在46歳である。呼吸器は鼻マスク型を装着しているが、状態は安定している。私は中学の頃1年間、そして高等部を卒業してから14年間ほど主治医をしていたこともあり、何でも話すことのできる筋ジス病棟住人の一人である。入院当初、デュシェンヌ型筋ジストロフィーと診断してきたが、経過から考えると、どうもベッカー型だったことになる。「お前が長生きしてくれたばかりに、誤診していたことが分かってしまった。俺に恥をかかせて、本当に困った奴だ」と言うと、「それはそれは、長生きして悪かったですね」と返してくる。
 彼の長生きの秘訣は、「腸に便を残さない」ことである。そのこだわりは徹底していて、数時間もトイレに逗留することは普通のことで、便を出すためには何でもする。以前はソバを広げるような丸い棒で、腹部を上下に押しつけさせていたこともあった。まさに腸管にへばりついた便をねじり出させるのである。看護師はいつの時代もこのこだわりのために悪戦苦闘してきたが、彼の人柄に免じて頑張ってくれる。私も彼の長生きの秘訣は心の安定、知性の高さ(ちょっと誉めすぎ)、そしてこの便へのこだわりだと理解している。彼に言わせると、便が出ないと食欲も出なくて、体調が一気に悪化するというのである。
■ 根底は信頼感である(前)
 医療の世界も次第に殺伐たる時代になりつつあるが、「まだ患者さんと病院との信頼関係が残っていた」と思わせてくれるうれしい出来事を紹介したい。今回の経緯とやりとりでは、患者さんご家族の深い理解と主治医の誠実で迅速な対応が、然るべき好ましい結果に至ったものと理解している。
 本来、患者さんのことについては、個人情報を含めて慎重に取り扱わなければならないが、その辺りには十分に配慮しながら、事実を曲げることなく客観的に書きとどめておきたいと思ったのである。私たちにとっても重要な事例であり、今後の教訓として生かしていただきたい。なお病歴に関しては、A先生のカルテと、亡くなられた患者さんの奥さんからの手紙を総合して、私がまとめたものである。
 亡くなられたのは64歳の男性、ある大手の建設会社の現場監督で定年を迎えられ、郷里の姶良市に帰ってこられていた。2010年11月に「脳梗塞後遺症」との診断書を持って、A先生の外来を受診されている。この他にも、胃潰瘍や境界型糖尿病、軽度の眼底出血があったと記されている。
 2011年1月7日に当院を受診されたが、前回(2010年12月3日)の血液検査では血糖値が113mg/dlと少し高値だという以には異常は認められず、食生活に注意すれば薬を飲む必要はないとカルテには記されている。
 次は2ヶ月ほど時間を置いて3月4日に受診されている。診察では特段異常はみられず、「血液検査はないのですか」と聞かれたので、「次回の5月6日でいいでしょう」と返事している。
 3月28日に、予約外で受診された。3月22日の22時に、トイレの便器で左胸部を打撲、翌日よりよたよた歩いており、27日に3回ほど嘔吐したという。
 「今朝から足許がふらついています。脳梗塞ではないかと心配ですので、MRIを撮っていただきたいのですが」という。血液検査の後、(A先生は脳梗塞の可能性は低いと思ったが)念のためにMRI検査を指示した。どちらにしても血液検査の結果が出るまでには一時間はかかるので、その前に胸部写真とMRI検査に行ってもらうことにした。
 ところがMRI室から「動いて撮れない」という電話を受けた。外来診察中だったA先生は「絶対に撮らなければならない検査ではないので、無理に撮らなくてもいい」と技師さんに告げたようである。
 撮影室から帰ってきた救急室で、「血液検査の結果で血糖値が異常に高い(1156mg/dl)こと、血清のナトリウムが低く(116)、カリウムが高値(6.4)になっていること」を口頭で説明し、意識障害が起きてもおかしくないくらいの数値だから急いで入院するように指示した。ただこの時には血液検査の結果とは相反して、患者さんは気丈で受け答えはしっかりされていたという。
 入院後、A先生が動脈血ガス分析のために検査室に行くとき、出口で奥さんに出会ったので「状態が悪いので、急変する可能性もあります」と話して検査室に向かった。検査室で血液ガスの状態を測定している時に、患者さんの様態が急変し、病棟にいた2人の神経内科医で救命措置(気管内挿管や心マッサージなど)を施したが、一時間以上たっても心臓は再び鼓動することはなかった。なおCRPが2.92と高値で、PHが7.164と著明なアシドーシスの状態にあった。
 私はこの時のいきさつは、翌日看護部長からの報告で初めて知ったが、「余りにも急な展開で、ご家族は納得できていないかも知れない」と案じたのである。
■ 根底は信頼感である(中)
 私の案じていたことが現実のものとなった。
 4月18日、この患者さんの奥さんが、A4の両面2枚にびっしりとタイプされた手紙を封筒に入れて(院長の私宛で、長男さんとの連名になっている)、外来の受付に持ってこられた(私は直接お会いしていない)。実にきちんと整理された文面で、「平成23年3月28日に急死しました夫、○○の病室での要態の急変に関しまして、疑問がございます」で始まっていた。そして、「臨終までの顛末を妻○○が列記致しましたので、ご多忙とは存じますが、夫が重篤扱いではなく、普通病室に入院した、その日に何故、短時間で人生の最期を迎えることになったのかを確認したく、カルテの開示(コピーをいただきたい)、当日の血液検査結果、A先生の見解を文章で私にご説明頂きたく存じます・・・・」というものだった。
 そして「妻○○が記す夫○○の臨終までの記録」という奥さんからみた詳細な記録に続いて、最後に「夫は享年64歳、院長は神経内科専門医で履歴からも絶大な信頼感を抱いていた私たち夫婦でした。南九州では大病院である御院で何なぜ、片手落ちのような処置を施されて最後を迎えなければならなかったか、22日経っても釈然としません。白黒をはっきりさせたい故人のため、そして家族の要望はかけがえのない夫であり一人息子の父親の『最後の戦いの記録』を遺しておきたいだけです。法的にどうのこうのと考えているわけでは一切ございません」と記されていた。
 早速A先生、そして事務部長と相談した。医学的には当院に重大な過誤があるようには思えないが、余りにも急な経過で亡くなられており、遺族の気持ちも十分によくわかること、またMRIの検査中に嘔吐した時の処置(仰向けで吸引されたと指摘されていた)など、当院としても至らない部分もあったことなどを考えて、A先生に誠実に客観的に事実を書いて頂くようにお願いした。
 A先生の電子カルテからまとめられた文章を私も読ませて貰い、そのまま郵送することにした。私も一言つけ加えるべきか迷ったが、A先生が的確に書いてくれていたのであえて加えないことにした。
 内容として当日の血液検査の結果と、「私としても一生懸命したつもりではありますが、大事な命をつなぎ止めておけず、誠に申し訳ございませんでした。カルテ記載については別紙2枚に示したとおりです。・・・大事なご主人を救ってあげられず申し訳ありませんでした。今言ってもしょうがないことかと思いますが、3月22日か23日ごろいらしてくれていれば何かしてあげられることがあったかも知れないと思いますが、でも事態は変わらなかったかも知れません。28日はご主人のために自分なりに一生懸命にはしたつもりではありますが、あまりに状態が悪く追いつけず、私にとってもとても衝撃的で、ただただ申し訳ありませんでした。私にできることは、この経験を今後の医療に生かさせていただきたいということです。
 最後にご主人のご冥福を心よりお祈り致します。4月21日」というA先生の気持ちも添えられていた。
■ 根底は信頼感である(後)
 4月25日、亡くなられた患者さんの奥さんが、郵送ではなく直接お手紙を病院の窓口に持ってこられた。(この時も私は直接にはお会いしていない)。
 「平成23年4月18日にお願い申し上げましたカルテのコピー、血液検査結果、尿検査、A先生の誠意ある文書でのご所見を、多忙にもかかわらず、迅速に送付下さいまして、誠に感謝申し上げます。夫が無類の我慢強い性格であったことが、体調の異変を見逃し、油断してしまったのだと私は猛省しております。
 頂いた資料は大切に保管し、今後、弱気になった時などに自分を励ます為に読み直したいと思います。
 僭越ではございますが、A先生におかれましては、今まで以上に病に苦しんでいる方々の信頼を獲得され、そして貴病院におかれましては、各医療分野との連携を密にされて、入院患者をフォローして頂き、ますます繁栄されますことを切望いたします。平成23年4月25日」がその全文である。 
 考えてみると、これが本来の患者と主治医、そして病院との普通の関係ではないだろうか。今回のように、患者さんが急死された場合、患者や家族は、客観的にはたとえ病院側に落ち度はなくても疑念を抱くのは当然のことだろう。疑問と思える点について回答を求めることはよく理解できる。そして、病院側も事実に基づいて返事をしたためることも本来の筋道である。
 ところが現在の医療の現場ではこのような普通の関係が失われてきており、このような手紙を病院側が受け取ると、医療事故訴訟にでも発展するのではないかと、つい構えてしまう。今回の場合は、相手方が辛い気持ちの中でも冷静に判断して貰えたことは本当に有り難いと考えている。またA先生が誠実に答えたこと、きちんとやりとりまでカルテに書き記していたことが、相手方の理解を得る上で大きかったと思われる。
 数日後、患者さんのご家族からの最初のお手紙は私宛になっていたので、私も次のような手紙を郵送で送らせてもらった。
 春らしいいい天気になりましたが、大震災や原発事故など、気の晴れない日々が続いております。
 このたびのご主人様のご逝去、本当に突然のことで、奥様のお気持ちはよくわかるつもりです。心からの、ご哀悼の意を表します。ご主人の年齢が、ちょうど私とも同年齢ということになりますので、なおさらです。
 奥様からのお手紙を拝見して、またA先生からも相談されましたので、「誠意を持ってありのままの事実を書き留めたら、きっとわかって頂けるのではないだろうか」と意見しました。
 そして今日、ご返事頂き、本当うれしく思います。何より信頼感がお互いに保たれたいたことがうれしいでした。
 私たちも日常診療の中では、あとから振り返えりますと、ああすればよかったのではと反省することの多い毎日です。今後とも医学・医療の道に精進して、少しでも地域社会の信頼を得る病院を目指したいと思います。よろしくご指導下さい。
 奥様もお辛いこととお察し致しますが、元気になって欲しいと念じております。
 拙著を同封させて貰いました。お時間のある時にでも開いて頂ければ有り難いです。
■ サラリーマン川柳2011
 昨年もこのランで取り上げたように記憶しているが、第一生命保険第24回サラリーマン川柳コンクールの人気投票の結果が紹介されている。サラリーマン稼業の悲哀を、諧謔的なセンスで詠っている。
 この投票は川柳としての善し悪しを競っているわけではないので、あくまで多くの人が「じゃっどなあ(そうだよね)」と思ってくれるかどうかにかかっている。
 第一位は「久しぶり~名が出ないまま じゃまたね~」である。
 年をとるにつれて誰でも経験することだが、固有名詞が咄嗟に出なくなって、「あのその」会話になることが多い。たまに会った人、薬の名前、自分であきれるくらい出てこない。私の家での会話でも「あれや、あの人」の連発が続くが、お互いが思っている人が同じなので(ひょっとするとまるっきり違っていたりして)、これでも困ることもなく会話は続いていく。
 ところが相手から話しかけられたときに誰だったのか思い出せない時には、困ってしまう。相手の名前を今さら聞くのは失礼だと思うので、周りから攻めながら必至に名前を思い出そうとする。結局のところ、この川柳のように分からないまま別れて、しばらくしてから思い出して歯がゆく思う。
 私のような「お年寄り」には、「○○の○○です」と自己紹介してもらえると有り難い。
このような川柳が第一位になるのも、時代を反映しているというか、サラリーマンも高齢化が進んでいる証拠でもある。
 第二位と第三位は、これも世相を反映して、パート問題を扱っている。
「クレームも 社員じゃわからん パート出せ」「何になる? 子どもの答えは 正社員」
 第四位は「ときめきは 四十路(よそじ)過ぎると 不整脈」である。
 ちょっと意味が分かりかねる。「40歳を過ぎた胸のときめきは、不整脈を起こしてやしので気をつけろ」という意味なのか、あるいは「40歳を過ぎたときめきは、不整脈のようなものである」と言いたいのか、「若いころのときめきは、胸が躍るような頻脈であるが・・・」と言いたいのか。
 青春のあの時代に帰りたいが、これだけは始皇帝でも叶えられない。
 第五位は「指舐めて ページをめくる アイパット」である。
 これも最新の情報機器についていけない中高年を皮肉ったものだが、実は私もまだアイパットなるものに接したことがない。でも習い覚えた性か、つい指をなめたくなる。
 第八位だったか、「最近は ケータイないと 字が書けず」も得心である。
 手紙を書くこともなく、ほとんどパソコンを使っていると漢字を忘れてしまっていて、簡単な漢字でも正確に書くことができなくなっている。
■ 3年15組、中学クラス会
 世の中のこと、思い描いていた通りにはいかないものである(結果的にはたくさんのスタッフの協力で、すこぶるうまくいったのだが)。
 6月17日の夜、指宿市の「こころの湯」で、城西中学3年15組の「友愛と慈悲の心に満ちあふれた(案内文から)」クラス会をやることになっていた。3年ほど前に、桜島の古里観光ホテルで還暦記念クラス会をして以来である。数日前に幹事の村上君に電話すると、「どうも金曜日は集まるのが難しいようで、10人くらいかも」ということだった。私はいわゆる世に言うところの「クラス会好き」ではないのだが、この中学のクラス会には欠かさず出席している。まあ当時の「級長」だったという責任感も多少はあるのだが。
 当日、「特に問題がなければ、昼からは年休をもらおう」と、この28年間、ほとんどとったことのない年休を取ることを決めていた。ところが11時ごろ、外来の中村副師長さんから電話があった。「Nさんという方が、今朝から動けなくなり、当院に電話したら家の近くの医療センター(数ヶ月前に、霧島医療センターで腸閉そくで手術している)を受診したらと言われたという。ところが神経内科の専門医がいないから、受け取れないということだったようです。救急車で当院に連れてきたいということですが」。Nさんは72歳のパーキンソン病の女性で、私が長いこと外来で診ている。「後の展開はどうなるか分からないけど、まあしょうないな」と思いながら、「どうぞ」と返事した。
 11時30分過ぎに救急車が到着し、救急外来室のベッドに移し替えたが、微動だにしない。ただ顔色もよく、バイタルもしっかりしている。大きな声で名前を呼びかけると、小さな声で返事ができる。四肢のマヒもないようだが、とりあえず1病棟への入院を師長にお願いすると快く引き受けてくれた。パーキンソン病に特徴的なオフの強い状態かもしれないと思ったが、ご主人からは「心配ですから10日ほどでも入院させてください」といわれた。鳥越師長と中村看護師が、手際良く血管の確保と採血をしてくれた。主治医も内田先生にお願いしたところ、快諾してくれ全てが思い通りに進行した。
 検食を食べて病棟に顔を出すと、動かないことに変わりはないが状態は安定している。ご主人に簡単に病状を説明し、「この前はいつ入院しましたっけ」と話を向けると、「入院した翌朝があの阪神淡路大震災でしたから・・・」ということ、実に18年前になる。内田先生に「CRPもCKも正常のようです」と電話連絡し、私としては一見落着となった。
(結局この患者さん、夕方になると動けるようになり、「帰りたい」を連発、外泊からそのまま退院となる)。
 午後1時に病院を出発し、途中で姶良市の有名な「森三」に立ち寄り、今はやりの白クマのケーキを買った。「病と老いの物語」の編集を担当してくれている遠矢さんの所に立ち寄り、「青校」(原稿の最終校正、業界用語か)を受け取り、前2回の出版でお世話になった随筆かごしま社にもケーキを届けて指宿へと向かった。
 道はさほど混んでいることなく、4時過ぎには目的の「こころの宿」に着く事ができた。この宿は「割烹・温泉旅館、極上癒空間」と銘打っているが、結構人気の旅館らしい。魚見岳が目の前で、あの白水館の近くである。スーパー銭湯の豪華版という雰囲気で、ゆったりとした大浴槽で汗を流した後、宴会は6時30分に始まった。
 宴会といっても参加を予定していた一人は親が急に入院したということでキャンセルになり、男性4人、女性5人の少々さびしい。それでも掘り炬燵式のテーブルを囲んで、お互いに遠慮することなく会話は途切れることなく続いた。特にプロのエンターテイナーでもある村上君の話術は、いつも面白く話題も豊富でつい引き込まれてしまう。女性陣も「女を忘れてしまった」という豪快な人から、千葉から駆けつけた人まで、遠慮なく何でも話せる雰囲気である。今後のクラス会も、まず「(一番忙しいであろう)私の空いている時間に合わせて日程を組んでくれるということになり、欠席するわけにもいかなくなった。
その後2次会を、あの頃の修学旅行のように一つの部屋に集まり、夜遅くまで歓談は続いた。久しぶりに痛飲したためか、数年ぶりに宿痾である「しゃっくり」が起きてしまい、その後数日続いた。
■ モラトリアム青年
 「モラトリアム」とはもともとは経済学の用語で「支払猶予期間」のことを指すが、やがて心理学の用語となる。「大事なことを引き延ばしに引き延ばして、やらない状態」のことをいう。菅総理も遅れたモラトリアム青年なのだろうか。
 82歳になるという当院の看護師OB、孫のことが心配で、病院に電話があった。もう随分昔のOBで、正直にいうと私はその名前に心当たりはなかったが、一応知っているつもりで話を聞くことにした。早速その日に外来に、孫を連れて見えた。22年前に当院を退職されており、一緒の病棟で働いたこともなかったので失念していたのも無理はない。「自分が生きている間に孫の目途をつけてあげたいので、先生に一度是非診てもらいたい」ということだった。
 この24歳になるという青年、高専を中退したのちに実業系の高校に転校、一応卒業して就職したが仕事が続かず、その後も転職を繰り返しているという。一人住まいで、朝から寝てばかりいるようだ。お祖母さんはナルコレプシーや脳の病気を心配していたので、念のために血液検査から頭部CT、脳波などの検査をしたが、当然のこと異常は認められなかった。
 やる気がなく、ぶらぶらダラダラと生きているだけのようである。診察すると、普通の青年で、やさしそうで人柄もよさそうだが、ちょっと覇気に欠けている。家族環境はあまり詳しく聞かなかったが、「母子家庭で母親が目の病気だったので、私が小さいころから一生懸命に育ててきました。小さい頃は利口で、心配をかけるような子供ではなかったのですが。甘やかしたつもりもなかったのですけどねえ・・・」と、お祖母ちゃんはこの青年の後ろから、ときどき私に目配せなどしながら話される。「私が金は出すから、救急救命士の学校にでも入らないかと話もしているのですが・・・」。
 私もこのお祖母ちゃんのことが気の毒になって、人生の先輩として「人生論」を話したり、「今後の進路」について思いつくまま話をする。しばらく前に観た「悪人」という映画と家庭環境は同じで、お祖母ちゃん子ということになる。
 「まだ若いし、やり直しはいくらでもできる。ただお祖母ちゃんが頑張っても、やるのはあなた次第だ。だれも手伝うことはできない。まず日常生活をきちんと、見直すことが先決ではないだろうか」など話をすると、うなづきながら素直に聞いてくれる。
 最後は握手しながら、「来年はきちんとした姿で、会いに来てくれよ」と言って別れたが、どうなることやら。これくらいで「更正」できることなら、もうとっくに「モラトリアム」を卒業しているだろう。
 ところでよくいわれることだが、、青年期は、「自分さがし」の時期であり、モラトリアムという言葉もある。何をやりたいか、どんな職業に就きたいのか、進学や就職で悩む少年や青年は多い。不登校やフリーターの激増は日本の病根の一つである。
 今後、いかに早く自分の居場所、いわゆるアイデンティティを早く確立しないと、時間は待ってくれない。社会と積極的な関わりを持ち、その中で自分の役割や価値を見つけるようにしなければ、アイデンティティが確立されたとはいえない。
■ 発刊されるまでの至福の期間
(げんねこちょしらん、と言われそうですが)
 医学論文を投稿していた頃のことであるが、自分の書いたものが運良く採用され、印刷されて雑誌に載るまでの期間が、わくわくどきどきするような至福の時だったように憶えている。いざ掲載された雑誌が届くと、校正の誤りなどないだろうかと気になって、ページを開けることもなくそのまま本棚にしまい込むことが多かった。
 現在、私の誕生日である7月10日の発刊を目指して、随筆集?を作成中である。もっとも実務的な仕事は、編集を担当してくれているいつも賢い遠矢さんと、意気に感じて売れそうもない本も手がけてくれる南方新社の向原代表に委ねてしまっており、私は校正刷りに目を通すぐらいのものである。
 平成11年に、かごしま文庫(春苑堂書店)で「難病と生きる」を出版してからこの種の本としては5冊目、約2年間に一冊のペースで出版してきたことになる。直近の2冊はいずれも「随筆かごしま社」にお願いしてきたが、この出版社もこの12月で長い歴史に幕を閉じることになり、今回は新しい出版社にお願いすることになった。いつも「これが最後かも知れない」と思いながらまとめてきたが、今回は正真正銘の最後かも知れない。また今回は、「発刊に寄せて」に恩師の井形先生から素晴らしい玉稿を掲載することができた。身に余る内容で、恐縮至極である。
 先日、本の題名を何にするか、遠矢さんから二つの提案がメールで示された。また表紙の装丁画も2種類で、お互いをかけると4種類ということになる。まず題名は、「病と老いの物語」と「老いを生きる、病を生きる」の二つで、装丁は「鳥が大空を翔る図」と「二人の老夫婦が並んで、長い影ができている図」である。
 題名の方は、私がいつも「人生は小さな物語からなる大きな物語」というようなことを書いたりしゃべったり、またナラティブ(物語る)なことが医療の一側面という時代に合わせて、「病と老いの物語」にすんなりと決まった。
 装丁画は、この3月まで南日本新聞に毎月掲載していた「こころ散歩道」で、その時々の文章に合わせて挿絵を提供してくれていた古市正秀さんに依るものである。鳥は、「覚悟の尊厳死」選択か(2010年1月)というタイトルで、大原麗子の死に方などに触れた項で、大原の好きな言葉として「孤独な鳥の条件は5つある」というスペインの詩の一節を紹介した。
 「孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ。孤独な鳥は同伴者にわずらわされず、その同類にさえもわずらわされない。孤独な鳥は嘴を空に向ける。孤独な鳥ははっきりした色を持たない。孤独な鳥は非常にやさしく歌う」というものだった。一方、二人の老夫婦の挿画は、「秋になって思い出すこと(2010年10月)」で、緩和ケア棟で亡くなられた女性とそのご主人のむつまじい生き方と最期に触れたものだった。
 私は当初は直感的に老夫婦と影の方を選択したが、ちょっと悲しい気になるし、当院の師長に持ちかけると「若い世代は鳥、年長の世代は影だろうな」ということで、この際、若い世代にこびを売って、カバーは鳥を選択することとなった。ちなみにこの鳥は鷹なのか鷲なのか古市さんご本人に確認したら、なんと「カラス」だということである。
 ところが、カバーの表紙が「鳥」で、本体の表紙は「老夫婦」という贅沢な選択になり、これも有り難い話である。
 なお発刊日が予定より10日ほど早まり、今月末にはできそうである。気の早い私に付き合ってくれた、遠矢さんのお陰である。
■ 京都での医療マネジメント学会
 京都で日本医療マネジメント学会が開催されることになり、鹿児島空港を6月24日朝8時10分発のANA542便に搭乗した。空港のラウンジで、教室の後輩にあたる、この4月から鹿児島大学附属病院長になられた熊本先生と一緒になり、会場まで同行することになった。1時間ほどで伊丹空港に到着、高速バスで京都駅に向かった。到着寸前に異常音がしてバスは急停車、「エンジン室の火災を知らせるランプが点いておりますので調べてみます」と運転手が降りて行ったが、結局異常はないということで再度出発した。これが飛行機だったら胆をつぶしたことだろう。
 駅からそのまま地下鉄で、会場の京都勧業館みやこめっせ・京都会館に向かった。受付を済ませたのち、招待講演の鎌田実氏の「言葉で治療する~医療と信頼とあたたかさの関係~」という話を聞いた。NHKなどさまざまな場所で顔を出している「有名人」だけに、会場は大入り満員の盛況だった。
 講演では、東北の被災地での医療援助の体験やイスラエル兵に殺されたパレスチナ人の少年の心臓をイスラエルの少女に移植したこ物語を取り上げていた。スクリーンには移植を受けた18歳になるというか細い少女を真ん中に、鎌田先生、そして心臓を提供したパレスチナ人の両親が映し出されていた。
 自分(鎌田先生)ならとてもできない行為だと思ったので、その少年の父親に聞くと「川を溺れている子どもを見たら、国籍や宗教に関係なく、泳げる人なら飛び込んんで助けるのが人間ではないでしょうか」という返事だったという。またその少女は「医師になり、パレスチナ人の子どもを助ける仕事に就きたい」と語ったという。
 鎌田先生は「・・・にもかかわらず行動する心」と共感、そしていつも「自分なら、と置き換えて考えてみる」ことの重要性を強調されていた。先入観が邪魔しているのか、ちょっと露出過剰や「いいかっこし」が気になったが、さすがに人の心を離さない絶妙な語り口だった。
 昼食時間に評議員会があり、そのあと、夕方の教育講演までの時間、会場と同じフロアにある、たまたま迷い込んだ「京都伝統産業ふれあい館」で時間をつぶした。ここでは京都の伝統産業がすべて展示されており、京銘竹の作業や京象嵌(きょうぞうがん)(刀剣や武具類の装身具)の実演もあり、平安京が築かれてから1200年の歴史に培われた「匠の技」とは、「凄い」の一言に尽きる。
 教育セミナーでは私は座長をした。講師は池田俊也先生(ヒヤリハット、事故収集と分析)と橋本廸生先生(医療安全教育、研修のあり方)だった。私は「座学は半減期が短い(橋本先生の講義での言葉)ということですが、6時近くまでこんなにたくさんの方に集まっていただき、病院の医療安全対策と教育という点では、大きな成果のあったセミナーだったと思います」と結んだ。大きな会場だったが、立見している人もいた。
 降壇すると、高山康信先生(元九州医務局長)と長尾能雅先生(名古屋大学医学部、医療の質・安全管理部教授)が待ってくれていた。しばらくお二人と雑談をしたのち、玄関ロビーに宮野前健先生が迎えに来てくれていた。
 宮野前先生は現在、南京都病院の副院長(小児科)であるが、重症児グループの研究でお世話になっている。大学が京都大学なので街には馴染みが深く、八坂神社近くの下河原通りの京料理「修伯」という素晴らしいお店を紹介してくれた。店の前の小さな坂道の向こうには、八坂の塔という立派な五重塔が眺められる。京都はどこに立っても、絵になる景色が多い。京料理の方は、新鮮で質の高い素材を手の込んだ料理人の腕で料理したもので、見た目も味も申し分のないものだった。
■ 難病ALSと生きる
 6月14日、MBCの藤原一彦アナウンサーから次のようなメールが届いた。
 今月29日の「どーんと鹿児島」(午後7時~)で、永野記者の企画でALSをテーマにした番組を放送します。去年放送した「ムーブ」と重なる部分も多いのですが、呼吸器選択が番組の一つの大きなテーマになる見込みです。この1年間の動きの中で見えてきた「難病相談センター」や先日行われた脳インターフェイス被験の様子もまじえ、将来への希望も描きたいと考えています。そこで、このコミュニケーション手段開発の現状、及び治療薬開発の現状について福永先生に伺いたいと考えています。
 昨年、藤原さんがキャスターを務める「MBCニューズナウ」という番組で、ALSについて4回シリーズで取り上げてもらい、その総集編として編集されたのが「ムーブ」という番組であった。この一連の番組のお陰で県内におけるALSについての理解も深まり、今年10月にハートピア鹿児島にオープンする「難病相談・支援センター」の設立にこぎつけたのではないかと考えている。
 さて約束の6月21日の午後、藤原アナウンサーとカメラマン、そして助手の3人のクルーが当院を訪れた。私は応接室でのインタビューで、次のようなことを話した。
 残念ながら、ALSの根本治療はまだありません。そのなかで現在、この病気に対する唯一の薬はリルゾールで、グルタミン酸などから神経細胞を保護する働きがあると考えられています。アメリカのデータでは、この薬で筋力低下や食事の飲みにくさなどの進行が抑えられ、延命治療に役立っているという報告があります。
 今後の有望な治療方法としては、新型万能細胞を自分の皮膚から作って、消失した神経細胞の替わりに移植(補充)するということが考えられます。うまくいけば根本治療に繋がる画期的な治療法になると思います。
 一方、対症療法の分野では、長足の進歩があります。人工呼吸療法は器械も方法も格段の進歩が見られます。また意思伝達装置の分野でも、「伝の心」や「心語り」というような、IT機器をうまく利用した器械が開発されています。
 人工呼吸器の装着、そして取り外しに関しては、特に後者ではいろいろな意見があり一定のコンセンサスは得られていません。いずれにせよ、人間なってみないと、その時にならないと分からないと言うことだけは確かです。 
 論より証拠、伝の心に関しては、たまたま現在入院中のMさんの承諾を得て、残された親指でスイッチを動かしながら文字を連ねる場面を撮影してもらった。
 また心語りに関しては、指導室の守山君が被験者を申し出た藤原さんでテストしてみた。サンプリングが上手くとれず、また藤原さんも夕方の番組編集のために時間が迫っていたこともあって途中で断念することになった。
 どのようにまとめられるのか、今夜(19時)のMBCテレビ「どんかご、難病ALSと生きる」をお見逃しなく。ALSを取れば、私の本の題名「難病と生きる」と同じである。自分も少し出ると思われるが、いつも気恥ずかしいものである。
 藤原さんはこのALSに対する思い入れは非常に深いようで、後輩の永野記者にもきちんと伝達したいと語っておられた。
■ 2011年ALS協会支部総会
 随分昔のことになるが、石原裕次郎だったかな、「嵐を呼ぶ男」という映画が流行ったことがあった。今回のALS協会鹿児島支部総会と天気を重ね合わせると、事務局長の里中さん、さしずめ「嵐を呼ぶ女」ということになるのではないだろうか。当初予定していた5月29日は台風2号?の接近で前日に中止を発表(実際は皮肉なことに、日曜日の午後はいい天気になったのだが、いい判断)、6月26日日も台風5号の影響で大荒れの予報(実際は、雨も降らずに、さほど悪い天気ではなかったのだが)。
 今回の支部総会、いつもと同じように南九州病院のデイケアホールで開催された。第8回ということで、第一回の設立総会が九州新幹線が鹿児島から新八代まで部分開通した年(2004年)の、翌日で、今回は博多まで全線が開通した年ということになる。
 私は挨拶で「この8年間のできごとを振り返ってみますとALSに対する一般の方々の関心が深まったこと(鹿児島県では、MBCテレビのニューズナウやムーブも大きく貢献)、ALSの根本治療も新型万能細胞などの発見で道筋がつきつつあること、療養面では地域医療連携室の役割が大きくなりレスパイト入院が一般化したこと」などを話した。そして、アメリカ人のALS患者、ドグさんのホームページから、{ALSと付き合っていくための12カ条}から、「必要なだけ悲しむ」ことを取り上げた。時間の関係もあり触れなかったが、鹿児島県支部の活動は地域と患者さんに密着しており、また呼吸器装着などでも一方に偏ることもなく多くの考え方を是認しているなど、いい方向での運営が行われていると評せられる。
 しゃんしゃんの支部総会(事業報告や決算、予算の審議)に引き続いて、松陽高校の女性とのトランペット演奏、そして鹿児島県保健福祉部健康増進課主幹の坪田大志さんの記念講演が行われた。「大志さん、というのは『少年よ大志を抱け』からですか」と聞くと、「ひろし、と読むんですよ。おじいちゃんがちょっとぼけが入っていたのか、直ぐに忘れて、孫3人に同じ名前を付けているらしいのですよ」と笑いながら答えた。ただ坪田さんは行政マンとしては知識、やる気が備わっており、今回他府県に比べて遅ればせながら、鹿児島県に「何秒相談・支援センター」設立にこぎつけたのは、坪田さんの力も大きかったと考えられる。ご本人の話では、前職は企業誘致関係の部署だったが、希望して保健福祉行政に来られたという。今回、日本看護協会協会長が医療安全に精通した坂本すがさんになったように、行政のトップは保健医療行政にかかわった経験が必要な時代になっている。
 講演のなかで坪田さんは、琴瑟の課題として①患者数が右肩上がりで増加してきており、特定疾患の対症疾患である56疾患に絞ると、鹿児島県では11876人で、全国で18番目(10万人当たり6番目)と多いこと、②恒常的な相談窓口と、その一本化も必要になったこと、③財政事情は逼迫しており、国も県も多額の借金を抱えていること、④多種多様な患者会の組織化と行政との役割分担が必要になったことなどを挙げられた。
 そしてその対策として、① 10月から独立した「難病相談・支援センター」を設立する予定で、そこでは専門の相談員を置き、知識と経験の集積に努めること、また医療従事者からの相談にも対応できるようにと考えている、②地域の中で解決することも多いので、地域の保健所との連携にも努めること、③患者会との協調にも努めたいことなど、あつっぽく語られた。最後に、難病対策は今後の高齢者医療対策のモデルになりうると考えていると結んだ。
 講演の後はいつもの患者・家族交流会で、率直でいろいろな思いが患者(伝の心)や家族から語られた。
■ 徳永屋のさつま揚げ
 同じ航路で同じ時刻の飛行機に乗っても、窓の外に拡がる景色は一度として同じことはない。特に雲の形はその時々の季節を映して、変幻自在に変わっていく。だから飛行機に乗る時は富士山の見える窓際が好きで、パソコンを使う以外にはボッと窓の外を眺めていることが多い。
 今朝の鹿児島空港発朝の一便は、梅雨明け宣言とは裏腹の厚い雨雲の中を上昇していく。しばらく雲の中の飛行が続いたが、紀伊半島を過ぎたころから雲が切れて、薄いすじ雲やうろこ雲が青空の中にぽっかりと浮かんでいる。しかし富士は厚い雲に覆われ、頂上の部分だけがわずかに顔を出しているだけである。
 週末の土曜日、都市センターホテルで昼食をはさんで、神経治療学会の医療保険委員会が予定されていた。いつもなら「パソコン使用OK」というと機内放送ももどかしく、パソコンを開くところであるが、今朝はなぜか気が進まない。そこで機内誌の「翼の王国」のページをめくっていると桜島の絵が飛び込んできた。よく見ると長友啓典さんの「おいしい手土産」シリーズで、今回は『鹿児島、徳永屋本店のさつま揚げ」が取り上げられている。
 長友さんは鹿児島を訪れるのは初めてらしいが、その文と絵はいつ読んでも楽しく温かみがあり、上品な味わいがある。今回も、鹿児島に関する観光紹介と特産品の絵で構成されている。
 「噴煙をあげる桜島」では「モクモクと噴きあがる噴煙に感動した。この自然と共生する地元の人達はスゴイ」という説明つき、「天文館通り」には「天文館のまち歩きは実に楽しい。夜はもっと楽しかった」と、「白熊」では「これがうわさの白熊だ。単なるかき氷ではない。もっとクリーミーなので、頭にツーンとこないです。珈琲ママのものが一等賞です」と。「西郷銅像」には「西郷さんの銅像が立派なのに驚いた。さすが本家だ」、「路面電車」には「路面電車が可愛い。東京にも復活のうわさがある」と的確な説明つきである。そしてさつま揚げの項では、(やっぱりお土産はこれですなあ」とある。
 今朝は偶然にも、この徳永屋のさつま揚げを一個、お土産として持参していた。委員会の開かれる都市センターホールには有楽町で乗り換えるが、そのまま直行すると11時前には着いてしまう。そこで、土曜日の朝、暇そうにしていると思われる編集者の女性に、鹿児島空港から「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)とメールした。ラッキーにもOKという返事だったので、イトシアプラザ内の椿屋珈琲店(合志君に紹介してもらった。静かで雰囲気もいい)でしばらく過ごした。でも彼女の歳では、フランク永井の歌は知っていないだろうなあ。
 ところで徳永屋のさつま揚げは、向田邦子のエッセイにもよく出てくる名物で、鹿児島では他のさつま揚げより一寸値段も高い。長友さんはかるかんにも触れていたが、ことらも明石屋のものは、薩摩蒸気屋などのものより、1.5倍くらいの値段となる。
 最後に、「・・・銀色に輝くきびなごの刺身、錦江湾の魚たち、人気上昇中の黒豚、なんてったって名物中の名物・さつま揚げ、『名物に旨いものなし』とは言うけれど、これぞ全国的目物の「かるかん」。これが”あにはからんや”である。実に旨いもんであった・・・」と絶賛してくれていた。
■ おかしな発言
 世間を騒がせ辞任に追い込まれた「松本発言とその態度」、いかにも日本的な構図であるが、見方によってはいろいろと考えさせられるものがある。でも被災地や被災者には、極めて失礼にあたることばや尊大な態度であったことには変わりない。
 松本氏が感情を害した最大の部分は、察するに「(私のような偉い)お客さんを待たせるとは何事だ」という点である。事実経過を新聞報道でなぞると、次のようになる。
 松本震災復興担当相が7月3日午後に村井嘉浩宮城県知事と宮城県庁で会談した際、応接室に後から入ってきた知事を叱咤し、「お客さんが来るときには、自分から入ってからお客さんを呼べ」と発言した。会談が設定されていたのは3日の午後2時15分。宮城県庁秘書室によると「会談時間の数分前に松本復興相を応接室にご案内し、お茶を出したり、報道陣のテレビカメラの設置が完了したのを待って、時間通りに知事が入室した」。
 応接室と知事室は、同じフロアの隣り合わせの場所にある。村井知事は、松本復興相との会談スケジュールに合わせて、秘書が呼びに来るのを執務室で待っていた。県庁で知事の来客がある際には、「誰であっても知事よりも先に応接室へ入室してもらうのが一般的」(秘書課)という。来客が資料を整理しているときなどに知事がその場にいたら、逆に失礼に当たるという配慮もある。
 このような「お偉い方々」との関係を、私の場合に敷衍するのはそれこそ不遜のそしりを免れないが、私も(自分の部屋が散らかしていることもあって)然るべき方との会談では隣の応接室を使う関係上、来客者が来られてから応接室に出向くことが多い。多くの場合、来客者がいつ来られるか分からないので、自分の部屋で仕事などしていて、来客が到着した時点で、事務部長などが私を呼びに来るという段取りは宮城県庁と同じスタイルである。確かに時間が正確に決まっていたら、応接室で待っていて、来客があった時にで迎えることが正当な儀礼なのかも知れない。
 似たような場面に、電話の取り次ぎがある。電話が鳴って受話器を取ると、先方の電話交換手が「○○と代わりますので、しばらくお待ち下さい」と言ったのち、こちらは待っているのになかなか現れない。時々むかっとすることもあるが、私の場合も先方の電話番号などが分からない時には交換手にお願いする。そうすると、段取りとしてこのようになってしまうのである。
 松本氏は「親分肌」という性格らしいしので(きっとこの日は虫の居所も悪かったかもしれないが)、単純に腹を立て、その後の対談は上から目線で命令口調で、そして投げやりにも聞こえる。
 「長幼の序が分かっている自衛隊なら、そんなことやるぞ」や「知恵を出さないやつは助けない。そのくらいの気持ちを持って」と言いたい放題で、極めつけは「九州の人間だから、東北の何市がどこの県とか分からない」と話したという。
 さらに松本氏は4日、首相官邸で記者団の質問に答え、「呼ばれて入ったら(村井氏が)3,4分出てこなかった。だから怒った。九州の人間は、お客さん来るとき、本人はいるものです」と、正当性を主張したと報道されている。
 こんなところで「九州の人間は・・・」というような発言をして欲しくないが、村井知事が自衛官出身(防衛大学校)ということを知っていたからの発言である。いずれにせよ、菅内閣の品のなさと教養の低さを世間に知らしめる事件であるが、このようなレベルの人たちに内閣を組織させ、国の舵取りを任せてしまっているのも国民である。
■ 難病相談・支援センター
 種子島から、ALSでAさんという72歳の方が入院している(10日に退院とか)。先日の回診で、「一人で入院しておれるようになって、感心だなあ」と言うと、恥ずかしげにちょっと笑った。「主治医の内田先生に怒られたんでしょう」というと、うれしそうにうなづく。この患者さんの場合、確定診断は入院前についており、受容(病気の受け入れ)を少しでもよくしてもらえたらということが入院の大きな目的だった。
 この患者さん、ALS協会鹿児島県事務局長の里中さんから相談されて、急遽入院になった患者さんである。昨年、いくつかの病院を廻ってやっとALSと診断され、本人家族ともどこの相談したらいいのか途方に暮れていたという。このような時にこそ、「難病相談・支援センター」に相談し、その後の方針など気軽に相談できたらいいかと思う。 
 「鹿児島県は、県庁内と県管轄13保健所に併設していた難病相談・支援センターを一本化し、鹿児島市のハートピアかごしま内に10月、独立設置する」と、16日の県議会で、伊藤祐一郎知事が明らかにした」と報じられている(南日本新聞、6月17日)。
 同紙面によると「同センターは2006年に設置され、県健康増進課や保健所、患者団体の3者が連携し相談に応じてきた。医療費助成対象となる56の特定疾患患者が年々増えてきたことや、患者会から拠点施設設置の要望もあったことから、センターの機能拡充と独立を検討してきた。・・・13保健所での相談業務は継続し、センターが地域間のネットワークの中核を担う」となっている。
 難病・相談支援センターは各県に設置されているが、多くの県では独立型となっていた。ところが鹿児島県では県の財政事情の悪化もあり先のような形になっていたが、今回患者団体などの要望に県が耳を傾けてくれて実現にこぎつけた。
 さてこのセンターの機能としては、文字通り「相談と支援」が柱となる。(治療法のない)難病という診断を受けた時、患者さんや家族は奈落の底に突き落とされたような気持ちになる。そのような時の相談業務がこのセンターの役割となる。
具体的な機能として
1)相談業務(病気のこと、各種公的手続き、就労) 方法として、直接面談や電話、メールなどによる。場所はセンターや地方での相談会
2)情報発信( 公的サービスや患者会等の生活情報)  方法としてはホームページの活用、機関誌の発行など。
3)講演会や研修会
4)患者会の組織化、交流活動の支援 
5)その他
 今回、このセンターの設立にあたって、県庁で中心的な役割を果たしたと思われる健康増進課(難病担当)の坪田主幹は「鹿児島のセンター設立は他県に後れをとりましたが、今後の運営では他県と横並びでやるのではなく、9人の専門のスタッフを配置するなど鹿児島県独自取り組みをしていきたい」と熱く語っていた。県と患者団体、そして専門職が力を合わせて、鹿児島らしいいい「センター」ができたらと願っている。
■ 私の故郷、頴娃
 「頴娃」という漢字を正しく読める人は、かなりの「鹿児島通」といえるだろう。
 さてこの頴娃町は鹿児島県の薩摩半島の南端で、指宿市と、太平洋戦争末期の特攻基地で有名な知覧町、カツオの水揚げ基地で有名な枕崎市と燐接し、東に開聞岳、南に東シナ海を望む風光明媚な場所にある。江戸時代に日本を歩いて測量し日本地図を作った伊能忠敬が、「日本一の絶景」と賞賛した番所鼻(ばんどころばな)自然公園は、私の生まれ郷里のすぐ近くにある。
 人口は1万5千人で毎年200人程度人口が減っている、いわゆる過疎の町であるが、南薩地域かんがい事業により、広い農地にお茶やサツマイモなどの大規模農家が多くなっている。山間地の過疎の村ではないが、鹿児島県のどこの町でもみられるような高齢化と後継者不足で、人口は年々減少しているようだ。
 頴娃町の最大の特徴は、独特の「頴娃語」かも知れない。私も今でも頴娃語を完璧に理解はできる自信はあるものの、しゃべることはできなくなっている。昔、井形先生が東京から鹿児島に赴任されて間もない頃は、頴娃町の爺ちゃんなどが外来を受診されると通訳を兼ねて陪席したものである。また「ゼンエイオープンというゴルフ大会を、気兼ねなく開催できるのは頴娃町だけである」と、変な威張り方をした役場の人もいた。
 歴史的には結構昔からあった町らしく、先日の南日本新聞の「かごしま古(いにしえ)散歩」(永山修一)によると、太平年間の8世紀初頭から中葉の頃の木簡に、「薩麻頴娃」「薩麻国枯根」と記した物が出土したということである。これは当時九州を管轄していた太宰府が、管内各地から運ばれてきた物に付けられた付札類の中にあったという。頴娃という地名には1300年の歴史があるのである。
 私はこの頴娃町で、昭和22年7月10日に生まれた。
 生まれる前後のことは親に聞いたことがないのでよくわからない。それでも20年8月が終戦であることを考えると、貧しくそして食糧難の時代だったのだろう。ただ農村で自作の作物があり、また母の実家は網元として手広く漁業もしていたので、日々の食料には困らなかったのだろうか。
 たまたま生まれた日の朝日新聞一面がある。「歳出を徹底的に削減、なお百億円の不足」や「酒、煙草値上げか、七、八十億円の増収見込む」などの大見出しは、お金の単位を変えれば60数年経た今も同じである。
 「天声人語」では現物支給を批判するコラムであり、特に国鉄従業員に対する無賃バスがやり玉に挙げられている。他にも精糖会社はサッカリンを、電球会社は電球を、劇場映画館は入場券を、ビール会社はビールをといったあんばいで、現物支給日には闇市は門前市をなし、現物はたちまち現金化されたと書かれている。
 面白い広告では、「特に疥癬と水虫にヨムコ軟膏(吉原製薬)」(当院の吉原副看護部長とは関係はないのかな)というものがある。
 私は小学4年生までこの頴娃町で過ごしたわけだが、思い出としては遊んだ記憶しか残っていない。
 私の家は100戸ほどの小さな集落の端っこに位置していた。裏山を降りていくと、小さな小川が流れており、魚を捕ったりして遊んだものである。しかし遊んでいた割には上手く泳げない。夏の朝は10分ほど歩いて、スイカ畑に行き、大きなスイカを抱えてきて冷たい水の中に冷やしていた。七夕の飾りは勇壮で、裏山から切り倒してきた10メートルを超える孟宗竹に、願い事など結びつけたものである。
 この時代、扇風機も何もない時代で、木陰で寝ころんだり、縁側でうちわを使って涼を取っていた。夜は蚊帳を張り、全ての部屋の障子など開け散らして寝ていた。泥棒も、取るもののない家には入らないわけで、のどかな時代だったといえる。
■ 「祈り」という焼酎
 世の中にはいろいろな「偶然」があるものである。
 7月6日の夕方、南日本新聞社のS記者から「今、横川にいるのですが、豪雨の取材が中止になりましたので、先生の本の取材に伺ってもよろしいでしょうか」という電話があった。「どうぞ」ということで、朝、くだんの患者さん(福岡のホテルの風呂でおぼれて死にそうになったパーキンソン病の男性に(今回の本の中でも、「一寸先はわからない」として紹介させてもらった)からもらったスイカを用意して待っていると、5時半ごろに訪ねて来てくれた。私はこの記者とは初対面だと思っていたが、スイカを食べながらいろいろな話をしていると、以前当院に写真の撮影で来られたことがあったという。
 帰りしな、一枚の新聞記事を紹介しながら、(家内の)伯父からもらっていた「祈り」というレッテルの貼られた焼酎(五合瓶)を一本、プレゼントした。
 ところでこの新聞記事は1994年頃の夕刊からの切り抜きで、「ほろ酔い届け人、焼酎の裏方たち」という連載ものである。
 記事には相良栄二氏(69歳)が焼酎の蔵元9代目として登場しており、その大見出しは「『幻』を子に託したい、鹿児島市内で酒造り続ける」となっている。記事には、鹿児島市内で仕込みから瓶詰までしている造り場は一軒だけになったこと、その理由として原料のサツマイモを運ぶのに輸送費がかかったり、周囲の民家に匂いを出さないように気を遣うなどのハンディが語られている。それでもここで造っているのは、1615年に人吉から移ってから先祖代々受け継いできた伝統を絶やしたくないこと、「幻」といえる焼酎を造って次の10代目に引き継ぎたいことなどが熱く語られていた。
 さてこのS記者はこの記事を見るなり、「この写真を撮ったのは私です」という。「確か入社してしばらく経ったころで、T記者が取材し私は写真部として出かけたように思います」。もちろん私はそのようなことは全く知らずに、相良酒造の歴史や伯父さんの心意気を知ってもらえればと思って、この記事を用意していたのである。
 その伯父さんも今や86歳、でもまだ焼酎造りに賭ける情熱は衰えておらず、先日、隼人の鹿児島県工業試験場に出かけた帰りに、2本の「祈り」を届けてくれたのである。不思議なものというか、よくできているというのか、伯父さんを含めて相良酒造の周辺には下戸が多いので、新しくできた焼酎は私の元によく持ってきてくれていた。
 「祈り」のラベルにはその由来として、「『祈り』先達の言葉に『願いとさだめをつなぐものが祈りであり、祈りは運命も創り出す』とあります。願い事だけではない、清純で親愛な思いを捧げるものでしょう。この『祈り』焼酎は、森羅万象、皆々に『ありがとう』の感謝の祈りを込めて造りました。蔵人達の祈りの心がたどりつきます様に」。そしてその特徴として「河内商店謹製の白麹菌の醸すまろやかで甘味のある特徴に、フルーティな香りと軽やかな味を出す黄麹菌を併用しブレンド熟成させた特色ある調和した焼酎となりました」と書かれている。
 焼酎業界を巡る状況も、一字のブームが下火になり、次第に難しい経営を強いられるようになったと聞く。次世代への引き継ぎもまだ目処が立っていないようであるが、さまざまな「祈り」のこもったこの焼酎が多くに愛飲家に喜ばれることを願っている。飲んだところ、いわゆる相良酒造の特徴を少し殺したまろやかさがあり、また五合瓶は装飾品としてもきれいで、「祈り」という変ったネーミングも時代に合っているので、意外に売れるのではないだろうか。
■ 希望学(前)
 10号線を車で家路へと急いでいると、ラジオから「希望」という歌が流れてきた。
 大震災後、絶望感が日本全土を覆っているこの時に、この歌が非常に新鮮なものに感じられた。歌詞そのものはどちらかというと明るい感じではないが、岸洋子の落ち着いたしっとりとした歌声が静かな希望と勇気を与えてくれそうである。
 「希望という名のあなたをたずねて 遠い国へとまた汽車にのる」という歌詞で始まるこの歌は、1979年の日本レコード大賞歌唱賞に輝いた。私はこの年は、鹿児島市立病院に勤務していた青年医師で、世間ではインベイダーゲームが流行っていた。
 この歌が大ヒットしたその年に、彼女は膠原病と診断されている。その後、闘病生活と歌手活動の両立を余儀なくされ、断続的に療養生活を続けながらも歌い続ける。まさにこの歌が、彼女にとっての「希望」そのものだったわけである。
 日経朝刊の「経済教室」に、「『希望』という物語 自ら紡げ」という変わったタイトルの記事が掲載されたことがある(大震災の前)。
 筆者は玄田有史さん(東京大学教授)で、専門は労働経済学、希望学ということである。
「希望学」という耳慣れない言葉についてインターネットで検索すると、「希望学」として体系的な説明が加えられている。この玄田さん、先日のテレビでたまたまみたのであるが、震災後の釜石市を訪れていた。自分の学問のフィールドとして釜石市とは深い縁があり、知己も多かったのだという。
 さてこの稿では、そのポイントを三つ挙げている。
① 停滞社会に求められるのは一筋の希望、② 希望が広がる一番の手段は雇用対策の充実、③ 日本にはアニマルスピリットの回復が必要、というものだった。
 そもそもこの「希望学」なる学問は、2005年に東京大学社会科学研究所の玄田さんを中心にする十人の研究者によって始まったものだという。従来、個人の内面の問題とみなされてきた希望を、法学、政治学、経済学、社会学などの社会科学と呼ばれる学問を総動員して体系化しようという試みである。
 玄田先生のホームページから引用するが、希望学は三本の柱から成り立つという。
 第一が希望の思想研究である。過去の研究を紐解くと、希望について正面から論じた文献は、宗教に関するものを除けば多くない。そこで希望学では、従来から言及も多かった「幸福」「安心」「リスク」「楽観」といった概念と対比しつつ、希望の輪郭を描き出していく。「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」。「安心には結果が必要とされるが、希望には模索のプロセスこそが必要」などである。
 そこから、幸福や安心と異なる、「希望」の特性が見えてくる。

希望という名の あなたをたずねて
遠い国へと また汽車にのる
あなたは昔の あたしの思い出
ふるさとの夢 はじめての恋
けれどあたしが 大人になった日に
黙ってどこかへ 立ち去ったあなた
いつかあなたに また逢うまでは
あたしの旅は 終りのない旅

希望という名の あなたをたずねて
今日もあてなく また汽車にのる
あれからあたしは ただ一人きり
明日はどんな 町につくやら
希望という名の あなたをたずねて
今日もあてなく また汽車にのる
あれからあたしは ただ一人きり
明日はどんな 町につくやら

希望という名の あなたをたずねて
寒い夜更けに また汽車にのる
悲しみだけが あたしの道連れ
となりの席に あなたがいれば
涙ぐむとき そのとき聞こえる
希望という名の あなたのあの唄
そうよあなたに また逢うために
あたしの旅は いままた始まる
■ 希望学(後)
  ところでそもそも希望とは、何なのだろうか。
 思想研究を重ねるうちに、希望に関する一つの社会的定義が浮かび上がってきた。
 希望とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」だと。ところが「日本イコール希望のない社会」という認識はなかば常識化している。社会やそれを構成する個人に希望がないとすれば、そこにはきっと「具体」「行動」「実現」「願望」のいずれかが欠けているはずである。
 確かに私が青春時代を過ごした戦後の高度経済成長期は、貧しくて幸福な社会とは言い難かったが、いつも「希望」はあったように思われる。今頑張れば、未来が開けるというような「希望」が。
 第二の柱は、データ重視の実証分析である。希望学では二度の全国調査を実施、希望を持つ人と持たない人の違いを検証した。その結果、日本社会では20歳以上60歳未満の約二千人に対する調査から、三人に一人が「希望がない」もしくは「希望はあっても実現する見通しがない」と答えたという。
 そこで実現性のある希望を持つという個人の特徴にも迫ったところ、定量分析では、収入、仕事、教育、余命、健康などの選択可能性の程度が希望を左右することが明らかとなった。それゆえ高齢社会や経済停滞、進学困難、健康不安などは、希望の喪失感の広がりに直結する。希望は人間関係にも影響され、共同体的結束の弱まりや孤独化現象の深まりも、希望のなさに拍車をかけている。
 定性分析からもいくつかの事実が見出された。過去に挫折や失望を乗り越えた経験が、将来に希望を持つ傾向を促すという(「挫折による学習効果」)。
 無駄を一切排除する志向性が、未来への創造性や柔軟性をも奪ってしまう(希望に対する「負の効率効果」)。これらは、今後さらなる検討が求められる新たな発見である。
 第三の柱は、岩手県釜石市を対象とした包括的な地域調査である。
 鉄の街として繁栄し、ラグビー七年連続日本一という偉業により、全国にその名をとどろかせるなど、釜石はかつてまぎれもなく「地方の希望の星」だった。現在では人口減、高齢化、産業構造の転換など、日本に迫り来る近未来を一身に体現している地域である。
その地に多くの研究者が何度も赴き、希望の再生に向けて行動する人々と対話を積み重ねた。その結果、地域における希望の再生には「ローカル・アイデンティティ(地域の個性)の再構築」、「希望の共有」、「地域内外でのネットワーク形成」の三つが不可欠という仮説に、希望学は辿りつくこととなった。
 (ところが今回の大津波で、釜石市も壊滅的な被害を受けてしまった。テレビ映像では、玄田さんは震災後の釜石市内を途方に暮れながら歩いていた)。
 希望学とは過去や現在の悲惨な事実に正面から向き合う学問だということなので、この時代にこそ必要とされるものかも知れない。
(この項、岸洋子の歌声をバックに書いていますが、いつ聞いてもいいですね)。
■ 山本五十六の言葉
 医療安全対策で、どこの病院でも行われてきたツールが、「ヒヤリ・ハットの収集とその分析」である。ところがこの作業、時間と労力そしてコストを考えると「医療安全対策として相応しくないのではないか」という識者の声も聞かれるようになっている。ただ私は他に有効な手法でもあれば別だが、現状ではやはりこのやり方が医療安全対策の第一歩だと考えている。
 というのは、一つには医療の現場はスタッフの新陳代謝が激しく、毎年4月には多数の新人を迎えて、対策もまた一から始まるからである。科学研究のように、成果を積み上げていくことはできない。先輩が毎年、新人さんに基本から丁寧に教えていく必要がある。
 山本五十六の有名な言葉がある。
 山本はかつての大日本帝国の元帥・海軍大将で、太平洋戦争において、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を指揮するという大役を任された人物である。そのような人でも人を動かすということには試行錯誤があったようで、この言葉は、教育方法の核心を突く素晴らしい言葉だと思える。
「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。
 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」。
 この言葉は江戸時代中期、出羽国米沢藩主・上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせてさせてみる」に影響を受けて、山本五十六なりに解釈、追加したものといわれている。
 人を動かすには、①やってみせる(模範)、②やり方を教える(指導)、③その通りにやらせる(模倣)、④誉めてやる(賞賛)の4段階が重要で、その頭文字をとって「もしもし」と呼ばれている。
 大震災後の復興に向けてあらゆる努力が傾注されているが、菅政権のもと、官僚や地方組織が上手く動かず、まだ瓦礫の撤去も思い通りに進んでいないらしい。菅首相は官僚を呼びつけては怒鳴り散らすばかりだという。もっとも我々が知る情報はマスコミのふるいをかけられたものなので真実のほどは分からない。ただ言えることは、何事も自分で全てできるわけではないので、適切に仕事の分担を決め、任せることが必要である。自分でした方が早いようなことでも、部下にさせて辛抱強く待つことも大切である。組織というものはそれぞれの役割分担というものがあるので、適切に人を動かしていかなければならな
い。
 あの司令長官だった山本をして人を動かすことの難しさを知り抜いていたから、このような言葉が生まれたわけで、いつの時代も同じである。
 昨日の早朝は「なでしこジャパン」の優勝に日本中が沸いたが、それもつかの間、今日は台風の行方が気になる。東京で院長協議会の役員会であるが、飛行機が飛ぶかどうか、帰れるかどうかと秋にかけて、気をもむことが多いだろう。
 今月もあと2週間弱。
■ 嬉しいメール
 本を出版するたびに過去にお世話になった方、また本を贈ってもらったりした方、そして特段これといった基準もなくその時の気持ちで漫然と本を送っている。その中のお一人である川村治子先生(杏林大学保健学部教授)とは、ここ1,2年ほど音信不通となっていたが、先日嬉しいメールをもらった。
 川村先生は個人的にもまた病院にとっても、「医療安全」という領域では恩人といえる人である。
 平成10年4月に院長になって、その7月に、ある肺がんの末期の患者さんの寝たばこにより病室火災を起こしてしまった。幸いにも消火など大きな問題もなく鎮火できたが、患者さんは搬送された市立病院で亡くなられた。この時に、安定的な病院経営にとっては収益の増加を図ることも大切であるが、それ以上に大事なことはリスク管理ではないだろうかと直感した。たまたま当時九州医務局(現在の厚生局)の医療課長だった川村先生も病院のリスク管理と取り組んでいたので、当院をモデルにしてリスク管理体制の構築をお願いした。先生には福岡から何度も足を運んでもらって、職員の意識管理からヒヤリハット報告とその収集、そして分析などの一連の医療安全管理体制の構築を指導してもらった。
 先生その後、敢然と東京に「進出」し杏林大学に職を求めた。また厚労省の医療安全対策部会で指導的役割や、また一万件を超えるヒヤリハット報告を元に詳細な分析を行い、そしてまとめられた成果を医学書院からいくつかの良書として出版された。ところが数年前から、医療安全の領域とは少し距離をとられて、別の活動にと移っている。
 私は東京で時々お会いしては叱咤激励されてきたが、「私は先生と違って、後は振り向かない質なの」とよく言っておられた。性格は私とは大分異なる部分も多いが、先生の誠実で物事に真正面から取り組まれる姿勢を羨ましく思っている。高知の生まれで土佐高校の出身だと聞いていたので、私は勝手に「現代の女龍馬」とあだ名していた。
 その先生から、次のようなメールを頂いた。  
 新しい御本いただきました。題名もいい(前の「病む人に学ぶ」よりこちらが好き)ですし、一節一節、心にしみる言葉が並んでいます。先生も老いとともに、ますます含蓄と余韻の人になっていますね。まだ、パラパラとしか読んでいませんが、外科医のパレの話も出てきました。私は医学概論の中の医学史を担当していますので、パレの話もしました。
来年、この部分を使わせていただきます。村木さんは私の高校の後輩です(相当優秀だった方ですが、家庭の都合で地元の高知大学に進みました)。取り上げてくださって嬉しいです。
 私の方、大学と大学院の仕事で、一生懸命働いています。私の救命学科は救命士になりたいという体育会系の男子が多く、今の若い人に失われた、人を助けたいとか、誰かのためになりたいという使命感を持った学生が多く、救われます。医療安全は私がやれることはやってしまい、今一つ情熱を失っていますが、彼らを優秀な救命士に育てることで、先生の言われる、社会のためになっていると思いたいです。
 先生から発せられる言葉はいつも辛辣で、今まであまり誉めてもらったことはない。それだけに単純にうれしいのである。私より年下のハズであるが、九州医務局時代、私は副院長で当時医療課長だった先生に仕える立場だったので、いつも上司感覚から抜けきれないでいる。
 またいつの日か東京で食事でもしながら、先生の独特のサビのきいた警句を聞いてみたいと思っている。
■ 産地直送のゴーヤを
 先週の金曜日の検食に、ゴーヤを薄く切って醤油をかけたものが添えられていた。いつも昼食を持ってきてくれる迫田さんが、「東さん(事務)が作ってくれたそうです」という。企画課長の吉永さんが、「来週は取れると思いますので、第一号は院長に食べてもらおうと思っています」と言っていたが、今週に前倒ししてくれたのだろう。「ゴーヤは若取りが基本」と言われるそうだが、見るからに新鮮な濃い緑色で食べると歯ごたえもしゃきしゃきして、本当に美味しい。私は苦みがあっても食べられるのだが、このゴーヤにはほとんどない。肥料や水をやったりしながら、丹念に育ててくれた吉永さん始め事務室の方々に感謝である。
 さて今年の夏のキーワードは「猛暑」と「節電」ということになりそうだ。当院でも節電対策の一つに、緑のカーテンとしてゴーヤを窓に這わせることにした。2階の事務室の北側の窓と、地域医療連携室の中庭の窓に沿って植えられている。
 一月半ほど前にプランターに10本ほど苗木を買ってきて育てていたが、みるみる大きくなっていった。事務所に行くたびに窓の外をのぞくと、黄色い花が咲いて、しばらくすると大小さまざまな大きさのゴーヤが見られるようになった。ところが同じ苗木のはずなのに地域医療連携室のゴーヤは生長が悪く、まだ大きな実をつけていない。
 実は梅雨入りの頃だっただろうか、家内が「今年こそマンションのベランダに、ゴーヤかヘチマを這わせてみたら」と言われていた。私もその気になっていたのだが、忙しさにかまけて、いつの間にか時間を逸してしまった。以降、病院のゴーヤを見るたびに、ちょっと胸の痛い思いをしていたのである。
 6月後半にもなると、我が家でも夕食にも、ゴーヤチャンプルなどが登場するようになった。はじめの頃は一本が180円もしたそうだが、次第に値下がりし、7月になって急に下落して80円くらいで買えるらしい。病院のゴーやの生育を見ていると、大体同じくらいの速度で大きくなっており、そのうちに大量に出回るようになって「豊作貧乏」になるのも時間の問題のようである。
 ところが、7月19日、台風6号の朝、事務室の米森さんの机の上に大きなゴーヤが山盛りになっている。「風で落ちたんですね」というので、「もぎ取る手間暇が省けてちょうどよかったんじゃない」と言ってしまったが、まさに「そんな問題ではないだろう」と言われそうである。
 昨日の朝のラジオによると、農家の人が台風の襲来を心配していた。コメの稲穂は芽の出るこの時期に揺らされると、収穫に大きな影響が出るらしい。稲株の間をヘビが通り抜けても気になるほど、繊細なものらしい。自然相手の仕事も大変である。

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