院長雑感詳細

院長雑感(124号)

毎朝早く、10号線を車で通勤しているが、今朝はラジオから「小さい秋みつけた」というあの懐かしい歌声が聞こえてきた。ところが現実は、連日の猛暑に加えて、鹿児島市は東風に乗った「ドカ灰」に見舞われている。
 鹿児島地方気象台で、午前9時までの241平方メートル当たり217グラムの降灰を観測した。1994年の気象台移転後、3位の降灰量だという。爆発回数は9月14日現在、今年662回というから半端な数ではない。
 政権も菅首相から野田首相に代わった。松下政経塾の出身であるが、この塾出身者が与野党とも多くの国会議員を輩出している。入塾の要件は現在は年間5人の枠で、22歳以上で、仕事のない人が条件で、4年間月に20万円もらいながら、専従(全寮制)で研修するのだという。
 演説のうまさだけでなく、政治のプロとしての力量を発揮して欲しいものだ。

■ 患者数
 8月の入院患者数は393.9人で、計画に対し7.2人の増となった。平均在院日数は16.5日と全く問題はない。外来は151.2人と、0.8人の減となった。

■ 診療報酬点数と損益計算書
 8月の診療報酬点数は、計画比で入院では2,122,397点の大幅増、外来も38,131点の増で、対計画では入院・外来合わせ2,160,528点の増となった。また4月からの累計でも1,684,867点の増なっている。
 8月一月で、7月までのマイナスを挽回して、一挙にプラスに転じた。職員一人ひとりの献身に感謝である。

■ いろいろな研究がある。
 平成11年から17年までの6年間、筋ジストロフィー研究班(筋ジス4班とも呼ばれていた)の班長をしていた時、毎年2月ごろに評価委員会の評価を受けていた。ところが私の率いる4班の研究はどちらかというと評価点数の低いことが多く、逆に遺伝子研究や実験動物を主体とする基礎的な研究班には高得点を付ける委員が多かった。「何十年も同じような研究をしていて、患者さんの病気が少しでもよくなったの」とか、「原因究明といいながら、全然進んでいないじゃないの」と、悔しさ紛れに陰口をたたいていたこともあった。
 評価委員は多くの場合、過去に基礎的な研究に従事した経験のある人が多いので、同じ土俵で採点されると、そのような研究が高得点になるのは当然である。例えば筋ジス4班は看護師や保育士、リハ関係などコメディカルスタッフの研究(発表)が多く、日常の看護や介護など患者のQOL向上を目指したものだった。このような研究が純粋に研究といえるかどうかは議論の多いところだが、筋ジス研究班の場合、全国27カ所の筋ジス病棟の平準化やレベルアップには大いに役立ったと自負している。逆にここ30年の筋ジスの基礎研究の進歩により患者の病態が向上したことは皆無であったのに引き替え、筋ジス4班による研究で平均寿命はデュシェヌ型の場合には10歳以上も延びたのである。
 今回、国立病院機構共同臨床研究(EBM推進のための大規模臨床研究事業、NHOネットワーク共同研究事業)の評価でも、免疫やがん研究などが高評価を得るなど、筋ジス研究班の評価と同じような評価がなされたようである。
 国立病院機構の研究の中でも、筋ジストロフィーや重症心身障害児などセイフティネットの領域の研究では、基礎的な研究とは目的も方法も異なっており、同じ土俵では評価できないのではないだろうか。
 先日行われた共同研究継続審査のヒアリングによると、単なる実態調査では研究として意味がなく、「研究は仮説を立てて、どう取り組んで、このような結論が導き出され、次のステップを提示していくものである」とのご講釈があったと聞いている。確かに一般的な基礎研究では納得できるが、少ないマンパワーの中で少しの時間を割いて行う臨床研究となると自ずから限界がある。また多くの日本の基礎的研究は、外国の研究を追いかけるような2番煎じの研究が多いというのが一般的な評価である。私が師事していたエンゲル先生はよく、日本の研究は「Nothing New」と言っていた。
 まことしやかな数字を並べて統計処理を施しただけの研究が高得点となり、数値化しずらい臨床研究は採択されないというのはちょっと納得しがたい。もちろん、院内の倫理委員会の承認などの手続きを経ることは当然であるが。
 国立病院機構の研究では、その基本は臨床研究に基盤を置くべきで、それぞれの立ち位置を考慮して評価されるべきものだと思っている。

■ 混合診療の是非(前)
 病気になり病院にかかると、日常の保険診療では3割か1割が自己負担で、残りは健康保険から支払われている。ところが混合診療とは、健康保険の範囲内の分は保険で賄い、範囲外の分を患者さん自身が費用を支払うことで、費用が混合することをいう。もし、患者さんから費用を別途徴収した場合は、その疾病に関する一連の診療の費用は、初診に遡って「自由診療」として全額患者さん負担となるルールになっている。
 一連の医療サービスの中で、例外として患者さんから別途費用徴収を行うことが認められているのは、差額ベッド(入院した時の個室代)や新しい高度な医療技術などのごく一部である。ところが健康保険の範囲内の医療では満足できず、さらにお金を払って、もっと違う医療を受けたいという場合や未承認薬や新しい治療法は全て保険外という取り扱いだった。
 厚生労働省では、高度な医療や海外のに承認薬を早期に日本で実用化するために、今後3年間で15か所程度の「臨床研究中核病院を指定し、この中核病院では保険外の高度医療と保険診療を併用する「混合診療」を認める手続きを大幅に簡素化するという。
 もう随分前のことになるが、県教育長のH君(中・高の同級生)から、「友だちがI病院で多発性骨髄腫という病気で入院していたんだけど、新しい治療のために大学病院に転院するという。どういうことなのだろうか」という電話があった。本当のところはよくわからないのだが、ひょっとすると「サリドマイド治療」のことで混合治療が問題になっているのではないかと返答したが、サリドマイドは2008年12月に厳しい条件はついているが、既に保険診療として薬価収載されている。
 2008年3月末、厚生労働省は「混合診療」について新制度を設け、薬事法で承認されていない医薬品と医療機器を治療で使った場合でも、一定のルールに基づけば保険併用を認めることにした。これで「抗がん剤など海外の新たな治療薬を試したい」という患者の要望が実現することになる。

■ 混合診療の是非(後)
 ここで「混合診療」について、今までの経緯を整理すると次のようになる。
 2007年11月7日、東京地裁は「混合診療における保険給付を求める訴訟」の判決の中で、「健康保険法などを検討しても、保険外の治療が併用されると保険診療について給付が受けられなくなるという根拠が見出せない」との解釈を行った。また一方「法解釈の問題と、混合医療全体のあり方の問題とは次元の異なる問題」とも述べ、混合診療自体の是非につては判断を避けている。
  もう少しわかりやすく説明すれば、保険診療では保険外診療(自由診療)の併用は原則として禁止されており、保険外診療(例えば外国で承認されている抗がん剤の使用)を行ったら、本来の健康保険からの給付分も含めて全額患者の自己負担となっている。今回、国を相手取り提訴された清郷伸人さん(60)は腎臓がんを患い、2001年2月から保険対象のインターフェロン療法を受け、同9月からは保険適用外の療法(活性化自己リンパ球移入療法)を併用した。このため本来保険対象のインターフェロン療法の負担額が、月6万~7万円から約20万円に膨れ上がるという。
 判決後、会見した清郷さんは「全国の重病患者に影響する判決だ。一刻を争う患者が望む治療を合理的な費用負担で受けられるように、国は制度を改めてもらいたい」と感極まった表情で語った。そして「保険医療を受けている患者が、効果があると言われて保険対象外の薬を使おうとしても、全額自己負担になれば踏み切る人はいない。それで命を落とすこともある。混合診療は弊害よりメリットが大きい」と訴えた。
 さてこの混合医療問題、2004年に小泉首相の時代に「混合診療解禁の指示」を出したがかけ声通りには進まず、「特定療養費制度」の創設という薬価基準に収載されている医薬品の適応外使用も一部では認めるということでお茶を濁してしまった。
 この混合診療解禁には、厚生労働省や日本医師会、日本病院会などこぞって強く反対している。その論拠は、解禁すると所得による医療格差が生じ、また保険給付額が増大し保険財政を圧迫しその結果、国民皆保険制度の破綻につながるという懸念、さらに効果や副作用などの評価・監視の目が届かなくなり怪しげな療法が横行する危険性もあるというのである。確かに世の中にはいろんな医師がいるから「この保険外の治療法が効く」といって、効能もはっきりしない薬を勧められるかも知れない。
 一方、解禁派の主張は、保険給付部分が保険給付の対象になるので患者の負担は少なくなるし、「解禁して保険が利かない部分だけ全額患者負担にすれば」治療の選択肢も拡がり、経済的にも助かるという主張である。
 ある調査では、混合診療の全面解禁に賛成する人が、どちらかといえば賛成まで含めると7割に達している。そして「保険料や税の負担が増えるのは仕方がないので、できるだけ多くの医療行為は保険の対象にして欲しい」との意見が多く、解禁反対派の主張する「保険対象にする治療行為を制限して、保険外診療にしていく」という方向にならないような監視の目は必要である。
 この問題、表面的な部分だけみれば解禁派の主張に説得力があるし、私も個人的には解禁する方向が妥当ではないかとも考えている。ただ混合医療の解禁が、国民皆保険制度の崩壊というシナリオにつながりかねないという懸念は捨てきれない。特に経済財政諮問会議の一連の答申には、いわゆる経済優先、自由競争の思惑が見え隠れする。一般の国民にとっての良い医療が長期的に享受できるのはどちらなのか,、冷静な判断が必要である。

■ 心配せんでもいい 
 学会によっては講演や座長をすると、記念品を送呈されることがある。今回の医療マネジメント学会では座長をしたら、「心配せんでもよい」(佼成出版社)という一冊の本が送呈された。
 筆者は、お坊さんで、丹波あじさい寺住職の小藪実英さんという方である。
 「はじめに」によると、もともとは福知山市観音寺に生まれ、高野山大学密教学科を卒業して17年間、高校の教師をしたのち、母親が病気になり亡くなったので、やむなく生家の住職になったという。この観音寺、奈良時代720年の開基という由緒のあるお寺で、50年前から紫陽花が植えられ、現在100種一万株になるという。学会長が市立福知山病院の院長だったので、その縁でこの本を選ばれたのだろう。
 平成3年に住職となったが、お寺は暇な時もあれば多忙極まりない時もある。そこで暇な時を使って、「心に伝わる詩画」を書き始めた。意図としては詩人の詩というより求道者の詩を心がけ、「はじめに」には「人生は捨てたものではないなあ。あの悲しみがあったから、今の幸せがあるのだなと、どこからともなく、そんなささやきが聞こえてくるような読後感を味わってもらえれば嬉しいな」と書かれている。文字通り「心配せんでもよい」と、前向きで肯定的な「説法」が並べられている。
 さて本の内容だが、星野富弘のような詩画と31の小章から構成され、またたく間に読み終えてしまう。特段難しい話ではないが、読み終えるとなるほどとうなずくようなものばかりである。
 例えば、第1章の「一つのことばで人生は変わることがある」では、たかが「ことば」ですが、「ことば」は使い方によっては人を深く傷つける「ことば」にもなるし、深く傷ついた心を救う「ことば」にもなります。そして傷ついた例として、高校のバレー部の顧問の「○○!そんな太い体をしているからジャンプもできんのや!」という一言で拒食症になってしまった、という話である。
 一方、心を救った「ことば」として観音さまの台座に書いてあった「やまない雨がないように、終わりのない悲しみはない」ということばを挙げている。
 また第2章は「悩んでいるのはあなただけではない」となっている。お寺にはいろんな人が悩みの相談に来られる。私(小藪)はこの人の悩みのたねはどこにあるのか、どうすれば悩みは解決されるのかと思いながら話をするが、留守の時には奥さんが対応されることもある。奥さんの場合には解決するというより、一緒になって悩みを聞いてあげたり時には一緒に涙を流すこともあるという。ところがこちらのやり方が効果的なこともあり、人の悩みを聞いてあげる時には「あなたも私も同じですよ」と、同じ心になって聞いてあげることが一番かも知れません」と結んでいる。
 第7章は「理想に向かって歩む」であるが、砂漠を歩く商人は、目的地の村に辿り着くために一つの星を目当てに行くそうです、で始める。そして高校球児にも触れて「たとえ甲子園に出場できなくても、目指さなかった子どもより随分成長すると思います」。そして「理想を持って生きる方が人生は充実して楽しいです」という。
 また第13章は「あの人もこの人も修行の種」というものである。「ある婦人から若嫁とうまくいかず、事あるごとにぶつかり心が痛んで仕方がない」という相談に「若妻さんは仏様が奥さんの心の修行のために遣わされた人」であると考えなさいと諭す。確かに何事も、これは修行(勉強)と思うと、イヤさ加減が減じることは多いものである。

■ いつの時代も~患者さんへの告知(前)
 院長になってから14年間、毎年鹿児島医療センター附属看護学校の1年生に対して、生命倫理の講義を担当してきた。そのやり方として、生命倫理の領域で問題となるがん告知、脳死と臓器移植、安楽死、出生前診断の4つのテーマから学生が一つ選んで、800字ほどにまとめてレポートを提出することにしている。そして次回の講義で、デベートをしながら理解を深めていくというスタイルである。
 テーマの選択は自由にしているが、今年度は脳死と臓器移植が最も多くて28.7%(108人中)、そしてがん告知(27.8%)、出生前診断(24.1%)、安楽死&尊厳死(19.4%)の順となっていた。過去6年間の傾向を見ると、今年度は比較的まんべんなくテーマを選択しているが、平成19年度はがん告知が53%であるのに比し、出生前診断と臓器移植はそれぞれ8%となっている。学生の選択をみると、身近なテーマであるがん告知が毎年多いが、ここ3年ほど臓器移植を選択する学生が増えている。
 さてそのデベートであるが、ハーバーと大学サンデル教授のような「白熱教室」とはほど遠い悲惨なデベートになることが多い。自分から挙手する人は皆無で、指名しても渋々意見を述べることになる。ただそれぞれのテーマに関する賛成、反対の意見はここ数年で随分変わってきており、例えば今年の学生の場合、臓器移植に反対すると挙手した人は2人で、残りはほとんど賛成である。またがん告知も同様な傾向にあるが、安楽死と出生前診断に関しては、賛否両論ということになる。  
 病名告知に関しては、がん告知を前提にして議論しているが、筋ジストロフィーの告知について、昨年度の筋ジストロフィー研究班会議で京田景子看護師が報告している。
 この研究の動機を京田さんは、「現在病棟に入院しているある一人の患者さんが、小さい頃は自分の病気について母親によく聞いていたのに、高学年になるにつれて聞かなくなった。もっと早い時期にちゃんとした告知を受けていたら、違った生き方も考えられたのではないだろうか、というような看護スタッフの素朴な問題意識から始まった」と語ってくれた(この患者さん、14歳という若さで、今年の2月に亡くなられている)。
 お母さんとそのことについて話してみると、「小学校の頃は勉強もしなかったので、学校の成績も余りよくありませんでした。ここの養護学校に転校してから先生ともうまくいって、勉強するようになり成績も上がったように思います」ということだった。最近私も病室を訪れては、「R君は本当は賢かったんだね」と笑いながら語りかけている。
 振り返ってみると、私はR君に直接病気について詳しく説明した記憶はない。もちろんお母さんや家族には説明したし、家族は病気について既によく理解されていた。お母さんはR君の教育にも熱心で、電話などでいろいろな悩みを相談していた。さすがだと感心したのは、お姉さんを加治木町の看護学校に進学させていることである。それでも島にお父さんと妹を残し、お母さんは病状が悪化してからはR君にずっと付き添っているので、家族の生活は大変なことだろう。
 筋ジスで歌人の岩崎さんの短歌に、「治るよね」問いくる子等の澄める眼にうんと言う嘘神許されよ、というものがある。まだ理解力に乏しい少年に、どこまで病気の真実を言ううべきか、誰も正確には答えられないだろう。昔は小学校の頃に入院してくるケースが多かったので、周りの患者の進行の状況から自分の行く末を段階的に想像し、悟ることもできたと思われる。ところが最近は地域の学校に通学する生徒が多くなり、入院するのは高校を卒業して呼吸管理が必要になった頃が多いことを考えると、告知についても違った対応が必要になってくるのではないかと思われる。

■ いつの時代も~患者さんへの告知(後)
 現在46歳になるKさんに、少年時代(病院での)のことを聞いてみる。「あのころ(小学校)は、自分が病気だと深刻に考えたことはなかった。みんなと遊ぶことが楽しくて、病気のことは忘れていた。今考えても、治る病気でもなかったわけで、小さい時に詳しく説明するのはどうかと思う」という。
 告知について、例えばがんではよっぽどの例外を除いて告知することが普通になってきた。がんの場合は多くは成人であるし、いろいろな治療法もあるので、告知は必須となる。
たとえ治癒できない場合でも告知することで人生設計が変わったり、また亡くなったときにために整理しておかなければならないこともある。そのあたりが筋ジスなど幼少期の告知と異なるのではないだろうか。
 さて研究発表の方であるが、20歳以上の筋ジスの患者8人と脊髄性筋委縮症の3人の患者にそれぞれ聞き取り調査を実施している。
 その結果、両親に告知した時期は生後間もなくが1人、幼稚園・保育園が2人、小学校が3人の時で、そのうち2人は患者も同席していた。説明を受けた2人は「内容はよくわからなかった」「覚えていない」と回答し、告知を受けた経験のない9人は、「一緒に入院している患者を見て悟った」という。
 もう随分昔のことになるが、私が筋ジス病棟を担当していた頃には一人の患者さんに年に1回は家族に来てもらって「医療相談」をしていた。その時に、もう何年も入院しているのに自分の子どもが筋ジストロフィーだということを正確に知らないことがわかって愕然としたことが何度もあった。私たちは当然理解していると思っても、患者・家族は案外よく知っていないものである。
 さて聞き取り調査は、「1.入院生活」、「2.疾患」、「3.告知」についてそれぞれ行われた。
1.「入院生活」
 ・入院する前には同じような人が周りにいなくて、自分だけだと思っていた。
 ・入院してからは、自分より症状の重い人を見て、自分もこんなふうになるのかと不安
になった。
 ・もうそろそろ自分も寝たきりになると思ったら、やりたいことをやっておかないとと
焦った。
 ・同じ病気の人がいて、お互い励まし合えて病気の受け入れがスムースにできた。
2.「疾患」
 ・自分が特別な病気であるということを意識したことはない。
 ・あきらめて自然に受け入れていく
 ・寿命が書いてあるから、自分で調べるのは怖い
 ・夢中になることを見つけられれば、病気であることを意識しなくなる。
3.「告知」 
 ・寝たきりになると言われても、真剣にとらえられない
 ・看護師との会話で筋ジストロフィーと知った。
 ・インターネットで調べた
 ・わかるようになってから、自分から聞くのがよい。
 ・告知の必要性というより、進行した人やいろいろな病気の人と共に過ごす時間があれ
  ば、本人が見て感じていく・
4.「子どもに告知していない両親」
 ・どう伝えていいのか分からなかった。
 ・自分がより悲しくなる。
 ・入院してから、病棟や学校で友人とつきあっていくうちに徐々にわかってきたようだ。

■ 呼吸器を付けないという選択
院長の回診 待ちわびて
今か今かと待っている
お声するけどあらわれない
一人ひとりに優しいのね
 これは「院長回診の歌」と題する歌の第一節で、数年前にALSのKさんが作詞され、回診の時に同室のパーキンソン病の患者さんたちと合唱してくれたことがあった。今回刊行した私の本にも、「医者になってよかったと思った瞬間」として、紹介させてもらっている。
 あれから数年、Kさんは「新薬の出現」を誰よりも待ち続け、亡くなるまでエダラボンの注射に希望をつないでいたが、病気は少しずつ確実に進行していった。唾液の流出が増え、呼吸筋も弱くなり、鼻マスク型の人工呼吸器による換気を行っていたが、CO2ナルコーシスの状態になり、経鼻挿管が行われた。
 ALSでこのような状態になると、選択肢は限られてくる。とりあえず気管切開をして様子を見ながら、必要なら人工呼吸器を付けて延命を図るという選択と、積極的には呼吸管理は行わないという選択である。
 全世界的には後者のやり方が一般的であるが、日本では人工呼吸器を装着して延命をはかるという医療環境ができたこともあって、前者を選択する人が増え、鹿児島県ではほとんどの人が呼吸器を付けている。ただ問題点として、特効薬の見通しが立たない状況では、呼吸器を装着して果てしない闘病生活を覚悟しなければならない。本人はもとより、家族もそれ相応の協力と苦労が必要になってくる。また日本の法律では、一度呼吸器を付けてしまうと、本人の意思にかかわらず離脱することはできない。
 Kさんは私より一切年上の65歳で、看護師として働いてこられた。家族はご主人と茨城に居住している息子さん、そして近くに娘さんがいる。ご主人と娘さんは頻回に見舞いに来てくれて、家族環境としては呼吸器を付けるにあたっての問題はなかった。
 Kさんは当院にも数年間入院されており(それ以前に大学病院にも)、多くのALS患者さんの闘病生活を見てきている。また主治医の園田先生は、考えられるあらゆる可能性について丁寧に、冷静に説明してくれたと思っている。
 Kさんは指で意思を伝えることができたが、その結論は「ゴメン、ガンバレナイ、ツケナイ」というものだった。
 私の経験では、呼吸器の装着を選択されない方々には、Kさんと同様に、50歳から60歳台の女性が多いようである。もう随分前になるが、互いに思いやることのできる家族で、病院の近くで在宅療養されている60歳台の女性がおられた。ある日、急性呼吸不全の状態で救急車で入院された。用手人工マッサージで意識が回復したが、その女性からは「もう心おきなく生きることができた。これ以上家族に迷惑をかけたくないので、人工呼吸器はつけないで、このまま死なせて欲しい」という言葉が聞き取れた。家族も交えて何度も話し合った結論として、「呼吸器は付けない」と、心に固く決めていたようである。人工呼吸の手を緩めながら、心臓の鼓動が少しずつ遠ざかっていくのを静かに見守っていった。
家族ともども後ろ髪を引かれる思いで、死路を見送ったことを思い出す。
 7月28日の朝、師長さんと病室に入ると、お子さん二人と妹さんがベッドを囲んでいた。本人は意識はない状態だったので、私は確認の意味もあって、呼吸器装着にかかわる重たい問題について率直な話をした。行き場のない絶望感に襲われるが、現実は動かしようがない。結論としては、本人の選択を尊重しようということになった。そしてその日の夕方に、家族に囲まれて静かに息を引き取った。
 私の胸のポケットには、色とりどりの小さな玉を数珠のようにした携帯電話のストラップが差し込まれている。数年前に作業療法で作ったもので、回診のときにKさんから頂いたものである。

■ アクティブ・ゾーン
 世の中のこと、いろいろなことが不思議な縁で結びついていくところが面白い。その基本になることは、やはり自らの情報発信であり、ありとあらゆるものに対する興味と関心ではないだろうか。
 鹿児島大学医学部の同窓会誌は「鶴陵会会報」というものだが、先日第39号が送られてきた。正直に言うとあまり面白い会報ではないが、つれづれなるままに何気なくページを繰っていると、「教授就任のご挨拶」というコーナーがあった。何人かの新人の教授とともに、山梨大学医学部生化学教室の教授に就任された大塚稔久先生が紹介されていた。まだ42歳であり、顔写真を見ても新進気鋭の教授といった感じの風貌である。
 学生時代は私と同じ軟式庭球部に属し、平成6年に卒業し、大阪大学の博士課程に進学、6年間を高井研究室で過ごされたという。ハードな6年間だったようで、「起きている時間は実験しているか、高井先生から叱咤激励を受けていた」という。そして「人生のどこかのポイントで何かしんどい時期があって、それをくぐり抜けることで得られるものもあるのだ」と実感できたと書いておられるが、まさにその通りだと思う。
 その後、富山大学の臨床検査学講座の准教授をされていた。これも不思議な縁で、そこの教授は北島勲先生で、その昔、当院の神経内科で3年ほど一緒に仕事をしたことがある。朝、大学の皮膚科で足の裏を手術して、午後からは杖をつきながら患者を診るというようなスピリットの男だった。
 ところで大塚先生の研究分野が神経伝達物質放出の分子構造基盤の研究であり、つい最近、アクティブゾーン蛋白質を精製・同定することに成功し、CASTと命名したと書かれている。私が釘付けになったのは、この「アクティブゾーン」という言葉である。
 この「アクティブゾーン」こそが私が1980年から3年間、アメリカ留学中に悪戦苦闘した構造物だったからである。この構造物は神経終末の膜直下にあり、フリーズフラクチャーという手法で二重膜を割断すると、電子顕微鏡下で前シナプス膜表面に観ることができる(正常では、小さな円い顆粒が列車の複線のように並んで見える)。ところがこの部位を正確に特定できないため、神経筋接合部を光学顕微鏡下でできるだけたくさん集めて凍結割断後、後はひたすら忍耐力で探していく作業になる。朝から晩まで暗い部屋の中で探し続けて、3年間で満足できるものは500個ぐらいにしかならなかったのではないだろうか。一日探しても、徒労に終わる日も多かった。
 朝、研究室に顔を出すと、ボスのエンゲル先生が笑顔で、「How  about  fishing?」とよく聞かれたものである。まさに太平洋の海中から5円玉を探しているような作業である。もちろんカエルのような両生類で探すことは容易だが、ランバート・イートン症候群というまれな病気の人の筋肉から探すことが難しいわけで、私の後この研究で追試した人はいないようである。ところがこのCATSという物質が精製できたら、状況は一変する。抗体を作って場所を特定することが可能になるので、アクティブゾーンを探すことも格段に容易になるのではないだろうか。
 嬉しくなって全く面識のなかった大塚先生に手紙を出したら、直ぐに文献とともに返事が返ってきた。「先生が軟式テニス部のOBでらっしゃると聞いて、世の中狭いものだとあらためて感じました。先日執筆した「Brain & Nerve」誌の原稿にも先生の論文を引用しておりましたので、Fukunaga先生がまさか、鹿児島大学の先輩だったとは・・・ 」というものだった。
 30年も若かったら共同研究も可能になるかも知れないが、残念ながら今の私にはその知力も体力も時間もない。
(9月15日の院内ラン)
 少し前、山梨大学医学部の大塚教授との縁についてこのランでも触れたことがあったが、先日うれしいメールをもらった。
 Molecular & structural organization of presynaptic function and plasticityに呼ばれて参加してきました。イタリアのLuciaという研究者がNMJ(神経筋接合部)のAZ(アクティブゾーン)の発表をして、まさに添付の写真(このランでも紹介)をスライドで引用していました。Fukunaga et al., 1983。30年はあっという間なのですね。また、30年たってもしっかりと引用されるお仕事で、私自身も勇気づけられました。
  というものである。電子顕微鏡の写真と意味は、年月を経ても褪せない。 

■ 大牟田の天領病院での講演
 大牟田市にあるちょっと変わった名前の「大牟田天領病院」で、医療安全についての講演を頼まれていた。新幹線で新大牟田駅に着いてタクシーに乗ったが、駅が市街地から離れたところにあるので随分時間をとってしまう。病院は天領町にあるのでそのような名前がついたと思われるが、もともとは三池炭鉱の事業所病院として発足したようである。
 大牟田市そのものも旧三井財閥の城下町で、今も三井化学などが広大な敷地を占めている。新駅のロータリーには團 琢磨(だん たくま)の大きな銅像があり、「アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。炭鉱経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であった」ことなどが書かれている。ただ現在は炭鉱の閉山で、最盛期には20万近くもあった人口が、12万ほどになり活気に乏しい町となっている。
 私は数年前に大牟田市立病院の主催する会合で講演させてもらったことがあるが、この時に当時の院長さんに病院内を案内してもらった。新病院内が美術館のように多くの絵画が掛けられていることに感動して、当院にも中央廊下をささやかな画廊をと思いついたのである。
 さて天領という言葉であるが、江戸時代から天領と呼ばれていたのかと思いがちだが、そうではないらしい。江戸幕府の直轄地は江戸時代には「御料所」と呼ばれており、明治2年に旧幕府直轄領が天皇の御料になったときに、天領と呼ばれるようになったのだという。
 タクシーで正面玄関に到着し、中に入ると広々とした待合室で、壁には多数の絵が掲げてある。病院内を一回りすると、至る所に絵があり、そのほとんどは「荒木淑郎」とある。荒木先生は神経内科学を修めた人なら誰でもよく知っている日本の神経学の創始者の一人で、熊本大学教授を退官し、しばらくしてこの病院で80歳を超えるまでここの院長を務められたという。現在は84歳らしいが、まだ現役として外来患者さんを診たり、絵の創作に余念がないようだ。私は荒木先生に直接学んだことはないが、東京の府中病院時代(28歳ごろかな)、神経学会総会に初めてデビューしたとき(横浜市)、座長として随分ほめ
て頂いたことを覚えている。人間はほめて育てるものだといわれるが、私も嬉しい記憶として残っている。
 さてこの天領病院でもう一つ感心したのが、管理棟の質素さである。管理棟は新築された病院から20メートルくらいの場所にある木造モルタルの2階建てで、ひっそりとした佇まいである。ただ中にはいると応接室や院長室は歴史を感じる重々しさで、「管理棟は質素に」という病院の方針がよくあらわれている。
 講演は18時から一時間半ほど行われたが、皆さん熱心に聞いてくれた。医療安全管理者の重要性を強調したこともあって、セイフティマネジャーから「医療安全管理者への力強いエールは本当に涙が出るほど嬉しく、有り難いものでした。人にとって何が大切かを見失うことなく、患者さんや職員から信頼されるセイフティマネジャーを目指し、精進したいと思っております」という葉書をもらった。

■ 夏の東京に
 8月5日朝6時過ぎ、天文館から空港バスに乗ろうと思って自宅マンションを出ると、西の空に美しい二重の虹が見える。「そういえば長いこと、このような虹を見たことがなかったなあ」と、昔懐かしい不思議な感慨がわいてくる。重たいカバンを肩にかけながら道を急ぐと、小粒の雨が。東京は雨で鹿児島は晴れという予報だったのに、遠く離れた台風9号の影響なのだろうか。
 バスも飛行機もこの時期としてはさほど混んでいない。機内ではオールナイトニッポンClassicsから、石川セリの澄んだ声が聞こえてくる。井上陽水の奥さんという説明だが、どうも顔を思い出せない。「八月の濡れた砂」という曲で、「・・・あの夏の光と影はどこに行ってしまったの・・・私の夏は明日も続く」と歌詞(吉岡オサム)も素晴らしい。私達の世代では、歌謡曲を聞くときには歌詞を大切にしていたが、最近の若者はリズムさえよければ歌詞はどうでもいいようだ。昨日の回診の時、私と同年齢のパーキンソン病の女性の表情がいつもより爽やかである。「今日はいいね」と言うと、「加山雄三を聴いて
いましたから」という。入院中の患者さんは、特に高齢の患者さんは昔、若い頃流行った歌をよく聴いている。
 飛行機の中では私はいつものようにパソコンに向かっている。左前の中年の女性はさっきから15センチほどの金色の棒を取り出し、奥歯を磨くような動作で両方の頬を中心にしてその棒を上下にせわしなく動かしている。何をしているのだろうかと思ったら、どうもたるんだ顔面の筋肉のマッサージをしているようだ。どのくらいの効果があるのか分からないが、何もすることもない機内では格好の時間潰しともいえる。
 定刻に羽田空港に到着したが、東京は予報が外れて時々太陽が顔を出している。東急線で品川そして山手線に乗り換えて渋谷に、そこで地下の立ち食いの店で少し早い昼食をかけ込む。以前は渋谷で田園都市線に乗り換え、駒沢大学駅から歩くことが多かったが、最近では時間の余裕があるときには渋谷から東急バスに乗ることが多い。バスは30分弱で11時半ごろに機構本部前に到着する。
 9月に開催予定の重症児グループの打ち合わせも兼ねて、治験推進室の高木さんに会いに行ったが、あいにくの留守である。アポもとっていなかったので仕方ないとあきらめて拙著を預けて、機構本部3階の医療部の川畑さんの所に行く。ところがこちらも留守で、同じように机の上に本を置いてくる。川畑さんは加治木町出身の有能な事務官で、人工呼吸器の標準化の取りまとめ作業をお願いしている。
 時間調整のために機構本部一階のロビーの片隅でパソコンを開くが、節電のためか室温は高く汗が出てくる。でもここには電源もあり、誰に邪魔されることなく仕事?がはかどる。ここでパソコンを打っているとよく声を掛けられるが、今日は山西理事(看護)である。
 13時から理事懇談会、14時から役員会と続き、バスで目黒の雅叙園に移動して暑気払いと意見交換会があった。たまたま矢崎理事長と山西理事の近くの席で、かねて聞けない興味深い話も聞くことができた。
 19時にお開きとなり、急いで目黒駅への急峻な坂を息を切らしながら駆けのぼり、渋谷に出て銀座線に乗る。今夜は、最近出かけるチャンスのなかった浅草の福寿司に行くことを約束していた。20時前には福寿司に到着、いつものようにご夫妻の温かい歓待と美味しい寿司を頂く。70歳を超えたご主人に、「いつまでもお元気で仕事をしてください」とエールを送って、21時過ぎに店を出た。
 忙(せわ)しい一日だった。

■ 「脱原発」というのはやさしいけれど
 日本は3月11日の大地震と大津波、そして東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、管総理大臣を筆頭に、「脱原発」の大合唱が起きている。私も心情的には、また直裁的には「脱原発」に与したいのだが、はたしてそれで日本の将来は安泰だといえるのだろうか。
 今回の事故で、原子力利用の安全性に赤信号がともり、人間がまだ原子力を完全にコントロールできていないということも明らかになった。そして「安全」と言い続けてきた原発の管理が、とてつもなくずさんなものであることもよくわかった。「こんな危ない代物は、即刻止めた方がいい」という考え方には一理はあるが、日本の将来のエネルギーの確保策など考えると、状況はそんなに簡単でもないだろう。特に世界の中の日本を考えるとき、特に周辺諸国の動向や今後に日本の立ち位置を考えると、瞬間湯沸かし的な思考回路でいいものかと思ってしまう。
 そんな折、8月5日の日経新聞経済教室、「原発事故から学ぶ」は冷静な目で書かれており、説得力がある。筆者はジョン・ハムレという人で、クリントン政権で国防次官を歴任し、現在は米戦力国際問題研究所長の責にある 大見出しは「原子力放棄、むしろ弊害」となっていて、三つのポイントをあげている。
一番目はエネルギー資源に乏しい日本の脱原発は誤り、二番目が日本が撤退しても新興国の原発推進は不変、三番目が民間企業の無限賠償責任の回避へ法整備を、というものである。そして日本は地震と津波、原発事故からは立ち直りつつあるが、政府に対する信頼感の危機が最大の問題であると結論づけてる。
 彼の論説で私が最も同調できたのは、日本の周辺国である中国や韓国、インドやベトナムなどの東南アジア諸国が原発を建設、計画中であるという事実である。特に中国は53機を建設・計画中である。春先によく経験することだが、中国からの黄砂に悩まされているが、中国で放射能漏れが起きたときには確実に放射能は日本の上空に運ばれて来る。たとえ日本が脱原発しても、世界の多くの国は原子力発電を推進していく趨勢にある。
 もし日本が脱原発に走れば、原発にかかわる人がいなくなり、原発を安全に扱う技術は急速に衰退する。日本とアメリカが協力して原発の建設と運転に関するしっかりとしたグローバルスタンダードを定める役割を担っている、と主張している。確かに日本の脱原発は長い目で見れば、日本の安全を保証するというより、大きなリスクを抱え込んでいくことになる危険性もある。
 そこでハムレ氏は原子力産業の管理監督に関して、政府に対する国民の信頼を取り戻すために四つの提言を行っている。
 第一に原子力の安全運用を監視する機関(保安院か)を経産省の監視下から分離し、国会直属の独立機関とすべきである。この点に関しては、現在環境省、あるいは内閣府に置くべきか議論が進んでいる。
 第二に、新機関の専門的能力を強化するため、民間より高い給与を保証するなど、最高の人材を用意すべきである。
 第三には、将来の事故の賠償責任をカバーするために、包括的な法的枠組みを整備する必要がある。民間企業では無限の賠償責任を負うことができないので、第一事業者は相応の金銭的負担は負うとしても、それ以上は政府が特例として負担する仕組みを整備すべきである。
 第四には、日本は原子力を放棄するのではなく、原発の安全性の面で世界のチャンピオンを目指すべきである。
 最後にハムレ氏は「日本の人々の内に秘められた強靭さ、そして逆境に直面したときに示される意志の力をよく知っている。進むべき道はある」と結んでいる。

■ ちょっと戸惑いを~臓器移植について~
 今の若い世代の考え方や割り切り方に、ちょっと戸惑いを感じてしまった。
 先日、看護学校での生命倫理の講義の中で、「臓器移植について賛成か、反対か、全ての前提を省いて挙手」を求めた。すると108人のクラスで2人が反対で、後の学生は賛成というものだった(逡巡して、どちらにも挙手しなかった学生もいると思われるが)。 
 この問題、一人称(自分)として考えるか、二人称(家族や恋人など)あるいは三人称(他人)として考えるかで、全く反対の結論になることもあるだろう。またドナーの立場として考えるか、あるいはレシピエントの立場として考えるかによっても、判断の異なる問題である。またそれ以前に、いのちをどのように捉えるか、日本人の死生観とも関係する複雑な課題の一つである。
 今回、全ての前提を抜きにして賛否を問うという乱暴なやり方だったが、それでも学生の考えにはちょっと極端すぎると思わざるを得ない。もう少し、ためらいや反対という意思表示があってもいいのではないだろうか。
 これらの学生もあと数年もすると、看護師として医療の第一線に立つことになる。そのような時に、単純に「賛成」では、提供する家族の気持ちを斟酌できるだろうかと心配になってくる。看護師には、移植に積極的な医師に対する中和作用のような役割も担っている。ところが最近のテレビドラマでは、臓器移植を肯定的に扱い、感動の物語として美化する番組も多いらしいので、そのような影響もあるのかも知れない。
 振り返れば、日本の臓器移植は「和田教授による心臓手術事件」のあおりで、諸外国に比べて随分遅いスタートとなった。脳死臨調が発足し、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を経て、1997年に臓器移植法が制定され、日本での臓器移植がようやく歩み始めた。
恩師の井形先生は脳死臨調の委員の一人として、「移植のために海外に出かけていくのはおかしい」という日本の現状を憂いて、注釈付きの賛成の立場で答申に参加された。
 ところが日本では臓器移植がなかなか進まないために、2010年6月に改正臓器移植法が施行され、本人の意思は不明でも家族の承諾だけで臓器提供が可能となった。また15歳以下でも臓器移植が可能となり、親族に対する優先も考慮されることになった。そのために、過去13年間に86例しかなかった臓器移植が昨年は大幅に増加して、一年間で55例を記録したという。
 このような時代の変化が若者たちの気持ちの中に、移植を普通の先端の医療技術として受け入れる素地を作りつつあるといえるのかも知れない。
 私自身の立場としては、専門が慢性疾患が主で臓器移植とはかなり距離のある場所で仕事してきたこともあって、正直なところあまり深く考えたことはなかった。基本的には「脳死は人の死」と考えているが、人の臓器で延命することに関しては、ためらいとこだわりは感じている。
 ただこれもあくまで三人称の立場での意見であり、一人称や二人称となった時には気持ちの揺らぎもないとはいえないので、賛否に関して問われれば、「留保」しておきたいというのが今の正直な気持ちである。

■ 3人の女性
 「3人の女性」というタイトルだけ読むと、うるわしく艶やかな女性と私とのただならぬ関わりを邪推しがちだが、ここではちょっとその期待を裏切ってしまう。この3人の女性は文字通り「しゃきっ」とされていて、私としてはしばしば辛辣で厳しい箴言をもらってきた。軟弱な日本男児の一人である私がそれなりに道を外す?こともなくここまで来れたのは、ここで紹介する3人を含む、多くの女性の支えのお陰だと感謝している。
 ところで今回出版した拙著「病と老いの物語」に対して、ありがたいコメントを頂いた。この3人、普段は人を単純に誉めるというような女性らしさからはちょっと遠いのだが、今回のコメントは珍しくお褒めの言葉も頂き、殊の外うれしかったという次第である。
 まず最初の女性は、先日のこのランでも紹介した治子先生である。先生はあの坂本龍馬を生んだ土佐の出身である。医療安全などの講演を何度も聞いたが、話し言葉がそのまま文章として印刷できそうな、理路整然とした話のできる希有な才能の持ち主である。私はまだ聞いたことはないが、カラオケも上手で「青葉城恋歌」が得意だという。「新しい御本いただきました。題名もいい(前の「病む人に学ぶ」よりこちらが好き)ですし、一節一節、心にしみる言葉が並んでいます。先生も老いとともに、ますます含蓄と余韻の人になっていますね。まだ、パラパラとしか読んでいませんが、外科医のパレの話も出てきました。私は医学概論の中の医学史を担当していますので、パレの話もしました。来年、この部分を使わせていただきます」。
 越後の国の佑子さんとはいつ頃からの付き合いなのか、定かに覚えていない。私が平成2年ごろに「食事のしおり」という小冊子を発刊し、朝日新聞で取り上げられたことがあったが、その時からだろうか。鹿児島には2度来ていただいており、逆に私も新潟を2回訪問している。最初に来られた時には、霧島市の姫城のスモンの平峰さん(盲目で、甥ごさんが面倒を見てくれていた)の家に案内した。佑子さんの歌う「佐渡おけさ」に涙を流して喜ばれた。二度目は、ALS協会鹿児島県支部の設立総会の時である。
 彼女は大学をある事情で、4年の3学期に中退している。一時「チーズケーキ」で財?をなし、自分のマンションを新潟ALS協会の事務局にしていた。「私より公」を実践するボランティア精神に富んだ魅力的な女性である。
 「パレの言葉だという医療関係者は時々治し、しばしば和らげ、いつでも慰めることが出来るという言葉が印象的でした。その通りの羨ましい職業なのに、その特権に気付かない専門職が何と多いことか・・・どんな思いも、先生の豊かな人間性からあふれ出る言葉の泉の流れにさらさらと洗われて、多くの小さな物語の中の一つになっていくようです。爽やかな、暖かな気持ちになって帰宅しました。先生は現役、或いは例え現世を退かれたとしても、著書がある限り『いつでも慰めることが出来る』名医ですね。おやすみなさい」。
 最後は薩摩の葉子さんである。いつも「葉っぱ」と呼んでいたので、葉子さんという言い方はどうも彼女の雰囲気に合わない。臨床心理士として長い間当院の筋ジス患者の相談に乗ってくれて、現在も何かとお世話になっている。一緒に筋ジス病棟で仕事をしていた頃、「餅は餅や」と思わせてくれる場面が多く、また外来に相談に来る非行や不登校児の相談では文字通り体を張って奮闘していた。
 「本の出版おめでとうございます。南日本新聞は取っていないので、新鮮に且つ面白く読ませていただきました。経験値と知恵が絡み合って、いぶし銀の輝きですね!。私は、7月3日にオーストラリアのゴールドコーストでフルマラソンを走ってから、付けが回ってきて、忙しくしていたら遂に倒れてしまいました」。
 私に影響を与えてくれた女性は数知れないが、今朝はこの3人で終わりとしたい。

■ 2つの快挙
 先日のこと、「どんかご」を担当しているというMBCテレビのディレクターから電話をもらった。「塩入さんがパリで開催される車いすサッカー大会(正式名称は第2回FIPFAワールドカップ)の日本代表に選ばれて、出場することになりました。そこでどんかごでは取材を続けているのですが、先生は南九州病院に車いすサッカークラブ、『ナンチェスター・ユナイテッド鹿児島』が発足したころに関わりがあったと聞きましたので、是非取材させていただけませんか」というものだった。確かにいくらか関わりはあったが、塩入君の主治医は園田先生であり、経緯もよく知っていると思われたので、「園田先生にお聞きすれば全て足りると思います」と、私への取材は断った。
 ところで「車いすサッカー」について知っている人は少ないと思うので、まず簡単に説明したい(もっとも私もよく知らないので、インターネットで検索)。1チームはゴールキーパーも含めて4人(男女混合でも可)。コートはバスケットボールと同じ広さで、前後半20分ハーフで競う。国際ルールでは車いすの制限時速は10キロ、ボールの直径は33センチ。国内競技人口は約300人。06年に国際組織FIPFAが結成され、「第1回FIPFAワールドカップ」が東京都江東区で開催された。
 塩入君の属するナンチェスターであるが、「 2003年3月30日に鹿児島県加治木町を拠点に、県内初の電動車椅子サッカーチーム『ナンチェスター・ユナイテッド』が誕生。週一で練習を行い、目指すは常に全国制覇。地元での講演など、電動車椅子サッカーのさらなる普及にも力を入れてます。ナンチェスター・ユナイテッド鹿児島の『Nan』は南の『ナン』。『chester』は方言の『チェスト』という言葉にかけています。『チェスト』とは鹿児島弁で『頑張れ!!』などと言うときに使ます」(インターネットより)。ホームページをみると、当院関係では現役の選手で塩入君以外に川崎良太、東武範、野下小百合(外来)、またOBでは中村健一郎、駒走芳仁、松山貴一、有馬完、三原輝幸、増田竜至、出水明君など懐かしい名前も連ねられている。中村君など何人かは、あの世から声援を送ることになる。
 さて塩入君は現在26歳で、病名は脊髄性筋委縮症である。車いすとはいえ上肢の筋力は健常な人に比べればかなり低下しているわけで、代表に選出されたのはよっぽど運動神経や判断力に秀でているのだろう。昔の記憶を辿ると、塩入君が最初に当院を受診したのは20年ほど前で小学校に入学する前のことである。当時私は在宅で生活している筋ジストロフィーの患者さんの自宅を訪問していたので、溝辺町の茶畑の中に建っている塩入君の家を訪問したことを覚えている。小学生の時に筋ジス病棟に入院し、高等部を卒業して志学館大学に入学するために退院した。ただ退院後も定期的に外来を受診したり、サッカーの練習のために病院には今もよく来ている。
 ホームページには塩入君の言葉として、次のような抱負が載せられている。「この度日本代表へ選出されました。言葉にならないほど嬉しいの一言です。これまで共に合宿で切磋琢磨し合えた仲間や、沢山の方々の応援や支えがあったからだと思っています。感謝の気持ちを忘れず、全力プレイでチームに貢献できるよう頑張ってきます。最後にナンチェの皆が居たから世界の舞台へ立つことができます。「ありがとう…」。
 10月にパリで開催される(どんかごの放映は11月とか)世界大会で優勝し、なでしこジャパンの選手同様に「国民栄誉賞」と、アウディの車もゲット(リース)して欲しい。(昨日、出水君に聞いたところでは、遠征費用など個人負担らしい。病院として何らかの形(カンパなど)で応援したいと思いますが、いかがでしょうか?いらんお世話かな)。

■ 2つの敗戦からの復興
 例年、お盆の前後のテレビではいわゆる「戦争物」がよく登場する。
 その中で今年は「硫黄島からの手紙」と「母べえ」を観たが、いつの時代のどこの国の戦争でも、まず犠牲になるのは子どもや女性などの弱者である。そしてその理不尽さは、平和な時代の常識からすると想像を絶するもので、自分の意に添わないことでも上官の命令に逆らうと即刻死が待っている。
 ただ先の敗戦から66年も経ち、戦争の記憶も大分風化してきており、本当に戦場で戦争を経験した人は少なくなっている。私もその一人で、戦後の貧しい時代は記憶にあるが、いわゆる戦後世代である。そのような時代に戦争を美化するような意図で制作された映画などを観ると、今の若者にはすんなりと戦争を受け入れられそうなところが怖い気がする。現実には今でもリビアをはじめ、世界の至る所で紛争や戦争状態にあることを忘れてはならない。
 今回の3月11日の東日本大震災を契機に、第二次世界大戦の終戦の日となった昭和20年8月15日を生身で体験された識者の言がよく取り上げられている(日経、8月3日)。
 作家の五木寛之は12歳の時に敗戦を迎えている。津波の被害を受けた町の惨状や福島原発の建家の姿が、原子爆弾の投下された広島や絨毯爆撃を受けた東京の姿にだぶると言う。
 このインタビューで五木は、先の敗戦の教訓から公への不信を露わにし、「国が原発の安全を強調するのは一般人がパニックを起こすことを恐れての政策であり、国は最後まで国民を守ってくれない」と断じている。また先の敗戦では「国破れて山河あり」だったが、今回は「山河敗れて国なし」であること、先の敗戦では「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、焼け跡の中から復興を目指して一丸となってやってきた」が、「今は大変な亀裂が、ぽっかりと口をあけている」と嘆く。そこで我々はどうすればいいかと言えば、「自分の動物的感覚を信じるよりほかない」と突っぱねている。
 また詩人で弁護士の中村稔さん(84)は10年間にわたって「私の昭和史」という自叙伝的時代史を書き継いでおられるが、その昭和史から今の危機を考察されている。
 先の敗戦の時には丸裸の貧乏になったが、みんな貧乏であり国民全体で危機感を共有できた。ところが現在は多額の財政赤字で国家財政は破綻寸前なのに、先送りと国債という借金で、危機感がうすく覚悟が足りない。また前途に見通しを持ったリーダーも欠如している。また先の敗戦では、裕福なアメリカという目標となる目標があったが今はない。
 「今後日本が頼りにできるのは、優秀な中小企業の、小さくても最高のもの作りをする技術力が財産である。成長より成熟の時代であることを認識し、日本製品は信頼性が高い、日本人の言うことは信頼できると他国から評価されることが何より大切である。われわれはどこから来て、どこに行くのかと、来し方行く末を思い、それぞれが生き方を見つめ直すことが必要である」と語っている。

■ 予測しがたいこと
 この世の中、予測しがたいことが突然起きるものである。
 8月20日、東京の湯島天神近くの神経学会事務局で、学会の生涯教育小委員会が開催されることになっていた。実はこの日は看護師採用試験の面接が予定されていたのにダブルブッキングしてしまい、本当に申し訳なく思っている。また8月の支払基金でのレセプト審査も初日(5日間ある)ということで、7時30分に基金に行ったが、案の定私以外には誰も来ていなかった。8時30分までの一時間、審査をしたのち、自家用車で紫原を抜けて、鹿児島インターから九州自動車道路に向かった。ANA622便は10時10分発なので、多少の余裕を見て出発したのである。
 インター入口の武岡トンネルの手前の信号で3回ほど待ったが、予定通りに高速に乗ることができた。ところが鹿児島北インターの掲示板に、「薩摩吉田~姶良間で事故、1キロの渋滞」という文字が赤く点滅している。時計をみると9時、吉田インターで降りて一般道を走って姶良インターから乗るべきか、一瞬迷った。一般道を経由したら多少時間はかかっても確実に到着できる。ただ高速は2車線であり、たとえ事故があっても1車線は確保できているだろうと、そのまま高速で行くことに決めた。
 しばらくすると予告通り、渋滞が始まっている。中央線沿いに車が並んでいるので私も何も考えずに前の車の後に着けた。時折左車線を猛スピードで通り過ぎていく車もあったが、時間は気になるものの行儀よく右車線をのろのろと進んだ。9時20分ごろになるとさすがに時間が気になってくる。左側の車線に変えたいのをやせ我慢していたが、現場近くになると通行できる車線は左側で、右側を走っていた車が遠慮しながら車線変更する羽目になっていた。よく先導する人が道を間違うと、後からついてくる人も間違うのと同じことである。事故現場に到着するとパトカーが何台も駆けつけ、黄色い派手なスポーツカーが大破し、道路を塞ぐように車線に垂直に停まっていた。
 渋滞を抜けると、後は何もない。逆算するとまだ時間の余裕は多少あったが、猛スピードで空港まで走り抜けた。ちょっと時間の余裕を見て基金を出発していてのが正解だったことになる。この世の中、何が起きるかわからないので、何事も時間には余裕を持って行動することが肝要だとあらためて思うことだった。(後日談だが、21日の朝、鹿児島空港に到着し、駐車場で自分の車を探していた。運転手側の窓が開いている車があったので、「バカな人もいるものだなあ」と思って近寄ると、実は私の車だった。渋滞で時間の余裕をなくしてあわててしまい、閉め忘れたのだろう。
幸いにも車上荒らしもなく、また空港の辺りは雨も降らなかったようで濡れることもなくラッキーだった)。
 東京に通勤しているような按配になるが、実は19日も13時から東京駅の八重洲口近くで、「難病の包括的研究」の第一回研究会を行った。ところが8人の班員のうち、3人が遅刻して来た。後でわかったことだが、横浜近くでゲリラ豪雨が発生し、落雷なども重なり東海道新幹線などが一時停止になったということである。私はこの分科会長ということもあって、地域連携室の前田君と久永君と一緒に8時05分の一便で羽田空港に着陸できたが、我々が着陸後、空港も一時滑走路が閉鎖されていたということを後で聞いた。
 世の中には、運不運はつきものである。

■ ライフワーク・バランス 
 最近、「ワーク・ライフ・バランス」とか「ワークホリック」という言葉をよく聞く。日本語に訳すと、「仕事と生活の調和」、そして後者は「仕事中毒」ということになる。
 8月22日の日経新聞、「領空侵犯」というコーナーのインタビュー記事で、元国連事務次長の明石康が「仕事と生活の比重 人それぞれ」というタイトルで自らの主張を述べておられるが、私としては素直に同感できる部分が多かった。
 もともとこの 「ワーク・ライフ・バランス」という概念が、「仕事と家庭との役割の不調和が、本人の心身上の健康にも、企業の生産性にも悪影響を及ぼしかねないという問題意識から発展してきた」という経緯があるので、「仕事に比重を置いた人生がまるで悪であるかのような批判」には違和感を感じるし、「働く意義を軽んじている印象を受ける」と語っている。そして欧米ではこの調和がよくとれているように日本では風潮されているが、国連で働いた経験では必ずしもそうでなく、「国籍や人種に関係なく、ワークホリックの人は存在する」とも言っている。
 30年ほど前、私が留学していたメイヨークリニックの8階は神経科学の研究棟で、そこには末梢神経と筋肉の研究では世界を代表する二人の巨頭の研究室が隣り合わせで並んでいた。末梢神経のディック先生(昔々、当院の筋ジス病棟で回診してくれたこともある)は研究と生活のバランスをとることの上手い人で、週末は自分の別荘で優雅に過ごすことが多いと聞いていた。ところが私のボスのエンゲル先生は、週末も正月もなく、朝から夜遅くまで研究一筋の生活を送られていた。休みは学会などで出張する時だけである。私たち日本から来たフェローも、もともとワークホリックな生活を送ってきた人が多かったので、何一つ違和感は感じなかった。その時に分かったことであるが、エンゲル先生に限らずアメリカのいわゆるエスタブリッシュと呼ばれる人たちの多くは、ワークホリックなのだと聞いたことがある。
 もともと仕事と生活は二者択一のものではないし、相対立するものではない。また仕事と生活を区別し、バランスさせることが望ましい人ばかりではなく、仕事オンリーの生活を送っていても幸せな人もいる。若いころはワーク・ライフ・バランスなど主張しないで、死ぬほど仕事すべしという人もいる。今後の日本の行方は相当厳しいことが予想されており、今の若者は、頑張ることなしにはさまざまな領域での世界との競争には勝ち抜けないのではないだろうか。
 いずれにせよ本来はワークもライフも充実させることがいいわけで、ワークの充実がライフの充実をも生むといったような生活スタイルが望ましいのはわかっているが、これがなかなか難しい。でもまあ、「もう少しライフをエンジョイしてもよかったなあ」というのも私の本音でもあるが、そんなに器用にはできなかった。

■ とんだ勘違い 
 人は時に、とんでもない「勘違い」をするものである。 
 ある朝、博多へ出張するため鹿児島中央駅に直行した。新幹線さくらに乗り込んだが、車内は比較的空いており二人掛けの座席の窓際に座った。新聞をひろげていると、赤ちゃんを抱いた若い女性が通路からにこやかに微笑を浮かべて「私に会釈」している。「あれっ、知り合いだったかな」といぶかりながら、劣化した海馬の記憶の壺から、この女性の「身元」を必死に探索するのだがどうしても思い出せない。
 私とこの女性との距離は座席一人分ほどあったが、ますます満面の微笑を浮かべながら、口をもぐもぐさせながら必死に何か言おうとしている。
 私もたまらず、「どなたでしたっけ」と言おうとしたその時、「窓の外の見送りの人に話しかけているのです・・・」と申し訳なさそうに言うではないか。窓の外にそれとなく目をやると、お爺ちゃんらしき男性が手を振っている。私の方こそ気恥ずかしくなり、「紛らわしいことをするな!」と言ってやりたい気分だった。
 次のとんでもない勘違いは、10年ほど前に刊行した拙著にも「マイ・ビスタ事件」として書いたことがある。
 現在は鹿児島空港では自家用車の時には、隣接した駐車場に駐めている。当時はちょっと安いということもあって、みぞべ駐車場(代行)に駐車していた。駐車場では客を空港まで迎えに行っている間に、すぐに帰れるようにと車を出口の近くに移動させてくれていた。ある8月の暑い日の夕方、東京からの帰り、いつものように駐車場の事務所でお金を支払い、「私のビスタ」の後部座席にバッグと上着を投げ込んだ。そして運転席に腰掛けて小銭入れとして代用していたシガレットケースに釣り銭を入れた途端、たばこの灰が舞い上がったのである。「あら、違う車だ」と気づいて、隣の車に目をやると、そこに正真正銘の「私のビスタ」が駐まっていた。「そんなに売れている車でもないのに、よりによって・・・」と思いながら隣の車に移動し、たまたま青信号となったのでそのまま車を走らせた。
 高速道路を走りながら加治木インターの近くまで来たとき、何気なく後部座席に目をやると鞄も上着もないのである。一瞬頭の中が真っ白になったが、ことの成り行きと重大さを認識するのにそれほど時間はかからなかった。頭の中は真っ青になり、心臓は弾けんばかりである。すぐにインターを降りて駐車場に電話する。「ビスタのお客さんが気づいて、届けてくれていますよ」という声を聴いた瞬間、ホッとして全身の力が抜けるほどだった。その車の持ち主には感謝しても仕切れないほどだったが、どうして自分の車に他の人の鞄が載っていたことを理解できたものだろうか。でも駐車場で気づかなければ、そのビスタの中の私の鞄は佐多岬まで行っていたかもしれないし、第一、持ち主を探すのは大変だっただろうと今でも肝が冷えてしまう。

■ どうしても刺身を食べたい人は
 当院にもこの3月から電子カルテが導入された。個人情報をきちんと保護しなければならないのは当然のことであるが、全ての患者の入院情報を院長室で居ながらにしてみることができるという便利さがある。
 現在、4病棟に入院している80歳の女性のカルテを開けてみる。
 ある日の看護師の記録である。11時30分
S:息子が来たからもう行きます。
O:家族の迎えあり。14時に転院予定であるも、早めに出院するとのこと。
P:外食の際は、柔らかいものを食べるように説明する。
 そして1時間45分後の同じ看護師の記録である。実はこの間のわずかな時間に、患者は「天国から地獄」を経験している。13時15分
S:分かるよ(意識状態のチェックか)
O:ストレッチャーにて○○号室に入院される。K病院に向かう途中に外食し、刺身の赤みを食し、窒息したとのことで救急搬送される。・・・南九州病院であることを理解できたと本人より。看護師の名前を呼ばれ、安堵の表情を示す。・・・以前、いなり寿司を食べさせたところ、むせもなく摂取できたことから大丈夫だろうと思ったとのこと。
A:過剰な自意識(飲み込めるという過信のことか)より、窒息を生じたものと考えられる。かねてより食事に不満があったことから、転院前に好むものを食したいという欲求が生じたと思われる。
P:♯1「転倒のリスク状態」、♯2,3に「入浴・排泄セルフケア不足」立案。♯1にセン
サーマット、セラピーマットの設置・・・とある。
 その後、主治医のM先生が、・・・「ふく福」で鉄火丼を喉に詰まらせて呼吸停止、救急隊が刺身吸引。13時20分救急車で来院・・・と記載。
 ところでSOAPという言葉は医療現場以外の人には物珍しい言葉である。SOAPは次のように4項目に分類して診療録を管理する手法である。
S (Subjective) 主訴、患者の訴え等主観的情報
O (Objective)  理学所見、検査所見等の客観的情報
A (Assessment)  評価・分析
P (Plan)     検査や治療の指針等の計画
 でもまあ、お騒がせなお婆ちゃんである。
 皮膚筋炎で入院していたが、この病気では時に嚥下障害を併発しやすい(年齢も加味しているだろう)。そんなわけで病院では「刻み食」であり、そのことにかねがね不満を持っていたらしい。きっと退院と老健への入所の隙間をねらって、恨み骨髄の「刻み」から、(夢にまで見た?)マグロの「刺しみ」を一気に飲み込んだのだろう。
 でもまあ、運のいいお婆ちゃんである。
 「ふく福」は鹿児島県では有名なうどん・そば・寿司・天ぷらの店であり、この時期、串木野港直送のマグロ祭りを宣伝している。この店は当院から歩いて10分ほどのバイパス沿いにあり、なんと店の隣が「姶良市西消防署」なのである。察するに店の通報で駆けつけた救急隊員が、喉に詰まらせた鉄火丼の大きなマグロの刺身をつまみ出して事なきを得たものと推察される。
 今後、「喉にひっかけそうな方で、それでも大きな刺身を食べたい人は、隣が消防署のふく福で!」というコマーシャルができそう。

■ 悲しみに耳を傾けよう
 月日の経つのは本当に早いもので、3月11日のあの未曾有の大震災から半年が経とうとしている。時が経ち、特に被災地から遠く離れて暮らしている者にとっては、ともすると被災地への共感が薄れがちとなる。ところが今回の震災はその規模が甚大であり、また二次被害としての福島原発事故の収束には、今後何十年を要するのか予想もつかない深刻な事態が続いており、一時も忘れてはならないことだと自戒している。
 先日、東京の都市センターホールで、「東日本大震災と難病~今何をなすべきか~」というワークショップが開催された。発表は被災地から、患者の受け入れ地域から、難病ネットワークから、看護・介護の立場から、医療機器会社から、患者から、行政からと、実に多岐に亘る発表で、今後の防災対策を考える上で貴重な報告となっていた。
 まずは被災地(被災病院)での水、食料、電気、ガソリンなどのライフラインの確保が問題となる。当院の場合に当てはめれば、その3つとも数時間から数日の確保に留まっているが、どれほど備蓄するかはコストとのせめぎ合いになる。援助には、自助、共助、公助があり、一般的には72時間(3日間)を自助できれば、後は公助が期待できるとされていたが、今回のような甚大な地域での災害には通用しなかったという。
 次は情報手段である。今回は固定、移動の電話が直ぐに途絶されたようで、衛星電話も上手く機能せず、数日間も孤立した病院もあったという。この教訓から、機構でも衛星電話への加入を勧めているが、結構な出費となっている。何十年、あるいは何百年に一度(地域によってリスクの可能性には差異があるが、直下型地震は日本のどの地域に起こってもおかしくない)の大災害のためにどこまで準備すべきか、ここでも迷ってしまう。
 また今回はヘリコプターなどを利用した広域医療搬送が、時にALSのような人工呼吸器を装着した患者では問題になったようである。具体的には宮城病院やいわき病院から、東京の北里病院や新潟病院に搬送されたという。ヘリコプターにはAC電源はなく、また騒音が強くて、一人の患者に一人の目視を必要とする。気圧の問題、搭乗者のめまいなど、やってみて分かることも多いようである。また帰還には自衛隊も自治体も援助の手をさしのべてはくれないようで、ここにも問題があるということだった。
 今回も災害弱者と呼ばれる高齢者や障害者、神経難病などの患者が犠牲となった事例が多く、これらの患者には個人用のカードを作成しておく必要性も指摘された。そしてきちんとしたカードがあれば、自衛隊と保健師の活動で、多くの場合には所在も確認できたという。また爽秋会という終末期がん患者や神経難病などの訪問医療や在宅ケアを担っている介護支援事務所の発表では、津波に飲み込まれそうになったALS患者を2階に移そうとして犠牲になった看護師の行動も紹介された。ここの理事長さんも出席されていたが、当日のメールで「まず自分と自分の家族の安全を確保するように」と指示されたそうだが、
無念な結果となってしまったという。
 ある患者団体の方は、「自宅でどうにもならない時には、とりあえず病院に行くこと」と指導しており、そのためには「病院は最後の砦になれるような整備をお願いしたい」という発表もあった。きちんと受け止めなければならない言葉であるが、現実には病院の実態を考えると、その対応は難しいのではないかと思うことである。
 われわれのように被災地から遠く離れている者にとっては、被災地の悲しみや怒りの言葉にきちんと耳を傾け、できる援助を末長く継続していくことしか免罪されないように思われる。

■ ひまわり
  日高君の随筆かごしま(187号)への寄稿は、今回は「ひまわり」である。
 「ひまわり」で思い出すのは、われわれの世代ではソフィア・ローレン主演の映画である。日本での公開は1970年ということだから、私にとっては大学5年の時になる。地平線まで拡がるソビエトのひまわり畑の中を、一枚の写真を手に持って戦争で分かればなれなった夫の消息を探し回るソフィア・ロ-レンの熱演と、ヘンリー・マンシーニのもの悲しい哀愁の旋律に何度も涙したものである。
 日高君のひまわりは、スペイン風ということからっとした明るいひまわりとなっている。

院長雑感

交通アクセス

トップへ戻る