院長雑感詳細

院長雑感(125号)

昨日の管理診療会議の院長講評で、「ここまでの入院患者数と診療報酬点数の動きをみていると、落合中日みたいに最後で追い込んできた」と切り出した。今年度4月からの患者数の推移を眺めると、7月までは非常に良かった昨年はともかく、計画も大分下回っていたが、8,9月の2ヶ月間で計画を上回り、昨年の実績にも迫ってきている。病院経営の最大の要諦は患者数確保に尽きるが、これがなかなか難しい。最近の平均在院日数は、除外後は13日台と短縮しているのでなおさらである。
 ところで、去年ごろからプロ野球に大分距離を置くようになっている。半世紀にわたる自他とも認める猛虎ファンで、人生の半分はタイガースと共に過ごしてきた。ところが「病気じゃないか」と思えるほどに、虎離れしてしまっている自分に驚いている。年齢からくるものもあろうが、最大の要因は真弓監督の用兵、特に金本や桧山といった「高齢者」に対する異常な優遇措置が気に食わなかった。外野に飛んだ球を、ソフトボールのように山なりに遊撃手に投げ返す野球をていると情けなくなる。みていて、つまらなくなった。来年は新監督で出発することになるが、自分の気持ちも含めてどのような展開が待っているだろうか。
■ 患者数
 9月の入院患者数は394.5人で、計画に対し2.0人の増となった。平均在院日数は17.4日と全く問題はない。外来は174.6人と、5.1人の増となった。
■ 診療報酬点数と損益計算書
 9月の診療報酬点数は、計画比で入院では1,739,867点の大幅増、外来も435,612点の増で、対計画では入院・外来合わせ2,175,479点の増となった。また4月からの累計でも2,175,479点の増なっている。
 8、9月で、7月までのマイナスを挽回して、一挙にプラスに転じた。職員一人ひとりの献身に感謝である。
 損益計算書では、9月分で賞与按分額を調整して112.4%で、9月までの累計でも110.1%である。
■ 船頭さん
 先日、通勤途上のカーラジオから、「船頭さん」という懐かしい童謡が流れてきた。何気なく聞いていたが、その歌詞を聴いて一瞬「動揺」してしまった。
    村の渡しの 船頭さんは
   ことし六十のおじいさん
   年はとっても お船をこぐ時は
   元気一ぱい ろがしなる ソレ
   ギッチラ ギッチラ ギッチラコ
 ああなんということか、「60はおじいさん」なのである。それでも私の気持ちを察してか、「櫓を漕ぐ時はしゃきっとしている」と慰めてくれている。
 さてさて、自分の年齢は、今やこの「60のおじいさん」をはるかに凌駕してしまった。ただちょっと気を取り戻して落ち着いて考えてみると、この歌が作詞されたのは昭和16年(1941年)のことであり、この頃の日本人の平均寿命を重ね合わせると納得がいく。
 まず押さえておきたい事実として、日本の歴史が始まって以降、平均寿命が50歳を超えるのは戦後になってからのことである。
  歴史を振り返ると、「何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし」と詠んで銀閣寺を建てた足利義政は、この時代としては長寿の部類で54歳で没している。「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」の上杉謙信は病で、49歳でこの世を去っている。「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」と、『敦盛』の一節を詠いつつ、本能寺で炎に包まれた織田信長も同じ49歳である。
 これら3人の武将は当時としては長命の部類であり、逆に長命だったからこそ事を成し遂げ、歴史に名を留めることが出来たともいえる。
 江戸後期の飛騨高山地方(寺の過去帳から)の平均寿命は男27.8歳、女28.6歳となっている。ただ当時の事情として、出生後間もなく多くの乳幼児が感染症や消化不良で亡くなっていたわけで、幼少期の死線を突破すれば人生50年も可能だったのだろう。たとえば松尾芭蕉は50歳で亡くなっているが、養生訓を著した貝原益軒は、なんと85歳の長寿である。
 明治以降に眼をやると、明治24年に日本で初めての平均寿命の統計が出ている。おそらく今ほど正確な数値ではないのかもしれないが、男は42歳、女は43歳である。このころは国民病と呼ばれた結核が猛威をふるった時代で、宮沢賢治をはじめ多くの有能な人材が、20歳、30歳代で命を絶っている。その後、大正時代、昭和10年代も寿命はほぼ横ばいで、40歳台にとどまっていた。
 ところが戦後、日本の高度経済成長に伴って平均寿命は急激な伸びを遂げる。
 私の生まれた昭和22年が50歳となり、4年後の26年が60歳、昭和46年には70歳台に突入し、昭和60年には男女とも世界一となった。その後も着実に延長し、平成12年が男77.6歳、女84.2歳となっており、直近の平成22年のデータでは、男79.64歳、女86.39歳である。
 先日のテレビで日野原氏が出演していたが、今や100歳も珍しくはなくなったが」、それでも健康長寿の「期待の星」といえる。
■ 「ここで最期を送れたら本望」と言われたい。(ノーマライゼーション、2011年9月号から)
 当院の緩和ケア棟(一般的な呼び方はホスピス)は、平成17年4月に国立病院機構の病院としては九州で最初の病棟として出発した。窓の向こうに雄大な桜島と錦江湾が見渡され、天気がいいと開聞岳まで眺められる。横を流れる別府川の河口には、渡り鳥が羽根を休める干潟もある。四季折々の美しい花と芝生に囲まれ、25の部屋全てがセパレートされた個室となっている。橋を渡る列車の音が時折聞こえてくるが、いつも静寂に包まれており、「もう少し、雑踏の雰囲気も必要ではないですか」という人もいる。
 数年前に亡くなられた女性は、「ここは天国の前の素晴らしいところですね。こんな病院があるとは夢にも思いませんでした。私のために神様が、この時期に建ててくださったんですね」という言葉を残された。
 先日、詰所に行くと、担当の医師が「患者さんや家族から、ここに来てよかったという言葉を頂くことが一番の力になりますね」と話されていたが、まさにその通りである。でもここで働くスタッフには、共感する心と理性的な頭脳、そしてタフな精神を持ち合わせていなければ長くは務まらないだろうとも思う。
 緩和ケア棟では、患者さんやご家族とスタッフの間で、他の病棟ではあり得ないような魂の触れ合う関係が生まれる。死路までのかけがえのない時間、優しさや赦し、感謝、励まし、いとおしさ、厳かさなどさまざまな感情の行き交う場所となる。
 「義母の入院中は大変お世話になり、心より感謝申し上げます。緩和ケア棟での6ヶ月、長いようで短かったと思います。しかし、いろいろ準備もできましたし、話もできました。また心の準備もできました。がんで亡くなる方の中で、義母は運のよい幸せな人だったと思います」と、見送られた嫁さんからのお便りである。
 言わずもがなのことであるが、人には永遠の命というものはない。私の実父はくも膜下出血で、義父は口腔がんで旅立った。脳や心臓の病気の場合には、極めて短期間の病期で亡くなることが多く、実父の場合にも発作後1ヶ月足らずで亡くなったので、その間言葉を交わす時間も状況にもなかった。一方、義父の場合には、告知後2年余りの時間が残されていたため、いろいろな話をする機会を持つことができた。
 がん死の場合、一昔前にはいわゆる痛みが強く、看るに忍びなかったという話を聞くこともあった。ところが除痛のためのさまざまな薬や方法が開発されて、痛みが取れないという患者さんはまずおられない。死への準備をしながら、安らかで穏やかな時間を持てるとしたら、「がん死も悪くないな」と思ったりする。
■ 国立病院総合医学会(前)
 新幹線が全線開通する前だったら、きっと空路で岡山ないし神戸に飛んでいたに違いない。ところが今や鹿児島中央駅から学会の開催される岡山市まで、わずか3時間で行くことが出来るようになった。文明の利器は不可能を可能にする。10月6日、6時07分発のさくら400号に乗車し、博多でのぞみ号に乗り換えて、岡山駅には10時前に着いた。
 この国立病院総合医学会という学会、国立病院機構の全職種が参加し、総勢は6000人に迫る大きな規模である。ところが我々管理者には学会というより、各種委員会や協議会の総会を効率的にまとめて開いているようなもので、3日間、ほとんど会議の連続となる。時には重複して出れない会議も多い。当初はこのような学会に違和感を感じたものだが、人間慣れてしまうと普通のことになる。
 新幹線の中で日経をひろげる。前夜の11時過ぎに熊本県の菊池市では震度5強の地震があったそうだが、新幹線には影響はなく定刻のダイヤである。息子が近くの病院で働いているが、何の連絡もなかったところをみると達者だったということだろう。
 この時間、朝靄が谷間を埋めて幻想的な風景が続く。天気も予報が外れて、朝陽が差し込んでくる。
 山陽新幹線で新山口駅まではよく行っているが、それ以北に行くことは滅多になかった。パソコンのキーを打っていて気づいたことだが、九州新幹線内では容易に打てるが、山陽新幹線になると揺れが強くなってちょっと打ちづらくなる。時速にして50キロほどの違いかと推察するが、この差は大きいようである。
 岡山駅で降りるとすぐ東口にあるラヴィール岡山に直行し、10時からの重症心身協議会役員会に出席した。私は副会長(会長は香川小児病院の中川先生)の任にされているが、主な議題は来年4月から実施される障害者自立支援法への対応である。人員配置基準と療養介護サービス費に関心が向くが、厚労省からはいずれもまだ提示されていない。「米相場」のようなもので、早く人員確保に動いた方がいいのか、通知を待ってから動くのか(有為の人材を求めがたい)、判断に迷ってしまう。
 その後、隣にあるホテルグランヴィア 岡山に移って、院長協議会支部長会、役員会、総会、意見交換会へと続いた。来年度以降の会長は、東京医療センターの松本院長がそのまま継投することになった。私は九州支部長なので、一年間の活動報告を行った。総会での主な議題は、行政刷新会議の中に「独立行政法人に関する分科会」が急きょ設置され、国立病院機構を含む独立行政法人の位置づけが議論されるとのことである。かねて矢崎理事長が主張してきた国立病院法人として、民営化へのワンステップになり得るものかどうか。
 またもう一つの議論はいわゆる国家公務員に対する給料の削減である。財源不足を理由に、黒字経営を続ける機構から給料の削減を行うということは納得がいかない。機構はいまや国の税金で運営されているわけではなく、自立的経営のみならず、剰余金からB型肝炎訴訟の厚労省分の支出まで要求されている。我々の立場からすれば、理不尽というしかない。医師や看護師確保では、処遇面から地域との競争力が厳しくなっており、慎重な取り扱いが必要である。ちょっと疲れていたので意見交換会を途中で中座して、インターネットで予約してある東急インに直行しチェックインしてそのまま床についた。
■ 国立病院総合医学会(続)
  10月7日、朝は7時から朝食(と言っても、サービスで付けているような軽いものだが、それで私には十分である。ただ仙台の東横インに泊まった経験から、7時に降りて行ったら結構長蛇の列だったので、今朝は10分前に降りた。これは大正解で、食べ終わって帰ろうとすると、機構本部の大鶴企画部長が『ちょっとの差が大きくなるんですね』と、まだしばらく我慢しなければならない所に並んでいた。でも大鶴さんが東急インとは!、好感がもてる) 
 8時30分からコンベンションセンターで国立医療学会理事会、今年度の塩田賞の選考結果が発表された。選考委員の審査結果では多田羅先生(私も共著)の「国立病院機構における神経筋疾患の長期人工呼吸器の実態~人工呼吸器の標準化に向けて~」が集計点数では2位だったが、5年前にすでにもらっているので、今回は遠慮してもらったとの説明があった。
 9時30分からシンポジウムの打ち合わせで、本番は10時からである。「重症心身障害児に対して今必要とされる最新の医療」というタイトルで、香川小児病院の中川先生が企画してくれたもので、私はお飾りの座長である。当院の佐野先生はじめ5人の演者が15分ずつ発表してくれたが、いずれも内容もよく、また時間を守ってくれて、極めてレベルの高い(自画自賛)シンポになった。NICUなどの急性期病院から重症児病棟に転院するにあたっての問題点、長期に経管栄養に頼っている患者に生じるセレンやカルニチンの欠乏、また脳性麻痺患者の痙縮を軽減させるためのボツリヌス治療、バクローヘン持続髄注療法、機能的脊髄根切除術などが報告された。今までの重症児医療はともするとケアのみと誤解されることが多いが、機構の病棟では「もっと医療を」という中川先生の意思が込められていたと理解した。
 昼は「動脈硬化と主要臓器障害」というランチオンセミナーのチケットが手に入ったので、豪華な弁当を食べながら聴講できた。血管の質は、肥満や塩分の過剰摂取が負の働きに、米食と適量のアルコールは正の相関があるという。
 コンベンションホールに移って一時からの毛利衛さんの講演を聴こうと思ったが、満席でやむなく東急インに帰ってメールをチェックした。すると東京の女友達からのメールで、5日に死去したアップル社の「スティーブ・ジョブズ前CEOの講演が素晴らしいですよ」とのこと、早速アクセスすると「スタンフォード大学での卒業式の名演説」だった。さすがに人を感動させるにあまりあるもので、毛利さんの講演よりよっぽど得した気持ちになった。
 3時からの重症心身障害者協議会総会、4時からの医療安全委員会、そして6時からの筋ジス病棟施設長協議会へと続き、9時過ぎにホテルに戻った。
 8日はチェックアウトを済ませ、午前中は「院内医療メディエーションの現場から」というシンポジウムを聴講した。お昼を駅構内で食べて、アークホテルに移動し、1時から私が会長をしている神経内科協議会総会を開催した(園田部長には、出席者の点検などの事務作業をお願い)。24人の参加があり、ホテルの静かな一室で、予想していたより有意義な総会になったように思う。この協議会は重症児や筋ジス、結核などの協議会と違って病棟の単位ではなく、NHOに勤務している神経内科医を対象にしているので漠然としておりつかみどころのない協議会ともいえる。会員は主に、旧国立療養所の神経内科医である。
 会議は会長の私の挨拶ののち、決算報告、そして会長選挙の予定であった。そのために園田部長が投票用紙を準備してくれていたが、川井先生からあと一年継続の動議が出て、そのまま承認されてしまった。来年の11月の総会まで会長ということになる。そのあと、出席された先生方から自病院の現状報告などがあり、予定通り3時前に終了した。
 私はそのまま岡山駅に急ぎ、新幹線を博多と熊本で乗り継いで、鹿児島中央駅に7時過ぎには到着することができた。さすがに3連休の最終日、新幹線も比較的混んでいた。
 天気からいえば、波瀾万丈の「健康フェスタ」も無事終わった。途中からの小雨にも拘わらず頑張ってくれた職員に感謝したい。雨も降れば、スカッとした秋空も人生の一こまである。
■ 健康フェスタ(前)
 「健康フェスタ」の翌朝(10月16日)、雲一つない秋晴れの空を恨めしく見ながら、この稿を書き始めている。
 昨日の朝、「世の中にこと、みんなが心を合わせて願をかければ奇跡は起こるものですね」と極めて楽観的に書いていた。
 10月15日は「秋だ、祭りだ、健康フェスタ in 南九」の日だった。ところが当日が近づくにつれ、天気が下り坂となり、フェスタの前日は土砂降りとなった。私は機構本部の役員会で上京していたが、帰りの便は鹿児島地方は天候が悪く「条件付き飛行」となった。空港周辺の視界が悪く、着陸できない場合には宮崎空港か福岡空港に着陸する場合もあることを了承しての飛行である。病院の事情でいえば、検査や手術前の承諾書に少し似ている。羽田空港から事務部長に電話すると、「一時強い雨が降りましたが、今は上がっています」という。そして「療育室の強い希望もあって、テントなどの準備は済ませた」
という。秋晴れとまではいかなくても、せめて曇り空であって欲しいと思いながら、飛行機の中でキーを打っていた。飛行機は多少は揺れたが、定刻に無事着陸、帰り際病院の前を通ると、舞台やテントの準備を済ませており、「無駄なことになるかも知れない」と思いながら家路へと急いだ。
 ところが翌朝、いつものように朝早く起きると、雨音もしないし、外に出るとまだ真っ暗だが路面が乾いていた。「日常」にこだわり、いつものように出勤して、少しずつ明るくなっていく窓の外に目をやると、桜島が噴火を繰り返しているが、秋の雲は高いのである。さすがに陽は射さないが、どうにか持ちこたえられそうだという淡い期待に変わった。
 7時過ぎになると職員も少しずつ出勤してきて、テントを建てたり、それぞれの持ち場で、段取り良く準備している。掲揚台に病院の旗も取りつけてもらって、準備万端である。
 フェスタは10時30分に、お神輿とともにフェスタの開幕である。私は院長としての挨拶で、型通りに協力していただいた患者の親御さんやボランティアの方々に感謝の意を表して、「どうも今朝から頸が痛いのは、空ばかり見上げていたせいでしょうか」とちょっと笑いを取って終わった。たまたま野角さんを見かけて、「どうでしょうか」とぶつけると、「今は高層雲ですが、西の空の中層雲の動きが気になります」と、さすがに元気象予報にたずさわっていただけのことはある。
 中央会場ではBon DXライブは無事終わり、11時30分過ぎにお目当ての「ベリーダンス」が始まった頃に合わせて、空が少し暗くなり細かい雨粒が降ってきた。折角のなまめかしいダンスも、踊っている人も大変なことになった。艶やかな衣装や露わにしたへその周りに雨粒も落ちてきそうで心配になる。ハンカチでぬぐってあげたいが、余計なお世話といわれそうだ。私と村上さんが観客席のテントから身を乗り出して熱心に観ているからか、「フェスタの反省会で、来年からベイリーダンスの時には、院長と親の会会長のための特別席を舞台の前に用意するように提案しましょう」と野角さんは笑いながら言われる。そして「この雲はしばらく居座るので、イベント中は覚悟しないといけないですね」と、冷静で残酷な予報を宣われる。ちょうどこの時間は大会議室では「美味しく食べてダイエット(宮永栄養士)」と「肩凝り腰痛体操(渡邊理学療法士)」の講演も行われていたが、40人近くの聴衆が集まり、盛況だったと言うことを後で聞いた。私は食べてダイエットより、見て楽しむをつい選んでしまったが、この講演に限らず今回のフェスタでは、救急甦生コーナーや白衣体験コーナー、さまざまな相談コーナーも盛況だったようで、雨のために人の動きも「屋外から屋内」の催しに移ったのかも知れない。
■ 健康フェスタ(後)
 昨夜は鹿児島大学の出口先生による「糖尿病の治療」という講義を聞いた。餅は餅屋で、漠然とした古い知識しかない私にとっては、まさに新しい糖尿病の治療法であるが、もうこの歳になっては餅屋に任せるしかない。でも多くの医師が参加していたことが嬉しい。保育所建設の入札も無事終了して、来年3月ごろの完成を目指して工事が始まるようである。
 さて10月18日から30日まで鹿児島市の黎明館で、文田哲雄画伯(前市立美術館長)の「女性美の世界展」が開催される。ここで展示されたのち、来月初めから当院に3枚ほどが寄贈されることになっている。看護部長など女性美に疎い御仁から、「こんなモノ余りの時代に、衣装も着けないでみっともない」というご進言を一部取り入れて、ベリーダンスの女性の着ておられる程度の絵を事務部長と二人で選択した。乞うご期待を。
 患者数は380人台で、計画より少し低い値である。
(続)
 昼からは「日高あいさん&村上茂樹さんライブ」が催された。このような会場では勿体ないような質の高いイベントで、歌も演奏も素晴らしかった(二人はMBCラジオの夕方の連続番組も担当しているという)。村上君は中央会場では月の砂漠を、筋ジス会場では五木の子守唄を弾き語りしてくれた。若いころ、ギターにはまった時代のあったという野角さんは「すごい腕ですね」と感嘆の声をあげていた。それもそのはず村上君は、大学卒業後(学習院大学)は東京で永六輔などとも一緒に活躍していたが、地元に帰りMBC学園のギター教室などを主宰していた。今回の出演は私の中学時代の同級生というよしみもあるが、当院の「患者さんに対する姿勢」に共感してくれたようである。「南九州病院で演奏するのは気持ちいいですよ。スタッフもきちんとしていて、打ち合わせも気持ちよくできました。かねがねの教育かと思います」と、意外なお褒めの言葉まで頂いた。それにしても彼の指が縦横無尽に動くのをみていると、プロの凄みを感じることができる。
 結局、雨が天敵だという「まむし太鼓」の演奏は中止となり、3時前に大抽選会でお開きとなった。ただ午後から筋ジス会場は屋内のホールに移動し、「The Dick Sweets ライブ」やベリーダンス、村上君のライブなどが行われた。The Dick Sweetsは宮崎の若者数人のグループだったが、リーダーは当院の谷口指導室室長のお子さんで、スマートな好青年で、エレキ演奏と語りを披露してくれた。「お陰で、母親が働いている姿をはじめて見ることができました」と、ジーンとするような発言まで飛び出した。
 正面ステージでは、実行委員長の山田君(筋ジストロフィー病棟の患者代表)が終わりの挨拶を担当、彼は鉛筆画が得意で、私の似顔絵も描いてくれている。今回も私が開会の挨拶で忘れていた地域への感謝をきちんと入れて、補足してくれていた。(彼の許可を得て、全文を紹介する)
 本日は南九・健康フェスタへお集まりいただきありがとうございました。お天気の良くない中でしたが、少しでも楽しくすごしていただけたなら実行委員の一人として嬉しく感じます。そして今日こちらへ足を運ばれたことを機会に、多くの皆さんと病院がお近づきになれたらと思います。お体のこと、病気のことで心配なことがありましたら診察やご相談に是非ともおいでください。必ず地域の皆さんの幸せのために力になってくださいます。30年以上入院している私が、今でもこうして笑っていられることが何よりの証拠です。30年経っても病気が治らんのか…という話もありますが、その話は置いておきまして、皆さんお待ちしております。(笑ってほしいところでしたがシーンとすべりました、失敗)。
 さて最後になりましたが本日舞台公演や出店にご協力くださった関係の皆さん、大変お疲れ様でした。イベントトに適さない条件の中で、大いに盛り上げて主催を支えていただきました。言葉が足りませんが心よりの感謝を申し上げ、閉会の言葉といたします。
 それにしても、雨を心配し、雨を覚悟し、一途の望みで準備し、一時ホッとし、そしてまた予想通りの雨と、雨に始まり雨に終わった波瀾万丈の「2011健康フェスタ」ということになる。
 職員の心を一つにしたときの大きな力、「親の会」の子供たちを楽しませたいという親心、催しものへの出演を快く引き受けてくれたボランティア力、その他にも出店、近隣の駐車場の提供と多くの人の協力があってできる秋祭りであることを実感できた一日だった。
■ ジョブズ氏の言葉
 10月5日、IT業界のカリスマとして世界中に名声を轟かせた米アップル社のCEOだったスティーブ・ジョブズ氏が、56歳という若さでその波乱に満ちた人生に幕を閉じた。
一起業家として、これほど多くの人から惜しまれながら亡くなった人は少ないのではないだろうか。
 自らが語っているように、生まれる前から波乱万丈の人生が約束されていたように思われる。大学院の学生だったアメリカ人のジュアン・シンプソンがシリア人の政治学者との間に生まれた子供がジョブス氏である。ところがジュアンの父親がその結婚を認めず、誕生前から養子に出されることが決められていた。ジョアンは、当初養子縁組を躊躇したが、ジョブズ夫婦が彼を大学に進学させることを約束して縁組が成立したのだという。ジョブズが実の母と再会するのは、彼が30歳を過ぎた頃である。
 既に高校時代からIT方面での才覚をあらわしていたが、1972年オレゴン州のリード大学へ進学した。ジョブズは、大学に半年間通ったが、自分が大学院の教授より優れていることを知り、大学にいても意味がないと言って中退してしまう。
 その後友人とアップル社を創業し、パソコン「マッキントッシュ」をヒットさせ莫大な創業者利益を手にする。しかし経営対立から会社を追われる。そこで新たな会社を設立するがうまくいかず、何という運命の巡りあわせか、アップル社がこの会社を買収する。この当時、アップル社もヒット商品が出ず社運は傾きかけていた。ここでジョブズ氏は21世紀のウオークマンと呼ばれる「iPod」を発売、その後、「iPhone」、「iPad」などのヒット商品を連発し、時代の寵児となっていく。
 11年3月の新商品の発売会で、アップル成功の秘密について「技術が教養や人間性と結びついてこそ、人の心を動かすことができる」との持論を強調した(日経)。
 このような人生を歩んできただけあって、ジョブズ氏の名言集は人の心を打つものがある。その中から私の気に入った言葉を紹介する。
・アップル社がマックを開発したとき、米IBM社は少なくとも私たちの100倍の金額を研究開発に投じていた。大事なのは金ではない。抱えている人材をいかに導いていくか、どれだけ目標を理解しているかが重要だ
・「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかんでみる気はないのか?」(ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリー氏を1981年から18ヶ月にも渡りヘッドハンティングする。その際の決め台詞がコレでジョブス氏の意向通り、スカリー氏は1983年にアップルの社長に就任する)
・アップル社再建の妙薬は、費用を削減することではない。現在の苦境から抜け出す斬新な方法を編み出すことだ。私はアップルの経営を上手くやるために仕事をしているわけではない。最高のコンピュータを作るために仕事をしているのだ。
・「あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない」
・死が間近に迫っているということは、自分自身にこれまでにないほどの決断力を与えてくれる。他者からの期待、プライド、失敗に対する恐れ、そういったものは「死」を前にすると完全に消え去ってしまう。そこに残るのは、本当に大切なものだけなのだ。いずれ死が訪れると考えることこそ、何かを失ってしまう恐怖から解放される一番の近道なのだ。あなたはすでに裸同然、失う物は何もない。自分の心に正直に生きよう。
■ 理解に苦しむ刑事告訴(前)
 ものの本によると「刑事告訴とは犯罪の被害者などが捜査機関に犯罪事実を申告、処罰を求めることで、受理した捜査機関は一定期間内に捜査を行い検察官へ書類を提出する義務を負う。被害者が持ち込んだ証拠が不十分で立件できそうにない場合などは、受理されないことが多い」となっている。すなわち「処罰を求める」ことが骨子となっているので、何らかの人間関係の破綻が根底にあるということになる。
 8月16日の新聞には「阪神タイガースの金本選手が金銭トラブルに絡む恐喝容疑で、投資会社の社長に刑事告訴された」という記事が踊っていた。本人は否定し名誉棄損で逆告訴も辞さないということだが、どのような決着を迎えるのだろうか。「火の気のないところに煙は立たない」といわれるように、金本と投資会社の社長との間に何らかの「事件」があったことは邪推できるが、次の刑事告訴はどう考えても理解に苦しむ。
 「医療ミスで次男が死亡」ということで、政治評論家の本澤二郎さん(69)が、東芝病院を刑事告訴したという記事である(2011.8.15)。
 内容は「東京都品川区の東芝病院で昨年4月、入院中の次男が死亡したのは病院側の過失が原因として、本澤さんが15日、同病院の男性院長や女性看護師ら計4人を業務上過失致死罪で警視庁大井署に刑事告訴した」というものである。東芝病院は「通常の医療の範疇(はんちゅう)で、医療事故ではなかった」とコメントしている。
 告訴状などによると、死亡した正文さん(当時40歳)は脳血管障害(くも膜下出血)で帝京大学病院で脳手術を受けた(逆算すると34歳頃の発病になる)後、植物状態となっていた。2010年4月7日、誤嚥性肺炎の疑いで東芝病院に入院。午後7時40分ごろ、院内の個室で死亡しているのが発見された。死因は、たんがのどに詰まったことによる窒息死だったが、告訴状では「看護師が約1時間40分にわたって巡回に行かず、異常を知らせる警報装置などを取り付けていなかったことが原因」と主張している。
 この「事件」では、いくつかの点で疑問が残る。
 木澤氏はもともと人を責めるのが好きな懲罰志向の強い評論家だったようで、この息子の経緯に関してはブログや小説という媒体を通して、何度も様々な意見を社会に発信している。そのブログによると、「恐るべき倫理観」を持つ帝京大病院医師の魔の手からご子息を取り戻し(人工栄養法のやり方で意見の対立があったらしい)、長らく(6年ほど)ご自宅に引き取っていた。家庭介護に切り替えた経緯が「口から食事をする能力を奪われた正文は、経管栄養という細いビニール管を鼻から胃に押し込み、そこへと流動食を流し込んで生きてきた。それを無理やり、口に流し込もうとして家庭介護に切り替えた」と言う。「恐るべき倫理観」とは、いわゆる経管栄養のことのようである。
■ 理解に苦しむ刑事告訴(後)
 在宅ではまさに壮絶な家庭介護の連続であったようで、「ショートステイ」など他人に介護を委ねられるような状況ではなく、親だからこそできる介護に専念されたようだ。「いつも流動食を少し口に入れると、激しくむせてしまい苦しそうに咳をする」ような命がけの行為を日々繰り返し強いられながら、それでも何とか数年間にわたって肺炎にもならなかったという。
 この点では素晴らしい心のこもった家庭介護に頭が下がるが、当院でも似たような状況は何度も経験している。例えばある通所で通っていた障害を持つ子供のお母さんは、昼食の時に病院でも経口的に食事を与えてくれるようにと執拗に懇願されたことがあった。ただ何度も誤嚥性肺炎で入院していた経緯もあったので、主治医が事情を話して拒否を伝えると、「家でできていることが、なぜ病院ではできないのですか」と繰り返された。確かに一理はあるが、病院では人が変わるし親のようにはできない。善しと思ってやったことが、後で重大な結果になることはしばしば経験している。
 さてこの息子さんの強靱な生命力にも驚嘆するが、本澤氏自身が選びに選び抜いた数々の免疫力向上アイテム(ミノファーゲンCの注射など)も使用している。わが息子のためにできることは全てやっている。それでも誤嚥性肺炎になり、東芝病院に入院することになったようである。おそらく東芝病院も入院に際し「難色を示されたかも知れないが」、善意で引き受けたものと推察できる。
 ここで疑問に思うのは、木澤氏が民事事件としてではなく刑事事件として告訴したこと、そしてその相手が病院ではなく、院長など個人を(4人)を告訴したことである。告訴するまで1年5か月ほどが経過しているところを見ると、病院側と様々なやり取りがあったことが推察できる。おそらくさまざまなやりとりの中で木澤氏は納得できないまま、懲罰的な意図で告訴したものと考えられる。一般的な医療側からの認識では、刑事事件として告訴するような内容ではなく、卑近な言い方を許してもらえば東芝病院こそ貧乏くじを引いたようにも思われる。こじれにこじれた症例を最後に引き受けた結果として起こったもので、院長はともかく、不注意と告訴された現場看護師こそいい迷惑である(これもあくまで病院側の論理であるが)。
 また1時間40分ほどの間巡視が行われず、いわゆるモニターが取り付けられなかったことが問題視されている。ただこの点でも、病院側の論理では患者の状況や時間帯を考えるとやむを得なかったのではないだろうか。この病院ではおそらく7:1の看護基準だろうから、準夜帯では50人の患者に3人の看護師で対応していることになる。時間的には食事や配薬など、一日のうちでもっとも多忙な時間帯であり、かねて落ち着いている患者なら、巡視の間隔が2時間というのもやむを得ない気もする。また病院側は、安全を重視するなら胃瘻などにも言及していたものと考えられるが、おそらく木澤氏が拒否したのだろう。
 ただ個室だったことを考えると、どうしてモニターを装着していなかったのかという疑問は残るが、呼吸器など装着していたわけでもないので落ち着いた状態なら監視装置を付けていなかったことも理解できる。
 裁判の行方は分からないが、もし原告勝訴ともなれば、病院としてはこのような状態の患者管理を考え直さなければならないことになる。
■ 国立療養所徳島病院(前)
 この4月、18年間勤めたNHO徳島病院を辞めて徳島文理大学教授に就任した多田羅勝義先生から一枚のDVDが送られてきた。先生はもともと有能な小児科医であるが、私が平成11年から6年間、筋ジストロフィー研究班の班長をしていた時に幹事をしてもらっていた。いかにも小児科らしい優しさと緻密な分析力(私が責任者になっていた人工呼吸器の標準化作業では、その中心になってもらった)の両者を兼ね備えているだけに、機構から少し離れてしまったのはかえすがえすも残念である。
 同封してあった手紙によると、「昭和47、48年にNHKが徳島病院の筋ジストロフィー病棟で作成したドキュメンタリーです。これは既にNHKのアーカイブスにも残っていないようです。内容は衝撃でした。・・・」とある。今年初め、ほこりだらけの倉庫で見つけたカビくさいオープンリールのテープを、DVDに見事に再生したものである。
 私も早速、自分のパソコンで視聴したが、芸術祭参加作品ドキュメンタリー「国立徳島療養所10病棟」というタイトルの作品で、当時の筋ジス病棟の様子が手に取るようによくわかる。約40分の作品はNHK松山放送局で制作されており、芸術祭参加作品なだけに真面目で意欲的で良質な作品である。恐らく筋ジストロフィーという難病と闘う子供たちの姿を、世にもっと知らしめたいとい強い意志と使命感が感じられる。
 当初病棟師長に取材の相談をしたら、「親の会」の了解が必要だといわれた。ところが親の会は「子供たちを刺激したくない、人目にさらさずそっとしておきたい」と難色を示したそうである。その後一年に亘るねばり強い交渉と、患者自治会の「自分たちも外の社会に出て行きたい」という声もあって取材が実現した。患者自治会の耳に、当時徳島市内で行われていたボランティア団体による国立総合医学研究所設置の署名活動のニュースが届いていたからである。ただ取材の条件として、親の会には時間をかけて説得すること、同意した限られた患者のみに取材するということになった。
 現時点でこの映像を見ていると、NHKスタッフにも、ハンセン病施設を取材しているような(もちろん当時の認識と感覚でだが)、肩に力の入ったような映像で、彼らの中にも筋ジス患者への偏見もあったのかも知れない。また筋ジスの親に対しては、高校の卒業式の場面(最後の場面)でも、「付き添ったのは親ではなくほとんど病棟の看護師だった」というくだりもあり、お互いの諒解は完全にはとれなかったものと思われる。
 さて当院の筋ジス病棟は昭和48年5月に開棟しているので、ちょうどその頃に取材されたことになる。筋ジスの歴史では、「昭和39年~45年度7カ年計画で国立療養所に2020床の専門病棟を整備する」政策の一環として、昭和39年にまず全国8カ所に100床整備されており、この時に徳島療養所では筋ジス病棟が設置されたわけで先駆的な病院の一つといえる。ということは、取材当時に筋ジス病棟が開棟してから8年から9年経っていたことになる。
 私は昭和52年に一年間南九州病院の筋ジス病棟で働いたが、その時には子どものことを第一と考える熱心な親が多くてビックリしたことを覚えている。地域差というより、数年間で親や社会の筋ジスに対する理解が急速に進んでいったと考えるべきだろう。
 番組は4部構成となっており、昭和47年から48年にかけての筋ジス病棟の生活が紹介されている。当時の徳島療養所の筋ジス病棟は、おそらく結核病棟を改築したと思える病棟で、かなり古びた建物で殺風景で暗い印象である。またバックに流れる音楽ももの悲しく、全体的には「かわいそうな患者さんたちの病棟」という雰囲気で捉えられている。
 9月末の晴れた日、数ヶ月ぶりに外に出て、「車いす(驚くことに当時かなりの台数の電動もある)が自由にさせてくれる」という患者さんの言葉を紹介する。それまではほとんど部屋の中で過ごす生活だったのだろうか。時代的には、まだ車いすというものが普通でなかったのかな。徳島療養所は昭和52年頃は整形外科の医師が歩装具の開発には熱心で、バネ付き装具などによる歩行を当院でも試みたことがある。
 ■ 国立療養所徳島病院(続)
 第三部では突然、病棟の廊下をみこしを先頭に、患者や職員が総出で秋祭りの風景になる。「みこしやはっぴは看護師などの手作りによるもので、29歳になる最年長の大野広正君はベッドに寝た状態で祭りを眺めている」という女性アナウンサーのナレーションが入る。おそらく制作者の意図として、祭りと対称的な次のシーンを描きたかったのだろう。
 画面は愛媛県新宮村の静かな山村の風景に移り、「広正君は祭りの三日後に家に帰った」という説明とともに、仏壇の遺影と鴨居に掲げられた囲碁の初段の額縁が映し出される。そして老いた親父の背中に背負われながら、小さな山道を墓地に向かう弟の忠夫君の姿、「ただ一人の兄、同じ病棟で同じ病気で尊敬していた兄だったが、一滴の涙もなかったという。いつも弱音を吐くな、くじけるなと言って励ましてくれた兄がもういないと、俺は思いたくない」と、亡くなった兄の墓に向かって無念そうな顔で手を合わせる忠夫君。
 この状況、10数年前に亡くなった当院の轟木兄弟の場合と全く同じ状況に驚いてしまう。二人の顔つきもよく似ており、兄の正明君は囲碁が得意だった。また正明君が亡くなった時の様子を弟の敏秀君は「光彩」の中で、「兄が死んだ」という詩を遺している。「兄の死に顔を見た時 なぜか涙はなかった。そのときふと心の片隅をよぎったものは これで良かったのだという冷酷、非常な言葉であった。しかし、憎かったわけではない。私を思いやってくれた人のはずなのに なぜか涙はなかった・・・ 」。そして「死について」の章では、「なぜ、兄の死を直ちに受け止めることができたのか。生前何事にも一生懸命に取り組む姿を見ていたからだろう」と表現している。約20年ほどの時代のギャップがあるが、思うことは同じである。
 最後の画面では、また死の問題が取り上げられているが、これも当時の私たちの病棟での出来事と類似している。大きな酸素ボンベが部屋の前に何本も並べられ、病室からは看護師の尖った声が、そしてすすり泣きの声にかわっていく。
 次のような詩が流れる。
それは秋も終わり 冬がはじまるころの出来事でした
ぼくたちは何も知りませんでした でもおとなたちは知っていたはずです
友が命を奪われたのを  ・・・
それを 一番知っておかなければならないのは ぼくたちなのに・・・
なぜ ぼくたちに隠さなければ ならないんだ
 亡くなる時の風景も、また「友だちが死んだことを、入院患者さんには隠していたこと」も当時の南九州病院とそっくりである。子供たちの動揺を恐れて、「夜、急に転院しなくてはならなくなって」といったような、とってつけたような嘘の説明をしていた。ある時患者さんから、「僕たちは亡くなったこと、よく知っているんだよ。一緒に見送りさせてよ」と言われて、大人の浅はかさを恥じ、彼らの強さを知り、以来一緒に見送るスタイルにしたことを覚えている。
 最後に、彼らの「本音」とも思える叫びが朗読される。正直な飾らない彼らの本音だが、このことも本質は今も変わっていないかと思われる。
何がこのびょうきになってないから うれしって?
バカやろめ バカやろめ バカやろめ
ぼくは腹がたつ 何がうれしい バカやろうめ バカ バカ バカ
自分のことでないから いいのか このやろうめが 
生きるんだ 何があっても 生きるんだ
なおしてください なおしてください 
何をしても やけにむなしく たまらないんです
だから 早くなおして下さい お願いします
 最後の場面は、患者自治会が鴨島駅の前で署名活動を行う様子である。その「訴える内容」が
・私たちの病気の原因と治療法を一秒も早く見つけてください
・私たちも働きたい 私たちも社会の一員として働ける場所を作ってください
の二点である。
 なお、彼らの運動が実って、昭和53年に国立武蔵療養所に「神経センター」が設置され、神経疾患研究委託費1億5千万円が新設されている。
 ただよくよく考えてみれば、この40年間、「根本治療」という意味では全く当時と状況は変わっていない。多田羅先生が「衝撃を受けた」という内容も、この辺りの事情を指していると思われる。部屋もきれいになり、人工呼吸管理も上手くなって延命という意味では随分進歩した部分もあるが、根本的なところでは変わっていないのである。
■ 難病相談・支援センターの開所式
 ひょんな「いきさつ」から、「難病相談・支援センター」の所長を兼務することになったが、その開所式が9月30日、センターが設置されることになったハートピア鹿児島の3階ロビーで行われた。
 前日、副所長の原田さんが「開所式」のシナリオを持って病院を訪ねて来られた。さすがに行政(県庁)のスケジュールだけあって、開所式の段取りは水も漏らさぬもので、そのための準備も万端である。私の挨拶文まで用意してくれていたが、今までの挨拶というとほとんどが「出たとこ勝負」で済ませてきたのでちょっと戸惑った。でも「郷に入っては郷に従え」の先人の教えもあるし、おそらく分刻みの儀式なので勝手に長い挨拶などされては困るだろう。特にこの日は県議会議員の出席も多かったが、開所式後の10時からは、県議会では各種委員会などが予定されているという。
 開所式は9時からとなっていたが、交通渋滞なども考えて早く家を出たので、8時前にはハートピアに着くことができた。ちょうど来賓の丸山征郎先生(県難病対策推進協議会会長)も着いたところだった。彼とは大学時代の6年間、軟式テニス部と社会医学研究会で同じ釜の飯を食べた親友である。
 3階に昇り、センターのソファーに腰を下ろしていると、県議会議長の金子さんや関係の議員が続々と来られる。「このセンターの設立は、党派を超えての期待をよく表しています」と金子さんが、さまざまな立場の議員が出席されたことの説明をしてくれた。9時前には伊藤知事も到着し、さっそく「センター所長を委嘱する」という辞令をもらった。
 ひょんな「いきさつ」であるが、「鹿児島県でも、念願の直営の相談センターができるらしい」という話は聞いていたが、私が所長を頼まれるとは思っていなかった。ところが二月ほど前に突然、県の保健福祉部長、医監、そして健康増進課長のお三方が病院に来られて、所長への就任を要請された。私としては「まだ定年までしばらくあるし、ちょっと・・・」と固辞したが、「非常勤ですので、先生の時間の取れる範囲内で結構です」と再度依頼された。恩師の井形先生の「頼まれたことは断らない」という教えと、「私のようなものに声をかけてくれるという県への恩義」と、また「難病にずっと係わってきて、最
期のご奉公かも」という気持ちなどもわいてきて、機構本部の許可が得られれば受けることにした。
 開所式では知事の式辞に続いて、所長挨拶ということで、県の用意してくれていた挨拶文を読み上げた。さすがにこの方面の専門家、必要なことを漏れることなく、そして多方面に配慮しながらの傑作である。
・・・相談業務はもとより、難病支援にかかわるセンターオブセンターとして災害時要支援者対策や入院相談への対応、難病患者地域ケアシステムの構築、難病患者団体の活動支援・育成、関係者の研修会等取り組むこととしています。患者・ご家族の悩みを少しでも軽減し、心豊かな生活が送られますよう関係機関や患者団体と連携を図りながら、センターの機能を発揮できますように職員一同頑張る所存です。・・・
 引き続いて、丸山先生、県議会議長、患者団体の代表者の挨拶が行われ、開所式は時間通りに終了した。その後、知事と二人で看板を部屋の前に掲げた。部屋の中で職員と雑談していると、ロビーに呼ばれたので出てみると、報道機関のカメラが待っていて、代表質問に答える形でセンターの仕事の内容などを説明した。後でテレビをみると、この部分が放映されていたが、立派な「鹿児島弁」だった。
 丸山先生がメールで「久しぶりに県のやる気を感じることでした」という感想を述べてくれたが、いいスタッフにも恵まれたようで「患者さん,ご家族のためになるセンター」になれるように努力したい。
■ 山形・仙台の旅1(東京から山形に)
 9月17日(土)、恩師の「井形先生を囲む会」が山形市であるということで、たまたま前日東京で国立病院機構重症児グループの会議があったので、東京から山形市に向かうことにした。前夜、赤坂見附のエクセル東急に宿泊したが、「藤沢周平の故郷を歩ける」と思うとなにがしか興奮していたのか、3時前には目が醒めてしまった。
 台風15号の影響で全国的には雨模様の天気だったが、東京は快晴とはいかないまでもいい天気、5時前にホテルのチェックアウトを行い、5時8分の丸ノ内線始発で東京駅に向かった。5時30分にみどりの窓口が開くのを待って、6時8分発の上越新幹線で新潟経由の鶴岡(山形県)までの切符をとった。日本全国の中でまだ行ったことのない県がいくつかあるが、山形県はその一つで特に鶴岡は好きな作家である藤沢周平の生まれ故郷でもあるので一度は観ておきたかったのである。
 松尾芭蕉は元禄2年に46歳の時の3月に江戸を立ち、奥羽・北陸を巡って、8月に大垣に辿り着いている。この約5ヶ月間の旅行を素材にして、あの有名な「奥の細道」という紀行記を著している。私の場合は明日は仙台へと行くことになるので、芭蕉の辿った奥州の旅とは逆方向の2泊3日の小旅行ということになる。(この稿、列車の中で書き始めている)。
 東京駅で「東北応援弁当」なるものを買い込んで、6号車の指定席に乗り込んだ。あいにく窓際はとれずに通路側になったが、弁当を開けて朝食と相成った。「東北地方の郷土料理を盛り込んでみました」という触れ込みだけあって、東北6県の郷土料理が満載である。いぶりがっこ(秋田の漬け物)、笹蒲鉾(宮城)いかにんじん(福島)、遠野ジンギスカン(岩手)、長芋(青森)、玉こんにゃく(山形)などとなっている。もの珍しさも手伝って、おいしくいただいた。
 上越新幹線は途中、高崎、越後湯沢、長岡、燕三条で停車して、約2時間で新潟駅に到着する。先日、山口県に行ったが、鹿児島中央駅から新山口駅までの時間とほぼ同じということになる。
 新潟へは何度か来ているが、冬の季節はトンネルを抜けて越後湯沢の景色を見たときにはその激変ぶりにいつも驚く。まさに「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という川端康成の言葉通りの景色になる。今はまだ雪はないが、それでも空の色が鉛色で、なんとなく空気が重たいような感じを受ける。新潟というと、ALS協会の係わりで若林さんを思い出して、「今回は素通りします」というメールを新幹線の中から発信する。
 新潟駅でそのまま、羽越本線の「いなほ1号」という、コメの品種のような特急に乗り換える。阿賀野川を過ぎ、新潟県内を走る間は一面に黄色く色づく田んぼを眺めながら北上する(写真)。バッグから「藤沢周平の本~全65冊完全案内~」を取り出し、藤沢の心の故郷「海坂藩」などを読み返す。
 山形県との県境の辺りから、日本海が見えるようになる。藤沢など多くの作家が、日本海に沈む夕日の美しさをエッセイに書いているが、今回は夕日とは無縁であるが、奇岩と海岸線の景色も変化があり飽きることがない。マナーモードにしていたメールに着信の信号があったので開けてみると、若林さんからで「マアお懐かしい。ただいまJALSA理事会のため上京中の車中で気がつきました。思い出してくださってありがとう。・・・」とある。もう結構なお年のはずなのに、ボランティアとして一つのことに打ち込むそのエネルギーは相変わらずである。
■ 山形・仙台の旅2(鶴岡)
 特急「いなほ一号」は定刻の10時27分に鶴岡駅に到着、さっそく駅のコインロッカーにキャリーバッグを預け、お待ちかねの「周平ゆかりの場所」を散策することにした。藤沢は結核の治療のために20歳代前半には故郷を後にしているが、それだけに望郷の念が強かったのか、時代物の設定の多くはこの鶴岡である。
 ところが駅を出ると、恐れていた小雨がパラパラ落ちている。ロッカーに折りたたみ傘を忘れてきたことに気づいたが、ロッカー代金を新たに500円払うよりビニール傘を買った方が利口だと判断した。雨の中の散策はあきらめ、タクシーを利用することにした(なおこの傘は、帰る日の仙台駅まで持ち歩いて、駅の出口で空を眺めていた女性に差し上げた)。
 鶴岡市は、江戸時代に酒井家を藩主とした14万石の庄内藩の中心として栄えた。山形県では日本海に面した地域を庄内と呼ぶらしいが、酒田が経済の、鶴岡は政治・文化の街という位置づけだという。ちなみに鶴岡市からは藤沢以外にも、明治の文豪高山樗牛、昭和初期に活躍した横光利一、「月山」の森敦など多数の作家を輩出している。そして丸谷才一もここの出身で、藤沢の葬儀の時には追悼文を読んでいる。
 タクシーは龍覚寺(蝉しぐれでは龍興寺となっていて、文四郎の父が切腹した場所である)の前や、藩校致道館の前を通って鶴岡公園内にある記念館の前で停まった。2010年4月に開館したという瀟洒な建物で、藤沢の人柄や作品からするとちょっとモダンな感じである(写真)。第一部が「藤沢文学」と鶴岡・庄内で、庄内地方の四季折々の風景を映像化している。第2部が「藤沢文学」のすべてで、全作品の単行本を並べており、また東京の自宅を移築、再現した4.5畳を展示している。大泉町の書斎は6畳だったらしいが、それでもいかにも藤沢の生き方を示しているような簡素な部屋である。
 私も藤沢作品とは時代をかなり共有しており、新作が出るたびに本屋に走った方なので、ほとんどの単行本を持っている。第3部が「作家・藤沢周平」の軌跡というコーナーで、幼少時から始まる郷里の人々との交流、作家になり69歳で亡くなるまでを時代順に資料とともに展示している。創作時の原稿もいくつか展示されていたが、すべてブルーのインクの万年筆で書かれており、字体は丁寧に穏やかな丸みを帯びている。司馬遼太郎の素原稿も見たことがあるが、藤沢のものは修正や挿入の箇所はさほど多くはない。
 ところで司馬と藤沢は同時代を生き、亡くなったのも司馬が平成8年で、藤沢は翌年の9年と一年違いである。ただ司馬は藤沢よりも若くから活躍しており、昭和46年に「暗殺の年齢」で直木賞を受賞したときには選考委員を務めている。作風も対照的で、司馬は時の英雄豪傑を主人公にすることが多かったが、藤沢は市井の人や武家ものでも下級武士をその主人公にしている。そのためは二人の親交はあまりなく、対談集も残されていない。
 展示場の隣にサロンがあり、本を読みながら書き物や研究もできるように椅子と机が置かれており、またイヤホーンで藤沢自らの解釈や、昭和58年頃に日本テレビで放映された番組も見ることができる。
 一時間ほどここで過ごした後、庄内神社に参拝し、境内を出てタクシーを探したが見つからず、小雨の中を駅まで歩こうと決心した。どうせならと、藤沢作品の舞台にもなっている五間川(現在の内川)に沿って歩いた。この川は途中で直角に流れが変わるので、川とは反対側に歩いて、日枝神社で左に折れるとまっすぐに10分ほど歩いたところが鶴岡駅になる。午後1時過ぎに、500円定食という看板のある小さな店が道沿いにあったので入ってみると、「一人分ならあるかもしれません」というような訛りの強い言葉で、カウンターの中の女将さんが言った。カウンターには地元の人らしい二人のおじさんが、食事の後の雑談をしていたが、さっぱりわからない。どうも政治の話で、「加藤さんは惜しかった」というような言葉が断片的に聞こえてくる。そういえばここは加藤紘一の地盤である。鹿児島でいえば煮物料理と、「かにでだしをとってあります」というお吸い物が出たが、値段の割にはおいしかった。藤沢周平の作品によく出てくる小ぶりの茄子がここでもでたが、味もよくしみていた。「ただ一撃」では、「春苗を育て、初夏に畑に植え付けて、6月の炎天下に日に三度も水を遣って育てる。このように苦労して水を遣るために皮は薄く、浅塩で漬けた味は格別なのである」と書かれている。
■ 山形・仙台の旅3(井形先生を囲む会)
 昨日は8月分の月次評価会。賞与按分額を差し引いても経常収支率が113.4%と最高の月だった。皆さんの頑張りに感謝である。
 明日は9時から県難病相談・支援センターの開所式、知事の後に所長(非常勤)として挨拶することになっている。そして久永先生(鹿児島女子短期大学教授)つながりで、13時20分から、日本介護福祉養成施設協会九州ブロック教員研修会で記念講演を頼まれている。また18時からは伊牟田池ホテルで院内宿泊研修へと続く。 
 9月の患者数も、390人台と順調である。
(続)
 鶴岡から山形へは、列車では2度も乗り換えないといけないらしく、高速バスを利用することにした。2時15分に鶴岡エスモールを出発し、山形自動車道を走って2時間後の4時12分に山形駅前に着いた。高速道路といっても山間部の険しい山道を走る道路で、多くは対面交通となっている。また道路のガードレールの50センチくらい外側に2メートルほどの鉄製の枠が道路に沿って取り付けられていた。後で聞いたところでは、冬場の地吹雪対策だという。
 山形駅の西口前は駐車場や芝生の広場となっており、その向こうに今夜宿泊することになっているリッチモンドホテルはあった。インターネット予約だったが、ここも会計などは自動化されており、できるだけ人を少なくする仕掛けになっている。
 5時半過ぎにタクシーで、「囲む会」の行われる「香味庵まるはち」に向かった。明治18年創業の「丸八やたら漬」が前身で、当初は味噌・醤油醸造を生業とし、副産物として漬物加工を始め、昭和40年ごろから漬物専門店となっているそうである。その店舗そばに、大正時代の蔵を改装したお食事処「香味庵まるはち」があり、山形自慢の四季の郷土料理を趣きある蔵座敷で味わえる店である。今回の当番幹事の一瀬白帝山形大学教授がよく利用している店だそうで、店主とも懇意だという。
 座席は二つのテーブルを挟んでその両脇に腰かけるようになっており、年をとるとこのほうがありがたい。夫婦同伴で出席された先生が多く、一人で来たらちょっと肩身が狭い気がしないでもない。まず懸案となっていた会の名称について討議され、もっとも無難な「井形先生を囲む会」に決まった。ロゴマークは囲である。その後、盛りだくさんの催し物まで用意されており、地元の人による最上川舟歌などの民謡や賑やかな花笠踊りまで登場した。
 料理は手の込んだ懐石、郷土料理の数々が次々に出されたが、私は山形の秋の定番郷土料理だという芋煮会がおいしかった。里芋や肉、油揚げ、ゴボウ、にんじん、ネギなどの具材が入っており、薩摩汁にも似た取り合わせである。
 まず井形先生からスライドを使って近況報告があり、名古屋の明治村で大正100年を祝って日野原先生(100歳)と司葉子(79歳)、井形先生の3人で座談会をされたことや、自らが学長を務めておられる名古屋芸術大学の紹介などが行われた(写真)。先生も昨日が誕生日ということで満83歳となるが、ますますお元気である。このお年で現職というのにも驚くし、それをきちんとやりきっておられることになお驚ろかされる。私たち弟子には先生はいつまでも遠い目標である。今後もこの会の存続のためにも、お元気で長生きして欲しいというのがみんなの願いである。
 納先生は日展の日本画の部で入選を果たし、新国立美術館に展示されたことや市立病院の玄関ロビーに桜島の絵が掲げられたことなど紹介された。井形先生の計らいで、拙著の「病と老いの物語」も祝ってもらうことになったが、晴れがましく紹介されるのも嫌なので、できるだけ簡略に済ませた。その後、今年臨床検査部の教授となった橋口先生の話、そして出席された先生方一人一人から、スライドを使ったり、口頭のみでの近況報告などが行われた。最後に全員で集合写真を撮り、来年は広島で再会することを約して、一次会は終わった。その後、隣の会場に場所を移し、ワインを飲みながら一時間ほど談笑し、解
散したのは10時30分を過ぎていた。
 今年は一瀬先生の計らいで大変賑やかな「囲む会」となったが、年々盛大になっていくと、当番世話人の苦労は大変なものになるのではないか。あくまで「囲む会」なので、「井形先生の長寿を祝う」というような素朴な会の方が長続きするような気もする。でも同窓会や今夜のような会を終えていつも思うことは、宴の終わった後の何ともいえない空しさである。過ぎてしまった時間は取り戻せない。この会は、青春のある時代を井形先生の教室で学び、井形イズムを教えてもらったという共通点で結ばれており、お互いに「共感」できる部分も多いのだが、それでも空白の時間は埋めがたいと思うことだった。
■ 山形・仙台の旅4(人が好きだというSさん)
 18日朝、9時30分発の仙台行きの高速バスに、山形駅前から乗り込んだ。予定では約1時間ということだったが、震災による高速道路の無料化などの影響で渋滞し、20分ほど遅れて11時頃に仙台駅前に到着した。早速ここでもインターネット予約の東横インに荷物を預け、しばらく待っているとSさん(私より少し年長)がホテルまで迎えにきてくれた。
 このSさん、くだんの「次郎長」の古山さん(80歳)と同じマンションでに住んでおられる人である。縁とはいえ、これほどまでに他人のことを案じてくれるものかといぶかるほどの人である。先日いただいた手紙にそのいきさつが述べられていたが、今では古山さんを「お母さん」と慕って、些事の面倒をみてくれているようである。
 古山さんとの付き合いは、10年ほど前に会社勤めの頃に次郎長で宴会があったことがあったが、その後事務所が遠くなって疎遠となっていた。2年ほど前に、たまたま古山さんと同じマンションに引っ越してきた。ところが奥さまが書道教室を開いた時期と、古山さんが腰痛もあって次郎長(居酒屋)をたたんだ時期とが一緒になり、習字教室の生徒の一人として古山さんが参加したことで交流が急速に深まったようである。そういえば、Sさんの習字教室の部屋の壁には、子供たちの習字に並んで、「魚をつる」という古山さんの元気な字も貼られていた。後の宴会のときに古山さんに、「元気のある筆使いですね」と言うと、「魚のことなら任せてください」と、わかったようなわからないような答えだった。
 そしてあの3月11日の大震災があり、世話好きで人好きなSさんが、マンションの住民の絆を深めていく活動の中で、古山さんの家族(娘さん含めて)を身内のように思うようななったようである。Sさんから聞いたところでは、余震があるたびに、お年寄りの悲鳴が聞こえて来て(このマンションは築40年ほどが経っており、老人が多いのだという)、その安否の確認に出掛ける日々だという。またSさんの家から古山さんの玄関が見えるが、玄関が少し開いていると、「今日も元気でいる」と安心すると言うのである。
 「私と古山さんとは、よく似ていると思うのですよ。人好きで世話好きで、にぎやかなことが好きな半面、寂しがりやなところもある。病気の娘さんのこともあるし、自分にできることはしてあげたいと思います」と、どうしてそんなにまでお世話するのかという私の疑問に対する答である。
 今回の仙台訪問の目的の一つとして、津波に襲われた仙台市沿岸部の被災地の現状をこの目で見ておきたいとの思いがあった(写真)。ボランティアでもなく、ただ被災地を車で見て回ることに自分でも抵抗を感じたが、テレビや書物から受け取れる情報と、自らの目で見ることとは大きな違いがあると思っている。この大震災と同時代を生きることになった一人として、少しでも現実的な感覚を共有したいと思ったのである。
 Sさんのご自宅でしばらく話をした後、エレベーターを降りると、今日車で案内してくれるという同じ姓のSさんが待ってくれていた。なんと古山さんとは郷里が同じ白石市で、懇意にされているという。本職は個人タクシーの運転手さんで、その車で出掛けるというのだから、なんとも贅沢なことになったものだ。タクシーで、メーターを降ろして乗れるというのも初体験である。
(古山さんと私の関係を書いた2010年の「論点、再掲します」)。
■  禍福は糾える縄の如し
 学会出張で、仙台駅近くのホテルに着いたときには夜8時を過ぎていた。とりあえず遅い夕飯を、と立ち寄った「次郎長」の暖簾(のれん)をくぐると、客は誰もいない。一瞬「選択を誤ったな」と思ったら、こちらの気持ちを見透かすように女将(おかみ)が出てきて、「今夜は9時までですよ」とややぶっきら棒に突き放す。今更場所を変えるのも億劫だし、「晩酌セット2千円」を注文する。しばらくしてこの女将は、私から3つほど離れたカウンターに腰掛けて、「お客さん、どこからですか」と話しかけてきた。「鹿児島」と答えると名産品の話題になり西郷隆盛ならよく知っていると、ここでは西郷も名産品の一つになっていた。
  人の縁というものは、不思議なものである。私は日頃、一見(いちげん)さんとして入った店で女将や客と親しくなるようなことは滅多にない。この夜はたまたま私一人だったことと、この女将の接し方や人生からにじみ出てくる熟成された人となりに琴線に触れたのかも知れない。三陸海岸で採れる「ほやの刺身」は、海のパイナップルと呼ばれているだけあって珍味だった。
 鹿児島に帰ってしばらくして無礼を詫びる手紙を頂いた。筆力も文章の構成力も77歳には思えない気力のみなぎった手紙で、まさに青春時代を戦争の真っ只中で彷徨し、物不足の戦後をたくましく生き抜いてこられた「女一代記」を読む思いにかられた。
 苦難は30歳の時に子ども二人を連れて離婚したことに始まる。店名の次郎長は別れた亭主の故郷にちなむものだった。離婚後、女中奉公などしながら自立を目指し、たい焼きと焼きそばの4つの店で寝る暇も惜しんで働いた。ところが娘が大学受験の時に発病してしまう。自分が忙しさにかまけて、面倒をみてやれなかったことが病気の引き金になったのではないかと気に病んだ。娘は20年ほど病院に入院していたという。ここ10年余りは自分で引き取り二人で暮らしている。「元気な間は、私が看ようと決心した。毎日、マンションの一階にある次郎長と、5階の自宅との間の行き帰りで一日が終わってしまう」。
 私の書いた「早起き院長のてげてげ通信」も読んでくれたようで、「てげてげ、これがないと人間はパンクしてしまいます。娘と共に暮らしてみてつくづく感じます。当初はこんな子とどうしても一緒には暮らせまいと思いましたが、お互いに何となく歩み寄ったのでしょうか、うまくもいきませんが、それなりの親子のリズムで暮らしています」と結ばれていた。
 この親子の関係を読みながら、数年前に61歳で亡くなられた患者のことを思い出した。この患者も幼少時に熱病がもとで精神遅滞となった。さまざまな施設を転々としていたが、母親が寝たきりのご主人を13年間看た後に自宅に引き取った。50歳を過ぎてから手が震えるということで、私との関係ができた。「今までうちの子をこんなに親切に診てくれたのは初めて。よく厄介払いのようにされてきました」と話された。
 在宅医療を始めたが、その時に母親は84歳、そして亡くなるまでの約10年余りをほとんど一人で看病した。「できることなら福祉のお世話にはなりたくない。自分の子どもだから、生きている間は自分で看たい」。その願いが通じたのか結果的には娘さんを見送り、96歳の今はもう一人の娘夫婦のもとで元気に静かな余生をおくっている。
 この二人の女性とも、「自分の子どもだから、自分で看よう」との強い思いで、病気の娘と一緒に暮らしながら生活されてきた。ともすれば、自分の責任(だけではないけれど)を放棄してすぐ福祉の世話にと考える風潮が強くなるなかで、現実にはなかなかできないないことである。
 もちろん状況によっては願っても叶わないことも多いわけで、このようなやり方が最善であるといっている訳ではない。ただ結果的には、この二人とも娘と一緒に生活できたことで気力も充実され、健やかな老後を過ごすことができた。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という諺があるが、「人生は終わってみれば、いいことも悪いことも半分半分」という言葉を、一年間お付き合いいただいた「論点」の最後としたい。
■ 山形・仙台の旅5(被災地を日本創生のモデルに)
 岡山での総合医学会、体育の日(東京でALSガイドライン会議)と、休みが続いた(日曜日には出勤したけど)。今週は実質4日である。私は金曜日が役員会(東京)で、土曜日は病院の秋祭り(健康フェスタ)である。
 事務室の窓のゴーヤによる緑のカーテンが、きれいに撤去されている。一石三鳥で、美味しい新鮮なゴーヤを何度も食べさせてもらった。
(続)
 車は仙台の市街地を抜け、高速道路を横切ると、見渡す限りの荒涼たる風景が広がってくる。ここは自衛隊機から撮影された津波のライブ映像として、よくテレビに登場し、ビニールハウスや田畑、家を次々に飲み込んでいく巨大な黒い塊を見たとき、誰しも言葉を飲み込んだまま表現しようのない恐怖に襲われた場所である。聞くところでは、高速道路が堤防の役割を果たし、そこが分水嶺となって津波をせき止めたという。
 もう半年も経っているのに、元「田んぼ」があったと思われる場所には多数の車や船、コンテナなども放置されている。田んぼには稲と間違いそうな、茎の長いひえのような雑草が生い茂っている。時折、学校や老人ホームだったという建物がぽつんと建っているが、その枠組みは遺されているものの一階部分は空洞になっており、津波のエネルギーのすさまじさを表している。風よけのために整然と植えられていたという松林も、歯の櫛が抜けたかのようにまだら状となっている。そして付近には、なぎ倒されて枯れた松が多数転がっていた。
 津波が猛烈な勢いで駆け上ったという名取川沿いに車を走らせながら、海岸に出る。きれいな海水浴場だったという砂浜の見える防波堤に上ると、真っ青な空と波静かな太平洋が見渡され、仙台空港に着陸している飛行機も見ることができる。このような穏やかな日常が、あの巨大地震と大津波で破壊されたとは想像すらできない。
 海沿いに空港の方角に車を走らせると、海岸に瓦礫が積み上げられて山のようになった場所がある。前夜、自然発火したということで、まだ白い煙が立ち昇っていた。その間を大型クレーが忙しなく動いて、瓦礫の山を整理している。私と同じような「見物客」と思われる人も多く、一方では警備のための警察車両が何台も行き来している。
 先日のテレビでは、津波にのみこまれ壊滅的な損害を受けた仙台空港が、全面的な復興を遂げたとの嬉しいニュースをみた。わずか半年での復興は驚異的だが、一方では沿岸部の復興はまだ手つかずの状態である。安全を強調し過ぎてそこに人が住まないような街並みでも困るし、取りあえずどうにかしてくれという被災者の声もあるだろう。今後の津波対策を考えての後悔のないロードマップを描くことは、非常に難しいことである。
 先日、飛行機の中で読んだ「世界を知る力~日本創生編~」(寺島実郎:PHP新書)は、今後の復興の理念を考える上で、説得力のある論説として理解した。
 寺島氏は3/11による被害対策を、表層的なテクニカルな対策にとどめることなく、日本人の魂の機軸も念頭に置いた真の復興構想のグランドデザインを議論すべきだと主張する。具体的には、「被災地東北こそ、未来の日本を指し示す根拠があるのだということを、産業基盤創生や、日本海側とのリンク、副首都建設計画を通じて打ち出すことが出来れば、必ずや日本総体のパラダイム転換につながっていくだろう」という。確かに先を急ぐあまり、小手先の復旧に終わることなく、これからの若者に夢と希望をもたらすようなプランであって欲しいと思うのだが。
 海水浴場近くの地面に目を転じると、荒涼とした景色の中に、黄色い小さな花をつけた雑草が風に揺れていた(写真)。「どんなときにも、生き続けなければならないのよ」と自己主張しているようだった。
 悠久の歴史からみれば、ある一瞬の出来事に過ぎないわけで、人間は常に未来に希望を託して石を積み重ねる作業を止めるわけにはいかない。
■ 山形・仙台の旅6(古山さんを囲んで)
 被災地を見て回った後しばらくホテルで休んで、5時ごろに佐藤さんの家に出掛けた。古山さんはすでに来られていたが、一昨年、学会の折に「南九州病院 in 仙台」を挙行して以来の再会である。あの時には、学会に参加した当院のスタッフが30人ほど集まって、「次郎長」で飲んだり食ったりしたのである。既に2年ほどが経つことになるが、次郎長はなくなり、その跡には趣は変わっているが、同じような居酒屋が店を出している。
 古山さんは私の姿を認めると、大きな喜びの気持ちを小さな体一杯に表してくれた。私は当時客員論説委員として南日本新聞の「論点」を担当していたが、その最期(2008年12月)に、「禍福は糾える縄のごとし」という一文で、古山さんの生き方を紹介した。それから縁が深まり、会うなり「今までの苦しみを解放してくれた」と、私を神様のように称えてくれる。それまでは障害のある娘を世間から守ることに必死で、自分の生き方を狭いものにしてきたようである。「先生の言葉で救われました。私に生きる勇気を与えてくれた命の恩人です」と過分な言葉を頂く。
 あの論点では、やはり小さい頃から障害を抱えて生きてきた娘を、ずっと支え続けた姶良市のAさんも紹介した。Aさんも99歳で昨年亡くなられたが、その頑張っている姿をみるとき、多くの人が支援の手を伸ばしてくれる。私の係わってきた筋ジストロフィーも、昭和40年代までは社会の片隅に忘れ去られていたのだろう。患者自身の叫びで「普通の病気」として認知され、多くの患者が社会に出れるようになった。今回、車いすサッカーで、日本代表としてパリに行く塩入君もその一人である。
 マンションの、かねては書道教室となっている部屋に、古山さんにゆかりのある方々が集まって、私のために歓迎の「宴席」を設けてくれた。メンバーは先に紹介したSさん夫妻、今回次郎長を他の人に貸すときに世話してくれた建設コンサルタントのIさん、そして古山さんが店の切りもりをしていたときから魚の卸などでお世話になっていたMさん夫妻、そしてなにかと相談に乗ってもらっているS弁護士、また嫁さんも仕事場から駆け付けてくれた。
 料理はMさん夫妻が腕によりをかけて料理してくれたものを、テーブルいっぱいに並べてくれた。カツオやサンマの刺身から、鮎の塩焼き、大きな貝の壺焼き、イチジクの変わった料理(これは古山さんの料理)、カルパッチョのような野菜、そして2種類の団子、美味しい日本酒など、奥州の秋の味覚尽くしという態である。
 店をやめて以来、古山さんは娘さんの介護の合間に、習字とともに一日3時間は三味線も弾くという。「古山さんの生き方は、波乱万丈で、是非とも女一代記を書いて欲しいとみんなで言っているのですよ」とSさん。みんなが古山さんを、心から支えていきたいと思うメンバーである。
 宴は8時過ぎまで続き、みんなで集合写真((添付)を撮ってお開きとなった。私は帰りしな古山さんのご自宅にあがり、娘さんにも会ってから帰路についた。
 翌19日は8時30分の東北新幹線に乗り、羽田発12時5分の鹿児島行きに搭乗し、空港から、支払基金の審査会場に急いだ。距離にすれば結構長い旅だったが、持ち歩いたパソコンのお陰で、次の日の旅程を正確に組むことが出来た。旅行案内書や時刻表など不用な時代になっている。
 わずか2泊3日の東北旅行だったが、思い出に残る楽しい旅行となった。心残りは、小雨のために月山と鳥海山を望めなかったことぐらいかな。
■ 宿泊研修 
 朝、いつものように早く起きて、3階のホテルの部屋から眼下のいむた池を見ながら、この稿を書き始めている。この池は火口湖であるが、鏡のような静かな湖面の向こうに船見岳と愛宕山がシルエットのように眺められる(写真)。ここに来る道すがら、道路沿いには真っ赤な彼岸花と風に揺れるコスモスを何度も見かけたが、今日からもう10月である。
 このいむた池での宿泊研修も今年で4年目となり、到着すると理事長の山元さんを始め、スタッフが総出で迎えてくれた。「フロントの女性が『南九州病院さんが来られるときに、玄関のサルビアの花が満開になるように』との願いをかけていたのですが、そのようになりました(写真)」と満足そうに微笑を浮かべながら山元さん、そして「先生の病院がうちのホテルを使ってくれると、本当に運がいいのですよ。今年も直前に2階の廊下の絨毯を全て張り替えることができました」と続ける。
 例年、到着日の夜の講演は、私のかねて懇意にしていただいている方々にお願いしてきた。会田先生、杉本先生、田村先生、萬田先生などで、杉本先生(前再春荘病院院長)以外は医療とは直接関係のない方々ばかりである。というのは、「研修に参加するメンバーは入職後間もない若い人が多いので、このような機会を利用して幅広い知識を深めてほしい」との思いがあるからである。医療の基本は患者さんとの良好なコミュニケーションであるが、医療者の我々がさまざまな引き出しを持っていないと、スムースな人間関係は構築できないからである。
 そこで今回は、僧侶の長倉伯博先生にお願いすることにした。先生は私の高校の後輩であるが、実家がお寺(善福寺)で早稲田大学の東洋哲学科や龍谷大学真宗学など正統な仏教学を修めている。そして今や日本全国各地で布教や講演活動にいそしんでおられ、浄土真宗本願寺派のスポークスマン的立場にもある。また当院では緩和ケア棟の患者さんの相談や、倫理審査委員会の院外委員のお一人でもある。
 今回講演をお願いするにあたり、「親鸞の教えや自力・他力など、仏教の本質についても触れて欲しい」とお願いした。このような厚かましいことが言えるのも、高校の後輩という立場かもしれない。たまたま飛行機の中で読んだ寺島氏の「世界を知る力」に影響されて、日本人の魂の機軸としての宗教、とりわけ「自力と他力」の解釈をお願いしたかったのである。講師の紹介のときにも述べたが、当然のことだが、病院として特定の宗教や宗派に肩入れしているつもりは全くない。
 今回先生は、「仏教を通して人生を考える」というレジメまで用意してくださり、わざわざ法衣をまとって登場された(写真)。その後の懇親会で、多くの人が講演の内容を引用して、「素敵な人になりたいと思います」と自己紹介したことを考えても、当初の私の目論見は達せられたのではないだろうか。まず「仏教ってなあに?」という見出しで、釈迦の誕生から29歳の時に四苦八苦の解決のために家出(出家)に至る過程、そして35歳で苦しみの原因は執着する心であると悟り、これをなくせばいいということに気づく。すなわちブツダの誕生であり、「素敵な人」となった瞬間である。素敵な人になる方法がお経で、南無阿弥陀仏を唱えるということになる。私も釈迦のようになってみたい(菩薩)と道を求める人が求道者で、その菩薩への道は、自利(自分が素敵な人になる)努力と利他(他の人を素敵な人にする努力・・・慈悲の実践)なのだという。
 大切のものは、「変えられないものを受け入れる心の穏やかさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見きわめる智慧とがそなわりますように」と結ばれた。
 夜は楽しい懇親会で、例年よりも心おきなくうれしいコミュニケーションが出来たように思う。そして湖畔では、的場組で「花火大会」もあったようだ。
 翌朝は8班に分かれて、23年度のテーマである「病院の将来像、情報発信、病院のエコ対策」から一つを選んで討議した後(写真)、各班からパワーポイントを使っての発表となった。いずれの班の内容も発表も素晴らしく、病院の将来像など管理者として参考になることも多かった。
 今回の宿泊研修は、若い人たちが短い時間で討議し、それをまとめてパワーポイントで発表するという一連の流れを学ぶいい機会になったのではないだろうか。私も個人的には、多くのスタッフと楽しく話をする機会にもなり、10歳ほど若返った気になった。

院長雑感

交通アクセス

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