院長雑感詳細

院長雑感(126号)

NHO都城病院の小柳院長と東京での院長協議会の折、話をする機会があった。「幹部看護師任用試験の面接で、たまたま先生の病院の看護師を担当したのですが、『さすが』と思わせるいい人材がそろっていましたね」と言われた。ちょっと気になっていたことなので「一安心」というところである。もっとも合否は、筆記試験と面接、内申書を総合して決められるのでわからないことだが。病院に帰ってから看護部長にこの話をすると、「一人一人に、機構のバッジもちゃんと付けて臨むように」などと指導するなど、準備は怠らなかったようである。
 先日の医局会でも、「知り合いが当院に入院し、大変満足していましたというような外部の人のいい評価を聞くのはうれしい」というような話をした。10月から県の難病相談・支援センターで医療相談を受けることがあるが、多くは医療機関に対する不満である。
 「自分が褒められるより、病院やスタッフのことを褒められることをもっと嬉しく感じる年齢になったということかな」と、一人思うことである。
■ 患者数
 10月の入院患者数は383.5人で、計画に対し5.2人の減となった。平均在院日数は18.2日と全く問題はない。外来は159.5人と、7.7人の減となった。
■ 診療報酬点数と損益計算書
 10月の診療報酬点数は、計画比で入院では519,307点の減、外来も61,301点の減で、対計画では入院・外来合わせ580,608点の減となった。また4月からの累計では3,279,738点の増なっている。
 8、9月で、7月までのマイナスを挽回して、一挙にプラスに転じた。10月は入院/外来と若干の減で、点数でも想定内の減となった。
 損益計算書では、10月分で賞与按分額を調整して110.4%で、10月までの累計でも110.1%である。
■ 神経難病との40年を振り返りながら
 私は第2次世界大戦後の昭和22年、いわれる団塊の世代の一人として鹿児島県の寒村に生まれた。振り返ってみれば、昭和20年代から30年代は、日本全国みな貧しさを共有し、それでも明日の豊かさを夢見ることのできた幸せな時代だったといえる。医療の分野でも昭和36年に国民皆保険が始まり、これは日本の医療にとっては大変換となり、質・量ともに急速に充実していくことになる。 私は昭和47年に医学部を卒業したが、ちょうどこの年に、スモンの終結を受けて「難病対策要綱」が制定された。この要綱は難病の世界では憲法のような存在になる。私は偶然とある種の縁で神経内科を選択し、また当時は社会的には比較的認知度の低かった難病に取り組むことになった。
 さて社会はいろいろな考えの人で構成されているわけだが、その間を取り持ち、相互理解と合意を形成するための手段として対話がある。医療者と患者さんとを結び付けているのも対話であり、この対話を通して患者さんの抱えている問題を解決していくことができる。逆にALSなどで対話が不能となると、様々な障壁が生じることになる。ところが最近のIT技術の進歩は、これらの障壁をかなりの部分、取り去ってくれているのではないだろうか。
 私はいろんな機会に「人生はいくつかの小さな物語からなる大きな物語である」と書いたり話したりしてきた。自分の人生の物語を語れば、自分自身の人生や意味づけもできる。そして患者さんとの対話を通して、患者さんや家族の思いを広く世間の人にも知ってほしいと願い、また自身にとっての思い出作りとしていくつかの物語を書いてきた。これらの物語が、患者さんへのささやかでも応援歌にでもなればと思っている。
 人の一生は、生病老死という4楽章を辿る旅人のようなものかもしれない。人は誰でも、生まれた時から死に向かって生きていく。ともすれば忘れがちとなる「いのちの問題」が、今回の震災を機に日本人の心に深く受け止められるようになったのは、この震災のポジティブな側面かもしれない。
 さて難病中の難病といわれるALSも、この40年間でいろいろな局面を経てきた。確かに根本治療に関してはまだ暗中模索の状況にあるが、対症療法では呼吸や栄養管理の飛躍的な進歩とケアの充実により、一昔前から考えると信じがたいような延命が可能になってきている。
 ALSの一般的経過として、四肢の筋力低下に加えて嚥下、構音、呼吸などの球麻痺症状が出現するようになる。このうち、呼吸障害は命に直結するもので、呼吸器の装着を選択するかどうかはいつも問題となる。患者さんへのきめ細かな説明の後、患者さん自らの自己決定に委ねるわけであるが、それでも悩みやジレンマは解消できない。また最近では、TLS状態での人工呼吸器の取りやめ(尊厳死の問題)も議論されるようになった。限られた社会資源を有効に公平に使うためには、適切な病床管理は必須である。地域ケアシステムやレスパイト入院、ネットワークなどを活用しながら、いかに理想的なALSの長期ケアに近づけるか、難しい課題ばかりである。
(日本難病医療ネットワーク研究会機関紙、2011年第8卷1号)
■ 日本難病医療ネットワーク研究会
 「長崎は今日も雨だった」という歌でもないが、研究会の初日も、そして二日目もあいにくの小雨模様だった。
 この日本難病医療ネットワーク研究会が、10月28,29日の両日、長崎市で開催された(会長は国立病院機構長崎川棚医療センター副院長の松尾秀徳先生)。機関誌の冒頭の「開催にあたって」に、松尾先生が「医療機関、行政、保健所、難病コーディネーターなど神経難病患者・家族の支援に携わるさまざまな職種が参加して相互の連携を図り、神経難病の医療とケアの向上に向けて研究・教育することを目指す」と述べられているように、多職種の連携と協力で難病を支援していこうという趣旨の研究会である。
 鹿児島県からも当院から地域医療連携室の前田、久永さんの他、県の難病相談・支援センターからは上ノ原さん、またALS協会鹿児島県事務局長の里中さん、鹿児島大学から大窪先生などが参加された。
 私は初日に特別講演を頼まれており、28日の朝6時7分発の新幹線「さくら400」で出発した。たまたま里中さんと一緒になり、四方山話をしているうちに新鳥栖に着いた。ここで特急かもめ7号に乗り換えたが、自由席は混んでおり、私はやっと通路側の席を確保できた。里中さんはしばらく立っていたが、突然「私は指定席券を持っいた」ことに気づいた。10時前には浦上駅に着いたが、新幹線と比べると、単線なので離合のための停車などもあって、まどろこっしく感じられる。長崎線の場合には時間の短縮効果は鹿児島線ほどではなく、県の負担を考えると新幹線に反対の意見もあるようたが、やはり便利なものは便利である。人間、なければ我慢できるが、あるとわかってしまうと我慢できなくなる。
 研究会は10時に始まったが、難病相談・支援センターとの関わりができて、この種の演題に興味が向く。一つは鳥取県における難病患者・家族への支援状況と今後の課題が発表された。設立7年目で、医学部付属病院に委託されており、難病相談専門員と事務の二人体制だという。活動としては患者・家族からの各種相談、患者・家族のつどい開催、研修会の開催、患者会との連携、「あすなろサロン」への活動支援などである。設立当初は300人の患者の把握にとどまっていたが、22年度は2400人(鳥取県での特定疾患患者数が3317人)に拡大し、相談件数も1075人に増加したという。
 もう一つの発表は希少難病患者支援ネットワークについて、NHO宇多野病院の水田先生の発表である。ちなみに京都府では、センター機能を宇多野病院に委託している。表皮水泡症という希少難病の患者さんからの相談をきっかけにして、身体障碍者手帳と障害年金の取得、そして京都府内に在住する12人の患者と医療関係者や他府県の患者にも呼び掛けて、講演会を企画した。またこの活動の中で、この病気の研究班が厚生省の委託研究で立ち上げられていることがわかり、報告書やQ&Aなるものも出版されていた。ところが関係者のみへの配布にとどまり、相談・支援センターにも送付されてきていないということだった。 
 お昼に世話人会と総会があり、私の講演は15分ほど遅れて始まった。松尾会長に座長をお願いし、60分の規定の時間を5分ほど余して終えた。全体的に進行が遅れていたので、意識して早く飛ばしてしまったがもう少しゆっくりしゃべった方がよかったかな(後述)。
 夜は吉宗本店で懇親会、そして2次会まで用意してくれており、楽しい長崎の夜となった。
 なおこの研究会、平成25年から学会へと発展することになり、準備委員会が発足し、私は顧問ということになった。
■ コラージュ博士
 「コラージュ」と言葉を知っている人は少ないのではないだろうか。フランス語で「貼りつける」という意味だそうだが、雑誌やパンフレットなどから、自分の気に入った写真や絵、イラストを切り抜いて、画用紙の上に好きなように貼って一つの作品に仕上げていくものである。
 私たちの病院では外来横の8病棟への廊下の壁に、重症児の患者さんのコラージュが時々貼られていることがある。このコラージュが日本では、1980年代の終わりごろからクライエント(患者)と心理療法家との間の「媒体」として利用されるようになった。同じような媒体に「箱庭」もあるが、低学年はまだしも中学ともなると箱庭で遊ぶことを恥ずかしがったりする子供も多く、そのためにコラージュ療法が取り入れられることになったのだという。
 この「コラージュ療法」の大家が、ビックリすることなかれ私の身近にいたのである。20年ほど前まで当院で児童指導員として働いていた西村喜文さんである。彼は児童指導員としての日常業務をこなしながら、一念発起して臨床心理士を目指しさまざまな研修を経てその資格を取得した。その後西九州大学で働くことになり(現在は教授)、この8月には、博士号を取得したというのである。
 彼とは昭和52年(一年間、南九州病院で働いた)以来、かれこれ35年間の付き合いになる。当時はお互い若かったので、よく飲みに行ったりしたもので、結婚式には長崎県まで出かけていった。一途な性格だったのか、当時は養護学校には高等部がなかかったので、高校に進学したいという希望の長位君を家に引き取り、地域の中学校に通わせて受験勉強させながら日常の面倒もみたりしたこともあった。
 (この話をすると嫌がるのだが)ある年の病棟の忘年会の時、酔っていてトイレでつまづいて、頭を強打したこともあった。市立病院で検査すると少量ではあるが脳内出血が見つかり、手術するべきか迷った。結局そのまま経過を見ることになったが、その後の活躍をみると手術しなかったのは正解だったようである。この時、まだ若かった彼の奥さんの、凜とした落ち着いた振る舞いに感動したものである。
 先日、その西村さんからメールが届いた。
 10年前から研究を始め(0歳~88歳まで2500人のコラージュ作品を集め研究しました)、6年前に河合先生が臨床心理学博士を京都文教大学で取れるようになったと教えていただき、本格的に取りかかった次第です。今回は、0歳から思春期までのものをまとめたものです。論文(乳幼児から思春期までのコラージュ表現の発達的特徴と臨床的研究)を3年前に提出し、内見があり博論として審査に入ったのが1年半前です。英語での口頭試問(試験でしたが)、公開の口頭試問がありました。公開口頭試問は、博論を始めて出すということでHPに記載し関係する人たちが集まり、50人ほどの中で行われました。今までの人生の中で一番緊張したかもしれません。終わってしまえば何ということもないのですが、重い荷物が少しはとれた感じです。ただ、一番望んでいたことは、「臨床心理学博士」という称号で、課程博士では4人ぐらいいるそうですが、社会人では日本で最初でもちろん九州ではだれも持っていないということが少し自慢かとも思います。本物の臨床家になりたかったので、証明されたことが一番です。・・・
 いつか機会があったら、講演とお祝いの席を設けたいと思っている。
■ 「かお」欄
 南日本新聞の朝刊の一面の裏面に「かお」いうコーナーがある。毎日その時々の「時の人」が掲載されており、多くは県内の人であるが、時には全国的に話題になった人もいる。
 一昨日(10月24日)のこのコーナーに、(特段、「時の人」というわけでもないが)私が「鹿児島県難病・相談支援センター所長に就任した」ということで登場した。就任までの経緯に関しては先に触れたので省略するが、あくまで非常勤の併任という扱いで、当院での勤務にはほとんど変わりはない。取材は10日ほど前に、社会部の常深さゆりさんという若い社会部の記者が病院に来られたが、ほぼ私の話した内容に沿ってうまくまとめてくれている。
 さて紙面の最初は、このセンターは「病気の種類に応じて専門の病院を紹介するなど、患者と病院をつなぐ交通整理の役目」と書いてくれている。確かに病院の紹介は相談業務の一つであるが、相談内容は実に多彩で一挙に解決できない場合がほとんどである。難病の場合、いくつかの病院を受診していることが多く、多くの相談では主治医への不満やセカンドオピニオンを求める場合が多い。スタッフには「決して、その病院を勝手に評価したりするような言動や、『そうですね』などと相槌を打たないように」と話している。電話相談が多いので、患者や家族は自分のシナリオに沿って解釈して、そして他の人にその
ように話をすことが多いからである。また就労支援についても触れているが、この時代に病気をもった人が働ける場所は限られてくる。もっとも同じ難病でも潰瘍性大腸炎や膠原病のような内部障害の時には、病状が悪化しない限り普通に就労できる。
 また質問の技法として、「閉ざされた質問」ではなく、いつも「開かれた質問」で応対すること、そして最後には「またわからないことがあったら御相談下さい」などと、そこで関係を切ることなく余韻を残しておくことを勧めている。
 「病気になったからといって365日悲しいわけではない・・・」と書かれている箇所は、一般の人は難病や筋ジスの患者というと、「かわいそうな人たち」という強い思い込みの人がいるので、患者さんにも楽しみも生きがいもあることを強調したかったのである。当院の筋ジスの青年の言葉、「アンラッキーだとは思うけど、いつもアンハッピーというわけではない」ということである。
 また「医者として患者さんたちへの応援歌のつもりで書いている」というくだりは、今まで書いてきた患者さんとのかかわりは、一般の人に難病について理解してほしいとの思いで書いてきたということになる。
 最後は「難病と歩んできた人生の最後の到達点として、センターで経験を役立てたい」と結んでくれている。気がついてみると64歳になり、多くの同級生は定年となっている人も多い。たまたま仕事柄このようなことが出来ることに感謝し、少しでも社会のお役に立てたらとの思いもある。
 ところでこの「かお」欄には、過去2回載せてもらっている。最初は平成10年4月に院長になった時、2度目は2年後の平成12年7月で、霧島病院と統合し新体制でスタートしたときである。最初の取材の時には、大学時代の同級生の吉田君の娘さんとわかり、また同じ虎ファンで意気投合して「阪神が勝った翌日は、休みでも病院に行ってその話をします」と書かれている。あの時代から13年が経っており、小さな顔写真をながめていると、言わずもがなであるが確実に歳をとっている。
■ 舞鶴大学での講演
 詳しい内容はよくわからないまま「講演」を引き受けることが多くなっている。今回の霧島市舞鶴大学・大学院の講演(講義というべきか)も、ちょうど一年ほど前にそのような経緯で引き受けたものである。伏線として3年ほど前に霧島市家庭教育学級合同研修会で「命と向き合う」というタイトルで、「ちょっとよかぶった」講演をさせてもらったが、その縁でご指名されたようである。
 後でインターネットで調べてみると「舞鶴大学は、昭和41年に旧国分市の高齢者教育の充実を目指し本年で40年を迎え、大学院は平成14年度(10回以上の修了生を対象)から実施しています。開講当初は59名と少人数でしたが、市民の皆様の学習意識の向上に伴い現在800名を超える学生が受講しています・・・」とある。結構長い歴史を持つ「大学」で、1000人以上を収容できるという霧島市市民会館が会場になっており、思っていたより多くの聴衆が参加されるようである。
 また舞鶴大学の舞鶴とはどういう意味だろうかと思って調べてみると、「舞鶴城は、慶長年間に島津義久によって築城を開始され、慶長9年には義久が富隈城から舞鶴城へ居城を移し、慶長19年に亡くなるまでの10年間この城で過ごした。江戸時代は外城として地頭館が置かれ明治に至った」ということに由来するようである。
 さて講演の内容に関してはあらかじめ「健康長寿に関係のある内容で」ということだったので、そのものずばり「健康長寿のひけつ」とした。舞鶴大学への参加資格がおおむね65歳以上となっているので、自らの健康には特に関心の深い年代ではないかと思ったからである。
 さて講演がうまくいくかは、最初の5分で決まると言ってよい。導入部でいかに聴衆の心をとらえられるか、講師が一方的にしゃべるのではなく、できたら聴衆も参加していただけるようなものだと大成功である。
 そこで今回は、講演の日の一週間ほど前にあの有名な日野原さんが、NHKの番組「いのちのメッセージ」というタイトルの番組に出演されていたので、日野原さんのご威光を借りることにした。「HINOHARA100」と染め抜いたTシャツを着て井上真央さんとのツーショット写真を紹介しながら、ついでに氏の「10の生活習慣」を紹介することにした。少食、植物油をとる、階段は一段飛び、速歩、いつも笑顔で、首を回す、息を吐ききる、集中、洋服は自分で購入、体重・体温・血圧を測るの、10の生活習慣を大切にしているとのことである。私もこれらの要件にほぼあてはまるが、ゆっくり時間をかけて少食が当てはまらないし、体重や体温を自分で測ることはまずない。また洋服も自分で買うことが多いが、これはおしゃれ感覚ではなくて、面倒くさいだけである。
 そして吉田兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ 見るものかは」という言葉を紹介しながら、「若くなりたい、昔に戻りたい」という気持ちは歳を取るにつれて強くなるが、何事も盛りが全てではなく、「歳相応に品が備わる」ものだと少し持ち上げようと思った。また人間、ちょっと欠点があるくらいが人間らしいともとれる。
 その後、私の生まれた昭和22年から、大震災の起きた今年までの出来事を、特に医療や福祉の視点で簡単に振り返ることにした。
 本論では、「わかっているけど、やめられない」生活習慣病との闘い、メタボ対策で前半を終わり、「ラジオ体操」、そして後半は認知症、ボケないための10ヶ条、ストレス解消7ヶ条、やがてのための覚え書き(たまたまNHKの全国放送で、講演前日の16日朝のニュースで、大々的に放映していた)、そして最後に命を巡る問題として、胃瘻の造設と尊厳死について話題提供して終わりとする予定を立てた。(10月17日に終わったが、まあまあの出来かな)。
■ 子牛のセリ
 もう長いこと私の外来に、大隅半島の小さな集落から2時間ほどかけて通ってきてくれるパーキンソン病の男性がいる。現在68歳で、奥さんは私と同じ年の生まれ、、見るからにカカア天下という雰囲気の夫婦である。働き者の奥さんで、快活で、男勝りで、稲作の他にサトイモなどの現金作物を農協に出して、また牛も飼っている。無農薬で育てた野菜を学校に供出して、自分の孫は自分の作物で護りたいと言う。そして仕事の合間には、さまざまな社会的な活動にまで手を出しているようである。おまけではないが、いろいろ「悪口」も垂れながら、病気の旦那の世話も淡々と変わりなく続けている。
 「あら、今日はお母さんはついて来なかったの」と、患者さんの後ろに控える娘さんに声をかける。「今日は子牛のセリがあるものですから」と娘、すかさず「牛と旦那とどっちが大切なの!」と私、「そりゃ先生、牛に決まっているじゃないですか」と笑いながら娘は反応する。「やっぱりね。牛は金になるけど、旦那は金がかかるばかりだからね。じゃその子牛の値段を当ててみようか、おそらく30万から40万、お母さんの育てた子牛だから35万というところかな」と私。「先生、どうしてそんなに牛の値段まで詳しいのですか」と聞かれたが、先日、やはりパーキンソン病の奥さんを介護しながら子牛も育てている蒲生の人の子牛が、33万円で売れたと聞いたばかりである。セリに出すまでには、8ヵ月から10ヵ月の間、手塩にかけて育てなければならない。おまけに農協から買う飼料が高くなって、いいところはないと嘆いていた。
 この夫婦、ご主人が元気なころは一緒に牛を飼っていたが、今では奥さんが10頭の成牛を育てている。「セリではお母さんが引き回すの」と聞くと、「多分そうだと思います」という。「それなら、お母さんも一緒にセリにかけてもらったら」と私が茶化すと、「買ってくれるモノ好きな人がいますかね、うちの母を」と合わせてくれる。ご主人はさっきから買ってきたスポーツ紙をながめながら、にやにや笑っている。ちょうど一面には「遼の恋人」のことが大きく取り上げられていたので、「遼みたいな素敵な男が落札したらどうするのよ」と言って、みんなで大笑いである。
 聞くところでは、昨年の宮崎の口蹄疫の影響で子牛が品薄になり、いい値がつくのじゃないかと期待しているという。まさに漁夫の利というところである。
 「先生の言われたこと、ちゃんと母に伝えておきます」と言いながら、二人で出て行った。
 パーキンソン病の長期療養も、それぞれの生活スタイルがうまく確立できると、それなりに事がうまく運べるようになる。先日の南日本新聞の「かお」欄で、「病気になったからといって365日悲しいわけではない。患者一人一人に物語がある」というのは、そのようなことである。
■ アベンシスからプリウスへ
 「大根を買うみたいに車を買ってきて!」とよく家内に言われる。確かにさしたる吟味もせずに買ってしまうことが多い。極端な場合には、「前と同じ車を」と言うだけで、一度も「本物」を見ずにディーラーが持ってきた車をそのまま受け取ったこともあった。故障が少なくて、走ってくれればそれでいいという考えに近い。
 今回も、たまたま昼の食事の帰りに、与次郎ヶ浜のNetz鹿児島の前を通ったので寄ってみたところ、契約までする羽目になった。もっとも今回は、現在のアベンシスが来年の春に3回目の車検を受けることになっており、走行距離も10万キロを超えていたので、そのうちに買い替えようという気持ちはあった。おまけに先日、伊勢市から母の所に遊びに来ていた姪(麻酔科医)が、「プリウスに代えて、ガソリンスタンドに給油に行く回数が減ってありがたい」という言葉を聞いて、次はプリウスにしようと思っていたのである。
 思い起こせば、初めて車を買ったのは大学を卒業した年(昭和47年)で、中古のサニーだったように記憶している。その後、東京の都立府中病院に赴任したときに三菱ランサーを新車で購入した。このときには、6月に転勤になり上司のS先生が「医局旅行に行くのに車が足りない。私の岳父が三菱の重役なので、三菱車を買え」という業務命令のようなもので、よくわからぬ間に病院の駐車場に多摩ナンバーのランサーが駐車していた。そして近くの銀行で金を下ろしている間に、なんとドアの所が凹んででいた。誰かの車にぶつけられたようで、買ってまもなくそのまま修理工場行きとなった苦い思い出付きである。
 アメリカでも車の購入に関しては、「小さな事件」があった。当時、アメリカ車は故障が多く、日本車の優位が殊のほか喧伝されていた時代だった。アメリカでは車がないと一日でも困ると思って、着いたその夕方に納先生と車を見に行った。ところが帰ってきたときには、HONDAシビックに乗っていたのである。当初、2ドアを買うつもりだったのに、気がついたら4ドアだった。「今更替えに行くのも面倒くさい」と思って、そのままにすることにした。ところが同じヤードに、N先生という眼科の先生が留学で来られていた。車の購入に関しては面倒を見てあげようと考えておられたようで、あまりの早さにあきれたのか、その後の関係にも微妙な陰を落としてしまったようである。「一事が万事、こんな軽率な奴とは付き合えない」と、思われたのかもしれない。
 日本に帰ってきてからは、加治屋町の交差点のところにあるトヨタ店で、カローラ、そしてコロナを買っていた。が、ディーラーが車検の時期になるとしつこく電話で勧めることに閉口して、西駅(現在の鹿児島中央駅)の近くのビスタ店に変わった。店長さんはおとなしいが誠実な人で、家内は納車のときに「バラの花」をもらって喜んでいた。2台ほどビスタ(マイビスタ事件)に乗って、店長も転勤となり若い担当者に代わり、車もアベンシスになっていく。
 さてそのプリウスであるが、ハイブリッド車ということもあって気を使う。今朝乗った感触では、どうも前のアベンシスに比較して加速が効かないようである。「年相応の安全運転をしなさい」ということかも知れない。また初めてナビのついた車だが、使い勝手がよくわからない。いつもそうなのだが、PCと同じで、一度も触れることのないつまみも多くなりそうだ。数年前に亡くなった筋ジス病棟の福留君は、車については驚くほどの知識の持ち主で、毎日電動車いすで院内を巡回しながらキツイ論評を加えていた。アベンシスは「話にもならない」と酷評されていたが、このプリウスはなんと評価するだろうか。
■  坦雪埋井(前)
 株式会社「日本経営」の議長をされている菱村和彦さんから、「坦雪埋井、こそが人材育成の王道」というタイトルの小冊子が送られてきた。毎年4月の入社式で、新人社員とその両親にも読んでいただけるようにと編集されたもので、10号目を数えるという。
 菱村さんはこの会社の創業者であるが、小さな税理士事務所から出発して、その情熱と才覚で今や社員863人を抱える日本経営グループの取締役会議長である。私はずいぶん前に、鹿児島大学医療情報部主催のシンポジウムにシンポジストとして参加したことが縁で(菱村さんも医療経営について話された)、10年ほど前に菱村さんから大阪市で講演を依頼され、その夜一緒に食事をしたことがあった。その時に印象に残った言葉で、「子供には後は継がせない」と言われたのをよく覚えている。どのような話の経緯で飛び出した言葉かは忘れてしまったが、この冊子の中の会社の基本理念の一つに、「社長、会長及び議長の職は、これを世襲制にしない」と明記されているのをみてさすがだなあと思った。
 この「日本経営」という会社、事業内容として「戦略立案からその導入・実現・フォローに至るまでを一貫して支援するトータルマネジメント事業」と唱っているが、例えば23年度の経営方針の中には「病院の顧問(税務・財務・会計・経営)を50病院から5年かけて500病院とする」という目標も掲げられている。すなわち広い意味では病院経営のコンサルタント事業ということになる。そしてこの冊子を一読すると、創業者の菱村氏の考えや理念が隅々にまでよく行きわたっていることがわかる。風貌もカリスマ的であり、宗教家とでもいっていいほどの強い信念で、会社経営を行っているように思われる。
 さらに基本理念には、「全従業員とその家族の幸福を追及するとともに、その幸福に気付いて感謝できる心をはぐくみ、社会の成長発展に貢献する」というものもある。親孝行融資なるものや、社員一人ひとりが感謝の気持ちを再確認する「社長昼食会」なる変わったものもある。毎月1日に、その月が母親の誕生日、命日月に該当する社員と社長が昼食を取りながら、母親に対する感謝の気持ちを再確認する機会とするというのも奇抜な発想である。これも菱村氏がある本に「・・・信心深かった母に今私が出来るせめてもの親孝行かと思い、毎月御廻向させていただき合掌して亡き母を偲んでいます」と書かれているように、今は亡き母親に対する限りない敬愛が根底にあるものとうかがえる。
 またこれも偶然であるが、山口君(当院の医療マネジメントの本をうまくまとめてくれたり、拙著「病む人に学ぶ」の編集者)が、数年前に日総研出版からこの日本経営にトラバーユし、現在東京のメディア・コンテンツ・ソフトウエア部で活躍している。理念を大切にする会社で、「従業員の幸福とは、その家族も含めたもの」というくだりもあり、山口君の話では「入社3年目には社員、社員の両親、上司」で3者面談を行う制度もあるという。「受験前の高校生でもあるまいし」とも思ってしまうが、案外大切な部分かもしれない。「結婚しない」を宣言していた彼が豹変して今や一児の父であることも、案外「菱村教」の影響かもしれないと思うことである。
■ 坦雪埋井(後)   
 さて標題の「坦雪埋井」という言葉が気になり、ちょっと調べてみた。
 漢字は便利で何となく意味はわかるものだが、「たんせつまいせい」と読む禅の言葉である。
 知人に「坦雪埋井という言葉を知っている?」と聞いたら、「胆石埋没ですか」と聞き返された。この人、最近腹痛があり、その原因が胆石ではないかと心配していたので、ついこのような勝手な解釈に辿りついたものと思われる。人のやること考えること、まずは自分に関係する事柄から思考は出発するものである。 
 江戸時代に臨済宗天龍寺派に徳雲和尚という高僧がいた。かねて「閑古錐(かんこすい)」と皆から称賛されていたが、その人がただひたすら雪を担いで井戸を埋めておられた。「閑古錐」とは使い尽くして先が丸くなってしまった錐で、今はもう役に立たないが素晴らしい輝きは保っているという意味である。
 いくら雪で井戸を埋めても、井戸は決して埋まらないことを知っているはずなのに、それでもただただ井戸を雪で埋めていた。成果を期待することのない、目的のない実践とも受け取れる。
 また上司が部下を育てている場面で、部下がなかなか成長しないときに「担雪埋井の心が必要」などとも使う。すなわちこの場合は、「我慢や忍耐をしなさいという意味」である。
 この冊子の最初のページには、臨済宗中興の祖と呼ばれる高僧、白隠禅師の言葉が掲げられている。
 「雪をつかんで井戸を埋める。瞬時に雪は解けてしまい、決して井戸は埋まらない。全く無駄なことなんだが、やらないわけにはいかない。なぜか、それは己の本具する誓願だから。己の生き甲斐であり、それが己の在るべき生活なのだから」。
 いろいろな解釈が出来るそうだが、白隠禅師のいうところの「己の本具とする誓願」というのが、この言葉の本質を突いているように思われる。「我」の産物である一切の目的をうち捨てて、ただひたすら、「いま」すべきことをしなさい。たとえその行為が無駄なものと思えるものでも、無目的の実践の必要なときもあるという戒めである。
 確かに自分の生きてきた道を振り返ってみても、また歴史的に偉業をされた人の自叙伝など読んでも、「無目的の実践」をしなければならない時がある。その結果はひとまず封印し、ただひたすら「業」に打ち込むのである。私のような凡人にはそのような「業」は数少ないのだが、留学時代に電子顕微鏡で「アクティブ・ゾーン」を探しているときにはそのような心境にあったように思う。朝から晩まで暗い部屋の中で頑張っても、一個も目指すものを探せない日も多々あった。このような作業がどのような成果を生むかもはっきりしないまま、ただひたすら列車の線路みたいな構造物(アクティブ・ゾーン)を探すこ
とに全神経を注いでいた。この一見無駄とも思える研究は、マルセイユでの世界神経筋学会で結実し、私の研究人生の頂点だったように思える。この仕事、誰も追試した人がいないところを考えても、金と時間と日本人の勤勉さの成せる所業だったと、ちょっぴり誇りに感じている。
■ 以心伝心
 数年前から地域医療連携室の肝いりで、「がん・難病サロン」が当院に開設されている。連携室の前田君から、「明日はまだお若いパーキンソン病の患者さんが相談に見えますので、お時間があったら出席できませんか」と頼まれた。その日は午後からは時間が空いていたので出席しその模様を、翌朝の院内ランに次のように書いた。
 ・・・昨日は今年の初めごろパーキンソン病と診断された49歳の女性、まだ中学生がいる。「なぜ私だけ・・・」と何度も泣き崩れる。ご主人は単身赴任らしい。私たちはアドバイスはできるが、自分で乗り越えていかなくてはいけない。きっと、いい日も来ると確信している、と。
 もう少し説明を加えると、その49歳の女性は、少し話し方が緩慢に映るが、まだパーキンソン病には見えないほどの軽症である。主治医は園田部長で、年齢も考えて抗パーキンソン病薬としてはシンメレルから始めてているが、「少し良くなったように思ったが、最近はやや進行したように思う。インターンネットで調べると、しまいには寝たきりにもなると書かれている。もう居ても立ってもおれない気持ちである」という。私は「そんなに先々のことを考えても何にもなりません。まずは今日をどうするかということを考えたら」と話しながら、「病気のことは、病気になった人しかその苦しみや日常生活の工夫はわかりません。先だって、若年性のパーキンソン病の患者さんが3人で、自らの体験を通して生活上のアドバイスをまとめた本を出版されています。きっと役に立つと思いますので、本屋さんで探したらどうですか」とアドバイスした。この本は、著者のお一人から数ヶ月前に贈ってもらっていたが、部屋の本棚を探したのだが探しつけなかった。
 ところが、その日のうちに、本を書かれ女性のうちのお一人のIさんから、「お久しぶりです。・・・先生の病院にも、「患者・家族サロン』に診断から間もないPD患者がおられるのですね。前に先生におおくりした私どもの「オン・オフのある暮らし」をお送りさせて頂けるでしょうか。もちろん先生からお渡しいただければ十分です。ご一考ください。さてわたしの暮らしぶりですが90%以上高松に住み着きました。よく転ぶのとジスキネジアの好発が問題ですが、転ぶのは夫が見事にコツを会得してもう島田バレエ学校にシルバー入学させるというアイデアはとん挫しました(冗談心の持ち主!)。また私も開き直りができて、夫だけでなく私の周辺の方すべてに私を支えてくださるようにお願いしています。病気で心がゆがんでいく人もおられますが、願わくは病気をもっての心をそだてたいものです・・・運悪くちょうど手元に置いている分が切れております。今日取り寄せたうえでそちらに送りますので3,4日かかるかもしれません。よろしくお願いします。
 私はすぐにメールを返した。
 「以心伝心」とはこのことです。是非その本の購入を勧めました。本の扉でも励ましの言葉でも添えて、私宛に送っていただけたら「万歳!」です。
 すると正確に4日後の11月1日に、この本と女性宛の励ましの手紙も同封されていた。また私宛の手紙には「私は元気に暮らしております。『元気』とは決して健康な人のようにではなく、『私なりの精一杯さをもって』ということでしょうか。開き直りは必要に応じて出来るもののようで、今は主人と外出するときでなくとも、(倒れそうになったら)誰かしら助けてくれる人を見つけて、その方と手をつないで歩くようにと心がけています。
力が続く限り、『元気に』生きたいと強く思います」
 Iさんのこと、個人情報のこともあるし、詳しく触れないつもりでいた。ただ私が本当にIさんがすごいと思うのは、いわゆる知識人と呼ばれる「種族」の病気(難病)との向き合い方にかねがね難しさを感じていたことも伏線となっている。もうずいぶん昔のことになるが、当院で長期に療養しているALSの木脇さんが、東大出身で銀行に勤めていた男性がALSになり落ち込んでいた時に、今でいう所のピアカウンセリングの機会を持ったことがある。木脇さんは後で、「ALSに学歴は要りませんね」と笑いながら話された。このIさん、実は大変な才媛で、東大から当時の大蔵省というキャリアの持ち主である。
 Iさんのあっぱれな覚悟と支援に、心からの「万歳」を送りたい。本当にありがとう。
■   名訳「期待を超えた人生」
 かねて懇意にしている岡本明さんから、「期待を超えた人生」という単行本が送られてきた。
 岡本さんは轟木敏秀(平成10年に亡くなった筋ジストロフィー患者)つながりで、その後は上野晶子(平成20年に原因不明の病気で亡くなった女性)さんのことでも大変お世話になった人である。もともとは株式会社リコーで認知工学、福祉工学領域を専門にする研究者であったが、10年ほど前に筑波技術大学の教授に転出し、昨年3月に定年退官されている。筑波技術大学はもともと視覚障碍者や聴覚障碍者のための国立の教育機関で、現在は国立大学法人になっている。
 岡本さんは今までドナルド・ノーマンの著作を何冊も翻訳されてきたが、今回はローレンス・スキャッデン著によるこの本を単独で翻訳された。翻訳本というとどうしても読みにくく理解しにくいことが多いが、この本は実によくこなれていて読みやすく、まさに「期待を超えた名訳」といってよい。
 さてこの本には「全盲の科学者が綴る教育・就職・家庭生活」という副題が付けられている。5歳で事故のために全盲となった米国の科学者の自叙伝であり、特に障害を持つ若者や家族には正直なアドバイスと提案に満ち溢れている。著者は幾多の困難を克服し、大学教授や政府機関の要職など高い社会的地位を獲得していく。面白いのは、アメリカの国立障害リハビリテーション研究所の副所長に採用された時、目が見えないことが採用の条件になったという(それまでは逆だったが)。
 自分がある日から突然、盲目になったと想像したとき、その後の人生をどのように生きていけばいいのか想像すらできない。最近、日本でも道路や駅で、白杖で単独歩行している人に出会う機会が増えている。この本を読みながら、「盲目の社会」の事情が少しは分かったような気がするが、それでも未知の世界である。
 著者は「まえがき」の中で、「この本はただ自伝を書いたものではありません。私の体験の多くは人に語るには個人的すぎるものです。『トラウマ物語』を書くつもりもありません。誰もが何がしかの困難を背負って生きていて、私の場合はたまたまそれが、見えない、ということだったのです。いかに人間は適応力があり、柔軟性に富んでいます。困難があっても、楽しく、生産的に生きるのを学ぶのです」と述べている。
 彼の成功は個人の特性(数学に秀でていた、問題解決能力があった、記憶力が優れていた、粘り強さ)と、周りからの手助け、そしてその時々に拓けたチャンスの賜物と総括している。
 講演をする機会も多いそうだが、その終わりは次のような言葉で締めくくることが多いという。そしてこれらの言葉は、彼自身に向けての言葉でもある。
 「障害のある若い人たち、私と一緒にはばたきましょう。君たちの期待を高めましょう。真剣に勉強しなさい。この国で、自分が自立した生産的な市民になるためのスキルを学びなさい。ご家族や先生方、彼らと一緒にはばたいてください。あなたの彼らに対する期待をもっと高めましょう。彼らに目標を達成するための教育、ツール、職業訓練を与えましょう。雇用主や政府の職員の方々、私たちと一緒にはばたいてください。障害のある人に門戸を開いてください。適切なツールや機会があれば制限はないのです」
■ 全盲の女性と
 世の中には不思議な符合も多いものだが、盲目の女性と一緒に酒宴をもった翌朝、11月1日は「点字の日」だということをラジオで聞いた。盲目の女性といえば、あのオードリー・ヘブパーンの主演する「暗くなるまで待って」という映画を思い出す。夫が留守の間に凶悪犯が家に侵入し、盲目の女性との死闘の様子を手に汗握る緊張感で観たものだ。「暗くなれば、凶悪犯と同じ条件。早く暗くなって欲しいと願う!そうなれば、なんとか手の打ちようがあるという」筋書きである。
 さて岡本さん(筑波技術大学名誉教授)から、「メールでやり取りしている女性が鹿児島におられるから、今度一緒に食事をしましょう」という誘いを受けた。毎年、敏秀追悼のための新燃岳登山が噴火のためにできなくなり、「墓参りだけは」と戸島さんとともに鹿児島に来られたついでの企画である。その夜、甲突川沿いの高見橋近くの「極(きわみ)」という居酒屋に、私と岡本さん、戸島さん(アスキーに勤めていたことが縁で、結果的に敏秀のボランティアグループを発掘)、清水さん(敏秀のドキュメンタリー「死亡退院」の著者)、そしてアッシャー症候群だという48歳の満武さん、彼女の介助員(通訳ガイド
ヘルパー)の大久保さん、そして鹿児島県身体障害者福祉協会の良久さんの7人が集まった。
 アッシャー症候群とは聞きなれない言葉であるが、私が満武さんに「いつ頃から見えなくなったのですか」と聞いた時、「視覚障害と聴覚障害の合併でアッシャー症候群と呼ばれています」という返事だった。彼女の場合、現在は全盲だが、成年になってからも(網膜色素変性症のために)昼間は少し見えていたようである。ただ聴力は小さいころからかなり落ちていて、唇の動きで言葉を理解していたという。聴覚の方は筒みたいなものを耳に押し付けて大きな声で話しかけると、理解できる。またガイドヘルパーの大久保さんの言葉は、よく理解できているように思えた。ところが会話となると普通のきちんとした発
音で、要領よく正確に話してくれる。記憶力は抜群で、一度見聞き?したことは完璧に記憶しているように思えた。志風さんが生きていたころには当院に何度も訪ねてきておられたようで、現在も勇さんや木脇さんとは交遊を続けておられるという。
 皇徳寺に身体に障害のある夫と暮らしており(子供さんも二人いるという)、料理などの家事もちゃんとやっておられるようだ。料理の話から、「盲導犬より、介護犬が欲しいです」という。ある時、ピーマンに肉を詰めていた時、落としてしまったことがあった。
這いつくばって探したが見つからない。しばらく経って、腐った匂いがして落ちたピーマンの居所が分かったというエピソードを、笑いされながら話されていた。「盲目のお気の毒な女性」というイメージからは遠く、必要なときには自己主張もやり、普通に敢然と生活されている雰囲気が伝わってくる。
 岡本さんの話では、アメリカでは介助猿が訓練されているが、極めて高価であるという。満武さんは白杖を使って移動しているが、介助犬に世話になったこともあったが、あまり相性がよくなかったという。盲導犬が慎重すぎて、階段を登るときにも自分より先には進まずまどろっこしいようだ。ある時、盲導犬が停まって歩きださない、不思議に思って周りの人に聞くと、たった5ミリの段差が前にあったのだという。
 岡本さんの話では、全盲の人は想像力を最大限に発揮して、五感で素早く物事をキャッチする能力では健常な人はとても及ばないらしい。ただどうしても知識量が少なく、偏りがでることはやむを得ないことで、「阪神の勝ち負けはよく知っているのに、今回の大震災の規模などよく知らない」こともあるそうである。
■  頻回に飛行機を利用すると
 11月12日、早朝の羽田空港発、鹿児島行きのANA620便は、目的地の鹿児島空港に向けて徐々に降下を始めていた。その時「身体の調子の悪い人がおられますので、お医者さまがいらっしゃいましたらお近くの乗務員にお知らせ下さい」という機内放送が流れた。
 この機内には、学生時代からの親友だった丸山先生(現在鹿児島大学医学部特任教授)が搭乗していることはわかっていた。今朝偶然、空港のロビーで会って四方山話をしたばかりである。「他に誰もいなければ、一緒に診ることになるかな」と思案していると、プレミアムクラスの方から通路を歩いてきた。「久し振りに医者の仕事をしてみようか」ということになり、客室乗務員に調子の悪い人のいる後方の座席に案内してもらった。
 中年の男性が、真ん中の座席のシートにもたれかかっている。取りあえず脈に触れるが、ほとんど感知できない。名前を呼んでも、答えは返ってこない。全身はびっしょりで冷や汗をかいている。いわゆるプレショック状態に在ることは明らかである。客室乗務員が「先ほど、ニトロールを口に含ませたところです」という。東京からの旅行者で、同じグループの仲間が心配そうに覗き込んでいる。
 話によると、以前より心臓が悪くて月に一度ほど病院を受診していたらしい。しばらく様子を視ていると、ニトロールの効果が現れて、かすかではあるが脈が触れるようになる。仕切りになっている座席の肘掛をあげて、横になれるようにする。次第に顔色もよくなり、呼びかけにも反応できるようになって、一安心というところである。「もし吐くようだったら顔を横にしてください」と仲間の人に話して、その場を離れた。
 正直なところ、「一件落着」に終わりそうでホッとする。丸山先生は専門が血液学、私は神経学と心臓とは直接関係がない分野だし、救急医療とも遠ざかっている。また機内でやれることは限られている。
 自分の席に戻ろうとすると、チーフとおぼしき客室乗務員が「全ての責任は私たちの方にありますので、ご心配は要りません。ただ救急車を空港に呼んでありますので、お急ぎでなければ救急隊員に状態をご報告していただけないでしょうか」と言われる。
 飛行機は定刻より少し遅れて、鹿児島空港に着陸する。丸山先生と一緒に救急隊員の待ちかまえている場所に行くと、しばらくして車いすに乗せられた先ほどの客がやってくる。もうほとんど正常に戻っているが、取りあえず救急車で姶良郡のCCUネットの病院に搬送してもらうことにする。
 「このような患者さん、結構おられるものですか」と尋ねると、「最近は多いですね。月に10件ぐらいでしょうか」ということだから、結構な数である。
高齢社会となり、また旅行の機会も増えると予測されるので、今後も増え続けるだろう。 私のように飛行機に頻回に乗っていると、いろんな事に遭遇する。ただ今回のようなことは以前一度経験したが、その時には若い医師が同乗していたので名乗らなくてすんだ。また羽田空港で離陸のために空港内を移動中に、乗客が気分が悪くなったということでスポットに引き返したこともあった。ところがこの人は名前を思い出せなかったのだが市内の病院に務めている医師で、搭乗したときには私の座席まで挨拶に見えていた人である。機内から外に出るときに乗客に向かって深々と挨拶をされたので、てっきり病人の付き添いかと思ったら本人で、二度ビックリしたことがあった。
 今回のケースでは、もし羽田空港を離陸してから間もなくの時間帯だったら、羽田に引き返すべきか難しい判断を迫られただろう。

院長雑感

交通アクセス

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