院長雑感詳細

院長雑感(127号)

「あの人は事務能力が高いとか、低いとか」いわれることがある。与えられた仕事を期限までに、いかに能率的にかつ適正に済ませることが出来るかという能力である。
 この忙しい時代、年とともにさまざまな職責を併任することになると、次々に仕事が降りかかってくる。年末にかけて、学会誌の査読、来年の学術集会のオンライン査読、報告書、研究班のまとめ、お礼状、そして年賀状書きも加わり、一時も立ち止まってはおれなくなる。その結果、行き当たりばったりで、推敲することもなく機械的に済ませてしまう羽目になる。
 医局会のたびに、退院カルテを期日内に返却していない医師の名簿が発表される。勤務医は少ない数で、日常の医療に加えておびただしい書類の山に悩まされている。だからといってこれを貯め込むと、雪だるま式に増えてどこから手をつけていいのか戸惑ってしまうだろう。そして「やる気」を失い、悪循環の陥る。
 取りあえず(内容はともかく)、期日までにコツコツと済ませておくことが大切である。
■ 患者数
 11月の入院患者数は389.3人で、計画に対し1.0人の増となった。平均在院日数は17.4日と全く問題はない。外来は162.4人と、計画比で1.7人の減となった。
■ 診療報酬点数と損益計算書
 11月の診療報酬点数は、計画比で入院では148,569点の増、外来も217,575点の増で、対計画では入院・外来合わせ366,144点の増となった。また4月からの累計では3,645,882点の増なっている。
 8、9月で、7月までのマイナスを挽回して、一挙にプラスに転じ、10月は入院/外来と若干の減、そして11月は若干の増で、累計でも計画増を維持できている。
 損益計算書では、11月分で賞与按分額を調整して109.7%で、11月までの累計でも110.1%である。
■ 安全は「形式と勘」
 もうずいぶん前のことになるが、9月26日の日経新聞では原発などの安全について触れている。まず「春秋」では洞爺丸事故を取り上げており、この事故は1954年のこの日に(私は7歳の時なので事故の記憶はない)起きたもので、台風14号のために遭難し1337人もの犠牲者を出している。
 医療安全の分野では、「スイスチーズモデル」というものがある。スイスチーズには大小多数の穴があるが、大きな事故はこの何枚も並んだチーズの穴の部分を不運にも通過したときに、事故になるのだというモデルである。この洞爺丸事故の検証でも、ベテランの船長は「天気図」と呼ばれたほどの気象通で過信があり、台風の進路と通過時間の判断を誤ったことや、たまたま函館港で2分間の停電があったことなどがあげられている。この事故の教訓として「優れた人間でも、その判断を超える自然現象が生じることもあり、少しでも危険を感じたら安全を選ぶべきだ」ということになる。
 またこの日の日経社説では、日本の原子力は「ハードは一流だが、ソフトは二流」と、原子力発電のポンプなどの装置の信頼性は高いが、人材と制度が劣っていると断じている。
確かにアメリカなどに比べると保安院など原子力分野に携わる人材の貧弱さがこの事故で露呈した。そして原子力など大型プラントの安全を豪語していた人たちの言葉とは裏腹に、安全システムの構図も大津波では無力であった。
 日経の一面の「エネルギーを問う」という特集では、「形式重視、危うい安全」という大見出しで、「頼りにならぬ監視役」を取り上げている。原発の「定期検査はめちゃめちゃ細かくて大変、現場はぴりぴりしている」という作業員の声をあげ、3か月にわたる定期検査の書類は膨大で、積み上げるとビル6階分になるのだという。ある検査官OBの「厳格に検査したという形式を整えるのにきゅうきゅうとして、問題点を見抜くことに力が回らない」と指摘する。逆の言葉でいうと、原発の細部に熟知した人材が不足しているために、形式重視の背景があるということである。
 同じようなことは、病院の定期的な立ち入り監査でもいえそうである。
 確かに一定のフォームに沿った点検は必要であるが、事故防止という視点で考えれば、そこには当然メリハリがあってよさそうである。事故防止にはマニュアルに沿った行動と、経験で築き上げられた「勘」のようなものが必要ではないだろうか。その勘を育成するのが、医療現場で日常的に行われている「ヒヤリ・ハット」の収集と分析という一連の作業であると思う。よく例に出される、病棟の廊下の一部に放置された水を見て、「これは転倒につながりかねない」と考える人と、そうでない人との差である。私たちは常にこの「ヒヤリ感性」を磨く努力を怠ってはならない。
 結局のところ、「形式と勘」、その両方とも必要ということになる。
■ テレビ体操
 ある日の、何の事件もない、のどかな昼下がりの看護部長室。
 「やっぱし金子さんが真ん中の方が、華があるのよね」と私。「うちの旦那も、あの首の長いきれいな人は誰ね、というのですよ。男の人って、見ているところはみんな同じなんですね」と、最近テレビ体操をするようになったという吉原副看護部長。「若い人の会話では、AKBで中央取りは誰がなるかということが話題の中心だというのに、ここではテレビ体操で誰が真ん中になるかが話題になるなんて、やっぱり年寄りの会話ね」と、私たち二人からテレビ体操を勧められている上別府看護部長。看護部長は最近、腰の辺りが痛くなりぎっくり腰ではないかということで、腰にはコルセットをして「ロブ」を服用してる。
 私が毎朝日課として、テレビ体操をするようになったのは確か数か月前からである。その前は、時々6時30分からのラジオ体操をしていた(院内ラン、「ラジオ体操、あれこれ」)が、尊敬するいつもシニカルなS先生から「どうせやるなら5分前のテレビ体操の方が面白いよ。金子クンも見れるし・・・」というようなメールをいただいてからである。 
 ところでこの「テレビ体操」であるが、まだよく知らない人のために説明を加える。
 月曜日から土曜日は、まず「みんなの体操」で体をほぐして、その後、肩や腰などを重点的に動かす運動をして、最後に月、水、金曜日は第一体操を、火、木、土曜日は第二体操を、また日曜日は、第一と第二の両方をやるという段取りになっている。
 テレビの特徴を生かして、模範演技はビジュアル重視とばかり、椅子に座った女性を中央に、5人の妙齢のアシスタントの女性が日替わりのレオタード姿で登場する。
 当初私も特に意識していなかったが、大先生のメールを読んでから、金子クンにいつも目が行くようになった。八等身の抜群のスタイルで、髪を後ろに束ね、いつもうっすらと微笑みを浮かべながら演じてくれる。弥勒菩薩のようでもあり、阿修羅の横顔にも似ている。時々「欠席」すると、その日はなんだか損したような気分になる。
 もっとも「体操が好きで好きでたまらない」という人は少ないわけで、なにがしかのご褒美でもないと長続きしないだろう。NHKもそこら辺りをよく心得ていて、金子クンに限らず似たようなレオタード姿の妙齢の女性を登用している。もしこれが、ひげぼうぼうの男性が5人も並んで演じたとしたら、一日で止めてしまうだろう。
 ところでテレビ体操の「効用」について、真面目に考察することにする。
 人間、朝起きた時は誰も体が硬い。特に年をとってくると尚更である。まず指を動かすような軽い体操から、全身を使うようなやや激しい運動に移っていくわけだが、その時にそれぞれの関節や首、肩、腰などを動かすことで、どこに問題が生じつつあるか自然に呑み込めてくる。たとえば、腰を回した時に少し痛みがあると、気を付けないと看護部長のような「悲惨な姿」になるのではないかと、事前に気付くのである(全身の体調管理)。また首が痛ければ、その日はできるだけ歩くときにも首を回すように心掛けるという風に。
 また体操の意外な効果として、「便通」がよくなる(このランを読みながら朝食を食べている人にはゴメンナサイ)ことである。私はもともと通じはよくない方で、数年前には小地主だった既往もある。ところが、冷水を飲みながら体操をするようになってから、腸管の動きも刺激されたのか、比較的心地よい快便生活が送れている。
 「善は急げ(善かどうかは、その人それぞれだが)」、一日の初めにテレビ体操をしよう。
■ 北の「無人駅」から(前)
  渡辺一史さんから「北の無人駅から」という本が、「突然」郵送されてきた。
 「夜バナ以来、恐ろしいことに苦節8年ということになってしまいましたが、ようやく2冊目を刊行することができました」という書き出しの手紙が、本とともに同封されていた。夜バナ(こんな夜更けにバナナかよ、の略)は2003年に刊行された長編のノンフィクションだが、(一見、わがままな)筋ジストロフィー患者シカノ君の在宅での療養生活を、3年にわたる丹念な取材で生き生きと蘇らせた力作で、同年の大宅賞と講談社ノンフィクション賞のダブル受賞に輝いた作品である。
 一般的に新人作家に何がしかの賞が授与されると、出版社の意向もあって、次々に新作を世に問うのがこの業界の習わしだと聞いたことがある。ところが渡辺さんはこの通例に反し、「無人駅の取材を続けている」という話は聞こえてくるものの、なかなか新作を眼にすることはなかった。単なる怠惰のためとも思えたが、実は「納得のいく作品でなければ出したくない」という生真面目な信念に基づいていたことが、今回の作品を読みながら納得することである。
 「私がこのテーマにどうしてもこだわってきたのは、北海道というものにカタをつけたかったからだと今になって思ったりしますが、しかしちょっと相手が大きすぎました・・・」。渡辺さんは生まれは名古屋で育ちは大阪府の豊中市であるが、北海道大学に進学し、20年ほどを北海道を舞台にして活動してきた。学生時代にもバイクに寝袋を積んで「無人駅」の軒先を借りるなどしながら、北海道各地を無銭旅行した経験を持っていたようである。
 「福永先生には前著以来、ずっと変わらぬ励ましをいただき心より感謝しております。北海道のローカルな内容ゆえ楽しんで頂ける本ではないと思いますが、ご笑覧頂ければ幸いです」と結んでいる。
 ところで私と渡辺さんとの付き合いは、先ほどの「夜バナ」の中にに拙著「難病と生きる(1999年)」を紹介し、引用してもらったことに始まる。また当時私は厚労省の筋ジス研究班の班長をしていたが、その研究班幹事に渡辺さんと交遊のあった河原先生(当時松江病院)や石川先生(八雲病院)がおられたということも伏線になっている。
 また2003年には、私が「Japan Clipping Today」という研修医向けの月刊誌に「夜バナ」の書評を書き、一方2004年には私の著書の「病む人に学ぶ」(日総研出版)の出版の際に、渡辺さんに推薦文を書いてもらったこともあった。また数年前に札幌で学会があった時には薄野で飲んだり、渡辺さんも鹿児島に遊びに来られたこともあった。
 今回の「無人駅」の出版社は「夜バナ」と同じ北海道新聞社で、装丁もほぼ同じだが、「夜バナ」より厚く791頁の大作である。読破するには気合いを入れないと読み切れないと思いながら、第一章「駅の秘境」と人は呼ぶ「室蘭本線・小幌駅」を読みはじめた。この本は7つの無人駅にまつわる「物語」で構成されている。ところが読み始めると、「予想通り」というべきか「夜バナ」のときと同じように、「渡辺ワールド」にいつの間にか取り込まれてしまってやめられなくなった。私の貴重な時間を奪ってしまう「罪作りな本」である。
■ 北の「無人駅」から(後) 
 「なぜこんなところに駅が・・・。誰もが疑問を抱きたくなるような場所に、その駅はある。室蘭本線『小幌駅』。駅のホームは、トンネルとトンネルの間のわずか87メートルの切れ間にあり、右を向いても左を向いても黒々としたトンネルが口をあけている。おまけに、ホームの北側には山がせり出し、南側は海を見下ろす断崖だ・・・・」で始まる風景描写も巧みで、映画の一シーンを観ているかのようであり、また大河小説の書き出しにも思える。
 そして現在のこの駅を取り巻く状況を取材しているうちに、昔ここに住んでいたという元アイヌの男性の物語に展開する。この男性、1982年に胃がんのために69歳で亡くなったという実在の人物であるが、別々の時期に両足とも列車の車輪で切断されたという想像だにできない過去を持っている。両足をなくても桁外れた腕力と才覚、そして凄まじいばかりの生命力で、漁師として並ぶもののないような働きぶりを発揮して7人の子供を育て上げたという。
 それぞれの「無人駅」を通して、20年間の北海道生活で見たこと、感じたこと、考えたことの集大成がこの本といえるが、全てを紹介してしまうと、今後読んでみようかなと思っている人の読む楽しみを失せさせてしまうので要約はこれくらいにする。
 「おわりに~北海道と私~」に書かれている内容もまた、考えさせられる大きなテーマである。「北海道について書きたい、地方について書きたいとの思いで悪戦苦闘しながら最初の取材から12年、この本のための再取材から8年をかけて上梓に至った」という。そして、「その地域にとりたてて興味を持たない人を、その世界に引き入れていくことは可能なのだろうか」と心配しているが、2000キロ離れた鹿児島に住んでいる私が、瞬く間に引き込まれたことを考えると杞憂であったことは明白である。
 「ローカルでありながらも、同時に、広い世界とのつながりを意識し続けること、そして、マイナーなテーマの中に、以下に普遍的なテーマを見出していくかが重要である」と書いている。これも医学の世界でも全く同じことが言えるようで、私の恩師の井形先生のテーマも「限りなくローカルな問題を限りなくインターナショナルな舞台へ」だった。まさに「地方からの発信」の時代である。
 「書きながら、考え、悩み続けていたことがもう一つあった」というくだりも、私も同じ感覚を持っている。すなわち個人情報に関することで、「書いていいことと、書いてはならないことを厳しく見定める眼が必要である。こんなことを書いたら、書かれた方はたまったものではないだろう、との危惧があらゆる場面で存在するからだ」ということである。私も患者さんの物語を書くときに、いつも気になる部分である。渡辺さんは「時間をかけて取材対象者とつきあっていくということでしかなかった」と書いているが、このスタンスも私と同じ手法であり、「『まったくしょうがないやつだ』と苦笑いしながらも、
受け入れてくれないだろうかと切に願っているのだ」という心境である。
 先日東京への出張の折、札幌にいるという渡辺さんに電話してみた。元気な声が返ってきたが、「素晴らしい作品ですね」と読んだ感想を率直に話すと、「殊の外」喜んでくれた。「いつか東京で再会しましょう」と約束して電話を切った。
■ 「医療の質・安全」学会(前) 
 医療安全を主要なテーマとする学会には、「医療マネジメント学会」と「医療の質・安全学会」がある。
 私の独断と偏見による勝手な分け方では、前者はこの学会の生みの親で現在も理事長である宮崎久義先生が国立病院機構熊本医療センターの病院長だったということもあって、会員には国立病院機構をはじめとする公的な病院の職員が多い。私も宮崎先生とのつながりでこの学会の評議員であり、学会誌の査読も務めている。また当初、クリティカルパスと医療安全などをメインテーマにしたため現場の医療に密着した学会運営となっており看護師などの比重が高い。
 一方後者はこの学会の現理事長であり日本医学会会長の自治医科大学学長の高久史麿先生の旗振りで発足し、副理事長も東北大学教授の上原鳴夫先生と大学関係者が主体になっているため、どちらかというと学究的である。もちろん、両方の学会に関係している人もいる。
 今回、第6回の医療の質・安全学会学術集会で、嶋森好子先生(東京都看護協会長)との協働でワークショップの座長を仰せつかった。「地域全体の医療安全を確保するための仕組み作り」というもので、企画から人選まで全て嶋森先生に依るものである。私はこの学会員でないため今回は招待者という扱いになり、旅費から宿泊費、そして参加登録費まで全て学会に負担してもらって恐縮に感じている(事務局を担当された児玉安司先生(弁護士で東大医療安全学の特任教授)には感謝している。
 さて学会であるが、初日はこの季節としては珍しい暴風雨に見舞われた。低気圧の影響で、徳之島では竜巻のために3人が死亡している。
 11月19日(土)、朝の7時30分から支払基金でレセプト審査を行い、8時30分に空港に向けて出発した。ところが途中でまた車の事故が遭って一大事と心配したが、少しの渋滞ですんで9時30分前には空港に着くことができた。ところが使用機遅れで出発も20分ほど遅れ、また荒天の飛行ということもあってか、羽田空港には予定時刻より30分ほど遅れて着陸した。
 たまたまほかの研究会に出席するという園田至人先生と一緒の飛行機で、モノレールで天王洲アイル駅までは同行し、私はりんかい線に乗り換えた。国際展示場駅で降りて宿泊予定のホテルサンルートで荷物を預けて、会場の東京ビッグサイトに向かったが、横殴りの雨で結構濡れてしまった。長いエスカレータで6階のロビーに着くと、川村治子先生(杏林大学教授)にばったり出会った。抄録集で川村先生の名前を確認していたので、「都合がよかったら久しぶりに食事でもしたい」と考えていたので、早速今夕の約束をして第一会場(国際会議場)に入った。
 ところが会場は満席で、後ろの方では立って聞く人でごった返していた。ちょうど永井良三先生(東大循環器内科教授)の「医療安全学の新たな展開~科学と社会との対話を目指して~」会長講演が、もう少しで終わるところだった。学会誌の講演要旨を参考にすると、「科学技術の進歩により、医療の質と安全に障害が現れてきている。医療現場ではそのメカニズムを理解できない病気や、数字や画像ではうまく表現できない多くの問題が生じている。このような科学一辺倒で処理できない不確実な時代にあっては、医療者・科学者は社会との対話をより重視しなければならない」というようなことだった。
 次の特別講演は村上陽一郎先生による「医療とリスク管理」というもので、村上先生は1998年に「安全学」という本を出版した日本の安全学の先駆者である。「医療は科学であると同時に技術という側面を持っている。技術は時に患者に侵襲的なこともあるが、cost-benefit analysis(費用対効果)」で割り切るしかない。ただ何をベネフィットと考えるかは医療者と患者側では食い違いが生じることもあるわけで、インフォームドコンセントが必要とされる所以である」。そして「フールプルーフと権威勾配」について話された。
 先日、飛行機の中で急病人が発生して、丸山先生と診る羽目になったことはこの院内ランでもふれた。村上先生の話ではコックピット内では機長が権威勾配の頂点に立つが、急病人の処置の判断では例外的に医師の判断が機長に優先することになっているという。先日の場合にも、離陸後間もなくだったら「羽田に引き返すべきか」難しい判断を強いられたことになる。ただ客室乗務員は「すべての責任は私たちが負いますので」と言われたが、その整合性はいかに取るのだろうか。
■ 「医療の質・安全」学会(後)
 同じ会場で、シンポジウム2「医療の質・安全のための科学的方法論」が東京大学工学系教授の飯塚悦功先生の司会で行われた。
 科学的方法としてその要素を「理解」、「技術」、「管理」、「実践」に分けて、それぞれのシンポジストが15分ずつの持ち時間で講演しそして討論という構成である。最初の森田啓行先生(東大健康医科学創造講座)は、医学は学問で、医療はそのヒトに対する実践であり、そして「ゆらぎ」と「ばらつき」の支配するリアルワールドであるため、当然「はずれ値」も多い。医学は常に「なぜか」とか「どうすればよいか」と問い続け、科学的解釈を求める姿勢を持ち続けなければならない。そして医学での検証結果を、先入観にとらわれず偏りなく解釈し、現場へとフィードバックする姿勢が医療をよりよいものにすると説かれた。
 次がNTT東日本関東病院院長の落合慈之先生である。医学は科学の一分野であるが、「一人の患者が入院したとき、極めてまれな合併症の有無まで確実に予測できない。それは医療を受ける患者側の要因(アレルギーや易感染性などの個人の体質)と医療を提供する側の要因(ミスやエラー)がある。ただ後者の要因は、平均在院日数の短縮や人手不足という、現代医療の抱える負の要因を前に、容易には排除できない。結局は、医療に関わる人々のコミュニケーション力とリスクに対する予知力ともいうべき想像力を発揮することである。そのためには、コミュニケーション力と想像力の情勢を妨げない雰囲気作りが
重要である。情緒的と言われるかもしれないが、過重労働や職種、職位、年齢による権威勾配がなく、敬意のもとにお互いの立場を優しく思いやることのできる職場環境である」。
 三人目の水流先生(東京大学医療社会システム工学寄付講座)の「医療を社会技術とするための臨床知識の構造化」の時は睡眠時間(?)で、最後の棟近雅彦先生(早稲田大学理工学術院)の「社会技術としての医療質マネジメントシステム(QMS)の実装と実践」は、安全で質の高い医療を社会に提供するには、QMSを病院で構築し運用することが不可欠であると説く。そして工業界で一定の成果を収めてきたQMSの代表的モデルがTQM(Total Quality Manegement)で、フィロソフィー、コアマネジメント、QC手法、運用技術の4つの要素からなっている。
 この総体的にはちょっと理解しがたいシンポを聞きながら、医療と工学系の人の興味の持ちどころにはずいぶん差があることがよくわかった。もう少し双方が歩み寄る努力と、わかりやすく説明する心掛けが必要ではないだろうか。
 夕方は、雨風を避けながら、やっと適当な店を見つけ川村先生(杏林大学教授)と久しぶりにゆっくり話すことができた。平成4年頃、私が副院長の時に川村先生が九州医務局の医療課長の頃からの付き合いである。不思議なものでその当時からの「権威勾配」はずっと続いており、私にとってはいつも頭の上がらない人の一人である。川村先生はざっくばらんに、飾らずに指摘してくれるので私にといってはありがたい存在である。
 学会二日目の20日(日)は雨は上がっており、9時からは井部俊子先生(聖路加看護大学学長)の教育講演「医療安全管理者の品格」を聴講した。「品格」という大胆なタイトルを掲げていたわりには、それほど突っ込んだ分析にはなっていなかった。私は井部先生とは直接の接点はないが、「率直な女性」という印象を持った。
 私の出番は10時30分から始まるワークショップで、11時55分までを座長として嶋森先生との共同作業である。結果的には4人の演者が時間を守ってくれて、20分ほどの討論時間を確保し活発な討論ができた。さすがに嶋森先生の人選も的を射ていて、地域性、内容、職種とも的確な人選だったように思う。
 長先生の広島県府中地区医師会の地道な活動を通して、その成果をきちんとした論文にまで仕上げている努力に敬服できたし、杉山先生の武蔵野赤十字病院を核とした地域医療安全推進活動、小林先生の山梨県立大学を軸にした医療安全研究会、そして庄司先生は津地区医師会の会長として、自ら強力なリーダーシップで医師会員の医療安全に対する意識を変えつつある。いずれも地域における地道な草の根的な活動であるが、そのうちに大輪の花を咲かせるのではないかと思わせてくれる魅力的な話だった。
 ワークショップの行われた会議室はさほどお大きくはなかったが、出席された人はこの問題に関心の強い人とみえて、多くの人が討論に参加してくれた。また私は嶋森先生とは2年間の研究班での付き合いで、相互にア・ウンの呼吸ができていたために、難儀することなくこのワークショップを楽しく終えることができた。
 また望外のというべきか、当然の結果というべきか、嶋森先生の研究班で何度もその成果を発表されてきた五十嵐博恵先生(仙台市のUクリニック五十嵐歯科院長)の発表がベストプラックティス最優秀賞を受賞された。震災後、何かと大変な中で、スタッフが心を一つにして頑張ったことが評価されたのである。心からの賛辞を贈りたい。
■ 医療倫理と患者の権利 
 九州医療センターの教育担当師長の石原さんから、医療センターで毎月行われているフォーラムの11月分の講義を頼まれた。そのテーマは「医療倫理と患者の権利」という内容であったが、「倫理と権利」をまともに講義したら、「セルシンとハルシオン」を混ぜて飲むほどの効果が出そうなので、思い切り横道に逸れることにした。
 11月22日、福岡市のヤフードームと隣り合わせに建っている医療センターの大講堂、祭日の前日にこのような硬い話を聴きに来てくれるものかと懸念していたが、終わるころには後ろで立っている人もいてホッとした。村中院長の挨拶に引き続き、岡田臨床研究センター長から過分な紹介をいただいて講演となった(岡田先生からNHKの「今日の健康」の12月号をもらったが、12月の第一週に4日間、脳梗塞をテーマにテレビ出演とのこと、イケメンだし、いつもわかりやすく話せるので最適か!)。
 講演では最初の数分が大切だとよくいわれている。今回は「さつま(鹿児島)で嫌われる人(カッコ内はその反対)」の3類型を紹介することから始めることにした。
 げんねこちょ知らん人(含羞)、よかぶいごろ(謙虚)、やっせんぼ(勇敢)で、最初のげんねこちょ知らん人は、司馬遼太郎が鹿児島に取材旅行中によく耳にした言葉で、その後も気になっていた言葉として紹介されている。今日の講演では、最後には「看護とは」について語るほど、身の程知らずのそれこそ「げんねこちょ知らんで、よかぶって話す」ことの了解をもらいたかったのである。
 生命倫理については、今年から始まった厚生科学研究の「難病医療の包括的研究」分科会(私が分科会長を引き受けている)の班員の一人、清水哲郎さんの「生命倫理原則セット」を紹介することとした。清水さんの頭の中には、終末期医療や、具体的には人工呼吸器の装着や胃瘻の適否を念頭に置いていたのではないかと想像される。その中で、まず「相手を人間として尊重する」ことで、その心は共同で医療行為をする、相手の傍らにある(ありのままの相手を受容する・共感から始める)ことだという。二番目は「相手の最善を目指す」で、なるべく相手の益になるように、害にならないようにする(ここでの利害の一般的尺度は、QOKと余命の積とする)。そして相手の充実した人生を妨げない。最後が、正義を保つで、その心は第三者に対して不公平にならないこと、社会的資源をできるだけ活用することだという。
 そのあと講演では 、85歳のアルツハイマー型認知症の女性患者に胃瘻増設は必要かという話題と、日本病院会の「倫理綱領」草案を紹介した。
 先日、ある患者さんの奥さんから電話で相談があった。60歳のご主人が数か月前から手の力が入らなくなり、鹿児島市内でも有名な病院の神経内科を受診した。その先生は私もよく知っている優秀な医師であるが、筋電図などの検査をしたのち、ややぶっきらぼうに(奥さんの表現なので、真偽のほどは分からない)3か月してから再受診するように言われたという。「ALSではないかと、夜も眠れない」ほど心配しているという内容だった。
 私はこの先生の優秀さも性格もよく知っており、医師の立場から言えば全く問題はない。ALSの初期の場合、頸椎症などを除外できれば、経過でおのずから診断はつく。ただ家族の立場で考えれば、「もし心配でしたら、いつでも相談に来てください」とか、一月ごとの受診にして「段階的告知」をすれば、このような相談はなかっただろう。「相手の気持ちになってよく聴く、共感するというコミュニケーション」というタイトルにしたが、全体的な内容を「ナラティブ(物語る)な医療を」という趣旨で話すことにした。
 全体の時間が1時間余りということで、「わがままと自己主張との距離」と「看護とは」はちょっと急がざるを得なくなった。聴いている人には多少消化不良気味になったことを恐れたが、約束の19時前には全て終えることができた。
 そのあと、村中院長や冷牟田副院長、岡田センター長、井口統括診療部長、看護部から七井部長、木佐貫副部長、石原さん、そして事務部からも橋口部長など10人ほどが「梅の花」で歓迎の懇親会を開いてくれた。村中院長の人柄が浸透しているのか気の置けない楽しい会話で、時の過ぎるのも忘れてしまった。最後に、鹿児島大学の出身だという井口先生の音頭で、博多の夜に「北辰斜めにさすところ」をみんなで歌ってお開きとなった。
■ ネット社会の怖さ(続)
 「ネット社会の怖さ」について以前このランでも触れたことがあった。
 その時の騒動の発端は、ある製薬メーカーの女性MR(医療情報提供者)が、ツイッター上に「でもうちの社員、仲良い薬局からハルシオンの後発まとめ買いして、飲み会の時に酒に入れたりしてるしな。危険過ぎ」。目的は何かとの質問に「飲み会(泊まり)での悪戯です(笑)てか一歩間違えたらスーフリ並の犯罪なのに…さすがに女子には飲ませてませんでしたが、飲まされてた上司は超しんでましたよ」と、当事者間にしかわけのわからない文言を並べたのである。
 ところが恐るべき情報社会というべきか、この悪戯(いたずら)が取り返しのつかない結末を迎えてしまう。「向精神薬(ハルシオン)という極めて重大な薬剤を不正な方法で取得して、目的外の用途に使用した」ということになり、このことがネット上を面白おかしく駆け巡ってしまった。
 ネット上では、一度発信されたものを削除して仕舞うことは困難である。挙句の果ては、この女性のプライバシーまで白日のもとに曝されるという結果まで招いてしまった。
 この「事件」と類似したことが、我々の国立機構病院でも起こってしまっている。
 20歳代前半の女性看護師が、自身のブログに「患者への注射をわざと失敗した」など患者への加害をほのめかす内容を書き込んでいた。看護師は「虚偽の内容を書き込んだ」と話しているが、同院では、この看護師の処分を検討しているという。
 同院によると、この看護師は今年9月からブログを始め、10月下旬に「今日は大嫌いな患者のお部屋担当でした」「腹たってからわざとバシバシ何回も殴って血管じゃないところに(点滴を)ぶっさして失敗した」「死んでほしい」などと書き込んだのである。おそらく悪意はなく、ちょっと大げさに面白おかしく書いたつもりだろうが、悪意に満ちた「つぎはぎ」で、再構成する輩が多い。
 今回もこのブログの内容が、インターネットの掲示板に流され、挙句の果ては実名入りのものまで飛び出している。
 もうずいぶん昔のことであるが、ある病院の筋ジストロフィー病棟の男性患者が、女性看護師と関係が悪くなり、その女性を誹謗中傷するような内容の文章をブログに掲載してしまった。その女性は警察に告訴し、民事裁判にまで発展したということを聞いたこともある。
 私も、このランの一部を病院のホームページに掲載させてもらっている。一度掲載されると不特定多数の人が、いろいろな意図をもって読むわけで、慎重なうえにも慎重にと思っている。しかし人間にはヒューマンエラーはつきものなので、より一層の慎重さが求められると自戒しているのだが。
 ブログやツイッターで情報発信をしている人は、先の2事例を肝に銘じていて欲しい。
■ 夜間に手術できる病院がない
 12月8日の朝日新聞朝刊で、次のような記事が目に留まった。
 「厚生労働省は7日、当直明けの外科医に、手術の予定を入れないように取り組む病院について、来年度から診療報酬の加算対象に加える方針を固めた。勤務医の負担軽減策の一環。・・・」というものである。 
 この記事を読んで、厚労省の役人(霞ヶ関)がいかに地方の医療の実態に疎いかがよくわかる。この記事では続いて「当直疲れが原因で、手術時に医療事故や、事故には至らないミスの経験があるのは4%、事故経験はないが手術の質が低下することが多い、まれにあると答えたのは83%に達し、医療安全に影響があると判断した」とある。
 多くの地方の病院では、医師は好き好んで過重労働をしているわけでもなければ、また管理者もそれを善しとしているわけでもない。多くの病院では慢性的な医師不足で、地域医療を担わなければならないという責任感で、多くの外科医が当直明けの手術を余儀なくされているのである。代わる人がいないのである。
 くしくもこの記事が掲載された前夜、姶良郡医師会管内の主だった病院の院長と外科医(主に消化器外科)、そして大学病院の教授(旧1,2外科)が鹿児島市内のホテルに参集して、「姶良郡での特に夜間の消化器系の救急患者に、どのように対応していったらよいか」という緊急の話し合いがもたれた。当院からは私と、塗木・内倉の両先生が出席したが、近隣の病院の現状を聞きながら、地域医療は私の想像をはるかに超えて崩壊が進んでいることを実感したのである。
 たとえばこの問題の発端となった国分生協病院では、来年の1月に二人いた外科医の一人が、鹿児島市内の生協病院の応援にかかければならない事態になった。本体の鹿児島生協病院の外科医のうち3人が、ストレスなどによる病気で手術をできなくなったという。また姶良市内の青雲会病院では3人いた外科医のうち一人が家庭の事情で来年3月には辞めるため、2人体制になるという。そうでなくても医師不足で雑用(本業なのか)に追われて、朝外来をやったのちに手術に入るので、多くの手術は午後2時ごろからだという。また当院から近い大井病院では、多い時期には3人いた外科医が現在では一人となり、ほとんど大きな手術はできなくて、大学から週に一回派遣された医師が来る日にかろうじて手術ができているという。姶良郡医師会管内でもっとも救急を受けている姶良郡医師会立霧島医療センターでは4人の外科医がいるが、一人が麻酔で二人で手術中に救急患者の搬入が続くので、2例目の手術が終わるのは夜遅くになることも多く、医師も看護師も疲労困憊の状態だという。当院の場合には、現状では幸いにも4人態勢であるが、来年以降は諸事情でこの体制で臨めるかどうか危ぶまれている。そして驚くことに、これらのすべての病院で常勤の麻酔医は一人もいないのである。外科医がいわゆるセルフで手術をするのはリスクが高いことは分かっていても、やむを得ないのである。 
 さて私の勤めている南九州病院は姶良市(加治木町)にあるが、隣の霧島市と合わせて姶良郡医師会に属している。人口は姶良市が約7万5千人、霧島市が12万8千人で、両市を合わせると20万人を超え、鹿児島市に次ぐ人口規模となっている。ところがこの地域で、虫垂炎や腹膜炎、イレウス、胃腸の穿孔といったような消化器疾患の夜間の救急に、対応できにくくなっている。夏越教授の話では、「姶良郡に限ったことではありません。鹿児島県下、事情はどこも同じです」ということだった。
■ 筋ジス「親の会」との懇親会(前) 
 当院に現在入院している筋ジストロフィーの患者の両親や姉妹との懇親会が、鹿児島市の白熊で有名な「むじゃき」で開かれた。私にとっては30年余に亘る「筋ジス医療」を再認識するいい機会となったが、一方では複雑な思いにもかられる会だった。というのも、この間、優れた人工呼吸器が使用できるようになったり、さまざまなケア技術の進歩により、当時20歳まで生きることが目標だった最重症のデュシェヌ型の患者でも、今や40歳を超える人も珍しくなくなっている。それでも遺伝子治療などで少し光明が見えてきたとはいうものの、根本治療には程遠い状況は続いている。この会に出席している母親の中には、自分の兄や弟を看取り、そして子どもが当院で闘病中で、半世紀近くも続く長い厳しいドラマの真っ只中の人もいる。
 私は1976年から1年間、南九州病院の筋ジス病棟に出張し、1984年から30年近く南九州病院で働いている。1984年から最初の7年間は神経内科医長として、次の7年間は副院長として患者に直接接してきたが、1998年からは院長になったので、筋ジス患者との関係は薄くなっている。とはいえ院長になってからも6年間、厚労省の筋ジス研究班の班長を務めたり、また病院管理者の立場で筋ジス病棟との関係は続いている。
 平成10年に院長になることが決まったとき、患者から「院長になったら人には言えない気苦労も多いと思うので、うっぷんを晴らしたくなったら私たちを使ってください」と、変なことを言われたことがあった。今となって考えると彼らの洞察力には脱帽するのだが、よく病棟に出かけては肩ひじ張らない他愛ない会話で気分転換をさせてもらうこともある。
 昨日は、エツコから久しぶりにメールが届いていたが、最近はメールで近況を知ることも増えている。
 早いもので今年も一ヶ月を切りましたね。一年って早いですね。私でさえ一日が早く感じます。もう少し1日が長ければいいのにと思います。
 先生とお別れが迫ってると思うと(実際には、まだまだなのだけど)、凄く不安でたまりません。思ってるせいか、夕べは先生の夢をみました。目覚めたら涙が一杯流れてました。「先生、何処にも行かないで」と訴えていました。最近長く生き過ぎたと思います。夢の中でも、私は声を出してません。でも自分の声を忘れてます。どんな声だったか思い出せません。先生、お忙しいと思いますが、会いたいです。(ということで、昨日はちょっと遊びにでかけた。ちょうどお姉さんも見えていて、久しぶりの再会となった)
 ところで筋ジス病棟には、日本筋ジストロフィー協会「鹿児島県支部」と「親の会」という二つの組織がある。今回は後者の主催する会ということだったが、会員の多くは重複している。もっとも筋ジス病棟という名称も正式にはなくなり、数年前から自立支援法の適用で療養介護病棟という名称になっている。
 先日、徳島病院の小児科の多田羅先生から「昭和48年にNHKが徳島病院の筋ジストロフィー病棟を取材して作成したドキュメンタリー番組」が送られてきた。筋ジス病棟の発足当時からの患者と筋ジス親の会との確執が生々しく描かれていたが、その当時から40年が経っている。もともと筋ジス病棟は初代の筋ジス協会会長だった河端さんなどの、必死の誓願やキャンペーンで創設されたものだった。ただ当時はまだ病気を隠しておきたいという親の気持ちと、自立を願う患者の要求が対立したこともあったようである。
 さて懇親会は18時30分から、王原さん(親の会会長)のあいさつで始まった。この懇親会に参加された人は総勢で40人ほどで、当院からも指導室のスタッフが5人ほど参加していた。
 テーブルを挟んで私の前に座られたAさんは、現在「筋ジス協会鹿児島県支部長で、二人のお子さんが入院している。「最初の子どもが筋ジスという病気であることがわかり、次の子供をどうするか迷いました。結論として『もし病気だったとしても精一杯育てよう』と家内と話しあいました」と笑いながら話される。文字通り、二人の子どもを心から慈しんでいる様子が話の端々からもよくうかがえる。「子供たちに教えられることが多いのですよ。子どもはかすがいとよく言ったものです。本当にそのように思います」と続ける。A君は絵がうまくいろいろな団体から受賞されており、当院の外来にもその一枚が展示され
ている。
■ 筋ジス「親の会」との懇親会(中)
 隣はM君のお父さんで、現在は病院の近くのる特別養護老人ホームで働いているという。20年ほど前にM君が初めて診察に訪れた時、お父さんはグラフィック関係の仕事をしていると聞いたことがあったが、お会いするのは今夜が初めてである。「子どもは私の芸術の才能をよく受け継いでくれています。先日の車いすサッカーの壮行会のグラフィックは私の息子が創ったそうですが、親から見てもよくできていると思いました」と誇らしげに語る。Mさん自身も以前はパステル画など描いたり、グラフィック関係の仕事で生計を立てていたが、コンピューターに押されて立ち行かなくなったという。
 このM君、実は叔父さんにあたるハジメ君は私が主治医で、亡くなった時には通夜にも出席したことがある。病院を退院して在宅で療養中だったが、急変し救急車で医師会病院に運ばれたが蘇生しなかった。ご自宅は武町の高台にあったが、通夜に行ったら親の会のメンバーが多数駆けつけていた。当時は私もまだ若かったわけだが、申し訳ない気持ちも手伝って針のむしろに座らせられているようだったことを覚えている。
 ハジメ君のご両親は子どもの病気に極めて熱心で、そのあまり私もいろいろ気苦労した。当時はまだ受精卵を使った遺伝子診断は確立されておらず、筋肉から漏れ出るCPKという酵素の値などを参考にして、いわゆる保因者診断を行っていた。M君の母親は大学病院で検査を受け大丈夫だろうとの判断だったが、結果的には同じ病気の子どもが生まれたと聞いて少なからず衝撃を覚えたことを覚えている。でもM君はいつも前向きで素直に育っており、私の勝手な基準からは「もっとも健康な少年」といってもいい。ハジメ君のお父さん(M君からはお祖父さん)は84歳になり、長女と大阪で暮らしているという。
 叔父さんと甥との関係でいえば、T君の場合も同じである。この夜、母親が挨拶に来てくれたが、亡くなったコウゾウ君とよく似ていてびっくりした。コウゾウ君がまだ元気なころ、よく見舞いに来てくれていた少女が、立派な母親となったことに驚く。聞くところではコウゾウ君のお母さんはまだお元気で、「自転車にも乗れます」ということだった。生きておればコウゾウ君も45歳で、カズユキやテツゾウ、ミチエなどと同級生だったという。見るからにいいお母さんで、この夜も繰り言など一切なかった。
 松本さんも挨拶に来てくれた。「親の会」を世代別に分けると、1.5世代とでもいうべきか、今夜集まっている第2世代と、昔私が親しくしていた第一世代との中間の位置にある。そのため、つい昔の人の消息を尋ねてしまう。種子島で薬局を経営し、長い間筋ジス協会の支部長をされていた柳田さんはどうしたのだろうか。また支部総会ではいつも奇想天外な質問で我々を驚かし、よく天文館界隈を彷徨していた瀬戸口さんは最近見かけなくなった。吐合さんは脳卒中を克服し時々電話で話すこともあるし、ヒロシのお父さんはもう83歳ということだが、串木野で漁協の会長である。松本さんも昨年奥さんを亡くし、現在は次女と住んでいるという。「シュウイチがお腹が張ってきたときには心配したけど、今は落ち着いてホッとしている」という。
■ 筋ジス「親の会」との懇親会(後) 
 宴も半ばになり、私は自分の席を立って女性の陣取るテーブルに向かう。
 まず昔なじみのオカユウのお母さんにも久しぶりに会った。もうずいぶん昔のことになったが、オーストラリア旅行なども話題になった。ご主人を昨年、当院の緩和ケア棟で食道がんで亡くなったという。「見つかったときには手遅れで、緩和ケア棟に3週間お世話になりましたが、あそこは亡くなる前日まで外にも出れていいですね」と言う。「オカユウの部屋はみんな頑張っているね。日高君、宮田君、ゼンコウと。やはり大部屋はみんなで何かと助け合っていいもんだね」と私。新病棟を建築するときに、個室と大部屋の割合をどうするかでアンケートをとったときに、意外にも(当時の私の考えからは)大部屋派が多くてびっくりした。よく話を聞くと、車いすで自由に動けるときには個室がいいが、寝たきりになってしまうと(いつも待つ身で)、同じ部屋の患者の背中が見える方がホッとするということだった。「ゼンコウ君の誕生日には、同級生だったケンイチ君(数年前に亡くなった)のお母さんが、毎年プレゼントを持って見舞いに来てくれるんですよ」と私の知らない話もしてくれる。ケンイチ君のお母さんは障害者に対するヘルパー事業所を開設されている。
 M君のお母さんとも久しぶりである。今日は御主人も一緒で「仕事を理由に子どものことは家内に任せっきりでしたが、これからはできるだけ病棟にも顔を出すようにします」と、先ほどの挨拶でも話された紳士然とした人である。M君もスマートな青年で、鹿児島大学の法学部に進学したが、2年生の時に体が続かずに中退した(受験の時には、診断書を書いたことがあった)。小学4年生の時に病棟の見学に来て、突然いなくなって大騒ぎして探したことなど今となっては笑い話である。
 そのあと、徳田さんのお姉さんと、小野君のお母さんが、私の書いた新聞記事を切り抜いて何度も読み返していると聞いて、「明日、本をプレゼントします」と約束した(翌日、サイン入りの拙著を送った)。
 Kさんの所に行くと、頭を畳にすりつけるほどして挨拶される。十数年前、お子さんが二人とも筋ジスで、おまけに奥さんが病気ということで相談を受けたことがあった。草牟田の3号線沿いに小さな電気店があったが、現在はなくなっている。最初に長男が入院、そして現在では二人とも入院している。「山中教授の新しい細胞で、筋ジスが治りそうだという話を聞いたのですが、本当ですか」と哀願するようなまなざしである。「すぐというわけにはいかないと思いますけど、希望は見えてきたと思います」と曖昧に答えた。
 懇親会は夜の9時過ぎに終わった。
 私が主治医として筋ジス病棟と深く関係のあった頃の懇親会は、もっと深刻で重たい雰囲気だったように思う。「この子どもたちをどうしていくか、治療法はどうなっているのか」など厳しい質問攻めに遭ったものである。ところが今夜の雰囲気は和気藹々で、楽しく友好を深めていこうという雰囲である。いい意味での諦観なのか、あるいは生活にある程度の余裕もできて落ち着いて考えることができるようになったということだろうか。
 翌日、筋ジス病棟の親の会の事務局も担当している山田君にこのような話をしたら、次のようなメールが返ってきた。「今の患者は呼吸器を着けているような重症の者が多く入院歴も長いから、ここから回復して退院するというようなことは考えられないからではないでしょうか。それとは反対に昔の患者はみんな子供で元気だったし、病気は殆ど解明されてなかったから、未来に期待があったのでは」というものだった。

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