院長雑感詳細

院長雑感(128号)

県の難病相談・支援センターでの「医療相談」では、時間的にも余裕があるので一人に1時間以上かけてゆっくりと悩みを聞き、相談に乗ってあげることができる。多くの場合、病気以外の部分で不必要に悩んでいることが多いので、ゆっくりと説明すると笑顔で帰ってもらえる。
 ところが日本の外来診療では、このようなスタイルはとれない。思いはあっても時間がとれずに「薄利多売」となり、もろもろの「苦情」の根源となることが多い。日本の保険制度の大きな利点でもあるフリーアクセスに由来することで、悪い形となっている典型みたいなものである。
 今後、大きな病院では紹介患者のみに限定し、初診料も高く設定して受診者を制限する方向にあるようだが、まず国民の意識改革も必要である。
■ 患者数
 12月の入院患者数は372.8人で、計画に対し0.7人の減となった。平均在院日数は、調整前で15.6日と全く問題はない。外来は171.9人と、計画比で2.4人の減となった。
■ 診療報酬点数と損益計算書
 12月の診療報酬点数は、計画比で入院では1,253,913点の増、外来も229,375点の増で、対計画では入院・外来合わせ1,483,288点の増となった。また4月からの累計では計画比5,129,170点の増なっている。
 8、9月で、7月までのマイナスを挽回して、一挙にプラスに転じ、10月は入院/外来と若干の減、そして11月は若干の増、12月も予想以上の増で、成績の良かった昨年に迫る勢いである。
 損益計算書では、12月分で賞与按分額を調整して106.1%(経常費用が、電子カルテの支払いなどかさんだ)で、11月までの累計では109.4%である。
■ 謹賀新年
 あけましておめでとうございます。
 「一年の計は元旦にあり」と申しますが、皆さま方におかれましては、どのような決意で臨まれる2012年(平成24年)でしょうか。昨年は誰にも想像だにできない大震災と原発事故など、日本にとっては多難な一年でした。ただ病院にとりましてはお陰さまで特に大きな事故もなく、順風な一年だったと総括できました。
  今年は、個人的には平成10年にこの病院の院長を拝命して以来15年目を迎えることになり、来年の3月には定年退官となります。いよいよ最終年度ということになりますの、「有終の美」を飾れるように頑張りたいと思います。
 さて当院のこれからの一年を予測しますと、当面大きな事業計画や懸案事項はないようです。もちろん病院という所は生き物のようなものですので、先々のことは全く予測できません。そのために私たちはいろいろな備えは怠ってはなりません。取りあえず重症児病棟の設計と、それに伴うリハ室や療育指導室の一時的な移転は計画に上っています。関係者の方々には、立派な病棟を建設するために積極的に係わって欲しいと思います。
 さて私は、この一年を、「原点に戻る」という言葉に集約したい。
 私たちはともすると日常の忙しさにかまけて、私たちが日々行っている仕事の意味を忘れてしまいがちになります。人間はただ生きるため、その糧を稼ぐために、働いているのではありません。私たちは自分のやっていることが自分の生き甲斐となり、また社会への貢献であるという意識を持ちたいと思います。幸い医療という分野は、日常的に普段通りに仕事をしていることで患者さんに感謝されるという有難い仕事です。でもそのことに甘えてはなりません。
 私たちの病院には、「病む人に学ぶ」という素晴らしい院是があります。この言葉にはいろいろな深い意味がかくされています。もともと医療という行為は、病む人に接して何らかの手助けをしたいという人間本来の気持ちと、その過程での試行錯誤のなかから生み出されてきた科学が融合しながら少しずつ学問として体系化してきたという歴史があります。患者さんが自らの厳しい闘病の中で、我々医療者に教えてくれたものの集大成なのです。私たちは先人の貴重な経験の上に、現在の医療を行うことができています。また私たちは患者さんからばかりでなく、同僚など多くの人から「学び」ながら成長していくもの
です。謙虚な姿勢を失えば、人間としての成長はありません。
 また私たちの病院には「三つの基本方針」があります。「質の高い医療、思いやりの医療、健全経営を基盤とする医療」を目指すというものです。
 この三つの目標とも、現在の医療の中では必要不可欠なものです。院是とも関係することですが、相手の気持ちになって思いやりのある医療を行うことが、患者さんに学ぶということでもあります。ただ思いはあっても質が伴わなければ、いい医療はできないことも明白です。私たちは常に向上心を持って技を磨かなければなりません。おそらくその結果として、健全経営はついてくるものと思います。
 幸い当院では、私が院長になってからずっと、経営的にも健全な成績を収めることが出来ました。これも職員一人一人が力を合わせて頑張ってくれた賜物と認識しております。その結果、地域の信頼をえて、多くの患者さんが当院を選択してくれています。
 時代は不安と混とんさを増しています。ただどのような時代にあっても、「いいものは残る」訳で、自らの医療に誇りを持てるように、今年もさらなる精進を期待しております。
■ 健康への感謝
 「楽しい読み物でした。これは先生の著書の完結編であろうとも思いました。先生の今までは、何よりも恵まれていたご自身が『健康であった』という記載と感謝が、先生の性格上のテレと配慮で記載されていないのですね。但し、何に感謝するのかは色々でしょうが、患者さんや病める私たちには、最も羨ましいことなんですから遠慮されたのでしょう」というメールをS先生から頂いた。S先生は私の心許せる大先輩の偉い先生だが、小さいころの小児まひの後遺症で、片足が不自由できっとご苦労も多かったものと推察される。
 確かに今回の「物語」のなかで、自分の健康についてはあまり触れなかった。「病気のつらさや介護の大変さは、それを経験した人にしかわからない」という持論と自己矛盾を起こすことになりそうである。
 私は今まで幸いにも健康に恵まれてきた。小学校から高校までは皆勤賞だったし、この南九州病院に勤務するようになってからも、いわゆる病休といえるものは一日だけである。20年数年前に頭痛と吐き気があり、ウイルス性髄膜炎かもしれないと思ったが、鎮痛剤などで軽快した。もちろん入院したことも手術したこともない。
 だから文字通りの壮健な体質かといえば、そういうわけでもない。小さい頃は熱が出たこともあったが、寝込むほどのことはなかった。卵を飲んだり、鰹節と味噌にお湯をかけたようなものを食べると元気になっていた。母は病気に関してはスパルタ方式で、ちょっとの熱では学校を休ませてくれなかった。
 成人になってからも風邪症状や持病のしゃっくりが出たり、またぎっくり腰は3回ほど経験した(最近も、腰の張った感覚がある)。肩こりは最近ではずっと続いている。数か月前には肩こりのうえに左手のしびれ感があったので、MRIを撮れば頸椎に変化が見られるかもしれないと思ったが、どうせ手遅れになっても50歩100歩だと腹をくくっていたら、少ずつし改善してきているようである。
 またしゃっくりはやっかいもので、一旦出始めると2,3日は続くことが多かった。大事な発表の時にしゃっくりが起きてはしゃれにもならないと心配することもあった。亡くなった義父が、「H2ブロッカーでも飲んでみたら」といってくれたことがあった。確かにこの薬で治ることもあるので、しゃっくりの原因は胃酸過多による逆流性食道炎の場合もあるようで、義父の慧眼にビックリしている。
 7,8年前に、鼻血が出て止まらなかったこともあった。院長室のソファーに寝転がって、鳥越師長や当時の木佐貫師長の優しい看護を受けたことも今となっては懐かしい思い出である。
 そして睡眠には弱く、最低でも6時間はとらないと調子が悪いし、無理を重ねると体がおかしくなる。いわゆる無茶のできない身体で、リズムをとり規則正しい生活を貫いてきたことが、今のそれなりの健康につながっていると考えている。
 またどちらかというと心配性で、病気に関してもきっと泰然としておられる方ではない。経験的には医療関係者やいわゆる知識人と言われる人は、病気に弱い。ところが私の義父は循環器科の医師だったが、がんの告知を受けたのちも、また再発を告げられても、一度として不安らしき言動はなく、最期は食を絶つようにして従容と死を迎えた。ただこのような態度は例外だと感じている。
 日常の生活では、いわゆる健康食品を飲んだことはなく、また熱や体重を測ったこともなく、定期健康診断にもどちらかというと熱心ではない。
 このように私の場合、幸運が重なって可逆的な範囲の中で重症にならずに済んでいるということかもしれない。いわゆる人間の持つ自然治癒力とホメオシテーシスで、どうにかバランスを取ってきているようである。ただ医師は一般的には短命であり、自己診断に頼ったり、健康を過信し過ぎると痛い目に遭うかもしれないと案じている。明日の健康は、誰にも保障されていない。
■ ヒロコの布教活動
 この季節(年末)になると、毎年一回、遠く離れた阿久根市から2時間近くかけて自ら運転して受診してくれる女性がいる。電話で、「ヒロコです」という名前を聞くと、「ああ、またヒロコか」と、懐かしさとうっとおしい気持ちが微妙に入り交じってしまう。うっとおしさの所以は後で述べることにするが、「憎めない」し、まあ「ヒロコだったら仕方ないな」とつい思ってしまう。現在46歳、訊ねてみると小学3年から中学3年までの7年間、当院の筋ジストロフィー病棟に入院していたという。その後退院し、地元の農業高校に入学し、卒業後大阪の会社に就職したが帰郷、スナックを開いた。その間に娘を一人もうけ、現在はパチンコ屋で働いている。病名は脊髄小脳変性症の一つで、フリードライヒ型と分類されており、手すりがあれば少しならかろうじて歩くことができる。仕事の時は、車いすを使っているという。
 「誕生日が私と一日違っていてよかったよ(ヒロコは7月11日で、私は10日)」というような、他愛のない会話から診察が始まる。ところがここ数年というもの、診察はそっちのけでいつも私に対する新興宗教への「布教活動」に診察時間の大半は費やされる。筋ジス病棟にいた30数年前と同じ感覚で付き合ってくれるのは有り難いが(もちろん、敬語などなく、友達感覚である)、この果てしない「布教活動」には、ほとほと参ってしまう。
 まず、「○○新聞」を数部と、2L版ほどの大きさの写真を取り出す。その写真には、東北地方の大津波の惨状を物語る悲惨な状況が写されており、一面流された家屋の中で一軒だけ建物が残っているものである。「この建物は○○会の建物で、2階のここには洗濯物も残っていたんですよ」と、2階の窓に見える洗濯物を指さす。「○○会の御利益です。本当ですよ先生。私も、ずっと痛かった腰も、○○会長のお陰でよくなったんですから。金運もついて、この一年、大阪で働いている娘から百万、また亡くなった母親の遺産もはいってきたんですよ」。「でも、娘さん、偉いねえ。こんな時代に百万も貯めるのは容易なことではないよ。有り難く思わないと」と私。
 有名な△△会との違いを訊ねると、「あの政治活動をしている△△会と違って、私たちの会は金はあんまり集めなくて、年間1万円から8万円なんです。私は最も高い8万円を納めていますが・・・」などと、立て板に水を流すかのように、この数年で雄弁になってきている。「先生、浄土真宗では成仏できません。先生も早く私たちの○○会に入ってくださいよ」とまくしたてる。
 最初の頃は「ヒロコ、そんな話ばかりするんだったら、もう来なくていい」と怒っていたが、最近は「ヒロコにもいろいろな苦労があったのだろう」と一応我慢して、耳を傾けることにしている。何もしないでは病院らしくないので、30分ほど話を聞きながら、血圧を測って診察は終わってしまう。「折角だから、カズユキやエツコに会ってきます(昔の友だち)」と言いながら、車いすで部屋を出る。「あまり、迷惑をかけるなよ」と私。
 ちょうどエツコから「会いたい」というメールをもらった日だったので、昼過ぎに部屋に行くと、案の定ヒロコが来ていて、○○新聞を片手に「布教活動」中である。エツコは迷惑そうな顔で、黙って聞くしかない。「ヒロコ、病室での布教はよくないよ」と言うのだが聞き入れない。
 「まあ、元気で病院に来れるうちが・・・」とあきらめて、これも年末の行事の一つと思うことにしている。人生、いろいろである。
■ 懐かしい鞄 
 「アメリカから持ってきて、そのまま棚の中に仕舞っておいた鞄をどうするつもり」という電話を義母からもらった。「もう使わないでしょうから、捨ててもらったら」と家内、私もそのような気持ちに傾きつつあった。ただこの時には、どのような鞄だったのか、頭の中からその記憶はすっかり失せてしまっていた。
 義母の家を訪ねた折、棚からその鞄を取り出して私の目の前に置いた。突然、30年ほど前の記憶が突然蘇ってくる。シンプルではあるが、本革で茶色の重厚な仕立ての立派な時代物の鞄である。30年ほど前に留学していたロチェスター(ミネソタ州)の街で買ったものだと思うが、どこの店だったのかはっきり覚えていない。この鞄は学会を利用して家族でヨーロッパに旅行した時に、まだ2,3歳だった娘が飛行機で酔って、吐物をまき散らした代物である。今時の鞄に比べたら重たく機能的ではないかも知れないが、捨てるのはもったいなくなって「何かの折に使ってみよう」と持って帰ることにした。
 ところで鞄の話になるが、自分で買ったものは少ないのだが、学会の「引き出物」として貰ったりして大小さまざまな鞄を所有している。一時期、学会では高い参加料に対する申し訳なさのためか、安い中国製の鞄を進呈することが習わしになっていたことがある。そのために、大量の似たような鞄を保有する羽目になったのである。内村さん(毎朝、私の部屋の掃除などしてくれる)語録に従って、「ときめかないものは捨てなさい!」を実行すればいいのだが、「モッタイナイ」時代に育ったためか、ついつい貯め込んで部屋を散らかす羽目になる。
 さて私が東京出張などのときに使う鞄は2種類あり、滞在期間や交通手段、そして天気予報を見て使い分けている。例えば滞在期間が長く、好天が予想される時には、キャリー型の大きめの鞄を使用している。肩への負担が少なくて、物をたくさん詰め込める利点はあるが、欠点として、人混みの中では邪魔になったり、また雨の日は濡れたりする。もう一つの鞄は肩に担げる小さめのもので、機動性はいいのだが、パソコンなど詰め込むとどうしても重くなり肩へ負担が加わる。その結果、肩こりなどの遠因になっているようである。ただ利用頻度では後者の鞄が多いので、、肩掛けの取り付け部分が壊れたりと、今使っている鞄は何代目かのものである。
 さて今回再発見したアメリカから持ち帰った鞄、どのような用途で使ったらいいのか、思案中である。
■ キレる中高年男性 
 ある日の鹿児島空港搭乗口での一こまから始めよう。
 「ただ今から優先搭乗を行います・・・」というアナウンスが、係の女性からなされた。飛行機に搭乗するときには、まず「妊娠中や3歳以下のお子様をお連れのお客様、そし搭乗に際しお手伝いを必要とする方(事前搭乗サービスという)」から搭乗し、次が優先搭乗という順番である。その後に、一般の人の搭乗ということになる。
 すると、どこからみても田舎のオジサン風の男性が、チケットを自動チェックイン機にかざそうとした時、横から中年のビジネスマン風の男性が、「今、優先搭乗ですよ。アンタ違うでしょうが」と、見下したような目線で居丈高に大声で制止した。その憎々しげな横顔を見送りながら、「何とも絵にならないな」と感じながらも、私も後に従った。
 この優先搭乗とは、ANAのゴールドメンバーやプレミアムパス会員(要するに、頻回に飛行機を利用している人)やプレミアムクラスを利用する人を、一般の人より先に搭乗させるというだけのことである。私もちょっと気になりながらも(不思議なもので、最近は慣れっこになっているが)、この優先搭乗を利用することが多い。早く乗ったからといって何の特典もないのだが、もともと気が早いのと窓際の席に座る時にはちょっと便利である。
 今朝、私が論じたいのはこの優先搭乗のことではなく、最近「キレる中高年男性が目立つ」ということである。
 空港とか駅、あるいは病院のように相手方が「お客様」として遇しなければならないような場所で、この男性のように些細なことに腹を立てて、喚き散らす中高年の男性をよく見かけるようになった。立場的に弱い人に対して、突然激昂して怒りを爆発させる。傍目には見苦しく恥ずかしい行為なのだが、本人は冷静に判断できない。
 それではどうしてこのような行為に走る中高年の男性(もちろん、どの年代でも、女性でも)が多いのかということに関して、日経新聞では「職場でお荷物扱いされ、家庭では軽んじられて居場所のない中高年男性が増えている。彼らは自信がないから他人の視線が気になって被害者意識が強まり、ちょっとしたことで自分がバカにされたと思い激高する。唯一、自分が尊重される場が客という立場。最後のよりどころである客の立場を軽く見られると、怒りが爆発して衝動を抑えきれなくなるのだろう」と辛らつな分析を加えている。そして脳内物質であるセロトニンに注目して、セロトニンを増やすために「運動・日光浴・ふれあい」の3つの要素を日常生活に取り入れる工夫を挙げている。
 私はまさに中高年の男性の真っ只中にいるわけだが、この騒々しく何かにつけてストレスフルな社会にあって、「キレ」てしまう人の気持ちがわからなくもない。歳とともに、肩が凝ったり腰が痛かったり、耳は遠くなり眼はかすんでくる。自分の思い通りにいかない社会の中で、表面的にはお客様として遇してくれる(くれるべき)場所でぞんざいな扱いを受けると、積り積った負の感情が爆発してしまうのである。おそらく、このような感情は誰しも持っているわけで、理性で感情を抑えられるかどうかの差かも知れない。
■ いつまでも記憶に残る「随筆かごしま」 
 2011年12月25日、郷土の文化誌「随筆かごしま」がNo190号で、その34年間の歴史に幕を閉じた。最終号の連載「ガハハおばさんの花も嵐も」のなかで、代表の上薗登志子さんは、「随かご」は活火山のまま休みます。「おさえても燃ゆる想いは騒ぎ出す」で締めくくっている。きっと幕末の志士平野国臣(福岡藩士)の「我が胸の燃ゆる想いに比ぶれば煙は薄し桜島山」になぞえられたのだろうか。その名残り惜しい気持ちと、一方では爽快な達成感との複雑な心境ががよく伝わってくる。(平野は村田新八らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった。そこで失望しての歌だという)。
 それにしても34年という歳月、私がちょうど30歳ごろにNo1号でスタートしたことになる。昭和の日本の高度経済成長の時代、石油危機、バブルとその崩壊、そして平成にかけて失われた10年、鹿児島では8/6水害、今年の3/11と、ずっと見続けてきたことになる。隔月に定期的に刊行していくという作業、いかほどの忍耐を必要としたのだろうか。きっと代表の楽天的な性格と使命感、家族を含めて周りのサポートの賜物と思える。心から「ご苦労さんでした」と申し上げたい。
 最終号には巻末にNo150号からの目次が掲載されているが、私が投稿したものは次のようなものである。それ以前にも何度か頼まれるままに書いたように思えるが、思いだせない。
 静かな死(155号で、義父の思いで)、違った階段をのぼる(160号で、義母の友人で当院の緩和ケア棟で亡くなった足立さんの思いで)、ちょっと難産(162号で「病と人の生き方と」のこと)、南日本出版文化賞次点?(169号で、随筆かごしま社から刊行した「早起き院長のてげてげ通信」が次点になった悔しさ?を)、鶴の林(172号で、有里先生のお姉さんで20歳ごろに亡くなった才媛のこと)、予防に勝り治療なし(180号で、大腸カメラ奮戦記)、そして174号で、「この人に会いたくて」のインタビュー取材を受けている。その他に、日高君がグラフィックを担当して、その下に私が小文を添えたものとして、秋景色(182号)、ポインセチア(183号)、藪椿(184号)、春色の午後(185号)、佐多岬(186号)、向日葵スペイン風(187号)、卯の花(188号)、たそがれ(桜島)(189号)等がある。
 なお下記は、最終号190号の「さよなら随かご!!いつかまた・・・」に寄せた私の小文である。
 「随かご」がその長い、そして輝かしい歴史に幕を閉じるという。名残り惜しい限りであるが、現実的に諸事情を考えると致し方ないし、いい選択ではないかと思いたい。何でもそうだが、惜しまれて姿を消すことができたら本懐というものである。
 私と「随かご」との関わりは、もう随分前に上薗代表から「何でもいいですから、寄稿して下さい」というリクエストを受けて以来である。もっとも、亡くなった義父が病院の小さな広告を毎号載せていたこともあって、時々眼にはしていた。
 関係が深まったのは、平成19年に「早起き院長のてげてげ通信」を出版してもらってからである。その後、21年には「病と人の生き方」もお願いした。出版の折には、代表のみならず、野添さん、北方さんにも大変お世話になったので、ここで万感の気持ちを込めて感謝の意を表したい。
■ 2011年を振り返って
 南九州病院のこの一年を振り返る時、大きな医療事故もなく、経営的にも良好な成績を残せたことを考えると、概ね「いい一年」だったと総括できる。
 まず経営面では、2011年3月までの2010年度の経常収支率は106.8%で、職員に期末手当をだすことができた。また4月以降の11月までの経常収支率は110.1%(前年の同月では1112%)とこちらも順調である。この間、患者数もほぼ前年並みを確保できている。この4月から常勤の麻酔医が大学医局の意向で派遣されなくなり、代わって市立病院を中心にした非常勤の麻酔医で対応してもらっている(もちろん大学の斡旋には感謝しているが)。当初、どうなることかと心配したが、多くのスタッフの努力で手術件数もさほど減ることもなく前年並みに近い数字を残せている。しばらく綱渡りが続くと思うが、(ない袖は振れないので)よろしくお願いしたい。
 一方、医療面ではこの4月から臨床研究部が開設され、園田先生が部長に就任している。少ない医師数で日常の診療だけでも手いっぱいのところに、研究などできるのかと言いたくもなるが、国立病院機構の使命として、また自らの成長のためにも「臨床研究」は重要な柱である。今年は、治験なども増加しており、論文の作成にも意を注いでくれている。臨床研究は医師だけでなく看護部、リハビリ関係、栄養室、薬剤部、そして事務部それぞれに重要であり、研究成果をいろんな機会に発表して論文にまでまとめて欲しい。
 対外的には地域医療連携室が中心になって、がん診療連携地域拠点病院や、重症難病ネットワーク協議会の事務局としての仕事など、さまざまな研修会や講演会を企画したり、相談業務にもあたっている。
 この一年の病院のイベントとしては、昨年末に受審したVer.6で、日本医療機能評価機構から留保条件は一つもなくて、認定証が届いた(3月4日)。また3月から全面的な電子カルテに移行したが、大きなトラブルもなく、外来、病棟はじめ全ての部署で順調に作動している。金額的には結構高い代物だが、今後いろんな形で成果として現れることを期待したい。
 9月30日から10月1日にかけての宿泊研修(藺牟田池)、また10月15日の健康フェスタ(秋祭り)ではあいにくの雨天だったが入場者は700人になり、いずれも盛会で終えることができた。
 施設整備関係では、放射線科増改修整備工事が3月に終了し、待合室など見違えるように広くゆったりとなっている。また3月から保育所新築整備工事に着手し、来年3月には完成する予定になっている。重症児病棟などの新築移転も決まり、現在設計などの構想中である。
 最後に、3月11日に発生した東日本大震災の時には、NHO宮城病院に看護師を2人を派遣した。医師も含めた医療スタッフの派遣要請に答える態勢は整えていたが、5月以降は要請はなかった。震災からの復旧・復興には長年月を要するので、必要があれば援助できるように、関心はずっと持ち続けていかなければならない。
 秋以降、国立病院機構を独立行政法人から「新法人」に移行したいという声が上がり、機構本部や病院長協議会、各種協議会などと連携を取りながら模索中である。来年の3月ごろまでには、大枠の姿が見えてくるのではないだろうか。
 一年間、患者さんのために、そして病院の発展のために、日夜奮闘してくれた一人ひとりの職員を誇りに思いたい。
■ 松と千両
 私の外来での昨年末の「めでたいもの」に関する一こまである。
 「変わりはなかったね?」と、いつものように話しかける。「それがねえ先生、このところ貸出しがふえて、びっくりしているんですよ」と言う。「貸出し」とは、入学式や卒業式などの儀式のときに壇上に鎮座する盆栽のことである。最近、あの九州電力や志学館大学などから依頼が増えているらしい。一回で数千円というから、有難い話である。「春に吉野公園での祭典に出品したのがよかったみたいです」ということだ。昨年の3月から2か月ほど鹿児島市で開催された「花かごしま2011(正式名称は全国都市緑化かごしまフェア」に、Tさんも70鉢ほど出品されたという。
 この78歳のTさん、定年まで当院で「大工さん」として働いてもらっていたが、退職を機に趣味を生かして造園業を営むようになった。現在私の外来に、血圧が高いということで時々顔を見せている。松の盆栽を育てて、インターネットオークションによる通信販売が主な稼ぎだという。去年の夏には奥さんと旅行をかねて、四国に松の苗の買い出しにも行かれていた。「松は環境に強いと誤解されて、水をやらない人がいますが、夏などは一日3回ほど水をかけなければなりません。それさえ怠らなければ、大丈夫です」という。小さい苗から、一応の商品に育つまでには約3年はかかるという。
 「先生の退官の式典には、一番いいもの持ってきますから」と、かねてから言われている。「祝いの舞は稲元師長さんが踊ってくれるということだから、もうすべてそろったね。でもお互い歳が歳だから、長生きしてもらわないと」と言うと、「そう思っています」と言いながら出て行かれた。
 次は、やはり高血圧で通院しておられる68歳のYさんである。
 「今、忙しいのじゃない?」と話を向けると、「それがですね先生、今年は一本も出荷できなかったのですよ」という。教職にあったご主人が退職し、二人で近くの田んぼを借りて千両を育て、年末には毎年、正月の飾り用に市場に出荷していた。もう10年になるということだが、今年は実の付きが思わしくなかったらしい。「最初が良すぎたものですから、主人にもプライドがあるみたいで、中途半端なものは出したくないというのですよ。最初のときに、いい出来だったものですから、新聞にも取り上げられましてね。新聞に出た時、息子(農業関係の仕事をされているらしい)に、『専門の農家の人に失礼だよ』と怒られたのですよ」という。私もその新聞記事はよく覚えている。千両は赤い実がなるが、その実から苗を育てて、商品にするには松と同じように3年はかかるらしい。「でも、病院の千両はきれいな実をつけていて、うらやましいです」という。数年前に外来の中庭に、Yさんが10本ほど家から持って来られて植えてくれている。場所がいいのか(適当な日陰がいいらしい)、毎年この時期になるときれいな赤い実を付けている。「やはり植物も、愛情を注がないといい実はつけません。最初の頃は主人も農業試験場に行って指導を仰ぐなど熱心だったのですが。このごろはちょっと、力の入れ方が違うんですよ」と残念そうに言われる。。
 「もう一度、花を咲かせて下さいよ」と言って、診察は終わった。添付の写真は、その外来の千両である。
■ 故郷に(前)~桜島から開聞岳~
 大晦日は主婦には忙しい日に違いないが、私には特段何かをしなければならないということもなく、いつもの習慣に従って朝早く病院に出かけた。そしてパソコンを開いて、2月1日に九大の吉良教授から頼まれている「日本難病ネットワーク協議会」の設立総会(東京の都市センターホテル)での講演の準備をすることにした。
 その一枚目のスライドのタイトルの背景は、南九州市知覧町の台地から撮った開聞岳の端正な姿である。どこまでも拡がる緑の茶畑の向こうに、青空をバックに開聞岳が写っている。ここは第二次世界大戦末期に、知覧特攻基地から20歳前後の若者が出撃した場所である。国家のためにという使命感で飛び立ったわけだが、今の時代の感覚からは何と表現していいのか言葉を失うほど悲劇的であり、開聞岳に最後の別れを告げながら南方の海へと消えて行った。
 その写真を見ているうちに、急に故郷に帰ってみたくなった。ここ数年、忙しさにかまけて帰ることもなかったし、また正月に出水に出かけるとき、最近記銘力がとみに落ちている91歳の母親の記憶を呼び覚ますのに少しは役立つかも知れないと思ったのである。生まれ故郷の写真を見せれば能が活性化するという、大武先生の提唱されている「共想法」の実践である。早速、午前9時に森三(姶良市で有名なお菓子屋)が開くのを待ってお土産を買い、姶良インターから高速に乗った。
 九州自動車道からそのまま指宿スカイラインに乗り、須ノ原展望台で一枚写真を撮った。ここは錦江湾と桜島が眼下に眺められる絶景のスポットということで、県外ナンバーの車もちらほら見られる。今朝は雲が桜島の中腹にたなびいているが、この季節としては温かく絶好のドライブ日和である。
 知覧インターで降りてしばらくすると、武家屋敷で有名な知覧の街である。県外のお客さんを案内するときには、この武家屋敷や特攻記念館によく立ち寄るのだが、今日は素通りである。小さい頃に頴娃町の田舎に住んでいたときには、鹿児島市に出るバスの乗り換え場所がこの知覧町であった。ところが歴史は移り、市町村合併前は川辺郡であった知覧町が私の生まれ故郷の頴娃町、そして川辺町も含めて南九州市となったのである。私の勤めている病院の名称も「南九州病院」で、何かと眼に見えない縁で繋がっているようだ。
 特攻記念館を左にしながら、真っ直ぐな一本道を東シナ海の方に下る。この辺りは戦争中は飛行場のあったところで台地が広がり、今は日本でも有数の茶畑となっている。松山部落を左折して、懐かしい耳原部落に入る。村境の小さな橋を渡った所に福元理髪店のマークがある。半世紀を経て同じ場所で理髪店を営んでいるのは珍しいことだが、同級生だった澄彦君は今頃どうしているのだろうか。ちなみに、元歌手の高田みずえは私と同郷である。
 しばらく車を走らせると、三叉路になり小さな広場がある。小さい頃は祭りや相撲大会で賑わった場所だが、今日は人っ子一人見えず、石塔だけが数基淋しく建っている。その横に、教育委員会によって「この塔は、室町時代(戦国期)に造立されたものです。下から基礎、塔柱、中台、龕部、笠、宝珠の部分によって構成されており、中台と笠が十二角形であるところに特徴を持ちます。また、六地蔵が線刻で描かれているのも、まれに見る例です。残存する銘文の中に「頴娃群」の文字や銘文の筆者「自畊」(祐田和尚)の文字が確認でき、わが町の歴史資料として大変貴重なものです」という説明が加えられている。このような石塔は九州地方に多いようで、街道沿いに供養塔として建てられているという。ただ当時は、このような石塔があることすら知らなかった。
 その場所から、ケイ子の家の写真を撮る。小学4年まで同級生で現在尼崎市に住んでおり、毎年阪神のカレンダーを送ってくれている。私はそのカレンダーを入院しているトラファンの岡田君(筋ジス患者だが、呼吸器を着けながら地道に頑張っている)の毎年プレゼントしているのだが、送ってくれたお礼に家の近況を写して送ってあげようと思ったのである。
■(故郷に(中)~桜島から開聞岳~ 
 その後、高く積み上げられたブロック塀の小さな道を縫うようにして、村の守り神となっている殿方(どんのかた)神社にお参りした。この神社に祀られているのは、代々私の家の納屋に転がっていた(保存されていたというべきか)数個の石ころである。家が取り壊されたときに集められて叔母の馬小屋の2階に預けられ、神社が建立されたときに奉納されたものだという。その石ころを隣のおばさんが暗くなってから取りに行ったら、光っていたというが真偽のほどはわからない。
 参拝を済ませた後、松原小学校に向かう。私は小学校4年生まで通っていた学校で、当時は一学年30人ほどのクラスだったが、今は全校合わせても20人にも満たず、閉校の噂もあるようだ。学校は私の住んでいた耳原部落と隣の松永部落からの生徒で成り立っており、ほぼその中間の原っぱに建てられている。車だと数分もかからないのだが、小学生だった私にはずいぶん遠い距離に感じられた。昭和20年代は日本全体がまだ貧しい時代で、裸足で通う子どもも多かった。冬休みということもあって誰もいない校内にはいると、「いざや学ばん、進まん、励まん」という校訓を示す碑がある。運動場の端っこには、よく遊んだ防空壕の跡の築山が今も残されていた。当時はずいぶん高い山だと思っていたが、今眺めるとちょっとした築山に過ぎない。
 この校庭では、運動会やソフトボールなどいろんな遊びをした思い出がある。校庭の端っこに立ち、台地の向こうにキラキラ光る東シナ海と開聞岳を眺める(添付)。当時は初春にかけて、菜の花畑で埋め尽くされており、今思いだしても美しい光景だった。
 学校を後にして、いよいよ生まれ育った場所に向かう。道幅が狭く、いつ頃からこのようになったのか、よく離島で見かけるようなブロック塀で囲まれた家が多く、車を運転するのは難儀である。家の50メートルほど手前に車を置いて、歩いて家に向かったが、昔住んでいた家はとっくの昔に取り壊されて、今は畑になっている。家の入り口にあった、青大将の住処になっていた椎の巨木もなくなっており、記憶に残っていた風景とは一変している。正月には、この木の所から玄関まで、お祝いの白い砂が撒かれていた。
 あの時代は正月だけが特別で、ごちそうもあり待ち遠しかったものである。カルタや目玉遊び、凧揚げ、こま回しなどに興じたものだが、今は遊んでいる子どもの姿も見かけない。隣の畑に出ると私が小学校3年の頃に植えた2本の杉が、半世紀以上経って、20メートル以上の高さになっており、手入れもしないのに立派な枝ぶりの大木に成長している。隣家を訪ねたが誰もいないので車に戻り、Uターンしようとして、角っこのバンパーをブロックでこすってしまった。新車の「プリウス」だったのに、まあ故郷に免じて?許してあげよう。当時は自家用車なるものはなく、せいぜい自転車や荷馬車が通っていた道路であり、今でも車一台がやっと通れる幅である。
 耳原部落からナビの指示に従い、数年前に亡くなった知覧町塩屋の従兄弟の仏前にお参りに行くことにした。たまたまおばさんは留守で、勝手に上がり込んで仏前に線香を立てる。帰りしな従兄弟の息子の嫁さんと顔を合わせ、ちょっと立ち話をしたのちに母の生まれた大川部落に向かうことにした。
 東シナ海に面した大川部落は、指宿市と枕崎市の中間に位置し、当院にずいぶん前に入院し亡くなった倉村君の故郷でもある。小さい頃には正月になると家族でよく遊びに出かけた部落で、当時は人通りも賑やかで都会に見えたものだが、今や地方はどこも同じようにさびれてしまっている(後日、看護部長と昼休みにこの話をして、「どこも同じよね」と同意を求めた。すると部長は不本意だというような顔つきで、「東串良町には信号もコンビニも、しまむらまであるのよ!」と意外にも、「同じようにせんでよ」というような顔つきに変った。ここで争っても仕方がないので、一応渋々ながら了解することにした。
確かに調べてみると、ピーマンやキュウリの生産では県内一位で、民のかまども豊からしい)。
■ 故郷に(後)~桜島から開聞岳~
 ところが唯一の異変は、よくお参りに行っていた釜蓋(かまふた)神社の変貌で、いつの間にか観光(パワー)スポットに変身していた。この神社は大川の海岸の突き出た松林の狭い場所に建てられていて、海越しにきれいな開聞岳を眺めること意外には取り柄はなかった。おそらく一昔前には、一日の参拝者が一人か二人ぐらいではなかっただろうか。正式な名称は射傭兵主(いたてつわものぬし)神社というもので、武運長久のご利益があると言われていた。ところがどのような経緯で観光スポットになったのかよくわからないが、今では福岡辺りからも多くの参拝者が観光バスを連ねてやって来るらしい。また運を
たぐり寄せる「蓋蓋願掛け」や「釜蓋投げ」で有名になり、この日も若い女性が鳥居から釜蓋を頭に載せて落とさないようにと、そろりそろりと歩いていた。
 帰りに、この神社の近くに住んでいる従兄弟の家を訪ねた。この82歳になる元小学校の校長先生は、偶然にも当院に入院していた筋ジストロフィーの歌人、田中直子さん(枕崎市の生まれ)を入院前に担任していたという。「どうして釜蓋神社がこんなに有名になったのかわからないけど、地元には何にもメリットはないのよ。ただ素通りするだけで、お賽銭も知れたものらしい」ということだった。才覚のある人がいたら「門前市を成す」ところだろう。でもシマムラも進出することのない、のどかでのんきな静かな田舎のままの方がいいのではないだろうか。
 その後、高台にある母の兄と弟の墓に参拝して、母に見せるために写真に収める。鹿児島県は切り花の消費量は日本一と言われているが、田舎では毎朝、お墓の花を代えることが嫁の日課である。そして朝と夕に花を取り替える嫁は「よくできた嫁だ」という評価を受けると聞いたことがある(嫁さんは大変!)。この例にもれず、両方の墓とも、豪勢な切り花が活けられていた。
 頴娃街道を指宿の方角に向かう。頴娃高校の前を通り、道沿いに従兄が内科医院を開業しているので寄ってみた。この従兄は二中(現在の甲南高校)時代に、私の両親が面倒をみていたということもあって、従兄の中でも親しく付き合ってきた。その後七高へと進み、バンカラで鳴らしたということだったが、今は82歳となり軽い脳梗塞の影響か、時々笑うだけで固まっていた。それでも大変喜んでくれたが、元気なころの豪快さを知っているだけに、ちょっと淋しい気持ちになった。
 車に戻り、途中の瀬平公園に車を駐める。ここから眺められる水平線に浮かぶ秀麗な開聞岳と波打ち際の景色は絶景で、鹿児島空港のカウンターの横には大きなパネルで貼られている(添付)。江戸時代に日本中の海岸線を歩いて日本地図を作った「伊能忠敬」が、『けだし天下の絶景なり』と賞賛したのは、この近くの番所自然公園からである。また与謝野夫妻の歌碑も、瀬平公園には建てられているが、追平とは瀬平のことである。
迫平まで我れを追ひ来りて松かげに 瓜を裂くなり頴娃の村をさ (与謝野鉄幹)
片はしを迫平に置きて大海の 開聞が岳立てるなりけり     (与謝野晶子)
 ここから車は真っ直ぐな一本道を指宿の方角に進むが、眼前に開聞岳が大きく迫ってくる感じで、すごい迫力を感じる。開聞岳の方に向かうと山川の砂蒸し温泉への道となるが、今日は山肌を迂回するように右手に開聞岳を眺めながら車を走らせる。池田湖の湖畔に到着すると、菜の花マラソンのために植えられた花が既に満開となっている。車を停めて、菜の花畑と池田湖、そして開聞岳を遠景にした風景を写真に納める(添付)。
 帰りは指宿スカイラインには乗らずに、錦江湾沿いを右手に桜島を見ながら運転を続け、午後2時過ぎには家に帰り着くことができた。わずか5時間余りで生まれ故郷を車で走り抜けたことになるが、私の原点は、生まれ育ったこの変わらない故郷かも知れないと思うことだった。
■ 素晴らしい谷口さんの「切り絵」
 当院の療育指導室長の谷口千代美さんから「花と君たちの春夏秋冬」というタイトルの「切り絵」本を頂いた。切り絵に関しては、ずいぶん前に朝日新聞の日曜版に掲載されていた色平二郎の切り絵が印象に残っているが、ほとんど知識はなかった。ただこの谷口さんの本をめくりながら、切り絵の持つ独特の世界と情緒に引き込まれてしまった。
 「発刊にあたって」で谷口さんは、切り絵との出会いを次のように書かれている。
 昭和50年に当時の国立日南療養所の重症児病棟に児童指導員として勤務した。そこで下迫婦長の発案で「病棟だより『太陽』」を発行することになった。その「太陽」の表紙に、毎回載せたのが皮切りということである。
 谷口さんも今年の3月で、37年間勤めた職場を定年退職することになり、その記念の意味もこめてこの一冊の本にまとめたという。
 切り絵は白と黒の二色の単純な世界で描かれるわけだが、顔の表情など実に多彩に描き分けられており、まず驚いてしまう。登場する材料は、谷口さんの働いていた職場、すなわち重症児(者)とその両親、介護者が主だった役者なのだが、一人ひとりの表情が実によく描ききれている。
 「花ふぶき」と題する作品では、お母さんが車いすに乗った息子を押しており、そこに桜が舞い降りている風景である。春になると当院でもよく見かける一こまだが、息子の嬉しそうな表情、お母さんの息子を心から慈しんでいる表情がよく表現されている。
 「鯉のぼり」という作品は、やはり車いすに乗った少年の後ろからやさしい微笑みの看護師が何か話しかけている。そして嬉しそうな少年と背後の看護師の心のつながりがよく表現されており、吹きわたる5月の風まで伝わってきそうである。
 「草原」というタイトルの切り絵には、谷口さん自ら小文を寄せている。「ゆったり側にいてくれる母に、ぴったりと体を寄せ、母の顔を見つめながら体を揺らしていた。ご機嫌な証拠。風は草原を書きぬけ、母子の頬を撫ぜた」。
 「汽車に乗って」では、父親が喜びでのけぞりそうな息子をしっかり抱きしめている。息子のうれしそうな様子を、母親がほほえましく眺めている。
 「海」は波打ち際で嬉しそうに手をさしのべている息子を母親が少し腰を低くしながら同じ目線で、耳元で何か囁いているように見える。
 このように谷口さんの切り絵は、お父さんやお母さんと子どもたちの関係をワンショットとして捉えたものが多い。きっと日常的に患者さんとの関係やその思いをよく理解しているからこそ、このようなやさしくほほえましい、そして細かな表情をとらえた秀作になっているのではないだろうか。
■ 社会保障と税の一体改革(前)
 「政府税制調査会は2011年12月20日、税と社会保障の一体改革に伴う消費税増税に合わせ、所得税の最高税率を現行の40%から45%に引き上げる方向で調整に入った」という記事を目にした。この改正案が実行に移されれば、高額所得者は給料の半分近くを税金に取られるということになる。当然なこととも、また仕方ないこととも割り切って考えたいが、大橋巨泉の頃から話題になっていたことで、高額納税者が税金の安い外国に居住地を移すことも危惧される。
 ちょっと主題からは横道にそれるのだが・・・
 もうずいぶん昔(平成16年)の話になるが、「ハリー・ポッター」の日本語訳者松岡佑子さんが、国税庁から35億円を超える巨額の申告漏れを指摘されるという事件があった。「松岡さんはスイスに居住していると主張しているが、生活の本拠が日本であることから、日本での申告が必要と認定された」という。松岡さんは「平成13年にスイスでの永住許可を取り、ジュネーブにマンションを購入して移住したため、それ以降はスイスで納税している」と言うことで異議を申し立てているということだったが、その後の顛末はよく知らない。
 佑子さんで思い出すのは、夫の幸雄さんのことである。故松岡幸雄さんの晩年は日本ALS協会の設立と発展のために奮闘し、志半ばであたかも殉死のような壮絶な死を遂げられた。死因は肺がんだったが、調べてみるとまだ58歳という若さである。幸雄さんは静山社という小さな出版社の創業者で、ALSの闘病記(川口武久さんの手記「しんぼう」)を出版したことが契機になって、ALS協会の設立のために奔走された。東京からわざわざ南九州病院にも2度ほど訪ねて来られて、その思いを静かに熱く語ってくれた。私には「求道者」にも「宗教家」のようにも思えた。当時よく手紙も貰ったが、骨太の万年筆で独特の書体も懐かしく思いだされる。
 ところで想像を絶するベストセラーとなったハリーボッターの翻訳本で、静山社を巡る状況は一変したのだろう。でも「35億円という巨額の申告漏れ」とは、びっくり仰天である。この世界もスポーツ選手と同様、1%の人が99%の所得を支配している世界なのだろう。ただ佑子さんの名誉にかけて記すなら、夫の亡き後もALS協会の発展のために尽力された。日本に誘致したALS患者会の国際大会での通訳や、ALS協会にも多額の寄付をされたと聞いている。
 それでも「ハリー・ポッターシリーズの日本語訳は、日本で出版され、日本人の読者によって購入されたもので、翻訳書の出版・販売と何の関係もないスイスで税金が納入され、スイスの国庫収入になってしまうというのはどう考えても釈然としない」という言い分にも理解できる。いずれにせよ今後も日本の所得税が高くなると、さまざまな形で納税を逃れようとする人が増えるのではないだろうか。
 さて昨年末(12月17日)のNHKスペシャルでは、「激論“増税” 税から考える 日本のかたち」が放映されていたが、時々チャンネルを変えながら途中までみていた。三宅アナウンサーの司会で、古川元久(経済財政政策担当大臣)、竹中平蔵(慶応大学教授)、宮本太郎(北海道大学教授)、遥洋子(作家)の4人が振られたテーマごとに議論して、時々会場の一般人の意見も聞き、合間にFAXなどでの視聴者の意見も取り入れながらの進行になっていた。政府から「社会保障と税の一体改革」の骨子が発表されたことを念頭に置いた企画のようである。
■ 社会保障と税の一体改革(後)
 「税と社会保障」というテーマは、特に先進国ではいつも問題になることである。誰しも、「低負担で高福祉」が望ましいが、財源を考えると「中負担で中福祉」で妥協ということになる。ただ将来の日本はおそらく「高負担で低福祉」という最悪のシナリオに陥りそうな予感もする。
 30年ほど前にアメリカに留学していた時、一緒の研究室にいたスエーデン人はボルボに乗っていたが、「この車は、アメリカで買ったよ。そしてスエーデンに持ち帰るんだ」と言って、「スエーデンでは税金が高いので」と付け加えた。ちなみにスエーデンはGNPに占める税負担の比率は50%前後と、OECD諸国の中で高い割合になっている。また個人の所得に対しての税負担については、一人の被雇用者の雇用費用の58%が税や社会保険料となっている。給料のうち約6割が税金としてとられており、一般間接税(ほぼ消費税と同じ)は25%で、食料品などの生活必需品については12%になっている。6割という数字を聞いた時には「すごいなあ、所得の6割も取られたら勤労意欲をなくさないだろうか」と単純に心配したが、わが国でも累進課税により一部の層ではその値に近づきつつある。それでもスエーデンの場合、老後の年金や福祉が充実しており、いわゆる「高負担・高福祉」が実現されているので、国民も働ける時代の高負担には納得していると聞いたことがある。
 さて日本が今後の税と社会保障に関して、多くの国が目標としている「中負担・中福祉」でやっていけるのだろうか。多くの識者は「否」という解答を出している。というのは、人口構成が多くの欧米諸国では日本ほどの少子高齢社会にはなっていないし、少子高齢化が終了しつつある国もある。ところが日本では、65歳以上の高齢者が働き手の現役層(15歳から64歳)に占める割合は約1:3であるが、2023年には1:2までに高まり、数十年後に予定される少子高齢化のピークではこの比率は1:1近くに達する。すなわち現在では3人の働き手で一人の高齢者を支えているが、十数年後には一人の現役で一人の高齢者を支えなければならなくなる。すなわち現在の状況が進めば、「低福祉・高負担」は避けられない状況にある。
 日本の現状は世界最悪の900兆円に達する巨額の財政赤字を抱えながら、政治家はなお消費税などの増額には及び腰になっている。増税は景気の停滞を招くという論理であるが、多くの議員は選挙での不人気な政策のリスクを心配している。成長を待ってという論理で考えると、消費税を据え置いている過去10年間の実質成長率は平均で0.8%であり、この程度の成長率だとすると並行して消費税を段階的に上げていく方が現実的な選択に思える。
 このまま増税を先送りすると、それだけ若い世代に負担をかけることになる。増税と社会保障の切り下げという国民に痛みを強いる政策は、誰しも避けて通りたい。それでも先々の日本の行く末を考えると、覚悟と決断が必要な時期は既に通り過ぎていると思うのだが、相も変わらず「政争」の道具になっている。

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