院長雑感詳細

院長雑感(130号)

時は流れない 雪のように降り積もる 人は優しくなったか 賢くなったか
 このフレーズは震災からちょうど一年が経った平成24年3月11日の読売新聞朝刊の一面である。
 ちょうど同じ日に、東京の旧友から次のようなメールをもらった。
 今朝も30分サイクリングに出かけたのですが,あるお寺で毎年見事な花を咲かせる桜の木を切り倒しているのです。枯れたのかと聞いたら、なんと、花びらが散って周囲の家から苦情が来るから、というのです。東京は何というさびしい町になってしまったのでしょう。地方ではこんなことはないですよね。
・・・でも似たような話は、鹿児島でも聞いたような気もする。
 あるきっかけから、30年前に急逝された旧医局の天野先生の「追想録」を読んだ。時感がとまっているようでもあり、遺影は歳を重ねないので、つい先日のことのようにも思えてくる。
 大震災の記憶を風化させてはいけないと思う。
■ 患者数
 2月の入院患者数は387.9人で、計画に対し7.5人の増となった。平均在院日数は、調整前で17.8日と全く問題はない。外来は153.2人と、計画比で2.7人の減となった。
■ 診療報酬点数
 2月の診療報酬点数は、計画比で入院では2,292,238点の増、外来も263,859点の増で、対計画では入院・外来合わせ2,556,097点の増となった。また4月からの累計では計画比9,424,631点の増なっている。
 8、9月で、7月までのマイナスを挽回して、一挙にプラスに転じ、10月は入院/外来と若干の減、そして11月は若干の増、12月、1月も予想以上の増、2月は大幅増で、成績の良かった昨年を上回っている。
■ 卒業式での挨拶・・・「卒業する君たちに」
 まずは卒業に際して、心からの祝福の言葉とともに、今後私たちの仲間となってくれることに、深甚の感謝の気持ちを伝えたい。
 看護師になることを決意し、この3年間、さまざまな苦労を重ねながら、講義や実習に励み、一歩ずつその目標に近づく過程は、君たちのこれからの長い人生にとって、極めて貴重なものではなかっただろうか。
 そして君たちがこれから進もうとしている医療の世界は、君たちの好奇心と意欲を十分に満足させるに足る魅力的な職場であると思う。と同時に、看護という仕事を終生の仕事として選んだ君たちの選択が、決して間違っていなかったことに、すぐ気がつく日が来るだろう。
 私も君たちと同じように、約40年前に医学部を卒業し、この医療の世界に足を踏み入れた。もともと特別に高い志を持っていたわけでもなかったので、最初は大きな不安と戸惑いの連続だったように記憶している。ただ一人一人の患者さんと誠実に向き合い、語り合い、患者さんの気持ちに真摯に寄り添うことで、少しずつ自分の成長を確かめることができたように思う。
 私が院長をしている南九州病院の目標としている院是は、「病む人に学ぶ」というものであるが、この言葉こそが医療の真髄を、的確に表していると実感できるようになった。
 私が医師になって2年目のことだったかと思うが、レックリングハウゼン病という難病の女性の主治医になったことがあった。手に不全麻痺があったので脳腫瘍も疑って脳血管造影をしたところ、運悪く脳卒中を引き起こし、懸命に治療したが合併症を起こして亡くなってしまった。
 私は申し訳ない気持ちで出水市まで通夜に出かけたが、同じ病気の娘さんも、親族も、苦情の一つも口にすることはなかった。そのあと私は東京の病院に出張したが、しばらく経ってから、出水でとれた海産物がたくさん送られてきた。うれしさと悔恨の気持ちで、受け取ったことを覚えている。
 今から考えると、医療事故とでも言える出来事だったが、誠実に一所懸命に患者さんと向き合ったことで、心のつながりができて、許してもらえたものだと感謝している。
 さて私と看護の世界とのつながりについて振り返ると、幸いにも多くの有能で魅力的な看護師に出会うことができた。東京では後に厚生省の看護課長となった矢野さんからは、看護のあるべき理想の姿を学ぶことができた。また南九州病院の筋ジストロフィー病棟では、稲元師長さんから、実践的な看護のすごさを身をもって知ることができた。便の出ない患者さんに、馬乗りになって奮闘している姿を見て、とても自分には真似のできないことだと観念した。
 そして今、当院の多くの看護師が自らの理想とする看護に向かって、日々懸命に頑張っている姿を目にすることができる。うれしいことに、その大半の看護師は、この看護学校の卒業生であるということである。
 最近、死語となりつつある言葉に、「一生懸命」という言葉がある。
 私は何事にも一生懸命であることが、人間としての本質であり、日本人の最も大切な美徳ではなかったかと考えている。頑張っても、できないこともある。でも、周りの人は一所懸命に頑張っている姿に感動し、救いの手を差しのべたいと思うものである。
 最期に、近い将来、君たちと一緒に仕事ができる日が来ることを、期待を膨らませながら待っていたい。        
■ 私はサルになりたい
 私の外来は、多くはパーキンソン病の患者さんであるが、寒い冬をしのいで、3月になってやっと体を動かしやすくなった人が多い。この病気は老化との二人三脚的部分もあるので、そことの折り合いをうまくつけながら、長い人生を必要以上に落胆することなく過ごして欲しいと思っている。合併症がなければパーキンソン病の進行で死亡するような病気ではないし、日常生活をリズム良く護りながら、今日が悪くても明日は良くなるという期待感を持って過ごして欲しいと願っている。逆説的な言い分を許してもらえるなら、「震えるうちが華」だし、「長生きできたからこの病気になれた」のである。人生60年の時代
には、パーキンソン病はわずかしかいなかった。
 ところで、難病の患者さんにとって新しい治療薬のニュースは、最も関心の高い事項である。藁にもすがりたい気持ちで、新薬の登場を待っておられる。私たちも副作用があったり、法外な費用を必要としたり、またどう考えても荒唐無稽なものであれば別だが、「どうしても試してみたい」という患者の声であれば、黙認というか消極的な賛成をすることもある。
 先日もパーキンソン病に対する移植実験がうまくいったというニュースに「反応」して、難病相談・支援センターでは電話相談が、また病院の外来では開口一番、「先生、いつから移植ができるのですか」という質問を何回も耳にした。
 「あれは、まだサルだよ」と言うと、「サルが羨ましいです。私もサルになりたい」と真剣な表情で訴えるオバサンもおられる。
 さてそのニュースとは、「受精卵約一週間後に「受精卵」から内側の細胞の一部を取り出して、培養しES細胞を作成した。そのES細胞を42日間かけて、「神経の元の細胞」に変化させ、ドーパミンを分泌する細胞が35%含まれる細胞の「塊」を造った。これらをパーキンソン病カニクイザル4匹の脳に移植し、一年間かけて観察した。その結果、六ヶ月後には手足の「震え」が無くなり、檻にしがみついて一日中動けなかった状態から、時々歩き回る状態まで改善したという。そして脳を調べたら、正常な神経が出来ていた」というものである。
 そしてこの研究グループは、既にiPS細胞でも「猿」の脳移植実験を行っており、高橋準教授(京都大学再生医科学研究所)は「早ければ、3年後に臨床研究を開始したい」と語っているという。iPS細胞からであれば倫理的な問題もクリアできるし、また自己抗体等の免疫反応も少なくて済む。
 そうは言っても、薬として認可されるまでには、まだまだたくさんの時を必要とするだろう。この種のニュースは、明日にでも治療が行えるかのような錯覚を患者に抱かせる。
 昔、筋ジストロフィーの患者は何度も「同じような目」にあっていたので、この種の朗報には、「私たちは、もう何度も治っていますね」とシニカルに反応したものである。
 ただ再生医療で最も早く応用される可能性の高いものは、神経難病ではパーキンソン病というのは大方の識者の認めるところである。「サルでなくてもよかった」と言える時が早く来て欲しいものである。
■ フェルメール 光の王国
 フェルメールほど不思議な画家も少ないのではないだろうか。
 生きていた時代は17世紀のオランダというと江戸時代の初期にあたるわけだが、最近日本では最も人気の高い画家の一人といえる。「はまった人」は、日本各地で開かれる展覧会には必ず出かけるというし、海外の美術館まで足を延ばす人も少なくないそうだ(ちなみに、私はさほどはまっているわけではない)。
 数年前に東京医科歯科大学で研究班会議があったとき、最終便まで少し時間があったので、大学の大窪先生から誘われてたまたま国立新美術館で開催されていた「オランダ風俗画展」を観に行ったことがある。この時にはフェルメールの作品は「牛乳を注ぐ女」のみだったが、会場は長蛇の列で入場できるまで20分ほど並んだ憶えがある。
 いつごろからだっただろうか、ANAの機内誌の「翼の王国」に、分子生物学者の福岡伸一氏が「フェルメール 光の王国」という連載をしたことがあった。フェルメールの遺した作品を、展示してある世界各地の美術館に訪ね、そこの館長などにインタビユーしたり、またその地や時代と関連のある偉人についても触れていくという企画である。ニューヨークのメトロポリタン美術館を訪ねた時には、野口英世を取り上げていた。この連載は単行本化(木楽舎)されて、現在ベストセラーとなっている。
 その福岡氏が監修して、「フェルメール 光の王国展」を今年の1月20日からフェルメール・センター銀座で開催していると聞いた。東京に出張の折、たまたま午後の会議まで時間があったので観に出かけることにした。
 会場は松坂屋銀座店の裏の、みゆき通りとなっていた。都営浅草線の東銀座駅で降りて、地上に出てうろうろしていると、「田舎から出てきたおじさん」と思ったのだろう、警視庁の女性警察官が丁寧に道筋を教えてくれた。それでもやっと目当てのビルを探し当てて、エレベーターで昇って5階まで昇った。
 会場では、作品の制作順に所蔵美術館と同じ額装を施し、フェルメール全作品37点のうち34点が展示されていた。確か土曜日の朝だったかと思うが、既に多くの人が訪れていた。作品はいずれも最新のコンピューターグラフィックとデジタルマスタリング技術によって、フェルメールが描いた当時の色調そのままだという。大きさも原寸大で、フェルメールが使った麻のキャンバスにデジタルプリントされている。
 5階が作品の展示で、4階が「翼の王国」に掲載されていた福岡氏の文章を大きくプリントしたものの解説で、出口のところには作品に関する様々なグッズを売るショップとなっていた。そこで私はもっとも好きな「真珠の耳飾りの少女」と「デルフトの眺望」の2枚購入した。
 前者は、フェルメールの作品の中でも最も人気の高いもので、ついつい引き込まれてしまう。精緻な構図と窓から差し込む柔らかな光、そして鮮やかな青のターバン、少女の無垢な一瞬の表情も印象的である。また真珠の耳飾りが何ともいえない輝きを放っている。
私が買ってきたポストカードを得意げに看護部長に見せたら、「私は本物を観ました」と静かに仰せられた。
 また後者は、福岡氏の「光の王国」の表紙になっているもので、フェルメール作品では唯一の風景画である。ふるさとの朝の風景ということだが、空の色、雲、街並みと川面にうつる影、川岸を歩く数人の人たちなどの故郷の朝を、これほどまでに穏やかに描ける画家はいないだろう。機会があったら、一度現地に行ってみたいと思わせてくれる一枚である。
■ 23年度九州支部総会
 来年3月の定年に向けて、担ってきた役職を整理したいと思ってきたが、その一つをスムースに果たすことができた。
 平成10年4月に院長になったので、今年度で院長生活、14年目を迎えることになる。おそらく国立病院機構の院長としては最も長い在任期間かと思うが、私が院長になった時には九州ブロックには、退官したときに20年を超える院長歴を記録した渋谷、西間という二人の名物院長先生が睨みをきかせておられた。
 院長になってまもなく平成11年に、当時の国立病院課の政策医療課長の酔狂(?)もあって、厚労省のリスクマネジメントスタンダードマニュアル作成委員会の委員長をすることになり、一躍「医療安全のエキスパート」という誤解を受けることになった。その結果、全国国立病院院長協議会の理事もすることになったので、必然的に九州ブロックの理事ということになってしまった。西間先生には「三段跳びだね」と皮肉られたものである。ただ今振り返ってみると、日本の最南端の若い院長としては、この上ないさい先の良いスタートだったわけである。一般的には院長を何年か経験して九州ブロックの理事になり、
そしてまたしばらくして全国の理事になるのが通例だったからである。
 院長の在任期間は特に旧国立病院では3年から5年というのが相場なわけで、私のように長期間院長職にいると、黙っていても「長老」になってしまう。平成21年に、名支部長の誉れを欲しいままにしたような西間三馨氏の後を継いで、選挙で九州ブロック支部長に選ばれた。2年一期ということなので、早いもので2期したことになる(会則によると、2期を限度にしていることに、今日気付いた)。そこで定年まであと一年しかないので、今回のブロック支部総会で院長の責を降りることにした。
 急に思い出したことであるが、昨年の福岡での支部総会の時にはまだ新幹線は全線開通しておらず、新八代でリレーつばめに乗り換えたのであるが、あいにく大牟田の辺りで事故に遭遇し不通となった。大牟田から天神まで西鉄に乗り換えて、辛うじて役員会に間に合った痛い思い出がある。それに引き替え今年は、9時34分発のさくらに乗り、何のトラブルもなく、11時04分には無事に博多駅に到着できた。
 駅を出ると、激しく粉雪が舞っていた。コートの襟を立てながら10分ほど歩いて、会場であるホテルコムズに着いた。昨夜出発していた管理課長と班長が、万事準備を終えてくれており、12時から役員会、そして1時30分から支部総会と滞りなく進めることができた。
 総会は支部長である私の簡単なあいさつの後、この3月で退官を迎える4人の先生方に挨拶をしてもらった。さすがに、適当に院長先生、ユーモアも交えながら含蓄のある別れのそれぞれの挨拶だった。そのあと会務報告を終え、支部長選挙となった。会則に則り、上位2人の決選投票で、福岡東医療センターの上野先生が次期支部長に選出された。
 そのあと、1時間半ほどの時間が余ってので何をするか迷ったが、それぞれの院長に自分の病院の抱える悩みや課題、また新法人化への意見などを話してもらうことにした。それぞれの各病院の院長先生、的を外さず的確に病院の事情を述べてくれたが、31病院からの発表が終わるころには、ちょうど予定していた3時30分となっていた。
 その後、九州ブロック事務所からの連絡事項、人事調停会議と続き、意見交換会でお開きとなった。予定していた時刻より早く、博多発18時34分のさくらで帰途に就いた。
■ 絆
 仙台の佐藤さんから、端正な装丁の額縁に「絆」という太字の毛筆で書かれた素晴らしい書が送られてきた。早速、事務に頼んで、外来の患者さんがよく眼にとまる場所に飾ってもらっている。
 佐藤さんは昨年、私が仙台に行ったときに大変お世話になった方で、津波で流された仙台市沿岸を見てまわるときにも、ずっとお付き合いしてくださった。またその夜は佐藤さん宅で、大勢の人が集まり歓迎の宴も催してもらった。奥さんがこのマンションの一室で習字教室を開かれており、その生徒の一人が次郎長の古山さんというわけである。古山さんは81歳になるが、娘の介護をしながら、この同じマンションで暮らしておられる。
 ところでこの「絆」という言葉は、日本漢字能力検定協会の選定した2011年を表す漢字にも選ばれ、清水寺の森清範(せいはん)貫主(かんす)が特大の和紙に墨で書き上げたものが翌日の新聞を飾っていた。昨年は東日本大震災や台風被害で家族の大切さを感じ、支援の輪も広がったことに加え、女子サッカー・なでしこジャパンのチームワークもその理由に挙がったという。
 さてこの「絆」という言葉であるが、1月22日に再放映された「陽炎の辻」居眠り磐音江戸双紙のタイトルも「絆」である。そして私の部屋の本棚に目をやると、偶然に藤原てい作の「絆」が目に留まった。取り出して読み始めたら、はまってしまってついつい最後まで読んでしまった。
 「藤原てい」は新田次郎の妻で、両氏ともすでに亡くなっている。血筋は争えないもので、二人の子どもが数学者でエッセイストとしても有名な藤原正彦である。なおこの本は、ほぼ20年前の1993年(平成5年)に第一刷りが発刊されている。「あとがき」の冒頭に、「あたかも命の終わりがそこまで近づいているかのようにひたすらこの原稿を書いた」とある。そして「七十年の人生を振り返ってみると、切なく苦しかったことのみが大きく浮かんで来て、楽しい日々は少なかったように思うのはなぜだろう」と。
 この本を通読して感じることは、ていという女性の生き方や考え方が、実に正直に率直に語られていることである。また新田次郎は私の好きな作家の一人であったが、その人となりも書かれる本を通してしか知らなかった。ところがこの本を通してみる新田の人格は、良い意味でも悪い意味でも私の想像していたものとは大分異なっており、この点でも興味深い本である。
 ていは大正7年に長野県で生まれている。昭和初期から戦争に至るまでの時代背景や、信州という田舎に生まれた宿命を背負いっている。有能で極めて向学心の強い女性であるが、父親の無理解と確執から不本意な人生を歩み始める。
 師範学校を目指したにも拘わらず、学費のことで挫折、やむを得ず専攻科に進んだが、肺浸潤なども重なり中退する。一方、小学校の同級生で、ほのかな恋心を抱いていた少年は中学校にも行けずに満蒙開拓団に参加させられ、結果的には戦死する。まさに「理不尽」な時代である。
 その後、気象台に勤める藤原寛人(後の新田次郎)と結婚する。この辺りでは、気位の高い藤原家のお姑さんなどとの確執が、赤裸々に語られる。
 (実はていの母と藤原の母は同級生という関係だったのだが)、 藤原家に嫁いでまもなくのこと「あの、これ、母が訪問着を一枚、選んでいただくようにと言いました」と、大切にしまっておいた三百円を差し出した。ところが藤原のお母さんは、その包みを丁寧に拡げて黙ってみていたが、「これだけではねえ」と小さく言ったその言葉で、「私の胸に棘のように刺さって」その後の関係はうまくいかなかった。(というのも、その三百円は、母親が辛抱に辛抱を重ねて作ったものだったから)
 そして藤原(新田)は、満州の気象台に新天地を求める。
 時代は容赦なく進み、敗戦による日本への帰還、それは想像を絶するほどの困難を極めるものだった。このあたりの事情は、たまたまNHKBSで放映された4回シリーズの大型ドキュメンタリードラマ「開拓者たち」でもよく紹介されている。
 夫の藤原は帰還にあたって、ていと3人の子どもと離れて残務整理という理由で、4人を置き去りにして職場に帰ってしまう。(家族には無責任にも思えるが、見方を変えれば仕事に忠実で公に対して強い責任感を持っていたことがわかる)。ていはまだ小さい3人の子どもを抱えて、収容所に入れられる。これでは3人とも死んでしまうと予感し、大雨の日を狙って脱走を決意する。この間の経緯は、後にていのベストセラーとなる「流れる星は生きている」に詳しい。筆舌にし難いほどの苦難の末に、奇跡的に子ども3人とともに日本への帰還を果たすのである。
 ところが戦後の日本の生活も、特に帰還者には容易でなかった。ていは寝込む日が多く、肺結核も患い、抗結核薬を都合するために闇市場で高い薬を買う必要に迫られる。たまたま満州からの困難を極めた帰国の模様を書いた「流れる星は生きている」が、出版されベストセラーとなって、息をつく。
 この時から藤原家に、「運」が回ってくる。
  ところが印税が枕元に届けられた日に、「お父さん、もう薬代の必要はなくなりましたね」と夫(藤原)に声をかけると、「女房に稼いでもらおうとは思わない」と吐き捨てるような言葉を残して去ってしまう。(藤原がプライドの高い人であることがよくわかる)。
 ところがしばらくして、夫がテーブルの上に週刊誌を叩きつけた。「百万円の懸賞小説、一席、強力伝、藤原寛人」と、表紙に大きな字が見えた。私は息をのんだ。「あ、お父さん」「ざまみろ」その勝ち誇った顔。「お父さんは小説をお書きだったんですか」この辺り、二人のライバル?関係が面白く描けているが、この本は後に直木賞も受賞する。しばらく昼は気象庁の課長、夜は直木賞作家という二足のわらじを履いた生活が始まった。ところが「どんなに原稿に追われても、課長の椅子にいるときには当然、役所の仕事をしているのに、同僚はそんな目で俺を見ていたのか」ということになり、30年間務めた気象庁を辞め、54歳で作家の道を歩むことになる。作家「新田次郎」の誕生である。
 その後ていは、作家、テレビへの出演、講演、国のさまざまな審議会の委員、教育委員長などを歴任し、国会議員への立候補の依頼まで要請される。
■ 今後の結核病棟は
 一昨年の診療報酬改訂で単価が少し上がったとはいえ、結核病棟の毎年の赤字は8000万円近くとなり、将来の病院経営に暗い影を落としている。正直に言えば、今までは重症児病棟の黒字で補填できてきたが、この4月からの障害者自立支援法の適用により、次第に難しくなっていくのではないだろうか。
 赤字の最大の要因は、言わずと知れた患者の減少にある。総論としては戦後の日本の保健衛生の向上と抗結核薬の普及などによるもので祝福されるべきことだが、結核病床を持つ病院として考えると頭の痛いところである。
 他の病気なら患者数が減れば病棟を閉鎖したり、他の病気の病棟に転換することができる。ところが当院は県における結核の最終拠点病院に指定されており、また社会的な責任としても簡単にやめるわけにもいかない。そして減少したとはいえ、高齢者や合併症を持つ結核患者は今後もゼロにはならないわけで、時には集団発生をみることもある。
 この巨額の赤字に対してどのような手立てがあるのだろうか。国や県が何らかのサポートをしてくれればいいのだが、これまで一切そのようなことはない(一昨年までは運営交付金で、わずかに空床が補填されていたのだが)。現在は機構本部が空床対策として、いくらか補助金を出してくれているだけである。もっとも、稀なそしてうらやましい例として、佐賀県ではNHO東佐賀病院の場合、結核病棟の新築に際し地域医療再生基金の中から2億円の補助と、今後毎年人件費分の2千万円を充当してくれるという。
 2012年2月16日、福岡東医療センターの肝いりで「呼吸器疾患政策医療ネットワーク運営協議会九州ブロック」が開催され、当院からは川畑統括部長が参加した。そこでも赤字への対応策が検討されているが、切り札というべきものはなく、多くはベッド数の削減とユニット化である。
 そのようななかで福岡東医療センターは 「第一種感染症指定医療機関」の取得を目指している。 これを取得すると、経費の一部として一床あたり年間450万円の補助(第二種では150万円)が国から出るのだという。ちなみに 第一種感染症指定医療機関には全国38の医療機関(73床)が指定されており、「一類感染症」とは、エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、痘そう、南米出血熱、ペスト、マールブルグ病、ラッサ熱である。
(「二類感染症」とは、急性灰白髄炎 、結核、ジフテリア、重症急性呼吸器症候群(病原体がコロナウイルス属SARSコロナウイルスであるものに限る。)、鳥インフルエンザ(病原体がインフルエンザウイルスA属インフルエンザAウイルスであってその血清亜型がH五N一であるものに限る。第五項第七号において「鳥インフルエンザ(H五N一)」という。)。
 さて当院の場合、さしあたって減床とユニット化がの方向であるが、看護詰所など建物の構造を今のままではユニット化も容易ではない。またユニットの相手となる患者や家族の了解が得られるかどうかも気になるところである。結核以外の呼吸器疾患がもっともスムースな感じがするが、当院の病棟事情から事は簡単ではない。減床しても一つの看護単位は維持しなくてはならないだろうし、夜勤もあるので相応の看護師数は確保しなければならない。
 いずれにせよ県とも、また病院の関係者の意見も聞きながら進めていきたいと思うので、いいアイデアがあったら出してほしい。 
■ 懐かしい写真
 先日のこと、筋ジス病棟の山田君から「患者自治会の資料棚を整理していたらこんな写真が出てきました。添付します。誰だかわかりますか?昭和53年に撮った写真のようです」というメールが私のパソコンに届けられた。
 早速添付を開くと、昔懐かしい面々が現れて、一瞬のうちに30数年前の「あのころ」にフラッシュバックする。「あのころ」とは筋ジス病棟開設後5、6年で、小学校に入学した彼らが、中学、あるいは高等部という時期にあたる。私は昭和52年に一年間南九州病院の筋ジス病棟で働いたので、まさにその頃である。
 やや鮮明度に欠ける写真だが、学校の先生が二人と、19人の子供たちで、後で山田君に聞いたところ、リハビリ室(現在の通園すまいる)で撮ったものだそうである。丁寧にも一人ずつ、その頃呼び合っていた名前が付けられており、沖縄組が5人、そしてすでに亡くなっている人が8人である。
 2列目には典彦、友彦の双子の兄弟の姿が見える。私がよく講演で使っている20歳を祝う成人式の写真で、友彦君は写っているが典彦君はお父さんが額縁を両腕に抱えている。友彦君は体外式陰圧人工呼吸器が間に合ったが、典彦君は使えずに亡くなっている。他には堂上、幸蔵、木ノ下、起、そして敏秀などで、それぞれに懐かしい思い出がある。最後列で立っているのは、浩子、渡口、鎌二良、恵子で、他は全員が古いタイプの車いすに乗っており、ヘッドサポーターを頭につけている。
 堂上も幸蔵も壱岐も敏秀も、木ノ下君も起も、両親ともども、よく覚えている。あの時代は病棟そのものが一つの家族のような雰囲気で、いろいろな機会を利用して両親ともコミュニケーションがよくとれていた。
 このうち、いわゆる最重症のデュシェーヌ型筋ジストロフィーで今なお生存しているのは和行だけということになるが、ここが微妙なところである。和行は現在、46歳でまだ鼻マスク型の人工呼吸器で呼吸状態も安定しており、入浴やトイレの時には外すことさえできている。
 2週間ほど前、ポリクリの学生とともに、和行のベッドサイドを訪ねた時があった。
 「お前が予想をはるかに超えて生きているもんだから、私が誤診をしたということを世間に曝す結果になってしまったよ」と開口一番、そのような会話から始まる。「それって、早く死ねということですか」と鼻マスクの中から、こごもった声で切り返す。
 当時私は和行を十数年間主治医をしていたということもあって、何でも話せる間柄である。小さいころは仮性肥大も強く、デュシェーヌ型を疑わなかったので、筋生検などの精密検査はしなかった。経過から考えると良性のベッカー型ということになり、私の誤診を身をもって教えてくれたことになる。
 それにしても和行でいつも感心するのは、自らの健康管理と穏やかな性格である。排便の時間など毎日の日課を規則正しく消化することには徹底していて、とくに便を出すことのこだわりにはあきれを通り越して感心する。「便を出さないと食欲も出ないし、体調が狂うんですよ」という。またどういうわけか、女性にもよくもてて、特に看護学生などの人気は高い。
 ところが、数日前、また山田くんから次のようなメールが入った。
 和行が今日はなんと、胃痛で苦しんでいるらしいです。都合がよかったら顔を見に行ってください。ヤツの脳みそはウンコだけかと思ったら、そうでもないようですね(笑)。
 あいにく東京のホテルだったのですぐには行けずに、帰ってから顔を出した。
 「どうも、盲腸らしいのですよ(胃ではなくて)」と、流石に元気がない。主治医に、「アホなカズですがよろしく」と電話した。
 私の間違った「予想」を、どこまでも覆してほしい男である。
■ 2012年企業利益ランキング
 2012年2月27日、日本を代表する半導体メーカーのエルピーダメモリ(東京)が会社更生法の適用を申請して経営破綻した。かつて「産業のコメ」と言われた半導体の製造は日本の独壇場で、日本の技術の高さを世界に示すものだった。ところが、今では製造装置さえあれば簡単に作れる「汎用品」になってしまった。エルピーダが手がけるDRAMなどの半導体は、ことごとくサムスン電子など韓国勢の後塵を拝している。
 日経(2012年2月8日)では「けん引役 10年で様変わり」という見出しで、、企業業績が一変する事態を報じている。3月の上場企業の今季利益ランキングが発表されているが、上位には通信・商社が連ね、逆に赤字の大きな企業として電機3社が首を並べている。
 私の病院の前には「パナソニック」という大きな看板を店頭に掲げた個人の電気店がある。昔は松下電器の息のかかった電気店が、どこの街にもこのような看板を誇らしげに掲げてあったものである。
 松下電器から社名をパナソニックに変えた日本を代表する企業が赤字の第一位(7800億円)となり、以下シャープ、ソニー、エルピーダメモリ、NEC、マツダ、任天堂と続いている。このパナソニックは一昔前は、松下銀行と揶揄されるほど金持ちの会社だったが、最近は手持ち資金も相当厳しくなっているという。円高で競争力を失い、テレビ等は造ればつくるだけ赤字だというから恐ろしい。その余波で、鹿児島に工場のあった松下電器やNEC、パイオニアなど多くの進出企業が相次いで撤退するに至っている。
 一方、業績上位はNTTドコモやNTT、ソフトバンクなどの内需型の通信企業で他には三菱商事や三井物産といった資源株が上位を独占している。
 このなかで不振を極める家電業界の中で特筆すべきは日立製作所である。2002年にはIT不況で5000億近くの赤字に陥ったが、収益構造の転換に取り組み、今季は2千億円の純利益を計上している。不振の家電を縮小し、社会インフラ事業にカジを切ったのがよかったのだという。このように、経営者がいかに迅速に正しい判断を下せるかに、企業の盛衰がかかってきている。今や過去の成功体験は役立たない。
 思い起こせば、世の中、変わったものである。ちょっと前まではホテルの部屋のテレビが韓国製だと、なんとなくすべての調度品が安っぽくに思えたし、自動車もトヨタが現代自動車などの韓国メーカーの後塵を拝することなどないものと思っていた。ところが最近では、韓国製がデザインも品質も日本製に劣らなくなり、アメリカでは価格競争で日本製を席巻しているのだという。
  着実に成長を続ける会社と絶頂から転げ落ちる会社の違いは何か。このほど発売された『ビジョナリー・カンパニー3 衰退の五段階』(日経BP社刊)の著者、米経営学者ジェームズ・C・コリンズ氏は多くの企業が、以下の5段階を経て衰退すると説いている。
 1.成功から生まれる傲慢、2.規律なき拡大路線、3.リスクと問題の否認、4.一発逆転策の追求、5.屈服と凡庸な企業への転落か消滅だという。
 米系コンサルティング大手、ボストンコンサルティンググループ 日本代表の水越豊氏は日本企業の衰退とその要因について、次のように語っている。
 本来ならば、過去の成功体験をまず忘れ、自分たちが目指すべきビジネスモデルをきちんと見極めなければなりません。新しい市場に対し、会社がどのようなポジションにいるのか、そして強みや競争力がどこにあるのかを判断した上で、これまでの商品やブランドを使った方がいいのか、ゼロから要素技術を育てていくべきなのかといった決断を経営者は下さなければなりません。しかし大きな成功体験が仇となって、高慢な発想から抜け出せないのです。
 またニッポンの企業力(日経)では、売り上げを増やす拡大路線をとっても、利益を生み出す「稼ぐ力」、すなわち利益率を高める視点を欠けば、世界競争では勝ち残れないと分析している。医療の分野に敷衍すれば、ベッド数をやみくもに増やすことなく、逆に病床縮小により利益率の高位の基準を取得していくということだろうか。  
 今後日本が、あの1980年代の輝きを取り戻せるかどうか、大方の見方は不安の方が多いようである。
■ 厚生科学審議会難病対策委員会(前)
 厚生科学審議会疾病対策部会難病対策委員会という長い名称の委員会が、2012年2月9日で20回を数えた。
 私は昨年度からこの委員会の委員になっているが、昨年初めごろから月に1回ほどのペースでこの委員会は開催されている。というのも、厚生労働省が今国会に提出し、2013年4月の施行を目指している障害者自立支援法の改正案(障害者総合福祉法)の中に、「サービス対象に政令で定める難病患者を加える」と明記されてたので、この委員会で難病の定義や範囲、認定のための手続きなどを議論しておかなければならないことになったからである。
 最近のこのような委員会は全て公開であり、議事録もすぐに公開される。もちろんこの開かれた制度には賛成であるが、当事者にとっては難しいことも多い。例えば、数年前のこの委員会でパーキンソン病の医療費助成をヤールの分類で重症度の高い3度以上にした時には、委員長をはじめ委員に対して、当事者団体から大きな非難の声が寄せられた記憶がある。
 どのような制度でも個別的には矛盾を含むものだが、たとえばこの制度でも働き盛りで本当にお金を必要とするパーキンソン病患者が自己負担が多く、その支払いに悩む人をよく経験する。一方では薬効のほとんどなくなった重症度の高い寝たきりの患者は重症難病に認定されるので自己負担がないといったような矛盾も生じる。私はこのような議論の時にいつも思うことだが、昔の老人医療費の無料化が社会的入院を生み出したように、自己負担がゼロというのは弊害を生み出すことのほうが大きいのではないだろうか(障がい者団体からは自己負担がないようにという要望が強く出されているが)。
 さて今回の委員会では、難病の定義で希少性ということで、例えば患者数が5万人を超えるようなパーキンソン病や潰瘍性大腸炎を難病に含めるかどうかというような議論はされていない。それでも全国パーキンソン病友の会会報には「悪夢の再来」という特集記事で、牽制球的に数の問題が取り上げられている。いずれにせよ、すべての団体や人がうまく収まるというような答申は存在しないだろう。
 さて本題に移るが、これまでの経緯を概観すると次のようになる。
 まず政権交代を果たした2009年の民主党のマニュフェストに、「障がい者が当たり前に地域で暮らし、地域の一員としてともに生活できる社会をつくる」という政策目的を掲げ、その具体策として「障害者自立支援法は廃止し、制度の谷間がなく、サービスの利用者負担を応能負担とする障がい者総合福祉法を制定する」としたことに始まる。
 そして平成24年1月6日、「社会保保・税一体改革素案」(閣議報告)で、医療・介護の項に「難病対策」という項目を作り、「長期高額医療費の見直しの他、難病患者の長期かつ重度の精神的・身体的・経済的負担を社会全体で支えるため、医療費助成について、法制化も視野に入れ、助成対象の希少・難治性疾患の範囲の拡大を含め、より公平に安定的な支援の仕組みの構築を目指す。また、治療研究、医療体制、福祉サービス、就労支援等の総合的な施策の実施や支援のしくみの構築を目指す」としている。
■ 厚生科学審議会難病対策委員会(後)
 そこで先日の2月9日の委員会では、障害保健福祉部企画課長の説明の後、難病対策委員会で議論が行われた後、「今後の障害者施策の見直しについて出された意見」として、その場で次のようにまとめられた。
○障がい者総合福祉法の政令で定める難病等と、本委員会(難病対策委員会)で今後検討される難病の範囲の整合性をとること。
○現在の難病患者等居宅生活支援事業の利用者が不利にならないよう、円滑な移行に配慮すること。
○障害程度認定区分の認定においては、難病患者の病態・特性に十分に配慮すること。
○費用負担がどう変わるのか、手続きがどう変わるのか、十分に整理し、サービスの手続きについては、できるだけ簡素化するように配慮すること。
○市町村窓口で対応する職員に対し、保健所によるノウハウの提供等、難病に関する十分な情報提供を行うこと。
○小児慢性疾患の対象となる児童への対応などについても検討を進めること。
○身体障害者手帳等で行われている民間サービスの割引や税制上の優遇処置、就労支援等の施策のあり方についても検討すること。
 このような議論を受けて、難病対策に係わる治療研究等のワーキンググループ(WG)が開催されることとなった。
 WGは難病研究・医療WGと難病在宅看護・介護等WGに分けられ、私は後者に属することになった。このWGの具体的な検討事項としては、在宅看護・介護の在り方、在宅看護・介護の調整手法、難病相談・支援センターの在り方、効果的な難病情報の提供・国民への普及啓発、難病患者団体の活動支援、災害時の難病患者への対応、難病患者の就労支援、難病医療に係わる人材育成などとなっている。
 2月24日、霞が関の中央合同庁舎第4号館で「第一回難病在宅看護・介護ワーキンググループ」の会合が開かれた。私は健康局長の指名でこのWGの座長をすることになったので、開始時間より30分ほど前に到着し、課長補佐から議事進行メモを渡された。
 まず外山健康局長のあいさつの後、6人の構成員の自己紹介が行われた。患者会から伊藤さんと本間さん、看護の代表として東京都医学総合研究所の小倉さん、群馬県難病相談支援センターの川尻さん、高齢・障害・求職者雇用支援機構から春名さんという陣容である。
 この日は第一回目ということで、各専門分野の現状と課題を話すこととなり、私は「難病在宅看護・介護の現状と課題」というテーマで10分ほど報告した。
 また川尻さんの資料に、鹿児島県の「難病相談・支援センター設置に向けて」(平成23年3月23日、県健康増進課坪田主幹の作成)が差し込まれていたので鹿児島県のセンターが取り上げられた。確かに47都道府県ではその陣容(10人の職員)の多さでは飛びぬけており、今後いかにして実績をあげていけるか、所長としてはプレッシャーのかかるところである。
 坪田主幹のレジメも参考にして考えると、難病相談・支援センターの役割として、相談業務や研修会は当然のことその主要な柱であるが、そのほかに保健所や医療機関、訪問看護ステーション、介護支援事務所、消防署等の組織とのネットワークの構築が必要となる。そして様々な情報を集積しながら、情報の発信センターとしての役割が重要になってくるものと理解した。
■ 38回症例検討会
 インフルエンザの蔓延を防ぐために2週間ほど延期されていた「症例検討会」が2月29日に開かれた。4演題が発表されたが、それぞれに面白く、当院の「医療の質の高さ」を示してくれた。
 まず栄養管理室の山本室長の「ピルビン酸脱水素酵素複合体(PDHC)欠損症児に対する離乳食の提供」は、病気を「ケトン食」で対応しようとするもので、患者さんや家族にとってはうれしい離乳食である。PDHCとは、ピルビン酸をアセチルCoAにする3つの酵素の複合体で、アセチルCoAはTCA回路に送られて細胞呼吸に使われる生命維持の重要な酵素である。治療として、ビタミンB1大量療法、ジクロル酢酸ナトリウム投与、そしてケトン食がある。このうちケトン食療法とは、成長するに十分なタンパク質と炭水化物を含む厳密に計算された高脂肪食で、ケトン血症を保たれるように計算した治療食だという。そして生後7ヶ月の女児に、離乳目的で入院した例の経過を含めた発表だった。
 薬剤科の西田先生は、「プレアボイド報告」という耳慣れないもで、、PRE(事前に) ABOID(避ける)という造語と聞いて、「ああそうか」と納得である。すなわち、薬剤師が薬物療法の有害事象を未然に防ぐことを目的に、医師の処方を吟味して「重篤化回避報告」と「未然回避報告」を日本薬剤師協会にオンラインで報告し、情報の共有を図ろうとするシステムである。高レベルのヒヤリハット報告制度ともいえる。
 5病棟の井上師長からは、「入院結核患者の現状と今後の課題」とするレポートで、日本の結核の現状がよく理解できるものとなっていた。
 23年度に当院の結核病棟に入院した人は93人(拝菌ありが67人)で平均年齢は74歳、男女比は男性55人、女性38人である。年齢分布で見ると、70歳、80歳代が大半を占め、合併症は糖尿病、悪性腫瘍、認知症、関節リューマチ、統合失調症等となっている。そして半数は自宅に退院しているが、高齢者の7割は配偶者と二人暮らしで、ここでも老老介護と独居という問題が顔を出す。まとめると、戦前の結核が猛威を振るった時代の洗礼を受けた世代が高齢となり、何らかの病気や事情で免疫力が低下した人に結核が再燃しているということになる。戦後世代は戦前ほど結核菌に暴露する比率は低いと思われるので、なお一層結核患者が減っていくのだろうか。
 最後の呼吸器外科部長の久保田先生の発表は、肺がん検診の問題点と当院の外科治療のレベルの高さをよく示してくれた発表である。久保田先生は特に日常業務の手術等で多忙な中、よくまとめられていたと感心する。
 最近テレビで、「鹿児島県では低線量CT検診が3500円で受けらます」という情報が流されている。伊藤知事が自らの体験もあっての英断であるが、被曝量や経過観察等に課題は残るとしても、発見率、死亡率とも優位に意味のあることが実証されている。
 アメリカからの報告で、胸部X線検査での発生数(発見率)と死亡数に有意の差がでなかったということで、定期的な胸部X線検査の有効性に疑問が出されている。久保田先生の説明では、「定期的な」を含めて運用に問題がありそうで、日本のシステム(2重読影、比較読影、毎年継続、喀痰細胞診の併用等)では、有効性が高いということだった。
 また当院の肺がんの手術例数や5年生存率等の成績が示された。肺がん手術件数は毎年増加しており(23年度は120例を超えている)、また1987年以降の1152例の肺がん患者の5年生存率も、60.9%と良好な成績である。また当院は早期診断から治療まで一貫した体制が整っている。特に手術に関しては、術中の組織診断が脇本部長により迅速に的確に行われるというメリットも大きい。リンパ節郭清や手術の範囲の決定等にも有効性が発揮されているのではないだろうか。
■ 天野先生と柳井病院
 国立病院機構柳井病院(山口県柳井市)の原田暁院長から、「23年度で退官になるので、それまでに一度何か講演をしてもらえないだろうか」という依頼を受けていた。都合がつかずに延び延びになっていたが、退官寸前の3月9日にやっと時間の調整がついたので、9日の鹿児島中央駅11時30分発のさくら562号で柳井市へと向かった。あいにく朝方は雨模様だったが昼前には上がり、駅でとんかつ弁当を買い込んで車内で食べているうちに発車となった。
 原田先生は、私がかって属していた鹿児島大学医学部第三内科の同窓であるが、一緒に働いたという記憶はあまりない。信州大学の出身で、住所録を取り出して調べてみると昭和54年3月に入局され60年4月に退局されている。私は54年から1年間、市立病院に出張し、その後55年から3年間アメリカに留学、そして帰国後半年して現在の南九州病院に出張となっているので、ほとんどすれ違いということになる。
 ただ原田先生を語る上でどうしても触れておかなくてはならない人が、今はこの世にいない天野博先生である。というのも、天野先生も信州大学の卒業で原田先生の剣道部の先輩にあたり、先生が鹿児島に来られるきっかけを作られたのも天野先生である。
 その天野先生が35歳という若さで急逝されたのは、昭和55年2月11日の寒い朝だった。その後しばらくしてから追悼集ができたように記憶していたので、本棚を探すと「追想 故 天野博先生を偲ぶ 昭和58年10月」と記された薄茶色のハードカバーの上品な小冊子が出てきた。そこでこの冊子を鞄に入れて、新幹線に乗り込んだ。
 早速ページを開くと、まず医局の棚の前で椅子に座っている天野先生の写真である。どことなく寂しげにも見える。人物評価は人により様々で難しいものとされているが、特に先生の場合には難しく、「豪放磊落から含羞の人」まで実に多様な思い出が描かれている。ただいえることは、たくさんの「心のひだ」と「引き出し」を持った、実に魅力的な教養豊かな青年だったということである。
 次のページは「天野君が急逝されて早いもので三年半がたってしまった」にはじまる井形先生の序文へと続く。おそらく先生にとっては、痛恨の極みだったといえようが、天野先生は旧制中学(現浜松北高)の後輩で、そのようなつながりもあって、遠く静岡の遠州病院の外科から昭和49年に、鹿児島大学の神経内科に入局されたのである。
 その出会いも天野流で、当時信州大学の出身で鹿児島大学の病理学の教授をされていた佐藤淳夫先生が剣道部の先輩だったということもあり、その紹介で数冊の文学書をリュックサックに入れてぶらりと鹿児島を訪れたのである。長身・細面で色白の甘いマスクの美青年で、通り過がりの人が振り返るほどの男前だったこともあって、当時の医局に「旋風」を引き起こすのである。
 当初、教室でも「フラリと遠方から来る人は、女性で失敗した人が多いはずだから、一応は調べた方がいい」ということになり、井形先生は中学の後輩だった遠州病院の副院長に問い合わせたそうだ。すると「生来真面目な勉強家で、浮ついた話は全くない。自室は哲学、文学の本で埋まっており、性格は明るく、スポーツを好み、鹿児島に行ったのは、外科一本やりの医学に多少懐疑的になり、広い基盤の内科を志向し、浜中の先輩にあたる井形先生を選んだ」という返事だったという。入局の許可が下りるまでの一月ほど、大学病院の隣の、当時としては高級な鶴鳴館ホテルに「居候」していたというのも、いかにも
先生らしかった。
 実際に入局してから亡くなるまでの7年間の先生の行状は、「女性に異常にもてた」ということ以外は、紹介状に書かれた通りである。追悼集を読みながら、実に惜しい人を亡くしたものだとあらためて感じるのだが、これほどまでに多くの人に愛され惜しまれながら、一陣の風のように、そしてあたかも遠州の「森の石松」のように走り去って行った。
 さて入局が許されるまでの期間、逗留したホテルの内山洋子さん(注:どのような立場の女性かは私はよく知らないが、きっと魅力的な人だろう)は「天国の天野先生へ」という小文を、この追悼集に寄せている。
 天野さん(注:深読みすれば、先生ではなくて「さん」というところが気になる)、うららかな春の日、あなたは今天国で何をしていらっしゃるでしょう。美女とお酒(注:ちょっと無頼をきどったところもあり、ジャックダニエルをこよなく愛でていた)でも。
 私たちは、今でもあなたのあの豪快な笑いとステキな声(注:歌が本当にうまかった)を忘れていません。あなたは本当にお医者様にはもったいないようなステキな方でございました。あなたほど、お医者様の中でモテた方もいらっしゃらないでしょう。一度もお誘いを受けなかったことが心残りでなりません(注:妙齢の女性にこのように言わしめる天野先生の魅力とは)。
 最後にお会いした夜も随分お酒を召し上がりになり、その後マッサージをお呼びになりました(注:この辺りも当時の青年としては気どっている)。私ではダメ?と申し上げましたら「オバハンはアカン」と手を振られました。最後とわかっておりましたら、オバハンでもよろしかったのでは?(注:思わせぶりであるが、きっとそのまま解釈していいのだろう)。
 天野先生の最期はあまりにも劇的で、そして悲劇的だった。
 「2月11日は静岡の女性と名古屋で結納を交わすことになっていた。約束を破ったことのない彼は連絡なしに欠席、ご両親からの連絡で原田君が自宅に行き、急逝を初めて知った次第である(注:先日、原田先生本人に聞いたところでは、どこかで飲んでいるときに電話があって、松原先生と天野先生の家を訪ねた。部屋は真っ暗で、当初は眠っているのだろうと思ったという。枕元には名古屋行きの航空券がそのまま残されていた)。
 彼をおそった不幸はポックリ病である。解剖が許されたが、死因につながる器質異常はなく、睡眠薬その他の中毒も完全に否定された・・・」(井形先生)
 母の天野きよ子さんは「博とともに」という文を寄せておられる。
 博がこの世を去り、早や3年がすぎました。
 夢ならさめてほしいとの願いも空しく、現実は月日がたつにつれて確かなもののなっていきました。時々たまらなく淋しくなり不安な気持ちになるとき、水窪(注:生まれ故郷)へ行くようにして参りました。
 あの子が幼い頃にすごしたふる里の山河を眺めては、通り過ぎて行った夢の中での出来事が走馬灯のようにめぐってまいりました。
 今あの子を思うとき、「人生はマラソンだよ」と言っておりましたが、短距離ランナーだったんですね。走って、走って!
 アメリカに留学したいとの話も出ましたが、私どもが病弱なため、いつしか口に出さなくなりました。心残りだったことと思います。
 しかし、医師として一人の人間として、病院関係の皆様をはじめ多くの方に愛され、三年たちました今日もお心にとめていただきますことは、この上ない幸せ者と感謝の言葉もございません。私は天国があることを信じて、きっと幸せをみつけて、やすらかな日々をすごしていることと思っております。
 仏教用語に「逆縁」という言葉があるが、我が子を亡くした母親の気持ちほど痛ましいものはない。
 この追悼集には、他にも小学校や大学時代の恩師、大学時代の友人や先輩、同僚など多くの人が寄せているが、これほど多芸の持ち主も少ないのではなかろうか。
 剣道では高校時代にすでに2段の腕前で、大学の同級生だった山本先生は「・・・濃紺の剣道着と白袴の颯爽とした装いで、竹刀をピタリと構えた、絵のような立ち姿である。
彼の強靭で素早い竹刀の動き、身のこなしは抜群で、明晰な頭脳、謙虚で洒脱なところもある性格ともあいまって、先輩をはじめとして後輩、県(注:長野県かな)の剣道連盟の方々にもすぐ一目置かれ、愛されていたのは周知のことである・・・」と。
 また飲み友達で、最も気があったのではなかろうかと察せられる恩師の永松啓爾先生(元助教授)は、さすがに向田邦子風の文を寄せている。「・・・彼は歌がとても上手かった。今でも耳に残っている彼の18番の一節に、こんな文句があった。
 ひとりぼっちの部屋で・・・そっと、そっと、お休みなさい・・・
 彼の人生のあるシーンを、ふっと思わせる。
 私はこんなことを考えることがある。天野君は、自分のこの世の人生を、これだけの枚数の原稿用紙の中にまとめてみせると、誰かと約束をしていたのではないか。だからこんなに短い時間を、全ての人に強烈に愛され、魅力的に、印象強く、生き急いだのではないか。そしてフィナーレも予定の通り、だれにも告げることなく、一人でフトンに入りながら、「もう、この辺でいいことにするか」とつぶやいて呼吸を止め、約束の、次の誰かの所へ行ってしまった。そこでまた「天野です、宜しく」と言って、ぺコンと頭を下げている。」
 また中里興文先生(現、大分県の保健所長)は四回忌に、わざわざ遠州鉄道でご自宅を訪れたときの様子を書いている。
 ・・・遠州は風の強いところですね。遠州といえば森の石松の故郷。先生もいろいろな文学書を読みあさっていましたけど(注:文学青年で、サルトル、ランボー、小林秀雄、本居宣長に特に造詣が深かった)、本当のところは森の石松を最も尊敬していたのではなかったのですか。少なくとも生き方には共感を覚えていたとしか思えないふしがいろいろと浮かんできますよ。酒を飲むと道路に寝転んで「殺せ!殺せ!」とどなっていたり、ストリップ小屋ではすぐに舞台に上がりたがったり、私と一緒だったからよかったものの、あれは森の石松そのままではなかったですかね。・・・
 また追悼文の中で、特に印象に残るのは渡辺進馬先生の文章である。先生の長男は3歳で脳腫瘍になり、4年余の闘病の末に亡くなられたのだが、それは天野先生の亡くなる9日前のことである・・・・思えば私の長男は4歳で天野先生と知り合った(注:きっと宮崎県病院時代だろう)。長男の健康を気遣い手を取って遊んでやる心優しい方であった。・・・先生の死を知らせる電話の声に、我が子の死に沈んでいた私たち夫婦の心は粉々と打ち砕かれ、人の世のはかなさ、悲しみ、無常感に瞬時にして満たされてしまった。先生の死はあまりにも衝撃的であったので、私は長男の死に対する悲しみが緩和されるのを覚えた。私はご両親の心中を察すると耐えられない気持ちになった。ただひたすら先生の冥福を祈るのみであった。
 そして渡辺先生は唐津日赤病院に異動になった後、しばらくして確か悪性リンパ腫で亡くなられたという。
 ここまでの記述は、つい天野先生の人間性だけを強調したきらいがある。
 最後にその学問的な部分を取り上げれば、一般外科を数年間研鑽れたこともあって、脳血管造影、穿刺技術等はお手のもので、産声を上げたばかりの教室にあっては「技術的指導」では全て頼りきっていた。また昭和54年には、日本神経学会の認定医の資格も早々に取得された。宮崎県立病院で一緒に働いた福岡先生(現、鹿児島市立病院)は「天野先生の思い出」の中で、次のように追想している
 ・・・医者としては?15歳の女の子が外来に頭痛を主訴に来院した。天野先生は診察もせず顔を見ただけで、「tumor faceだ、すぐ入院」、検査の結果は、astrocytoma。
 50歳位の男、右手掌がしびれる。天野先生「入院して検査しましょう」。検査はなんと脳血管撮影。検査結果は左内頚動脈起始部の閉塞。
 天野先生の診断能力は神がかり的なものがあった。・・・と。
 私はこの追悼集が編まれた頃はアメリカ留学中で、変哲もない通り一遍の小文をよせている。ただ天野先生との関係では、留学前に第二解剖学の村田教授の指導で、ある組織化学の研究を始めていた。ところが市立病院に出張することになり、その跡継ぎを天野先生に託したのである。村田教授も信州大学の出身で剣道部で、弟さんが天野先生の同級生ということもあって、話はとんとん拍子に進んだのだった。
 またこの追悼集には、信州大学時代から亡くなるまでの思い出の写真も載せられている。
 私が一緒に写っているのは、昭和49年に軍国酒場で軍服を着たもの(よく、海兵出身だった井形先生を筆頭に、天文館に繰り出したものである)と、永松先生率いる登山グループで、紫尾山に登って頂上でビールを飲んだ後の写真である(なお、文中の「注:」は、私が勝手につけたものである)。
 さて、肝腎の「柳井講演」に戻るが、博多駅でこだま号に乗り換え、14時36分に徳山駅に着いた。そこで15時01分発の山陽本線に乗り換えて34分に柳井駅に到着したが、山陽本線がずっと複線なのには驚いた。駅には病院から事務の方が迎えに来てくれており、近く柳井クルーズホテルに荷物を預け、そのまま柳井病院へと向かった。乗り換えで時間を労したこともあり、結局4時間近くかかった計算になる。
 柳井市は、東は岩国市、西は徳山市の中間にあたる山口県の南東部にあり、瀬戸内海の西寄り、伊予灘の北に位置している。室町時代から商都として発展し、江戸時代には岩国藩のお納戸と呼ばれていたそうである。柳井病院は市の中心部から南東へ8㎞の室津半島中央東側に位置し、東は国立公園瀬戸内海に面し、周防大島を望み、西は大星山(438m)に抱かれ、四季折々の自然美に恵まれ、風光明媚なうえ、気候温暖、閑雅、清澄にして療養に最適な環境にある(病院のホームページから)。療養環境としては申し分ないのだが、駅から遠いのがちょっとネックかな。
 講演までに少し時間があったので、原田先生、この4月から院長に内定している住元先生、渡辺副看護総婦長に案内されて院内を一回りした。
 瀬戸内海に面した病院の敷地は広大(10万へーべとか)で、院内の公園もよく整備されており、まさに国立公園の中にある病院という場所にある。特に周防大島を望む景色は絶景で、釣り好きの人には垂涎の場所なのだろう。なにしろ病院の隣はいい漁場で、竿を垂らせば大きな魚も釣れそうだ。桜の開花にはまだ少し時間があるが、3月の後半には、病院全体が花に埋め尽くされるだろう。
 講演は17時半に始まり、質問も活発で19時近くまで続いた。小規模の病院であるが多くの職種の方に参加していただき、今後「難病医療を病院の柱にしていきたい」という意気込みが伝わってきたし、出席者の中にも感じられた。
 私は、「神経難病との40年~点から線へ、そして面へ~」という松本清張風のタイトルで、南九州病院の難病医療の変遷を語った。
 すなわち、最初は患者さんと病院(医師や看護師)という双方向の点の関係から、次第に多くの職種が加わって線で結びつくネットワークが形成され、またチーム医療の時代となる。今後は難病相談・支援センターなど行政の力も借りて、県下一円にまたがる面の時代になるだろうというものだった。
 講演後の控室にかなり年配の神経内科の女医さんが、「難病と生きる」など3冊の私の著書を抱えてこられた。そして「サインをお願いします」と言われ、「難病と生きるは教科書としてもよく書けていますし、いつもそばに置いています」とうれしい想定外の発言も。「書いていてよかった」と、まさに著者冥利にひたれる瞬間である。またヘルパーをしているという女性も「病と老いの物語」を持ってこられたので、下手な字でサインをした。書店では売れない本でも、このようにきちんと読んでくれる読者もおられるのだと、ちょっぴり嬉しい気持ちになれた。
 帰りには近くの料理屋で、原田先生、住元先生とふぐを食べながら、美味しい「貴」という酒も飲むことができた。30年近く働いた国立療養所、そして現在の国立病院機構は、いろんな意味で「いい病院」だと実感する。
 また病院に帰ってから、この講演会を実務的に担当してくれた副看護総師長から次のようなメールをもらった。・・・あっという間に講演が過ぎてしまいましたが、先生の広い視野と行動力、医療に対する熱意の源が”断らない、あきらめない”という精神で問題解決に徹しておられることからよくわかりました。先生の診ておられる患者さんは、病気と闘いながらも自分の人生の「ひとつの物語」として感じられておられるからこそ、診察の中でも明るい会話がとびかっているのかなと思いました。この柳井病院でも、人生の最期まで過ごされる方がほとんどです。ナラティブな医療(あたたかい家族のような病院)を目指していきたいと思います。・・・
 ちょっとヨイショされ過ぎの感はあるが、私の言いたかった部分をよく理解してくれている。
 さてこの4回シリーズ、天野先生のことを語りたかったのか、柳井病院での講演について触れたかったのか、自分でもよくわからなくなっている。
 追悼集をまとめた中村尚人先生(当時の医局長)の「あとがき」には、「この追悼集で故人の遺徳がしのばれ、語り継がれることを希望します。短い命を一途に生きた故人を思えば、人の命ははかないからこそ、毎日を大切に生きたいと改めて思い知らされる次第です」で終わっている。
 先日の養護学校の卒業式の挨拶で、私は昨年14歳という若さで亡くなったデュシェヌ型筋ジストロフィーの蓮君の思い出を語った。
 生命(いのち)を受けたものは、誰しも生まれたその瞬間から死へと歩み始めます。だれもそれを止めることはできません。ただ、人の心の中に、思い出として、確固たるメッセージを残すことができます。それが人間のすごいところであり、蓮君がそうでした。
 天野先生も30年を経た今日、私たちの心の中でしっかりと生きている。
 このような振り返りの機会を作ってくれた原田先生に感謝したい。

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