院長雑感詳細

院長雑感(131号)

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という漢詩が、もっともふさわしく感じられる季節である。桜からハナミズキ、そしてツツジへと毎年花は決まったように順を追って咲いているが、人は異動等でメンバーも変わり、新しい陣容で新年度を迎えている。幸い今年度も、やる気のある有為の人材に恵まれ順調なスタートが切れている。
 今年度もよろしくお願いいたします。
 さて先日の医局会で、久保田部長(呼吸器外科)から、「南九州病院という冠のつく研修会、宴会では全て禁煙にして欲しい」という提案がなされ了承された。当院は「呼吸器疾患」を目玉としており、禁煙というポリシーは当然ともいえる。たまたま朝のラジオの「健康ライフ」でも禁煙が取り上げられていたが、20種類以上の毒物がタバコにはあるということである。「タバコはあなたと家族の命を犠牲にしてもいいほど、美味しいものですか」と問いかけて欲しいと石川杏林大学名誉教授は言っていた。
 「わかっているけどやめられない」という植木等の歌が流行ったのは。40年ほど前のことである。
■ 患者数
 3月の入院患者数は386.2人で、計画に対し7.9人の増となった。平均在院日数は、調整前で16.9日と全く問題はない。外来は157.9人と、計画比で1.5人の増となった。
■ 診療報酬点数
 3月の診療報酬点数は、計画比で入院では2,866,274点の増、外来も341,393点の増で、対計画では入院・外来合わせ3,207,667点の増となった。また4月からの累計では計画比12,632,298点の増なっている。
 8、9月で、7月までのマイナスを挽回して、一挙にプラスに転じ、10月は入院/外来と若干の減、そして11月は若干の増、12月、1月も予想以上の増、2月、3月は大幅増で、成績の良かった昨年を上回っている。
 23年度の経常収支率は昨年の収支率より0.9%いい107.7%と極めて良好な成績だった。
 4月の患者数も中盤まではほぼ順調なあゆみである。
■ 平静23年度の別れ、そしてありがとう!
 ここ数日、20度を超える気温が続いて、病棟間の中庭の桜はほぼ満開に近くなっています。春3月はそれぞれに「別れの季節」であり、そして4月は新しい「出会いの月」となります。
 私たちの属している国立病院機構は北海道から沖縄まで、全国143の病院をネットワークで結んでいます。そして6つのブロックに分けられ、スタッフの異動は主にブロック内で行われるため、当院の職員は九州管内での異動となります。
 今日は3月30日であるが、明日が土曜日となっているので、異動や退職される人にとっては実質的には最後の日となります。
 そこで、まずは当院での数年間(長い人は数十年)、一生懸命頑張ってくれた職員に敬意と感謝の気持ちを捧げたいと思います。
 「縁」という言葉があります。ちょっと大げさな言い方を赦してもらえれば、有史以来多くの人が行きかい、地球という惑星に何十億人もの人が生活している中で、この期間、一緒に仕事をすることができたというのは、かけがえのない「縁」をいただいたことになります。
 今回の異動で当院を去ることになった職員、医局、事務部、看護部、放射線・検査科・栄養室・リハ室、指導室のお一人お一人、本当にありがとう。また長年当院で働きそして退職することになった人たち、本当にご苦労さんでした。
 みんなが一生懸命に、心を一つにして頑張ってくれたおかげで、今年度も大きな事故もなく、また経営的にも極めて順調だったといえます。今年度に限らずこの数年、経営的には良好な成績が残されてきましたが、特にこの2年間の経営は極めて順調でした。結果として、今年度も期末手当を取得できたことをお互いに喜びたいと思います。
 それ以上にうれしいことは、一人一人がそれぞれの職場で生き甲斐を持って楽しく仕事に励んでくれたことです。私たちの一生は「自分探し」のようなものです。与えられた場所で、さまざまな厳しい現実と向き合いながら、一つ一つハードルを乗り越えていく、そのハードルを越えることで新しい自分を見つけることができるし、質的に一歩高いところでの自分に出会うことができます。
 時々うれしい発言を耳にします、「この病院は働きやすい」と。院長としてこれほどうれしい言葉はありません。
 いつもありきたりの贈る言葉になりますが、「至る所、青山あり」、そして「郷に入りては郷に従え」という言葉です。自分が今から赴く場所が、最高の場所と思うことです。
 新しい職場には、また当院とは異なる新鮮さや楽しさも待っています。新しい気持ちで、自らに与えられた仕事に真正面から取り組んで欲しいと思います。そしてまた縁があったら、一緒に仕事をしたいものです。
 退職される方々は、まだまだ仕事の第一線から退くには早い年です。新たな仕事、趣味、ボランティア活動などに挑戦して欲しいと思います。人間は亡くなる日まで、挑戦の連続です。
 万感の感謝の気持ちを込めて、「さようなら、ありがとう、そしてお元気で」。
■ 人間力(前)
 のどかな春霞の朝、鹿児島空港を離陸したANA620便は、予定の時刻に羽田空港に着陸した。空港に隣接している東急ホテルでチェックインし、荷物を預けて身軽になって京急線に乗り込む。昼からの機構本部での、4月の月例の理事懇談会と役員会に出席するためである。
 品川駅で山手線に乗り換え、渋谷駅から田園調布駅への東急バスに。しばらく高速道路沿いにバスは進むが、沿道の昭和女子大学附属小学校では入学式の看板が立っている。満開の桜並木の下を人々がせわしく行き交っていた。そういえば、昔の入学式は桜の開花の季節と重なり、記念写真も桜の花が背景になっていた。ところが温暖化のためか開花が早まり、最近の入学式のころはおおかた葉桜となっている。今年は冬の寒さが長かったので桜前線の北上が遅れ、たまたま入学式と重なったのである。
 桜といえば、駒沢にある機構本部の前のソメイヨシノも見頃となっていた。ソメイヨシノは一本ではちょっと淡泊で物足りなさを感じるが、ここの桜は数えてみるとちょうど10本で、壮観な桜並木である。
 それにしてもソメイヨシノは不思議な花である。日本の歴史とともに歩んでおり、万葉集以来多くの短歌で詠われ源氏物語や徒然草などにもよく出てくる。満開のときには葉っぱは一枚もなく、小さな枝の隅々まで薄いピンクの花で埋め尽くされる。ところがこの花の盛りは数日で、一陣の風にひらひらと音も立てずに舞い落ちる。潔さとはかなさの極致であり、人の世の無情と重ね合わせたりする。
 私は若い頃はこの華やかな春という季節にいい思い出は少なかったので、どちらかというと桜を疎ましく思ったものである。最近は歳をとったのか、素直に美しいと感じている。
 役員会の後に意見交換会の開かれた雅叙園にマイクロバスで移動したが、雅叙園の周りの桜も今が盛りである。
 さて意見交換会では、桐野新理事長の挨拶に引き続いて、ブロック担当理事と審議役が矢崎前理事長の思い出などを語った。
 私はいつも挨拶は短いに限ると思っているので、「矢崎先生が今年の役員会の新年会で、場所も同じこの雅叙園でしたが、国立病院機構ではセイフティネットの医療は大切であると強調され、今後も大きな柱として位置づけて護っていかなければならないといわれました。とても嬉しく印象に残っています。先生のリーダーシップは私たちの目標ですが、一言でいうならば『人間力』ではないでしょうか。その心は、いつか管理診療会議録で書きたいと思います」というようなくだりで終えた。
 その後、矢崎理事長のお別れの挨拶だったが、いつものように静かに、平易な言葉でわかりやすく淡々と話された。私なりにその要点を記してみる。
 まず私(矢崎理事長)は8年前に何の準備もなく機構の理事長に就任しましたが、以降ただ機構を財務的にも運営的にもしっかりした組織にするためにひたすら働いてきました。やったことといえば、その時々に生じた課題を、一つ一つ丁寧に解決するために努力してきたということです。幸い国立病院機構には、潜在的には優秀な人材が多く、これによく答えてくれました。私はただ普通のことをやってきただけです。
 私は江戸っ子だがらか知りませんが、理不尽なことには黙っておれない性分で、それをただすために厚労省や時には財務省の役人にもモノを申してきました。利益処分や公経済負担の問題もその一つです。そのためかどうも役人には、「扱いにくい理事長」と思われていたようです。
■ 人間力(後)        
 また病院は看護の力が非常に大きいと以前より感じていました。そこで医師の行なっていた医療行為を、一定の条件で病院内でできる高度で専門的な臨床能力を有する看護師の養成(特定看護師)を始めました。
 今後は国際医療福祉大学の顧問として、病院の経営や看護を含むメディカルスタッフの教育に力を注ぎたいと思います。
 さて矢崎先生の挨拶の中の、「問題が生じたら、その問題を一つ一つ解決してきた」というくだりは、留学していたときのエンゲル先生の「Problem orientated」という考え方に通ずるものがある。何か新しいことを試みようとすると、様々な問題に直面する。そこでひるむことなく、問題の解決のために正面から立ち向かうことの重要性を指摘されていたように思う。 
 ところで私が挨拶で触れた「人間力」には、いろいろな意味と解釈があるようである。
 3月11日に行われた「震災1年 メモリアルフォーラム」の基調講演で、安藤忠雄氏は復興のためには「人間力」を養う教育が必要だと説いている(日経、3月15日朝刊)。日本は1868年の明治維新と1945年の敗戦と二度の奇跡的な復興を遂げることができた。これは教育によるもので、子どもたちに何を教え、どう育てていくかの「人間力」を養う教育こそ重要だと。この文面からだけでは「人間力」の中身ははっきり見えてこないが、「今回の震災で必ず故郷を復興させようとする勇気、困難のなかでもあきらめずに前を見つめる姿勢、厳しい災害でも秩序を保つことができたこと、そして地域や家族の絆」などという文面からおぼろげながらその真意が読み取れる。
 私は14年前に院長を拝命したとき、いくつかのリーダーシップ論を読んだものである。その詳しい内容はほとんど忘れてしまったが、たまたま「リーダーシップの旅~見えないものをみる~」(野田智義、金井壽宏著、光文社新書)を手にした。その中の第四章「旅で磨かれる力」では、リーダーシップについて次のように定義している。
 リーダーシップとは、私たち一人一人が自分自身と対峙し、「見えないもの」を見ようとして一歩を踏み出し、旅を歩む中で人からの共感を得て、結果としてリーダーになる現象だ。そしてリーダーに求められる資質を要素分解して、構想力、実現力、意志力、基軸力の四つの力である。
 この一つ一つの力の説明は省くが、究極の資質「人間力」を育むものの中で、次のように述べている。
 要素分解には、常に「木を見て森を見ず」の危険性が伴う。それに何よりも、こうした要素分析ではどうしても表せない力、あるいはこれらの要素を底辺で貫く力がある。それが、リーダーが人としてもつ魅力、つまり「人間力」だ。・・・
 リーダー(になる人)が「この人にならついていきたい」「この人となら一緒に仕事をしてしてみたい」「この人のためにひと肌脱ぎたい」と言ってもらえる人であれば、命令や権威、飴とムチでの動機付けをしなくても、フォロワー(になる人)の自発的参画や協働を可能にするだろう。・・・戦略的思考とかコミュニケーションスキルを磨く前に、魅力的な人間であること、リーダーシップはこれに尽きると言ってもいいかもしれない。
 私にとっては第三内科の恩師である井形先生(現名古屋学芸大学学長)こそ、「人間力」で弟子を導かれたリーダーだったと認識している。いつも「弟子が伸びるのを邪魔しなかっただけ」と謙遜されるが、「この人にならついていきたい」と、誰にも思わせる人だった。
■ 卒業する生徒さんに
 小学部、中学部、そして高等部を卒業されるみなさん、おめでとうございます。
 今朝は元気で卒業式に参加できて、本当によかったですね。この日を一つの区切りにして、それぞれの新しい道に、希望を持って進んで欲しいと思います。
 今日は、皆さんと同様に、この卒業式を待ち望んでいた村山レン君の思い出を語りたいと思います。
 レン君は12歳の時に、生まれ故郷の沖エラブからこの学校の中学部に転校してきました。ご両親の心配をよそに、比較的スムースに入院生活にも、また学校生活にもなじんでくれました。
 私との関係は、小学校に上がる頃に鹿児島市立病院からの紹介が初対面で、以降、年に2回ほど病院で診察をしてきました。中学校に入学するときには、車いすの生活になっており、沖エラブの小学校から、本人の希望で転校してきました。入院も転校も、自分の判断で行い、私が考えていたより、はるかに賢い少年だったと知りました。
 障害者図画コンクールで優秀賞をもらうなど、楽しい学校生活を送っていたのですが、一昨年の夏休みのあと、体調を崩してしまいました。秋から冬にかけて、主治医の丸田先生はじめ病棟スタッフの励ましや必死の治療で脈拍も落ち着き、少しずつ食事もとれるようになりました。待ち望んでいた剣道の認定一級の合格の知らせも届き、来年は初段を目指すのだと張り切っていました。
 ところが昨年2月に、病状が悪化して、みんなに惜しまれながら天国へと旅立ってしまいました。
 島に帰るとき、病院の中央廊下には校長先生をはじめたくさんの先生方、また病院のスタッフが並んでお見送りをしました。お母さんの話では、島でも多くの方が葬儀に集まり、偲んでくれたとのことでした。これもレン君に対して、さまざまな思いを寄せる人たちが多かったこと、そしてお母さんがレン君のために、いろいろな「活動」をされてきたことによるものだと思うことでした。
 私の部屋の棚に、星砂と巻き貝、サンゴなどが入った小さな瓶があります。レン君が夏休みに帰った時、『先生にあげるんだ』と言いながら、集めてくれたものでした。
 「ありがとう、レン君、ほんとうに、もっともっと長生きして欲しかったのに。」と、いつも小さな瓶を見ながら思うことです。
 生命(いのち)を受けたものは、誰しも生まれたその瞬間から死へと歩み始めます。だれもそれを止めることはできません。ただ、人の心の中に、思い出として、確固たるメッセージを残すことができます。
 それが人間のすごいところであり、レン君がそうでした。
 みなさん、レン君の分まで、頑張って生きて欲しいと思います。
■ 蓮くんのお母さんからの手紙
  正面玄関を入ったところに、強い香りのユリにも似た黄色と白の花が東さんによってたくさん生けられている。
 この花は週明けに病院に出勤したときに、大きな長方形のダンボール箱で郵送されてきたもので、宛先を見ると沖エラブ島の村山連くんのお母さんからである。箱を開くと突然、カサブランカ(ユリと思っていたら、お礼の電話の時に知った)の艶っぽい香りが部屋いっぱいに広がった。目の前にエラブの青い海と、まだ幼かった蓮くんのあどけない顔が思い浮かぶ。つぼみの切花で、一部が白と黄色の花びらを開花させている。数本が一束にまとめられて、箱狭しと並べられていた。
 そして花模様の小さな手紙も添えられていた。このような便りが、医師にとっては最も嬉しいものである。(先日お母さんにお会いした時、「R君とか書かないで、ちゃんと本名で書いてくださいよ」と言われたので、今回はそのようにしたい。以前は全部実名で書いていたが、個人情報を考慮して仮名にすることが多くなってきている。でもどうもしっくりしないでいたが、おそらくお母さんも同じ気持ちだったかと思う)。・・・卒業式、ありがとうございました。とてもうれしかったです。蓮がいたら、もっともっとうれしかったと思います。今でもみんなが連のことを忘れずにいてくれることがうれしいです。蓮がたくさんの宝物を残してくれましたので、大切にしたいと思います。
 「えらぶの海を見せたいね」と言っていたことを思い出します。今頃は天国で貴大くんと一緒に、ケンカでもしているのかも知れませんね。「一日も早く」が実現する日を待ち望んでいます。
 えらぶに来てくださいね。みんなに見せたかったきれいな海と花を・・・・ぜひ見に来てください。
 また院長先生とお話したいですね。
 病棟スタッフの方々、お母さん方に本当によくしていただきました。長女もそんな看護師になってくれたらと思います。うるさい私に何も言わず、支えてくれたスタッフに感謝します。「ありがとう」って、連も言っていると思います。 
 ありがとうございました。・・・
 上記の手紙にちょっと注釈を加えたい。
 貴大くんは蓮くんより一歳年下だったかと思うが、この3月にやはり心不全で14歳という若さで亡くなった。症状的にデュシャエヌ型筋ジストロフィーは大きく分けると二つのタープがあり、心不全が先行するタイプと呼吸不全が主要なタイプである。心不全型は14,5歳で亡くなることが多く、不思議なことにいずれも健気に頑張る子供である。そのためひとしお不憫に感じる。呼吸不全型は、優れた人工呼吸器の開発とケアの進歩で、40歳を超える患者も多くなっている。
 二人とも図画を得意とし、偶然にも当院の外来に顔写真と共に飾られている。蓮くんの作品は14歳の時のもので、「魚つり」というタイトルがつけられており、次のような注釈もある。何か書こうと思った時、ふるさとの海で魚つりをしたときのことを思い出しました。また貴大くんの絵は9歳の時の作品で、「キラキラ光る桜島」というものである。
 また連くんの姉さんは、現在当院の近くの看護学校に進学している。きっとお母さんや蓮くんの思いを、立派に実現してくれると信じている。
 「一日も早く」は、日本筋ジストロフィー協会の発行している機関紙のタイトルにもなっている。「一日も早く」治療薬が開発され、病気が治ることへのみんなの願望が込められている。
■ 我が病院は国立公園の真ん中にある
 「灯台下暗し」という言葉がある。かねて日常的に接していると、特段素晴らしいものとも目新しいこととも思わずに看過してしまうことが常である。
 3月29日の南日本新聞の「南風録」を読むまで、錦江湾奥を含めた「霧島錦江湾国立公園」が誕生したということを強く意識することなく過ごしてきた。この記事の最後は「地球の息吹を実感できる神秘の海は、まさに県民の宝だ。そう思うと、見慣れた景色も輝いてくる」と言葉で締めくくられている。
 私もこの30年近く、錦江湾岸の10号線を病院まで毎朝夕、車で行き来し、春夏秋冬それぞれに姿を変えていく景色を眺めてきた。鏡のような波静かな日もあれば、寒い朝には水蒸気が立ちこめて一面がもやっていた冬の寒い日もあった。そして時には白波が立ったり、車の中からイルカの群れも眺めることのできた錦江湾である。目を遠くに転じると、湾を囲むカルデラの外輪山と、その一角には霧島の幽玄な山なみも、高千穂、新燃岳、韓国岳と眺めることができた。
 そして何といっても、七色に変化するといわれる桜島の威容、この取合せの美しさは世界のどこにもない景色といえる。ただ「美しいものにはトゲがある」という言葉があるが、今回の大津波で甚大な被害を受けた三陸海岸も松島を含めて絶景に恵まれていた。この美しい景色も、そのように考えると非常に気になるところである。また東京からの帰り、飛行機の上から眺められる桜島と姶良カルデアの壮大なパノラマを観るとき、鹿児島に帰ってきたのだと実感するのである。
 考えてみれば、このような場所で人生の大半を送ることができたということは、本当に幸福なことだった。でも日常に接していると、ついその有り難みを忘れてしまう。
 ところで、この霧島錦江湾国立公園について少し説明を加えたい。
 歴史的には昭和8年に日本初の国立公園の一つとして霧島国立公園が指定を受けている。昭和30年には錦江湾国定公園の指定があり、39年に屋久島地域が編入されて霧島屋久国立公園と名称変更になる。そして今回、屋久島国立公園が独立し、霧島錦江湾国立公園という名称の変更となり、日本の国立公園は29から30箇所となったのだという。
 さて今回新たに加えられた錦江湾地域は、湾奥部の姶良カルデラに属する部分、海域公園地区(干潟や熱水噴出孔など)、錦江湾を眺望する展望地等からなっている。姶良カルデラは約3万年前に大噴火で陥没し、海水が流れ込んでできたものである。カルデラの一角に若尊鼻(わかみこばな)と呼ばれる海に飛び出た鼻のような岬、そしてこの海域には熱水噴出孔がある。この孔は桜島とマグマ溜まりを共有しているということで、いつなんどき大噴火をしてもおかしくないことかも知れない。
 また隼人沖には神造島(かみつくりじま)という、小さな島を囲むようなちょと大きな島が二つ、いかにも神様が造ったような景観の三つの島がある。先の南風録には「神話の匂いがする」と書かれている。そして「県本土を広く覆うシラス台地は火砕流が積もったもので、その後も各地で噴火は繰り返され、古代の人々は神々の厳然たる威力を信じたに違いない」と表現しているが、まさにそのような表現がぴったりする。
 一方、国立公園の一部となった重富干潟や白金坂は、かって何度も訪れたところである。重富干潟の前に拡がる砂浜では、数年前の大河ドラマ「翔ぶが如く」のロケが行われた場所である。
 そこまで行かなくても、当院の緩和ケア棟の前に広がる干潟と錦江湾、そして桜島の景色も国立公園の一部であり、いつ見ても息を呑む絶景である。緩和ケア棟を見学に来た人がそろって、「いい景色ですね」と褒め称えてくれる。
 我が病院は、療養環境としては最高の場所にある。
■ 懐かしい旧友との楽しい懇談(前)
 現在、当院のメンタルヘルス関係の相談をお願いしている今村さん(以前、児童指導員として働いていたが、今は鹿児島県臨床心理士会の会長)から、「西村さんが鹿児島に来られますが、ご都合はいかがですか」というメールをもらった。たまたまその夜はあいていたので、「早速、熊襲亭を予約しました」と返事した。
 当日、夕方の6時前に天文館の熊襲亭に着くと、すでに二人は3階の高千穂の間に通されていた。それから3時間近く、昔懐かしい話題に花が咲いたが、20数年の時を超えて、当時と同じような屈託のない会話ができるのはありがたいことである。
 西村君は現在、西九州大学の教授で障害児の臨床心理学が専門である。そして昨年はコラージュの研究で、京都文教大学から社会人として第一号の博士号を授与された時の人でもある(以前、このランでも取り上げたことがある)。
 彼は昭和51年に大学を卒業して初めての職場が南九州病院の筋ジストロフィー病棟であり、翌年の昭和52年に私は一年間、筋ジストロフィー病棟で一緒に働いたことがある。そして私とすれ違いに、その翌年今村さんは大学卒業と同時に重症児病棟に就職した。その後7年して、昭和59年に再度私は南九州病院で働くことになったので、また両人とは一緒に仕事をすることになったのである。しばらくの間は西村君と、そして重症児病棟から筋ジス病棟に異動してきた今村さんと、一緒に働くことになる。
 両人のその夜の話では、南九州病院で働くことになったとき、当時の上司から「なんでも好きなようにして結構です」と言われたことが、仕事をするうえで大変に有り難かったという。確かに両人とも正義感が強く、能力も非常に高かったので、自由奔放に好きな仕事が出来たものと思われる。当時は指導員の仕事の内容も定まっておらず、好き勝手に自分のしたいようにできた「いい時代」ともいえる。また重症児から筋ジストロフィー、難病までと年齢も異なるさまざまな病気の患者に接することができたので、その後、臨床心理の仕事をするようになってから、「こわいものはない」という自信にもつながったとい
うことだった。
 西村君は重症児病棟で、いわゆる動く重症児がタイヤなどに縛り付けられている現実を見て衝撃を受けたという。そこで全てを「自由にしてあげたい」と病棟のスタッフと話しあいながら、その実現のためにさまざまな工夫をした。このような伝統の上に、現在の重症児医療が成り立っているのだと理解したい。
 また臨床心理を志して、あの有名な故河合隼雄先生に師事し、さまざまな研修をしながら「臨床心理士」の資格を取得する。そしてこの資格取得は、今村さんや久継君にも引き継がれていく。その後、国立病院を辞職し福岡県立大学大学院障害発達臨床心理学修士課程に進学し、卒業後現在の西九州大学に就職する。大学では学生を教育する傍ら、自らも京都文教大学で学び、社会人として第一号の博士号を授与するという快挙を達成したのである。
 一方、今村さんは筋ジストロフィー病棟でターミナル期の青年の心理分析と「死の臨床」のカウンセリングを精力的に行う。外来では、不登校児や学校でのいわゆる問題児の心理カウンセリングを全力で真正面から取り組む。定期移動で福岡県の病院への昇任を打診されたが迷った末に病院を辞職し、地元で先輩と「鹿児島心理オフィス」を立ち上げている。
■ 懐かしい旧友との楽しい懇談(後)
 この夜も、「子育て」の事が話題になった。私はとっくの昔に「卒業」したが、子育てほど難しいものはなく、後で後悔するのが常である。
 さて二人とも、臨床心理士の立場からこの問題と長年取り組んできた。私も同じ考えであるが、現代では我々は父親や祖父母から、さまざまな知恵の伝承を受ける機会を失ってしまっている。例えば、「荷物を梱包するときの結び方など、おばあちゃんはうまかったよなあ」と西村君。私も、「正月前後の行事、神様へのお供え物や神飾りの作り方など、習っておけばよかった」と思うのだが、父は何十年も前に亡くなっている。人心の荒廃も、元を正せばこのような日常の知恵やしきたり等伝承の途絶等、些細なことから来ているのではないかと思っている。
 たまたま西村君の書いたものをインターネットで見つけたので、紹介したい。なお、彼には今年9月21日の宿泊研修(藺牟田池)で、特別講演をお願いしたいと考えている。
  「子どもが育つ」ということ「こころの出発点」
 人は生きていくその時々において、たくさんの人に出会い、その中で自分の存在を確かめ、生きる知恵をもらい成長していく。子どもにとって、その最初の出会いが、お母さんであり、そこから人との「関係」が始まる。
 私は二十数年間、医療、教育、福祉、心理など混在した世界の中で仕事をしてきた。その中で重度の障害を持つ子どもたちとの出会いが、今の仕事の原点である。ある時、周産期障害と診断された親子との出会いがあった。子どもには栄養チューブと排泄のためのチューブが入っていた。母親は面接の中で、「私は、この子に何ができるのでしょうか。医療は私がこの子にしてあげられることを全部奪っています」と話された。私には、母子関係の原点を断たれた悲痛な叫びに聞こえた。人としてこの世に生まれ、「こころ」が育っていくとき、「空腹になって泣くとミルクや母乳が与えられ、オムツがぬれて泣くとオム
ツを替えて心地よくしてもらう」という温かい相互作用が、「子ども主導型育児」の始まりであり、安心できる空間で、心と身体をゆだねる体験が「こころ」が育つ原点であるといっても過言ではない。
 人間は他の哺乳動物より1年早く誕生すると言われている。話せるようになる、歩けるようになる、母親と同じものを食べれるようになるまでに1年かかる。全面的に、大人に「ゆだねる」体験をしないと生きていけないのである。この乳幼児期の体験は、安心できる人がいればこそできることでである。「こころ」が育つ大切な時期について、今、どれくらいの人たちが目を向けているだろうか。あわただしく時間に追われ、そのことに気づかない大人たちの姿が見えてくる。「感情が育つ」
 私は臨床活動の中で多くの子どもたちと出会ってきた。その時いつも「子どもたちは、今までどんな空気を食べて生きてきたのか」、あるいは「子どもたちは、どんなふうにその時々の感情を自分の中で処理してきたのか」等を感じるようにしている。
 子どもは、人との相互作用の中で「楽しい」「悲しい」「悔しい」「嬉しい」などの感情体験をしている。そしてその体験に、「楽しかったね」「悲しかったね」「悔しいね」「嬉しいね」などと大人が最初に「ことば」をかけ、体験した感情に「命名」する。そういう相互作用を通して、感情の共有が生まれ感情が育つのである。その時々において、子どもは自分が体験した感情をきちんと「伝えたい」と「受け止める人」を求めている。子どもには、自分の感情を受け止めてくれる大人の「こころの器」が必要である。楽しかった感情も、受け止める器がなかったら「怒り」に変わることを大人は知らなければならない。
 子どもたちは、心の中でおこる葛藤を攻撃行動として行動化することがある。また、腹痛や頭痛などの身体症状として表現するときがある。人は、表現する場所があれば落ち着き、表現したことを理解されると癒されるといわれる。自分のことを伝えることによって、自分の行動や考えを調整し統制していく力がつくのである。
 自分の心を本当に開いて話せる親や友人がいれば、自分の心にある葛藤をじっくり受け止め伝えることができるのである。「お母さんは、私の見てほしいところは見ないで、見てほしくないところばかり見る」と、ある女の子が話してくれた。子どもたちの心の中にある葛藤にきちんと向き合えるよう、大人は「待てる力」と「ゆとりの時間」が必要である。子どもにとって一番大切な人は、「安心できる」「受け止めてくれる」という快の状態を与えてくれる存在である。親が子どもにとって快になることをしてくれる存在であり、それが親子の絆ともいえる。子どもの時代に、どれくらい快の体験(愉快と思える体験)ができたかが、うまく成熟するのに必要な条件なのかもしれない。
■ 看護師の確保を 
 看護師不足は深刻で、特に大都市部になるほど厳しさを増している。
  その要因として、看護基準が診療報酬の改訂の度にアップして、例えば一人の患者あたりの看護師数が増えていく。管理者は経営的に上位基準を取得して少しでも診療報酬を増やそうと努力するので、どこの病院でも多くの看護師を採用しようと考えるのは資本の摂理である。患者側からいえば、それで行き届いた安心できる看護を享受できれば、入院生活を送る上で好ましいことになる。
 今回の改訂でも救命救急入院料1の看護師配置要件が常時4対1以上(小児救急医療では常時2対1以上)になったり、障害者自立支援法の改訂で療養介護病棟でも7対1の入院基本料に向けての対応を考える病院が増えている。
 それに引き換え、3年課程の看護専門学校は閉校し看護大学となることが多いので、需給関係が大きくアンバランスとなり看護師の「青田買い」が横行しつつある。鹿児島県の看護大学や看護学校の就職説明会では、関東の名だたる有名病院から勧誘に馳せ参じているという。もっとも長いスパンで分析すると、今後の超高齢社会では、若い(歳をとっていてもいいけど)女性の半数が看護師や介護士などの医療・介護の現場に就職しなければ、まかないきれないといったような予測もある。
 当院でも、来年4月からの重症児病棟の障害者自立支援法(障害者総合福祉法)の本格実施で、5つの障害者病棟を7対1の施設基準に変更するとなると、多くの看護師を採用する計画を立てている。
 数年前までは、院長協議会等で関東や東海地方の院長から看護師不足の声を聞いても対岸の火事と思っていた。当時は当院では募集定員の数倍の看護師の応募もあり、多くの受験者の中から余裕で選抜できたものである。
 ところが最近は事情が変わってきた。それでも鹿児島医療センター付属看護学校が120人近くの学生を擁する大型校であり、また多くの学生が当院を志望してくれている。ところが2年後から定員を80人に削減するということで、安閑とはしておれない状況になっている。
 先日、看護学校の卒業生の謝恩会に出席した時、面白い話を聞いた。「どうして、また○○病院を選んだの」と、あるテーブルの学生に話を向けると、「南九州病院の実習で、筋ジス病棟で働いてみたかったのです。でも南九州病院だったらいろんな病棟があるから、筋ジス病棟に行けるとは限らないので、○○病院にしました」という。また別の学生は「ずっと鹿児島で生まれて、鹿児島で暮らしてきたので、一度は都会に出たくて、○○医療センターを選びました」という。「都会で悪い男にだまされないで、また帰ってきてね」というと、「そうします」と素直に答えてくれた。論より証拠、今年は例年とちがって、新採用者の中に多くの転入者が含まれている。「かわいい子には旅をさせよ」と言われるように、都会の飯を食べてくることもいい経験になるかもしれない。
 いずれにせよ今年8月4日の就職試験では、多くの学生に本院を受験して欲しいと願っている。病院を選ぶ主要な動機として、「実習に行った時、指導の看護師さんが優しく教えてくれた」とするものが最も多い。先輩看護師だけでなく、医師も他のスタッフも、そのような眼差しで学生に接して欲しいと思っている。
 よく考えてみれば、病院を選ぶ動機としては患者さんと同じである。そして何度も同じことを言ってきたが、「いい病院とはいい看護が行われている病院」である。
■ 懐かしい「鶴ヶ嶺」という名前
 3月末には、井筒部屋の鶴竜が大関に昇進したという嬉しいニュースである。
 大相撲人気も衰退の一途をたどっていたが、今回の大阪場所で少し盛り返し感がある。場所前は把瑠都の横綱昇進が話題の中心だったが、次第に鶴竜の大関昇進と初優勝への期待が高まっていった。私も最近はあまりテレビをつけることはなかったが、今場所は何度か鶴竜の取り組みに力が入った。結局は千秋楽に鶴竜が豪栄道に不覚をとり、決定戦で白鵬が勝って、収まるところに収まったことになる。スポーツの中でも体をぶつけるような個人技では、いかに平静な気持ちで臨めるかが勝負の分岐点である。
 鶴竜はモンゴル出身であるが、私はもろ差し名人の「鶴ヶ嶺」とダブってしまう。小柄で顔かたちも何となく似ているような気もする。取り口も技能派でもろ差しを得意にしているが、鶴竜の方が力強いし技も多彩である。
 もう半世紀ほど前の話になるが、呼び出しが「東方、関脇鶴ヶ嶺、鹿児島県姶良郡加治木町出身、井筒部屋」と場内マイクで放送していたころが懐かしく思い出される。子どもの逆鉾も寺尾も東京生まれの東京育ちだが、出身は加治木町で通していた。おそらく鶴ヶ嶺自身の故郷へのこだわりによるものだろう。ところが市町村合併で、現在では姶良市加治木町ということになる。
 さて鶴ヶ嶺であるが、1967年に38歳で引退しているので、記憶に残っている人は少なくなっているだろう。私にとっては、小学校から高校の頃に活躍したことになり、その印象は強烈である。今もよく覚えているのは横綱鏡里との千秋楽の優勝決定戦である。インターネットで調べると昭和31年の初場所で、ともに14勝1敗同士で対決したが、あっさり寄り切られてしまった。当時は同門対決はなく、鏡里は時津風部屋、鶴ヶ嶺は井筒部屋と同門だったので、決定戦以外には本割りで対決することはなかったのである。
 当時、私は田舎の小学校の4年生、毎朝、隣に住んでいた3歳年下の下級生を迎えに行っていた。そこのお父さんが田舎相撲では強豪で、相撲に詳しかった。その影響もあり、私も小さいころからそこそこの相撲通だったのである。まだテレビのない時代であり、ラジオから聞こえてくる放送に、手に汗握りながら耳を傾けていたものである。
 最近、相撲を観ていると、「お父さんをバカにしていたけど、同じじゃない」と家内から冷やかされる。確かに亡くなった義父も歳をとってからよく相撲を観ていた。お年寄りの好きな番組として、相撲と水戸黄門が挙げられていたが、その水戸黄門もこの4月からの番組編成で姿を消してしまった。購買欲の旺盛な若者に人気がないのでスポンサーが付きにくいということも中止の理由らしいが、今や懐が比較的豊かなのは年金暮らしの老人とも言われているが。この番組など、悪人顔の代官とけなげに働く善人との諍いを、水戸黄門が8時42分に印籠とともに登場、行進曲風の音楽に乗って成敗するというワンパターンだった。私は今でも「安心して」楽しんでいたのだが、素直な老人が少なくなったのだろうか。
 確かに年をとると、勝負がはっきりしていること、深い心理的な葛藤や込み入った人間関係がなく、勧善懲悪が好まれるようだ。「トンイ」という韓国ドラマがある。漫画チックでパタンも決まっているのだが、私は毎週日曜日の夜にはチャンネルを合わせている。あと10回ほどで終了だが、どのような結末を迎えるのだろうか。
■ 難しい挨拶 
 3月の看護学校、そして養護学校の卒業式でいつものように来賓挨拶をすることになり、初めての試みとして先に亡くなったアップル社のステーブ・ジョブズ氏を真似て、あらかじめ用意した原稿を「読むスタイル」にした。かねてと違うスタイルに戸惑ったのか、口の悪い病院の職員からは、「先生、病気ですか」とまで心配される始末。そこで4月の養護学校の入学式では、またもとのスタイルに戻って、「出たとこ勝負」式の挨拶にすることにした。
 それでも挨拶は、いつも難しいと感じている。
 特に養護学校では、生徒は小学校から高校までと幅広いし、理解できる生徒も限られる。そのため、どこを対象に話をすればいいのか迷ってしまうが、最近では学校の先生を念頭にしながら内容を考えることにしている。
 そこで4月9日の加治木養護学校の入学式では、「入学おめでとう」という型通りの挨拶の後、次のような短い話をした。
 私がみなさんにお願いしたいことは、「今を精一杯生きて欲しい」そして「何事にも一生懸命に挑戦して欲しい」ということです。みなさんの先輩は、亡くなるその日まで、一生懸命に英語の勉強をした少年もいました。私たちはそのような姿を見て感動し、少しでも役に立つことがあればと考えます。あきらめないで、最後まで一生懸命に生きて、挑戦してみましょう。
 これまでも私はどちらかというと短い挨拶をすることにしてきたが、あらかじめ原稿を用意するとどうしても長くなってしまう。
 4月4日の日経の生活欄では、「挨拶・自己紹介 長くなっていない?」というタイトルで、「学校や企業などで何かと行事の多い春、短くてインパクトのある話し方を身につけたい」ということをテーマにしていた。
 全体的に言えるポイントは一つ、話を短くすることである。落語家の金馬亭馬生さんは「言いたいことは沢山あるだろうが、挨拶の中身は一つに絞るべきだ。言わない、省略する勇気が必要」と述べている。
 なぜ話が長くなるかについて、大平健さん(聖路加国際病院精神科医)は3つの要因にまとめている。一つは年齢とともに低下しがちな思考力の問題で、思考が追いつかず、話の収拾がつかなくなるのだという。よく同じ言葉を繰り返し話すというような、挨拶に遭遇することも多い。
 第二に、丁寧すぎてくどくなるやり方、そして第三として、小中学校の時代から校長先生の長い話が頭に刷り込まれて、自然に挨拶のモデルに無意識になっているというのである。確かに校長先生の挨拶で、「もうちょっと長ければいいのに」と思ったことはない。
 ただ迷うのは、儀式には形というものがつきもので、国旗掲揚に始まって国歌を歌い、校長先生の形にはまった挨拶を聞くのも、忍耐を学ぶ修練の一つなのかも知れないと思う。戦後の我々の育った時代があまりにも自由であったがために、日本のよき伝統が失わられて、果ては人心の荒廃を招いているという指摘である。その反動として「儀式」を重視してきている時代だが、儀式過ぎても困る。大阪の橋下専制政治下の高校では、校長先生が国家を歌うときに「口パク」でないかどうかをチェックしているというから驚きである。
 いずれにせよ、挨拶は後々まで思い出として残ったり、印象に残る挨拶が好ましいことはいうまでもない。
■ 認知症と火事
 3月下旬、機構本部で「重心病棟における療養介護サービスの提供の在り方に関する検討会」が開催されるということで、鹿児島空港発朝一便の飛行機に搭乗した。幸いにも空いていて、後部座席の富士山の見える窓側の席が取れたので、「冠雪の富士の写真が撮れたのに」と、デジカメラを持ってこなかったことを悔いた。ところが大島の東海上から眺める富士は、春霞なのかぼんやりと輪郭が見えるだけである。房総半島上空で着陸態勢に入ってから富士山を眺めると、5合目以上がきらきらと純白に輝く富士を観ることが出来たのである。しかしこの時間帯は、デジカメの使用もできないわけで、世の中のこと、思いどおりにはいかない。
 さて、今朝はちょっと「怖い話」を紹介しよう。
 私の住居は中央公園の真向かいに建っているマンションで、5階の2DKという小さな間取りである。10年ほど前にある事情で引っ越しをしなければならなくなり、市内のマンションをいくつか見て回った。10号線沿いで、市内の混雑を抜けなくてもすむこと、住居数の多いマンションではないことなどを条件に探したところ、今住んでいるマンションが唯一残っていた。大きなマンションだとせっかちな性分で、毎回エレベーターを待っているに苛つくだろうと思ったのである。
 このマンション、7階建てで、30個数ほどの小さなマンションで、どちらかというと年配の人が多く住んでいる。
 先日のこと、夜9時頃、私の住まいから廊下を隔てた6階の部屋から火の粉が上がったということで、10台ほどの消防車が駆けつけていた。実をいうと私の部屋はサンルームを改造した小さな部屋で、閉め切っていると外の音はよく聞こえない。その夜も、ある宴会で飲んで帰ってきた後、アホなバライティー番組を観ていたので、当初は火災報知器の音も消防車のサイレンの音にも気づかないでいた。家内はすぐに気づいて(私に関係なく)共有廊下に出たようであるが、私はしばらくしてから廊下に出た。まだサイレンの音がけたたましく鳴り響いて、向かいの部屋の辺りに人の出入りが激しい。階下に目をやると、消防車が何台も出動している。
 「窓から火が上がって、何人かが玄関のドアを開けて中に入って、消火したらしい」と、家内は廊下の手すりに身をやりながら言っている。火災報知器はまだ鳴っているが、幸いにも鎮火した模様である。「あそこの婆さん、一人暮らしで身寄りもなく、おまけにちょっとぼけているらしくて、みんなで心配していたのよ」ということである。話では、郵便受けのところで、どうして開けるのかわからなくなって、立ちすくんでいる姿が何度も見かけられたという。
 翌日、管理人さんの話では、身よりは甥御さんがいるらしいが一人暮らしで、火は危険だということで、電気だけを使っていた。ところが電気ストーブに洗濯物が落ちてきて、発火したということである。たまたま発火時間が9時頃とみんなのいる時間帯であったのと、このぼけた婆さんが玄関の扉を内からどうにか開けられたので、近くの人が消火器で消すことが出来たという。後日のテレビによると、消火に協力しこの婆さんを助け出したということで、3人が消防署から表彰されたということだった。
 でもこの超高齢社会、一人暮らしも、またぼけた老人も増えてきているので、どこでも身近なところに「リスクがある」ということは気に留めておこう。
■ 北島康介
 29歳になった北島康介が、4大会連続の2種目五輪出場を決めた。「凄い」の一言に尽きるし、超人、達人というしかない。
 試合後のインタビューがいつも独特で話題になるが、この夜も「格別な気持ちでいっぱいです。4年前とは違うし、8年前とも違う。若手から刺激を受け、もっと頑張らないといけないという気持ちだった。自分でもさすが。きっとオリンピックがそうさせてくれたんだと思います」と爽やかな表情で語りながら、同時に五輪出場を決めた若手の立石選手への気遣いも忘れていなかった。
 北島は2004年のアテネ、08年の北京と2大会連続金メダルの偉業を達成した。
 普通、一回の金メダルでもすぐに有頂天になり、また周りもちやほやするので「醜聞」まみれとなるアスリートが多い中で、彼の場合は別格で、求める高さや考え方が達人の域に達している。あの若さで、どのようにして自分を律していけるのか不思議である。
 北京での2冠の後のインタビューで「気持ちいい。ちょー気持ちいい。まだ未来のことを決めていないけど、泳ぎ続けたい。オリンピックで金メダルを取ることが僕の最終目標ではなく、もっと素晴らしい泳ぎをお見せしたい」と語ったが、まさに有言実行といえる。「金メダルが目標でない」と言い切れるところが、この歳ですごいことだと思う。
 私の家内はスポーツ音痴でテレビを付けることはないのだが、北島が出る時だけは見ている。その理由は、「○○(息子の名前)に似ている」というのだが、親の欲目とはいえ「そう言ったら、北島くんに悪いよ」と思っている。母親はどんな子でも、我が子が可愛いもののようである。
 北島は5歳から水泳を始め、中学2年生の時に、東京SCのコーチ平井伯昌に才能を見出される。その理由は「目がよかった」と言われているが、たしかに一途に頑張る素晴らしい眼差しをしている。平井コーチによると、出会った時には特別泳ぎが速いわけでもなく、体格も決してよいとは言えない平凡な選手の一人だったという。ある日、平井コーチの仕事先でもあり、北島選手が通っていたスイミングスクールで二人が会話をしたとき、「何者も恐れないというような光のある眼」に将来性を強く感じ、北島選手を育てることを決心したという。
 今回の快挙のあと、平井コーチは「去年の世界選手権の直後は100mに対してすごく悩んでいたが、今回の自己新記録と攻めの泳ぎができたことはすごい。自分のことを知り尽くした達人のような泳ぎ。30歳になろうとするこの時期の成長は頼もしい限りだし、楽しみだ」と、独自の練習方法で好記録を出した北島を高く評価した。
 アスリートの世界で長く活躍できる人は、「ロマン」としっかりした「人生哲学」を持っているのだと思う。タイガーは醜聞で現在挫折しているが、まだ36歳だし、あの輝きを取り戻して欲しいと願っている。一方、大リーグで活躍するイチローも「こだわる」という独特の人生哲学を持っている。北島と同じように年齢とも闘いながら、より高い目標に向かって常に厳しい鍛錬を続けているのだろう。
 二人とも日本人の誇りである。
■ 朝の外来・3題小話
 南日本新聞で「こころ散歩道」を毎月担当していた頃(2009年から2011年)、外来を受診される私の患者さんとのやり取りを、「ネタ」として利用させてもらっていた。
 その中の一人のUさんは86歳の高齢のお婆さんだが、今もすこぶるお元気で、毎年米作に励んでおられる。頭の中は、年間の農作業の段取りでいつも一杯である。娘と嫁がかわりばんこに外来に連れて来られるが「若いもんはあてにならん、娘など食ってばかりで・・・」といつも攻撃の矢面になる。それでもニコニコと受け流しながら、「田んぼもいいけど、デイにも行ってよね」と、やっと説得が実って週に一回はデイケアに通うことになった。私にも友だち感覚で、「先生、葛根湯は早えうちに飲まんと効かんどな」と教えてくれる。
  先日の外来でのこと、「先生、この前デイに行ったら、先生をよく知っている人がおいやったと。先生からもらった本も貸してあげた」という。よくよく聞いてみると、どうもあの小川内益男さんの奥さんらしい。80歳を超えて両足が悪くて一人では歩けないということだが、あの木津志の一軒家で一人暮らしのようだ。
 小川内さんは、「もし五人の人を生き返らせてくれるという望みが叶えられる」としたら「もう一度会ってみたい人」の一人である。平成6年に74歳で亡くなられたが、10年ほどの関わりの中で、いろいろな人生哲学を教えてもらった。最初の頃は自ら運転して外来に通院されていたが、後半の数年は病院から20キロほど離れた木津志部落の田んぼの中の一軒家まで、在宅医療と称して出かけたものである。みんなで押しかけて、広い庭で焼肉パーティーやホタルを見る会などを企画したことも懐かしい思い出される。在宅ケアの素晴らしさやALSを生きることの悲喜交々を、身をもって教えてもらった。
 外来診療を終えて、当時よく一緒に訪問していた稲元さん(元筋ジス病棟師長)に電話したら、「近いうちに一緒に出かけてみよう」と話がまとまった。
 次は変わったキャラの持ち主で、あわてものでそそっかしくて落ち着きがなくて、2度も風呂で溺れて救急搬送されて命拾いをした60歳のパーキンソン病のMさんのことである。市役所を定年の少し前に退職、「先生にスイカを食わせてあげる」と、分不相応のトラクターまで買い込んで農業を始めた。しかし病気が進行したこともあって、この壮大な計画は2年で頓挫してしまった。人の話をじっと聞くことが苦手で、いつも心配させるが、不思議と憎めないキャラである。
 「先生、主人の手が黄色くなったように思いますが、大丈夫でしょうか」と心配顔の奥さんである。「確かに手のひらが少し黄色いように見えるね。うんん、みかんの食べ過ぎではない?」と一応聞いてみると、我が意を得たとばかりに「そうでうか、ここのところ毎日デコポンを20個ほど食べるんですよ」とガッテンがいった様子である。近づくと、体全体からミカン臭が漂い、カラダがデコポン化している。「何でも徹底しないと気が済まない方だけど、いくらなんでも20個は多過ぎるよ」ということで、こちらの方は一件落着。
 最後は、パーキンソン病になる前は、あちこちのシニアマラソンに出場して入賞したことが自慢の91歳のKさん。年には勝てずに寝たきりになって、大きな床ずれを作り一年ほど4病棟に入院していたが、すっかり回復し車椅子で外来通院している。「最近は調子が良くて、100歳まで頑張ると言うちょっと」と、椅子に座りながらやはり高齢の奥さん。「そりゃ、はた迷惑な話じゃ。100歳まで生きてもらえば、周りがたまらん」と私。「そうでしょ、先生。いつも自分勝手なんだから。そんなに長生きしたら、誰も生きとらんよ」と娘さん。
 本当に元気なお年寄りが増えたものである。
■ ネーミング
 柳井病院での講演の後、山口市の湯田温泉に泊まろうと思ってインターネットで「るるぶトラベル」で検索をかけたが、土曜日だったせいか、いつもよく泊まっている「常磐」にはヒットせず、残りものの「お多福旅館」に予約することになった。名前からして「どんな旅館」だろうと思いながら、地図を片手に歩いて行った。すると湯田温泉の幹線である湯の町街道(県道204号線)から入った小さな裏通り沿いに、旅館という看板でもなければ普通の民家と間違われそうな外観の建物がひっそりと建っていた。
 玄関の開き戸を開けると、70歳ぐらいの人柄のよさそうな男性が出てきて、名前も聞かずに狭い曲がりくねった廊下を案内してくれる。予定より早く湯田温泉に着いたので、観光案内所からチェックインの時間を尋ねたとき、「お一人様のお客さんですね。3時半ぐらいになります」という返事だった。きっとその経緯を覚えていて、インターネットの名前で確認していて、あらためて名前を尋ねることもなかったのだろう。
 部屋は廊下の突き当たりの「あやめ」という名前の6畳ほどの広さの和室で、清潔ではあるがだいぶ時代がかった古い普請である。「トイレは部屋のものは和風ですが、玄関の所には洋式もありますので、利用してください」と付け加えられた。「朝食は何時でよろしいですが」と言うので、いつも自分の家で食べているように朝5時というわけにもいかないだろうと思って、「6時半でもよろしいですか」と言うと、「いいですよ」という返事だった。
 「お多福という名前が、いかにも似合いそうな旅館だな」と一人苦笑いしながら、風呂場に向かった。小さな浴槽であるが、弱アルカリ性の温泉で、すべすべする。最後まで貸し切り状態で、文字通り「お多福」状態に浸った。
 結論としては、名の通りの人情味あふれる旅館で、「また泊まってもいいな」と思わせてくれた。
 ずいぶん前に、熊本の菊池温泉に泊まったとき、名前が「グランドホテル」というものだった。頭の中では名前からして「グランドというからには格式の高いホテル」を考えていたら、どちらかというと、ちっぱけな安っぽいホテルだった。部屋に入って窓を開けると、隣に学校のグランドが広がっており、「ああこれか!」と合点した次第である。
 このように、ものの名前というものは大切で、古来「名は体を表す」というのだろう。
 話は変わるのだが、先日、機構本部の理事懇談会の送別会が開かれたとき、「センター」という名称が話題になった。
 ある小規模の病院が、「○○病院」から「○○センター」に改称してもいいかという話が持ち上がっているのだという。地方に行けば行くほど、「センター」という名前の威力は大きいらしく、北海道の道北病院は「旭川医療センター」という名称に変更した途端、大学の医局から医師の派遣が増えたということである。
 ところが、名古屋辺りではセンターの威力は全くなくて、センターというとパチンコ屋と間違われることも多いという。堀田理事の話では、タクシーの運転手などは「名古屋医療センターに」と言うと、「国立名古屋病院ですか」と今でも聞き返されることも多いという。
 当日の議論では、医療部長は「病院が決めることで、かくかく然々の要件はないように思いますが」ということだった。病院に帰ってから事務部長に尋ねると、「国立病院機構に移行するとき、300床以上の病院で地域医師会との了解がととれることが条件になっていたように記憶しています」ということだったが、次第に反古になっているのだろう。
 当院も何らかの機会を利用して、「南九州医療センター」という名称変更が議論されてもいいが、あの気宇壮大だった故乗松元院長からも「ちょっと大きすぎるんじゃないの」と言われそうである。

院長雑感

交通アクセス

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