院長雑感詳細

院長雑感(132号)

  5月になり、五月晴れの日が続いているが、日中は日差しも強く夏日になることもある。節電を心がけて冷房の時期もできるだけ先送りしたいが、鹿児島は降灰のため窓を開け放つことの出来ない日も多い。患者さんの希望を優先すると、どうしても冷房が欲しくなる。
 5月から全国的にクールビズが始まっている。先日、難病相談・支援センターへの県議の行政視察では、私だけがネクタイ姿でちょっと間が悪かった。5月の機構本部の役員会、また院長協議会役員会では、半々という状況で、私はノーネクタイだった。病院では夏の仕事着はネクタイは不必要で助かるが、いろいろな会合ではまだ迷ってしまう。
■ 患者数
 4月の入院患者数は374.9人で、計画に対し3.5人の増となった。平均在院日数は、調整前で15.9日と全く問題はない。外来は162.4人と、計画比で2.7人の増となった。
■ 診療報酬点数
 4月の診療報酬点数は、計画比で入院では1,751,092点の増、外来も255,1687点の増で、対計画では入院・外来合わせ2,006,259点の増となった。
 患者数は今年になってから計画より上回る月が多く、点数でもずっといい結果が出ている。
 損益計算書でも、4月は調整後で110.1%と極めて高い収支率となった。
■   院長在任14年と今後の南九州病院(南九に加筆)
 2012年(平成24年度)院内広報誌春季号への寄稿を求められたが、私にとってはこれが春季号の最後の執筆となる。1998年に院長を拝命したので、今年で15年目、来年の3月に退官予定なので文字通り最後の年となる。できることなら「有終の美で終われたら」と願っている。
 さて、院長になってからの14年間を簡単に振り返ってみると、多少の困難にも直面したが運にも恵まれおおむね順調な歩みだったといえる。これも職員一人一人のサポートの賜物と心から感謝している。
 院長の仕事として最も気になることは、経営の安定とリスク管理である。まず後者については、院長に就任して4ヶ月目の7月18日未明、2病棟に肺がんの治療で入院していた64歳男性の寝タバコにより火災が発生し、当直看護師等の的確な判断て延焼はまぬがれたが、就任早々の最大の痛恨時となった。ただ「災い転じて福となす」ということわざもあるが、以降、医療安全をはじめとするリスク管理に病院をあげて努めたためにその後大きな医療事故もなく、現在では「医療安全管理の南九州病院」という高い評価を受けている。
 経営に関して振り返ると、就任したころは当時の九州医務局長から「平成10年度最優秀経営賞」を受けるなど順調だった。ところが2000年7月に霧島病院と統合し60人を超える職員を一度に引き取ることになったことと建物の増改築が重なって、2002年度、私の14年間では唯一経常収支率がわずかに赤字となっている。
 また機構に移行する前の国立の時代(2000年から04年)に、約50億円近くの巨額の投資で整備工事をしたため、2004年に独立行政法人としてスタートした時には70億円を超える過去債務を背負っての出発となった。ただその後は、元金返済と利息、そして減価償却費を毎年計上しながら、105%から107%という高い経常収支率を達成し、預託金も14.5億円を超えている。それでもまだ45億円近くの借金は残っており、経営上の重荷になっている。
 この間、2度の日本医療機能評価機構の受審を受け、全面的なの電子カルテ化も成し遂げることができた。また地域医療連携室や臨床研究部の設置、がん診療連携地域拠点病院の指定や、重症難病ネットワーク協議会の事務局としての仕事など、さまざまな研修会や講演会も企画できている。
 これもひとえに、職員一人一人が当院の院是でもある「やむ人に学ぶ」ということを胸に刻みながら、日々の医療を真面目に実践し地域の信頼をかち得ることができたからにほかならない。
 今後、医療界を含め先々のことは不透明な部分も多いが、死角があるとすれば医師や看護師の確保がその最大の要因に思える。ただ現在のように「いい医療」を実践すれば、それに呼応して「当院で働きたい」という有能な若者が集まるものと確信している。
(医師確保に関してはこの5月の時点では、お陰で思いの外順調である。小児科で一人増員、4月から麻酔科が常勤に戻り、また7月から消化器外科も一人増員されることとなった。厳しい医局運営の中で、当院に貴重な人材を派遣してくださっている教室の教授、医局長に、深甚の感謝の気持ちを伝えるものである。
 一方、看護師確保については、5月19日に就職説明会、そして8月4日にはいよいよ選考試験である。病院紹介用の素晴らしいDVDも、教育担当師長の後藤さんを中心に制作された。当院を選んでくれる学生が、きっと多からんことを確信している)。
■ 意外な偶然が!
 世の中には信じられないような出来事があるものである。
 夜、芝蘭会館から京都新・都ホテルに帰って、パソコンを開いたらメールが届いていた。「福永先生、関根です。今日、白川あたりをお花見していらっしゃいませんでしたか?
 私はたまたま、下鴨神社から東山の方へ行くタクシーに乗っていて、先生をお見かけしました!一瞬だったので声がかけられなかったのですが。川べりの桜、本当にきれいでしたよね!・・・」というものである。
 何という偶然だろうか。私は関根さんに京都に行くという連絡もしていないのに、タクシーの中から私を見かけて、そして私だと確認できるなんて。
 関根さんは「敏秀(平成10年に35歳で亡くなった筋ジストロフィー患者で、私たちにとっては特別の存在である。毎年遺灰を撒いた新燃岳頂上に追悼登山をしてきたが、昨年の噴火で登れなくなっている)」つながりで、長い間懇意にしていただいている女性である。また私が委員長を務めている日本神経学会の倫理審査委員会の(会員外)委員もお願いしている。自らユーディットというベンチャー企業を横浜で立ち上げ、障害者の就労の機会も作っている。一方では、ユニバーサルデザイン関係では日本の第一人者であり、この4月から同志社大学政策学部大学院、総合政策科学研究科教授に就任されている。
 でも何度考えても、走っているタクシーの中から、(特にお花見をしていたわけではなかったが)私を見つける確率なんてどのくらいあるものだろうか。
 思い出すのは同じ「敏秀」つながりの岡本さん(前筑波技術大学教授)と、東京の交差点でばったり出くわしたことがあった。もうずいぶん前のことだが、国立病院の院長会議が三田共用会議所で開催されたとき(確か夕方だったかと思うが)慶応大学近くの交差点の真ん中でバッタリ出会ったのである。あの「敏秀」の神通力が、引き合わせてくれたとしかいいようがない。
 ところで私が春爛漫の京都の街を歩いていたのは、4月13日である。普通の年なら葉桜の季節だろうが、幸運にも今年はまだ満開に近い桜を楽しむことができた。
 この日は鹿児島空港から伊丹行きの朝一番で出発し、空港バスで京都に着いてそのまま日本内科学会の開催される「みやこめっせ」に急いだ。そこで参加登録などを済ませたのち、昼の3時から京都大学の芝欄会館で開催予定の神経学会理事会に出席するために、京都の街をぶらぶら歩いていたのである。
 「みやこめっせ」の横には琵琶湖疎水が流れており、川縁にはソメイヨシノが植えられており満開をちょっと過ぎた花びらが川面にひらひらと落ちている。そして観光客を乗せた小舟も行き交い、京都の古い街並みをバックにして格別の風情を醸し出していた。
 たまたま昼食をと入った喫茶店で、梶教授(現在は徳島大学だが、出身は京都大学)にお会いしたので、「ここから芝蘭会館までは歩けますか」と尋ねたら、「歩けないことはないけど、ちょっと遠いですよ。シャトルバスが出ていますよ」という返事だった。
 時間に余裕があるので歩こうと決心し、東大路通りを京都大学の方にゆっくりと歩いていた。京都大学病院を過ぎると道路の向こうには吉田寮、そして文学部と続いている。新学期のためか、部員勧誘のための立て看が所狭しと並べられていた。さすがに京都大学のキャンパスは広い。私もその一人であるが、京都の街や京都大学に若いころには一度は憧れるものである。高校の時には今西錦司や桑原武夫などの京都学派に憧れて、敦煌の研究をしたいと思ったこともあったが、夢は叶わなかった。時間もあったので生協にも立ち寄ってみた。昔よく読んだことのある宮本常一(民俗学者)の全集が並べられていたのは、
流石に京都大学の生協ならではである。
■ 朝の外来3題小話
 南日本新聞で「こころ散歩道」を毎月担当していた頃(2009年から2011年)、外来を受診される私の患者さんとのやり取りを、「ネタ」として利用させてもらっていた。
 その中の一人のUさんは86歳の高齢のお婆さんだが、今もすこぶるお元気で、毎年米作に励んでおられる。頭の中は、年間の農作業の段取りでいつも一杯である。娘と嫁がかわりばんこに外来に連れて来られるが「若いもんはあてにならん、娘など食ってばかりで・・・」といつも攻撃の矢面になる。それでもニコニコと受け流しながら、「田んぼもいいけど、デイにも行ってよね」と、やっと説得が実って週に一回はデイケアに通うことになった。私にも友だち感覚で、「先生、葛根湯は早えうちに飲まんと効かんどな」と教えてくれる。
  先日の外来でのこと、「先生、この前デイに行ったら、先生をよく知っている人がおいやったと。先生からもらった本も貸してあげた」という。よくよく聞いてみると、どうもあの小川内益男さんの奥さんらしい。80歳を超えて両足が悪くて一人では歩けないということだが、あの木津志の一軒家で一人暮らしのようだ。
 小川内さんは、「もし五人の人を生き返らせてくれるという望みが叶えられる」としたら「もう一度会ってみたい人」の一人である。平成6年に74歳で亡くなられたが、10年ほどの関わりの中で、いろいろな人生哲学を教えてもらった。最初の頃は自ら運転して外来に通院されていたが、後半の数年は病院から20キロほど離れた木津志部落の田んぼの中の一軒家まで、在宅医療と称して出かけたものである。みんなで押しかけて、広い庭で焼肉パーティーやホタルを見る会などを企画したことも懐かしい思い出される。在宅ケアの素晴らしさやALSを生きることの悲喜交々を、身をもって教えてもらった。
 外来診療を終えて、当時よく一緒に訪問していた稲元さん(元筋ジス病棟師長)に電話したら、「近いうちに一緒に出かけてみよう」と話がまとまった。
 次は変わったキャラの持ち主で、あわてものでそそっかしくて落ち着きがなくて、2度も風呂で溺れて救急搬送されて命拾いをした60歳のパーキンソン病のMさんのことである。市役所を定年の少し前に退職、「先生にスイカを食わせてあげる」と、分不相応のトラクターまで買い込んで農業を始めた。しかし病気が進行したこともあって、この壮大な計画は2年で頓挫してしまった。人の話をじっと聞くことが苦手で、いつも心配させるが、不思議と憎めないキャラである。
 「先生、主人の手が黄色くなったように思いますが、大丈夫でしょうか」と心配顔の奥さんである。「確かに手のひらが少し黄色いように見えるね。うんん、みかんの食べ過ぎではない?」と一応聞いてみると、我が意を得たとばかりに「そうでうか、ここのところ毎日デコポンを20個ほど食べるんですよ」とガッテンがいった様子である。近づくと、体全体からミカン臭が漂い、カラダがデコポン化している。「何でも徹底しないと気が済まない方だけど、いくらなんでも20個は多過ぎるよ」ということで、こちらの方は一件落着。
 最後は、パーキンソン病になる前は、あちこちのシニアマラソンに出場して入賞したことが自慢の91歳のKさん。年には勝てずに寝たきりになって、大きな床ずれを作り一年ほど4病棟に入院していたが、すっかり回復し車椅子で外来通院している。「最近は調子が良くて、100歳まで頑張ると言うちょっと」と、椅子に座りながらやはり高齢の奥さん。「そりゃ、はた迷惑な話じゃ。100歳まで生きてもらえば、周りがたまらん」と私。「そうでしょ、先生。いつも自分勝手なんだから。そんなに長生きしたら、誰も生きとらんよ」と娘さん。
 本当に元気なお年寄りが増えたものである。
■ テレサ・テン
 私は自分で歌うのは下手だし、今まで一度も人前で歌ったことはないが、ラジオやCDから流れてくる音楽を聴くのは大好きである。特にテレサ・テンや加藤登紀子等の歌はよく聴いている。昨日、私の車に同乗した事務部長も看護部長も、「テレサ・テンはうまかった」と賛同。
 そのテレサだが、亡くなって17年が経ったというから、月日の経つのは本当に早いものである。生きていたら、もっとたくさんの良い曲が聴けたのにと残念でならない。
 先日、たまたまBSで2時間のテレサ・テンのドキュメンタリー番組をやっていた。彼女の生涯を辿りながら、ヒット曲なども交えた番組だったが、その後半部分しか録画できなかった。前半部分はおそらく生まれてから日本に来日するまでの部分かと思えるが、私が録画できたのは、一時パスポート事件などで国外追放となり、1984年に再来日してからの部分である。
 テレサは1953年に生まれて、1995年に42歳という若さで亡くなっている。日本への再来日(12年して)してからの活躍の時期が1984年から86年頃で、私がちょうど南九州病院での仕事を始めたころに重なっている。
 テレサの生涯は、国家と時代に翻弄された波乱万丈の一生だったといえる。
 台湾で外省人(戦中に中国本土から国民党と共に台湾に移り住んだ)の夫婦の子どもとして生まれた。台湾では国民的歌手としての地位を確立し、亡くなったときには国葬だった。また活躍の場所を香港やマカオ、そして日本とアジア文化圏を中心に活躍して「アジアの歌姫」とも呼ばれていた。夢は世界に進出することだったが、静養中のタイで気管支喘息発作のために志半ばで亡くなったのである。中華人民共和国との関係は微妙で、その人気は非常に高く、天安門広場でリサイタルを開くことを夢見ていたが実現しないまま亡くなった。
 私がテレサの歌で好きな歌は、「空港、愛人、つぐない、時の流れに身を任せ」なのだが、この夜の番組でも4曲とも入っていた。空港は山上路夫作詞、猪俣公章作曲で、後の3曲はいずれも荒木とよひさ作詞、三木たかし作曲というコンビである。
 この番組では、1985年12月のNHKホールでのコンサートの模様が放映された。テレサ自身、もっとも力を入れたコンサートで、ソロのコンサートとしては日本で最後のものとなった。ちょうどこの年は初めてNHK紅白への出演も決まっており、後世に彼女のライブ公演でも最高の水準として評価も高いものである。
 歌声の素晴らしさは、シルキーボイスと呼ばれた透明感と柔らかい音声で、またアジアの歌姫と呼ばれるにふさわしい歌唱力である。そしてステージでの何気ないふるまいが愛くるしく、彼女の人柄の良さもよく出ている。公演の最後には、彼女自身叶わなかったウエディングドレス姿で歌ったが、顔に垂れた前髪を手で上げる仕草や、演奏するミュージシャンにステップを踏みながら近づき、頭を垂れる姿はいかにもかわいく感じられる。またこのコンサートには遠く台湾や香港のファンも駆けつけており、そのやり取りもインターナショナルで面白かった。
 1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動を殆ど休止するようになった。1990年以降はパリに居住。中華人民共和国の北京における天安門事件に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。1990年代に日本をはじめとするアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした。
 この番組の最後では、香港の高層ビルで天安門事件での犠牲者を悼みながら、黒い服に真珠のネックレスをつけて静かに歌う姿もあった。あれから20年近く、香港は中国に返還され、中国の変わり様も想像を超えるものがある。
■ 話題がつながる
  当院の玄関には、「絆」と「つながる」という二幅の書が掛けられている。
 「ありゃ、あたい(私)が最初に気づいたんよ。串木野高校のときやった。火元は同級生の家でな」と、回診中の61歳男性患者さんから思いがけない言葉が発せられた。
  大学からポリクリの医学部学生が5人来たので、「珍しい病気で、一度診察すると生涯忘れない」と思われる筋強直性ジストロフィーの患者さんがたまたま入院していたので、その病室に入った時のことである。
 私は初対面の患者さんには生まれたところを聞くことが多いが、この日も「家はどこな」(この病気は優性遺伝することも多いので、どこかでつながるかもしれないという思いもあって)と聞いたら、「羽島だ」という。「羽島というと、ヒロシの写真を思い出すなあ。焼け野原にぽつんと立っていた。羽島で大火があって、その時の写真だということだったけど」と私が何気なく言った途端、すぐに反応(つながる)したのが冒頭の言葉である。
 ヒロシは串木野市羽島の出身で、筋ジストロフィー(病型は未確定)のために小学校の頃に入院した。その後二十数年間筋ジス病棟に入院し、その大半は私が主治医であったが、数年前に在宅療養となり今は時々病院に診察に来ている。
 院長室の電子カルテで調べてみると、昭和40年2月の生まれとなっているので、写真は1歳半前後ということになる。まだ歩ける頃の写真として大事にとっていたのだろう。一面の焼け野原の中に、黒っぽい服を着た小さな子供の写真は私にも強烈で、記憶にまだ生々しく残っている。インターネットで調べると、この大火は昭和41年6月で、121戸が消失したという。
 もう一つ、ヒロシと話をするときによく話題に上ったのが、「先生は羽島のことを田舎だとバカにしますが、江戸時代に薩摩の留学生が出航した港だということを知っていますか」と言われたものである。
 薩摩の留学生と聞いてまずつながるのは、鹿児島中央駅の正面にある「若き薩摩の群像」(中村晋也氏制作)という堂々とした像である。これは1863年に薩英戦争で西洋文明の偉大さを痛感した薩摩藩が、幕府の鎖国令を破って藩として密航させた15名の留学生と4名の使節団を派遣した快挙を記念して、今の鹿児島の若者にも先人を見習って欲しいとの思いで建てられたと聞いている。
 この時代、禁令を破るという行為なので、全員変名を使い、甑島出張という名目で、1865年、羽島港から英国貿易商グラバーの用意した蒸気船で英国に旅立った。この間、船が遅れたこともあって、2カ月間、この羽島に逗留したという。宿泊先になった藤崎家と川口家には以前、留学生の切った髷や刀など留学生ゆかりの品が多数残されていたが、昭和41年のこの大火でそのほとんどが焼失した。
 留学生は約2ヵ月後にロンドンに到着し、ロンドン大学で学んだ。その後、アメリカやフランスにわたって留学生活を続けるものも多かった。たとえば13歳という最少年の長沢鼎(かなえ)は生涯をアメリカでおくり、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に新生面を開きカリフォルニアのワイン王と呼ばれた。1983年に時の大統領レーガン氏が日本の国会で演説した時に、長澤の功績を称えてから日本でもよく知られるようになった。また多くの若者は帰国後、外交、文教、産業等の分野で活躍し、日本の歴史を大きく転換させ、新生日本を建設する原動力となったのである。
 薩摩の先人は勇敢で進取の気性があり、鎖国の時代に青海原の向こうに大きな夢を求めて旅立ったのである。
■ 医師が患者になるとき
 毎週送られてくる 医学界新聞(医学書院)の「続・アメリカ医療の光と影」の欄で、あの李 啓充先生が「医師が患者になるとき」というタイトルで、意外なそして重たい内容の話を紹介している(下記は、ほとんど李先生の文章を、私が勝手にまとめたものである)。
 医師仲間では昔からよく言われてきたことだが、「医師は大方、自分の専門の領域で命を落とすことが多い」と。例えば胃がんが専門であれば胃がんで、心臓病が専門であれば心筋梗塞で、そして私のように神経内科の先生は脳卒中で、というようなものである。
 ところが李先生が取り上げておられるのは、ALSの世界的権威がALSで亡くなり、「これまでの患者へのアドバイスが、自分が患者になった時に役立ったか」を検証しながら、自ら従容として亡くなったという話である。
 カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部の前「ALS診療研究センター」の初代センター長のリチャード・オルニーが、2012年1月に64歳の生涯を閉じた。ALSセンターはオルニー氏が自ら立ちあげたセンターだったが、ALSのために2004年に職を辞し、「患者として療養に専念する道」を選んだ。主治医は、後任の2代目の所長になった教え子のキャシー・ローメンである。
 オルニーの症状は下肢の脱力感に始まり、MRIで椎間板が脊髄を圧迫しているように見えたので手術を受けたが改善しなかった。本人もALSの可能性も考えたが、同僚から「そんなに心配するのは、これまでALSの患者をたくさん見過ぎたからだ」と一笑に付されたという。ところがやがて上肢にも及び、自らfinger-tap-rateを計測したら、正常値に達しないことで自らALSを確信したという。
 オルニーの偉いところは「不治の病を受け入れることは想像していたより難しくなかった」ということで、その思いを後で「突然誰かからALSだと告げられたら受け入れることが難しかったかも知れないが、ALSの可能性は初めから頭の片隅にあった上に、診断を下したのが自分自身だったからではないかと」述懐していた」。逆に、「自分が長年、患者・家族にしてきたアドバイスが本当に役立つかどうか」を実際に体験できるという興味も大きかったという。ここまで客観的に自分を見れるということは驚きである。
 オルニーは患者に対して「できなくなったことを嘆くのではなく、まだできることを存分に活用してQOLを高めることに専念するように」とアドバイスしてきたが、自らもそのように心がけた。また自らがlocked-inの状態になって意思疎通が困難になっても意思疎通ができるようにと、発声機能の喪失に備えてコンピューターに自分の声を保存した。
 次に、自分が考案した二重盲験臨床試験に被験者として参加した。
 当初は急激に悪化した症状も進行が穏やかになり、呼吸器を装着することなく診断から8年生き続けた(アメリカでは一般的に人工呼吸器は付けない)。この間、最後まで外出を続けながら、メディアの取材にも応じて社会に対するALSの啓もう活動を積極的に続けた。
 家族も最初はショックを受けたが、息子は医学部に進学し、卒業を前にして「初期のALS進行経過と予後の関係」という父との共著の執筆に、また長女は療法士となってALS患者の理学療法マニュアルを執筆したという。実にいい子どもたちに恵まれたものである。
 オルニーはALSの治療法を見つけるという夢は果たせなかったが、自らが病気となったときの勇気と冷静さを持って病気と闘い、患者としての「ロールモデル」となったことで、多くの患者を勇気づけ助けたことになる。
 はたして自分がALSになったら、オルニーのような終末を送れるだろうか。とてもできないと思う。
■ 島津斉彬
 何気なく過ぎていく日常にも、不思議な符合というものがある。
 久々のゆっくりした日曜日、近くの天ぷら屋さんで昼食を摂り、天気もよかったので照国神社横の公園を散歩してみることにした。桜も満開で野鳥も飛び交い、のどかな春のお昼である。この公園は城山の真下にあり、昔の鶴丸城に続いているが、現在はマンションが建ち並んでいる。
 噴水のある池の向こうに大きな島津久光の銅像があり、しばらく神社の方向に歩くと古びて壊れそうな護国神社の社殿、そしてその一角に島津斉彬の堂々とした銅像が立っている。この二つの銅像は、ともに有名な彫刻家である朝倉文夫作と書かれている。この日はついでに神社の拝殿に参拝して帰ったが、小さな赤ん坊を抱いた家族連れでにぎわっていた。ちなみにこの神社は斉彬公を祭っている(照国大明神)。
 翌日月曜日に、月間の「大塚薬報」(2012年4月号)が届いていた。ページをめくると、なんと連載の「歴史上の人物の足跡を辿る」欄の第13回が、「島津斉彬」である。
 小見出しには「幕末間近の風雲期に薩摩の富国強兵策を推し進めた奇跡の存在ともいえる英傑」となっている。そして挿絵には、鶴丸城跡の本丸に続く橋(私のマンションから歩いて5分ほど)や鹿児島城下絵図屏風、磯御殿、反射炉跡、仙巌園から桜島を望んだ写真等も添えられている。
 ところで斉彬は薩摩藩第11藩主(在任期間は1851年から7年間)で、1809年に生まれて1858年に49歳で没している。藩主に就いた年の2年後に、ペリーが黒船を引き連れて浦賀に来航しており、風雲急を告げる時代であった。
 あの時代に斉彬がグローバルな考え方ができたのは、一つには母親の影響と8代藩主で曽祖父である重豪の影響があったこと、そして長い間政治や文化の中心だった江戸に住んでいたことが挙げられる。
  斉彬の母は因幡鳥取藩主・池田治道の娘・弥姫(周子)で、「賢夫人」として知られた女性である。この時代には珍しく斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育したという。また斉彬は重豪の影響を受け、洋学に興味をもつ。これが周囲の目に蘭癖と映ったことが、斉彬が10代藩主斉興の長男にも拘らず長く藩主になれなくて、薩摩藩を2分する抗争の原因の一つになったとされる。
 これも歴史のあやともいえるが、重豪の影響がなければ早く藩主になれたと思うし、一方では若い時代に藩主になれば薩摩に半分は住むことになるわけで、開明的な考えや政治はできなかったのではないだろうか。
 世継ぎをめぐる「お由羅騒動」は島津藩を揺るがす抗争だったが、救いは異母弟の久光との関係は悪くなかったことだろう。
 40歳を過ぎて藩主となった斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。1851年7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、1854年には洋式帆船「いろは丸」を完成させ、西洋式軍艦「昇平丸」を建造し徳川幕府に献上している。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。日の丸を日本船章にすべきだと幕府に献策し、徳川斉昭の後押しもあってこれを採用した。以後、日の丸は太政官布告によって日本の国旗となってゆく。また、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。
 この時期、諸大名の中には水戸の徳川斉昭、福井の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城など一癖も二癖もある人物が名を連ねていたが、斉彬の英明さは群を抜いていたという。
 島津斉彬言行録では「君主は好き嫌いで人を判断してはならない」、「十人が十人とも好む人物は、非常事態に対応できる人物とはいえない」というものがある。このような姿勢があったから、多くの維新の有能な志士を育てることができたのだろう。(なおこの項は、多くはインターネットと大塚薬報から引用している)。
■ 桐野利秋
 3月末に目黒雅叙園で開催された院長協議会役員会の送別会でのことである。この4月から矢崎義雄理事長を引き継いで新理事長になった桐野高明先生が挨拶をされた。
 その中で、組織をうまくマネジメントしていくには「もの・人・金」が大切であることは論を俟たないが、そのことの他に「時間」の重要性も考えていきたいと締めくくられた。なるほどと思ったが、今後はテレビ会議なども導入されていくのではないだろうか。
 その後、立食パーティーに移り、たまたま大鶴部長に会ったとき、「桐野先生はひょっとして、あの人斬りで名を残した桐野利秋の子孫じゃないでしょうかね」と振ってみた。「人斬りだったら、龍馬伝でも話題となった岡田以蔵でしょう」と言うので、「薩摩の桐野利秋も有名だったと思いますが」と言ってみたものの、この時、桐野の前名の中村半次郎という名前をなぜか思い出せなかった。後で、「幕末、京都の街で恐れられていたあの人斬り半次郎ですよ」と言えば、きっと思い出されたに相違ない。
 その後、その送別会で桐野先生と直接話をする機会があったので、桐野利秋との関係を聞いてみた。「私の両親は鹿児島ですが、桐野利秋とは関係はないようです。桐野姓は鹿児島では多いのではないですか」と逆に聞き返されたが、「そんなに多くはないように思います」と答えた。いずれにせよ、そのルーツが鹿児島というのは、鹿児島県人にとってはちょっとうれしいことである。
 ところで桐野利秋という人物、西郷との関係で、良くも悪しくも誤解されている向きもあるようである。特に人斬り半次郎という名前があまりにも有名になったので、荒くれ者とか無教養者として誤解されたようである。史実からすると、京の街で暗殺したのは1回だけで、それも一人ではなかったらしい。
 また西南戦争が「桐野の戦争」といわれるくらいに大きな責任を背負わされた。そのために明治時代、悪いイメージが形成されたようである。実像としては薩摩隼人らしい豪快な部分と、繊細で思慮深い一面も備えていたということである。
 今となっては想像にすぎないが、桐野の生涯を見る限り、すべて「西郷さんのため」であったことに間違いはなく、個人的な利害損得や保身の感覚はなかったように思われる。
 残された彼の言葉に次のようなものがある。「男子たる者は絶対にへこたれてはならん。銃があれば銃で戦い、銃が壊れたら刀で戦い、刀が折れたら素手で戦い、腕を失ったら歯で戦い、命を取られたら魂で戦うのだ」と。そして彼は死ぬ間際までこのことを実行する。
 敗戦後の西郷軍の険しい九州山地の山越えは、筆舌に尽くしがたい壮絶なものだったという。多くは20歳代の若者で、死を覚悟しながらただひたすら「故郷・鹿児島の地に帰りたい」という一心で、必死に歯を食いしばりながら険しい山中を抜けて一路鹿児島へと向かった。山中で倒れた者も多く、15日間という短い時間で鹿児島までたどり着いたのはわずかに300人を超えるぐらいだったという。
 9月1日に薩軍が鹿児島に入り、城山を占拠した。一とき、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が9月3日に城下の大半を制し、9月6日には城山包囲態勢を完成させた。9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷隆盛が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府晋介の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた桐野らはさらに進撃し、岩崎口で交戦し相次いで銃弾に貫かれ刺し違え、或は自刃した。このとき桐野は塁に籠もって勇戦し額を打ち抜かれて戦死した。享年40歳であった。
 これが700年近く続いた武士の世の終焉だったといえる。
■ 「呼吸の日」市民公開講座
 当院主催の「呼吸の日」市民公開講座を開催したが、企画も内容も運営も、そして天気もよく、手前味噌かもしれないが大成功に終わった。聴衆はどちらかというとお年寄りが多かったが、ほとんどの人が大満足の表情で帰られたように感じられた。
 5月9日が、語呂合わせで「呼吸の日」ということで、日本呼吸器学会九州支部のイベントを当院が仕切ることになった(川畑先生の挨拶から)。ゴールデンウィークの初日4月28日(土曜日)、朝から雲一つない快晴という天気で参加人数も気になったが、しばらくすると心配無用ということがすぐわかるほど加音ホールの小ホールは満杯になった。数ヶ月前から地域医療連携室が主体となって企画を進め、当日は事務から看護、療育、栄養などあらゆる病院の部署が運営に参加してくれていた。このようなチームワークこそが、成功の第一の要因だろう。
 さて講演は当院から「禁煙」を川畑先生、「肺がん」を是枝先生が担当し、特別講演は東京医科大学教授の瀬戸口靖弘先生が「COPD(肺の生活習慣病)」というタイトルで講演された。いずれの講演も素晴らしい出来栄えだった。特に瀬戸口先生は地元鹿児島(敷根)の生まれで、国分高校の出身だと聞いていたが、実に説得力のある講演で私も睡魔にも襲われることなく最後まで引き込まれてしまった。まさに「故郷に錦を飾る」という言葉がピッタシである。
 3人の先生方が共通して強調されたのは、呼吸器の専門医からみた「禁煙」の重大性である。私も今まで、禁煙に対する認識が甘かったことを大いに反省させられた。確かに肺がんもCODPもその発生率をみると、約30年遅れのスパンで、煙草の喫煙者数とがきれいに比例している事実である。例えば日本の男性の場合、戦後の昭和20年頃より喫煙者数が鰻登りに増えているが、肺がんとCODPは30年を経た昭和50年頃より急速に増加しているのである。
 川畑先生の講演では、まずコーヒーとタバコの違いから始められた。コーヒーは嗜好品であるが、たばこは嗜癖品だと。なぜならコーヒーは夜間切れても次の日に飲めばすむが、たばこは夜中でも買いに走る。コーヒーは飲んだら満足できるが、たばこはまた吸いたいと思う。このようにコーヒーは自己規制が出来るが、たばこは出来ない。喫煙者は病気(ニコチン依存症)であり、喫煙者は10年も短命というデータも示された。
 また家族で誰かが喫煙すると、その子どもの尿中ニコチン濃度は異常に上昇し、自分は吸わなくても周りの人が同等に近いほどの悪い影響を受けるとのことである(受動喫煙)。喫煙者本人が吸い込む煙を主流煙で、喫煙者がはき出す煙と、火のついた部分から立ち上る煙を副流煙というのだそうだ。そして後者の副流煙の方に、タールやCOなどの有害物質が含まれているのだという。
 特に最近、問題になっているのが若い女性に喫煙者が増えているということである。自らの健康とともに、子どもへの影響を考える必要がある。
 また瀬戸口先生の話によると、最近の煙草はその製造過程で煙草の葉を化学薬品に浸すので、その有害度は昔の煙草に比べものにならないほど甚大だということである。
 大体このような禁煙を呼びかけるような講演会には喫煙者は出席しない人が多い。ぜひ自分と家族の健康のためにも禁煙にトライして欲しい。私の息子も喫煙しているようなので、今度会ったらあらためて禁煙を促したいと思っている。でも30年後のことに思いをはせる性格ではないので、聞く耳を持たないだろうなあ。
■ 選挙の方法
 先日、私の所属している日本神経学会の理事選挙の結果が、学会のホームページで公表された。「なるほど」と納得できる部分と、「そうかなあ」と少し頭をかしげたくなる部分もある。
 私自身は3年前に、当時の理事長の葛原先生の「大学教授だけの理事会では、運営が大学に偏りがちなので、大学教授以外の一般病院の代表も一割ほど含まれた方がいいのではないか」との提案で、20人の理事の一人に香川県立中央病院の山本先生とともに選出された。
 立候補に際しては大いに逡巡したが、川井先生(現NHO東埼玉病院院長)から、「難病を中心に神経内科の患者さんを沢山診てきた国立病院機構からも、一人は理事を出した方がいいのではないですか」との説得に負けて立候補した。私がNHO神経内科協議会の会長の任にあったからである。ちょうど3年ほど前になるが、川井先生や溝口先生、松尾先生等、NHOの多くの先生方には大変お世話になったものである。
 ただ今回は、理事の定年が65歳であり、たとえ理事になっても一年しか任期も残されていないし、それ以上に理事として自分がふさわしいとも思っていないので立候補はしないことにした。
 ところで、神経学会も時代の流れで、昨年「一般社団法人」に移行した。そのために理事選出の方法も変わって、まず学会員が各支部(北海道から九州まで7支部)に配分された(会員数から按分)定数の代議員を、立候補者の中から選出する。そしてその代議員が、全国の理事立候補者の中から、20人を選出するという方式である。
 例えば今回は30人の立候補者があったので、その中からパソコンの画面から最大20人にチェックを入れるというやり方である。国民が選挙区ごとに議員(代議員)を選び、その議員(代議員)が総理大臣(理事)を選出する方法にやや似ている。ただ日本の議会は総理大臣が大臣を任命するが、学会では選出された理事が互選で代表理事を選び、代表理事を中心に内閣を組織するということになる。
 さて今回の選出された候補者の得票数は一位が376票で、20位でも221票と極めて高い数字に驚く。代議員の数が500前後であるのと、パソコンの画面から投票したいと思う候補者にチェックを入れる方式なので、このような高い数字になったものと思われる。
 残念ながら、国立病院機構の推薦した二人の候補者は当選できなかった。二人とも目立った選挙運動を控えたのが災いした部分もあるのではないだろうか。というのもNHOの代議員は確か50人にも満たないので、別な戦略を立てなければ今後も当選は難しいだろう。おそらく大学の場合には、組織的に大学同士で「グループ化(貸し借りのようなもの)」している大学もあるものと思われる。もっとも、NHOにとって学会理事を出す必要があるかどうかは、また別問題だが。
 そしてこのような選挙方法だと、期間中に手紙や電話で自分への投票を依頼した候補者が、結果的には優位になるように思われる。今回は選挙期間中に選挙管理委員長から「節度ある運動を」との達しもあったが、結構活発な選挙運動もあったようで、私にも「よろしくお願いしたい」というような手紙や電話を多数もらった。20人もパソコン上で選出していくとなると、(多くの代議員にとっては、誰が理事になっても構わないわけだから)つい記憶に残っている人(頼まれた人)に、チェックを入れてしまうのが人情かも知れない。ところで私の理事の任期も、今月5月22日の理事会をもって無事終了する。
■ あんしん手帳
 昨年の大震災のような予期しない出来事が起きると、誰でも頭の中は真っ白になり冷静な行動が出来なくなる。そのために、イザという時の「災害マニュアル」を作成したり、病院では火事のときの「手順」を、ナースステーションの壁に貼ってある。
 鹿児島県難病相談・支援センターでは、在宅で暮らしておられる難病の患者さんのための「あんしん手帳」を作成した。
 これは、難病患者にとっての災害時に必要最低限のことをまとめて記し、同時に自分の個人情報も記載したもので、救援や救助者にも役立つようにと配慮されている。特に自由に体を動かすことの出来ない患者さんにとっては、必要不可欠なものとなる。
 この3月に作成し、県内の7000人近くの難病患者さん(特定疾患受給者証を持っている)に順次郵送中である。先日も回診の時に、床頭台の上に置かれていた冊子を認めて、ちょっとうれしくなった。
 A6サイズで20ページという小冊子であるが、スタッフの熱意と協力で、素晴らしい手帳となっている。目立つようにと赤と黄色の原色を配した表紙をめくると、「はじめに」は、私の所長挨拶である。私はこの手帳の作成にはほとんど関与していないが、職員が「立てて」くれている。
 冊子の内容を簡単に説明すると、全体が4つの章に分かれている。
 第1章は「自分のことを知る(知らせる)」で、7つの小項目に分けられている。①が基本情報(氏名、生年月日、住所、電話番号、血液型、身長・体重、健康保険証、特定疾患受給者番号、身障者手帳、介護度、近くの緊急連絡先、かかりつけ医、かかりつけ薬局等である。②は医療に関することで、緊急時搬送先医療機関、医療情報として診断名と合併症、現病・治療歴、禁忌薬剤名、アレルギー、内服薬等である。③の医療処置が必要な場合では、(該当、非該当)をまずチェックし、人工呼吸器、酸素療法、吸引、ポート、災害時準備物品については詳細情報を記載してもらうような様式になっている。また人工呼吸器については、提供会社、災害時の注意点、停電や自家発電にも触れている。そして緊急搬送時に気をつけて欲しいこと、避難所で考慮して欲しい項目も挙げている。
 その他に、医療機関やソーシャルワーカー、ケアマネ、訪問看護ステーションの連絡先、中心静脈や経腸からの栄養方法、芽や耳が不自由な場合に援助してくれる人への注意点にも触れている。
 以下、栄養方法について、目が不自由な場合、耳が不自由な場合、関係期間連絡先と続いている。
 第2章は、災害が起こる前にという項目で、①災害に関する3種類の情報とは?で、避難準備情報、避難勧告、避難指示について説明し、②で災害情報の伝達方法は?、では171(いない)について説明している。これは災害用伝言ダイヤルで、災害時には電話での通話は困難になるので、この171に電話して指示を仰ぐといいということである。③は確認しておきたい情報として、避難先、いざというときに、○○に相談して、○○に連絡して、○○するという形式になっている。
 第3章が私の災害時・緊急時持ち出しリスト、第4章が最新情報はこちらから、ということで、ts各地域でのFMラジオ等の周波数、や保健所の所在地が書き出されている。
 大災害を想定して、今までの経験をもとに、細かな部分まで配慮された冊子が出来上がった。ずいぶん前に、私は「ALS手帳」を作ったが、全く利用されなかった苦い思い出がある。大災害はないに越したことはないが、イザというときにために、必要事項は記入して、ぜひとも生かして欲しい。
■ 「南風」便りから
 鹿児島市の公益社団法人鹿児島共済会南風病院から、「南風だより(No31)」が送られてきた。季刊で発行されており、この号では「データで見る南風病院」を特集している。
 データは「がん」に関するもので、全国DPC参加施設(1648施設)の2110年7月から2011年3月まで(9ヶ月)の退院患者が対象になっている。DPC方式の本領発揮というか、他の医療機関との比較が容易に可能となっている。
 まず、5大がん(胃がん、肝がん、大腸がん、乳がん、肺がん)で、南風病院では乳がんを除く4大がんを対象としている。
 さて5大がんの総数では、南風病院は県内(41施設)では1280人で1位、九州(245施設)でも11位である。ちなみに県内では2位が880人、13位が328人である。
  九州では1位は国立病院機構(NHO)九州がんセンターが2620人、2位がNHO九州医療センターの1926人、3位が佐世保市立総合病院、4位がNHO長崎医療センターで1750人、5位に九州大学病院で1749人となっている。このようにみてくると、がん治療では各県のNHOの病院が健闘している。当院はDPCに参加していないし、また総合病院でないので比較は難しい(肺がんと消化器がんのみ)が、事務に集計してもらったらこの9ヶ月間では約200例であり、意外に健闘している。
 疾患の内訳では、胃がんは309人で九州管内で南風は第1位である。ちなみに2位が九州大学病院の302人である。
 次に鹿児島県のDPC参加病院の入院実績(がんを含む各種疾患)の上位15位と、南風病院の診療実績が表示されている。
 このうち南風が県内で1位を占めている疾患は、胃の悪性腫瘍、脊柱管狭窄症、大腸の悪性腫瘍、肝膵胆の悪性腫瘍、肝硬変、胃十二指腸潰瘍、椎間板ヘルニアである。消化器系の病気と整形外科のなかで脊椎疾患では、鹿児島県のトップといえる。そして重要なことは、これらの疾患は40%から77%は他の医療機関から紹介された人であるということだろう。
 西俣院長は「南風病院はこれまで、得意分野の質を上げることが最大の目標にして医療に取り組んでまいりました。診療報酬の増減に一喜一憂することなく、『医療とは何か。何をなすべきか』を考えてきました。また得意分野に注力しつつ地域医療全体の質を上げるために、地域連携の充実にも取り組んでまいりました。これらの結果が、今回のデータに現れているものと理解しております・・・」と総括されている。まさに得意分野の質を上げる努力と地域連携の結果がこのような成績として表れたわけで、正攻法の医療といえる。
 また、療養型通所介護事業の取り組みにも触れているが、この事業は採算を考えずに「地域医療を支えるためには欠かせない」ということで始められた。そしてこの事業は、県下でも2ヶ所のみであるが、患者に喜ばれそして必要とされる重要な事業であると考える。
 この「便り」の最後には、南風病院の理念である「人にやさしく、あたたかく」と、五つの基本方針が掲載されている。基本方針の第一は「医療を通して地域社会に貢献する」となっているが、患者紹介率の高さや介護事業等などまさにその方針に沿ったものといえる。
 昨日、たまたまセンターの帰りに南風病院を訪ねる機会があった。建物は清潔ではあるがかなり年月が経っており、決して豪華ではない。ただこのように、がん患者が多いということは、医療の質の高さと「人にやさしい」というソフト面が評価されてのことだろうと思うことだった。  
■ 公衆衛生情報
 昨年11月、福岡市で開催された九州厚生局主催の医療安全講演会での座長を頼まれたことが縁となって、医事課長の入江芙美先生とメールなどでのやりとりが始まった。入江先生は九州大学医学部を卒業された後に厚労省に入省されているが、文字通り絵に描いたような才媛でチャーミングな女性である。
  先日、「公衆衛生情報という月刊誌にフランスのことを連載することになりましたので、本を送ります」というメールが届いいたが、しばらくして2012年一月号と二月号の二冊の本が郵送されてきた。この本は保健師を対象にしている月刊誌のようで、びっくりしたのはかねて知己をいただいている何人かの先生方が寄稿されていたことだった。
 まず編集長は上田茂さんという名前である。この先生は以前、厚生省国立療養所経営課長など歴任され、現在医療機能評価機構で産科医療の無過失補償制度などに取り組まれている上田先生ではないだろうか。もうずいぶん昔のこと、先生が厚生省北海道医務局長をされていたときに、年に一回開催されていた六役会議で講演の機会をもらったことがある。札幌市で「医療安全」の講演の後、楽しく飲んだことがあった。
 また特集のスペシャル対談「公衆衛生を離れて見えたこれからの公衆衛生の方向」では長谷川敏彦先生(日本医大医療管理学教授)が登場し、相変わらずの雄弁を奮っておられる。平成3年に私が副院長になったとき、先生は九州医務局の次長で、以来「医療安全」などの分野で時々関わりを持っている。当時、鹿児島にも何度か来られたが、恐ろしいほどの博識と雑学の持ち主であった。
 また「映画にみる公衆衛生愛的勇気的電影評論」という連載では、JUNO(1月号)と海洋天堂(2月号)というちょっとマニアックな2編の映画が紹介されている。筆者のプロフィール欄には、映画館を愛する部員たちは「社会」をキーワードに映画の中に隠れている「公衆衛生」を探索中とあり、執筆陣は沼ちゃんと野Pとなっている。
 この沼ちゃん先生は、数年前まで厚労省からの派遣で鹿児島県の保健福祉部次長をされていた気鋭の行政マンである。さまざまな分野に精通し、気心があったこともあって鹿児島で何度か飲んだりした。野P先生は鹿児島県の出身で、十数年前に私が厚生省を薩摩蒸気屋のかるかん饅頭の袋を下げて訪問した時(当時は慣例として許されていた)、めざとく見つけて「かごんまですか」と声をかけられた時からの知人である。実は沼ちゃん先生も、野P先生に紹介されたのである。
 さて前置きが長くなってしまったが、入江先生の連載、遠くて近い国・フランス「行政医が見たフランス社会とその保健医療」の一月号と二月号について簡単に触れてみたい。
 入江先生は学生時代からフランス語に親しみ、九州医療センターで研修医時代には、夜間を使ってフランス語教室に通っていたということを聞いたことがあった。入省後、念願がかなって2007年から2009年まで、人事院の行政官長期在外研究員制度を利用してフランス国立行政学院に留学された。
 第1回のテーマは「こんなに近いフランスと日本」というタイトルで、地理的には遠いけど国の規模や社会保養システムなど日本との共通項も多い点を指摘している。まず、日本語の中に意外にフランス語が多いという。例えば、ルネサンス、ノブレス・オブリージュ、メニュー、シェフ、パティシュ、アンサンブル等である。逆にフランス語の中に日本語も浸透しており、盆栽、禅、神風、福島、津波等だという。
 第2回のテーマは「行政医が見たフランス社会とその保健医療」というタイトルで、次第に専門分野に入っていく。フランスでも日本と同じように急速に高齢化が進んでいるが、出生率は先進国には珍しくV字回復を成し遂げている。先日のこのランで、今度の新大統領オランド氏の奥さんをパートナーという言葉で表現したが、フランスでは婚外子が増加している。ただ日本でいうところの私生児とは異なるようで、結婚の代わりにPacs(連帯市民協約)を選択するカップルが増加しているのだという。
 このPacsとは「性別に関係なく、成年に達した二人の個人の間で、安定した持続的共同生活を営むために交わされる契約」のことで、結婚せずとも、税制や社会保障の面で、結婚している夫婦とほぼ同等の扱いを受ける。
 紙面の都合で一部を紹介したが、入江先生の連載、本格的なレベルの高いフランス物語であり、編集後記にも書かれているが、次回が楽しみになってくる。文体も上質で、簡潔である。
■ 年金だけでは食えなくなる
  私が長いこと外来で診てきた78歳のパーキンソン病の小柄な女性(Fさん)がいる。いつも50歳絡みの文庫本を手に持った物静かな息子さんが、ついてきてくれている。住まいは、病院から車で20分ほどの山村である。
 先日、訪問看護の担当者から、「Fさんが痩せて、歩けなくなっている。どうも食事を十分に食べていないようなので、次回の診察時には栄養剤を処方していただけないでしょうか」というメールが届いた。
 たまたまその翌日、Fさんと息子さん、そしてFさんの妹さんという女性の3人が外来に来られた。前回の受診まではどうにか自立歩行ができていたが、今日は車椅子となっていた。初めてお会いした妹さんが、「先生、私も昨日会ってみてびっくりしたんです。あまりにも痩せていて。恥ずかしい話ですが、食べるものがないらしいのです」と、二人が診察室の外に出たのを見計らって小さな声で話された。
 子供は失業して無収入となり、最近ではFさんの年金だけで生活してきたのだという。やむを得ず、早速入院の手続きを取ることになった。入院したら自己負担はないのか師長さんに確認したら、「Fさんの場合には、もろもの条件で食費を含めて自己負担はないということです」ということだった。家で暮らしたら最低限でも食費は必要となるわけで、この仕組みも「少しおかしい」と思うことである。でも一連の作業をしながら、やるせないというか、やりきれない気持ちになった。
 最近、南日本新聞の一面で、「揺らぐ社会保障」というテーマの連載が始まっている。
 2回目には「低年金者 月額2.5万円 家族が支え」というタイトルで、89歳の高齢者の場合を紹介している。この女性は鹿児島市内で一人暮らしで、国民年金はもらっているが、介護保険料などを引かれると実質的な手取りは月2万五千円程度にすぎないという。若い頃は大島紬の機織りをしながら3人の子どもを育ててきたが、生活が苦しく国民年金保険料は払ったり、払えなかったりの生活だったという。おそらくFさんの場合にも、似たり寄ったりの状況ではなかっただろうか。
 厚労省の2010年年金事業概況によると、鹿児島県内受給者の平均月額は厚生年金が全国比で2万2095円少ない13万1249円で、国民年金が99円多い5万4995円だという。
 先日姶良郡医師会で、厚労省の課長さんに「社会保障と税の一体改革」の講演をしてもらった。社会保障制度を担う労働人口が減少し、受給する高齢者はドラスティックに増加している。1965年は9.1人の20歳から64歳の人口が65歳以上の一人を支えるという「胴上げ型」だったが、2012年には2.4人で一人(騎馬戦型)、そして2050年には1.2人で一人という「肩車型」になるのだという。
 巧みなたとえだなあと感心したが、現実は「大変な世の中」になっていくことになる。
■ 787-8での東京~難病相談・支援センターフォーラム~(1)
 5月9日に厚労省で「難病相談・支援センターフォーラム」が開催されることとなり、前日の8日、18時55分発のANA630便で鹿児島空港を離陸した。同行者は、鹿児島県難病相談。支援センターから原田副所長と保健師の笹原さんである。
 私にとっては、今回の飛行にはちょっとした楽しみがあった。というのは、鹿児島・東京間のこの便だけに、新型機ボーイング787-8機が投入されているということだったからである。787機は炭素素材複合材を使用した次世代中型機で、機体部品の35%以上を日本メーカーが手がける準国産機である。また燃費効率を25%以上改善したといわれるエコ機でもある。
 搭乗する前に外観を眺めると、一般の中型機というより少しコンパクトであり、左右の主翼が直線ではなく、上方に反っているのが特徴である。機内に入るとプレミアムクラスと一般席の間にもう一つの区切りがあり、3クラス制となっている。全体の色調は淡いオレンジで、天井の照明も薄い青色で、全体としては広々としてエレガントな雰囲気である。私の座席は10Cで窓際の隣の席だったが、窓の大きさは従来の飛行機よりかなり広くて、外の景色がよく見える。また座席の前はタッチパネル式となっており、飛行航路などタッチすることでいくつも選択できる仕掛けになっている。カップホルダーも前の座席に取り付けられている。飛行機のプリウスという感じで、エンジンの音もいくらか小さく感じられた。
 たまたま隣の年配のご婦人が文庫本を取り出して読み始めたので、「よくそんな小さな字が読めますね」と話しかけた(最近は、このようなことは滅多にないのだが)。「おたくこそ、よくパソコンの小さな字が読めますがね」ということになり、着陸するまで四方山話に花が咲いた。皮膚感覚で団塊の世代ではないかと思ったら、ピンポンで昭和22年生まれという。あの頃は情報も多様化していないので、「別れの一本杉」や「この世の花」で話が通じる得な時代である。IT関係の企業に勤めるキャリアウーマンのようで、パソコン等には精通している。ご主人が鹿児島生まれ(本人は東京生まれだという)ということで、義母が鹿児島のグループホームで生活しているので、年に3,4回ほど帰省しているという。「我々の過ごした時代は、明日を夢見ることのできたいい時代だったですね」という結論になった。
 びっくりしたのは「東京生まれですか」と聞かれたのである(これはホントである)。大分話し込んだ後のことで、「言葉から、とても東京には見えないでしょう」と話すと、「いいえ、鹿児島弁の訛りはないようですが・・・。うちの亭主など、今でもぬけなくて、子どもたちに笑われるんですよ」と言うのである。このような経験は、生まれて初めてのことで、やはり787機の魔力が一瞬乗り移ったのではないだろうか。病院に帰ってからスタッフに散々「吹聴」しているのだが、当院のスタッフは素直な人が少ないのか、誰も信用してくれない。
 新型機は21時前に羽田着陸し、コンビニでビールやつまみなど買い込んで、そのまま羽田東急ホテルにチェックインし、私の部屋で3人でしばし歓談した。
 翌朝は4時頃には目が覚めたので、全国3紙に目を通すと、ALS関係の記事が2つある。毎日新聞の「ひと」欄では、「氷床」研究で猿橋賞に選ばれた阿部彩子さん(49)が取り上げられていた。猿橋賞は自然科学分野で業績を上げた女性科学者を顕彰するものである。阿部さんは現在東京大学准教授であるが、夫でやはり東京大学准教授の豊さん(52)で、ALSを発症し車いすの生活になったという。「夢や希望を捨てずにやれるところまでやろう」と前向きに考え、互いの親や子供らと支え合っている。「研究は生き甲斐です。男女を問わず、困難があってもあきらめないことが大切」が後進への贈る言葉だという。
 また日経新聞では、京都大学の中辻教授らによる「ES細胞で症状再現」という記事である。変異のある遺伝子(SOD1)をES細胞に入れて培養し、運動神経細胞やグリア細胞に分化させた。するとALS細胞モデルとなり、病気のメカニズムの解明や治療薬の開発に役立つ可能性があるという。
■ 787-8での東京~難病相談・支援センターフォーラム~(2) 
 さてフォーラムは、10時から厚労省内の会議室で開かれた。司会は新潟大学神経内科の西澤正豊教授(厚労省難治性疾患克服研究事業費「希少性難治性疾患患者に関する医療の向上および患者支援のあり方に関する研究」班主任研究者)で、会議室には全国各県から難病相談・支援センターの所長や担当者、そして研究班の班員、厚労省の疾病対策課からも数人参加されていた。
 まず厚労省の疾病対策課長の山本先生が、「このフォーラムの目的は難病医療の法制化に向けての一環で、難病相談・支援センターを的確に位置づけるためだ」と切り出された。
 センターは難病患者・家族の生活支援や相談を図るために、平成15年の予算事業で全国47都道府県に配置された。ところが各県でばらばらの取り組みになっており、組織も不十分な県が多く、マンパワーも不足しておりうまく機能していない。そこでこのフォーラムでは、さまざまな運営形態をとる全国8カ所のセンターの現状と課題を、20分ほどで紹介し、最後に総合討論という段取りになった。
 私はまずトップバッターとして、鹿児島県のセンターの現状と課題について紹介した。偶然にも、前日センターを行政視察した県議会の環境厚生委員会の委員に20分間プレゼンしていたので、ほとんど同じ内容となった。2月にKTSテレビで放映された「鹿児島探検隊」も5分間ほど挿入した(私にとっては動画を取り込むことは初めての経験だったが、SEの前園さんの協力でうまくいった)が、出席者には大きなインパクトを与えたと思う。
 さて鹿児島県は患者団体からの要望に応える形で、伊藤知事の英断もあり、全国的にも珍しい県直営のセンターとして2011年10月にオープンした。今回のフォーラムでも実感できたが、予算規模や建物、人員配置等、他府県の現状をはるかに凌駕している。もっとも鹿児島県でも、当初は予算がないということで、県庁の健康増進課に(形だけ)設置し、各保健所との連携で相談業務等に当たることにしていた。ところがこの方式ではうまく機能せず、患者会の不満は大きくなっていった。患者団体からのさまざまな方策による要望や、最終的には知事の決断でこのようなセンターのオープンに漕ぎ着けられたわけで、我
々センター職員は、県民(難病患者を含む)の期待に応えるべく頑張っているところである。スタッフが異動により交代するので、継続性に対する不安の声もあったが、相談スタッフはいずれもベテランであり、また研修も受けており全く不安はない。むしろ、県の直営で運営されているので、「恒常性」という点では、これほど保証されたセンターはないといえる。
 私の後に、7つの県からの発表が続いた。
 福岡県は吉良教授(九州大学)が発表されたが、設置母体は福岡県難病医療連絡協議会で、重症神経難病ネットワークと合わせて業務委託されている。設置場所は九州大学病院内の難病情報センターである。ここは吉良教授が両方の代表を兼ねており、難病医療全体が一体化され、うまく連携されているようである。岐阜県は岐阜大学の犬塚教授が発表されたが、運営主体はNPO法人難病連で設置場所は市の建物を無償借用している。ただ今後建物の無料借用など、問題も含んでいる。新潟県は西澤教授が話されたが、設立母体は難病患者を支える関係機関で、運営はNPO法人新潟難病支援ネットワークである。設置場所はNHO西新潟病院内ということである。ここでは知事が若い時分に難病の経験があり、理解が深いということだった。北海道は設置母体は北海道でかなりの補助金が提供されており、運営は(財)北海道難病連である。ここは日本の難病運動を推進してこられた前代表理事の伊藤たておさんのリーダーシップのもと、40年にも及ぶ長い歴史があり、宿泊もできる大きなビル(北海道難病センター)も持っている。佐賀県は患者自らの発表で、患者当事者が運営(難病支援ネットワーク)しており、佐賀県が指定管理を行なっている。岩手県は設立母体は県であるが、運営は県難病・疾病団体連絡協議会、設置場所は県社協内にある。長崎県は設立母体は県国保・健康増進課で、運営はNPO県難病連である。
■ 787-8での東京~難病相談・支援センターフォーラム~(3)
 午後からの総合討論では、次のような点を念頭に議論された。
1)難病患者にとって、今後充実すべき相談・支援はなにか。
2)難病患者にとって必要な相談や支援は誰が担うべきか。
3)難病相談・支援に必要な体制(マンパワーや職種)、予算はいかほど必要か。
4)センターを安定的に、地域格差をなくしながら運営するために必要なものは何か。
 まず相談と支援に関して、現状では多くの県で、組織が不安定でマンパワーが十分でなく、患者・家族の要望に十分に応えられていない。組織的には各県まちまちであり、法的位置づけも不明確である。人的には身分保障がなく、有能な人材が定着しにくい状況にある。
 相談内容に関しては、医療面と医療以外の生活全般にわたる相談に分けられる。医療面では入院から在宅移行のためや、長期入院を希望する入院病床確保の相談では、医療機関や重症難病ネットワークの難病相談員との連携も重要となる。
 一方、福祉に関する相談(医療費助成や特定疾患の申請、福祉サービスなど)では、保健所などとの連携が必要となる。就労支援も重要な相談支援の一つであるが、鹿児島の場合には、就労支援を専門にしている機関(ハローワーク、日本障害者雇用促進協会、かごしま障害者就業・生活支援センター、鹿児島県障害者職業能力開発校)との連携を生かすことにしており、吉良教授が主張していた企業等への就労の掘り起こし業務はしていない。
 相談業務に関しては、スタッフが医療や保健、心理などの専門職であるか、あるいは患者会の人かによって大きく異なってくる。伊藤さんの言われるように、たとえ専門職でも相談員としてふさわしくない人もおり、素人でも十分に満足のいく相談を受けることの出来る人もいる。全国的には当事者団体や、難病連などが主体的に相談業務にあたって、当事者ならでのきめ細かな相談を受けている現状にあるが、これらの団体が事業の主体となると継続性という点では不安が残る。
 私は相談はあくまで相談であり、たとえ専門職でもどのような相談にも対応できるわけではない。いわゆる相談の窓口、振り分けといったような「交通整理」が主な業務になるのではないかと思っている。例えば専門的な医療相談なら、しかるべき専門医を紹介したりする。
 どのような組織が担うべきか、あるいは相談・支援に取り組むにあたっての必要な体制はどうあるべきかについても議論された。
 各県の事情や歴史的な背景もあるので一概には決められない。ただ法制化というようなことになると、少なくともミニマムの施設基準のようなもの、(経過的には目標であっても)は必要となるのではないか(義務規定や努力規定等)。
 例えばがん対策基本法を例にとると、がん拠点病院があり、患者の登録制度や医療相談業務などが義務づけられている。現行の難病対策はあくまで予算措置で運営されているが、がんのように法制化されると、各県で拠点病院、地域拠点病院がそれぞれの役割を果たしている。
 最後に鹿児島県の状況を紹介したい。
 ハートピア内にある県直営のセンターであり、県からベテランの有能な保健師などの常勤職員7人と3人の非常勤職員(私は所長であるが、非常勤)で運営されている。副所長で相談課長を兼ねる原田さんの率いる相談課と、川越課長の率いる管理課があり、管理課では特定疾患の受給者業務も行っている。そのため県下の特定疾患患者の細かい把握や受給者証の発行等も可能である。また保健所との連携も行われ、患者情報のデータベース化と共有も進められている。このようなことは、県の直営でなければできないことであり、鹿児島県のようなやり方は、一つのセンターモデルになるものと確信している。
 またセンターには患者団体の運営する鹿児島難病支援ネットワークと会議室を隔てて隣接しておりお互いの意見交換や連携もスムースにできる環境である。

院長雑感

交通アクセス

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