院長雑感詳細

院長雑感(133号)

今年も半分が過ぎてしまった。歳月の営みは、九州新幹線より早く感じる。 
 さて、私は自身ではここ数年、ほとんどゴルフをしなくなった。土日が丸一日取れなくなったことが一番の要因だが、しばらくやめているとゴルフ場まで行くのが億劫になる。
 ただテレビのゴルフ中継はよく見ている。昨日終わったアメリカプロゴルフ選手権も、石川やタイガーを中心にテレビ観戦していた。優勝スコアが1オーバーだから、いかに難しいコース設定かがよくわかる。このようなレベルの高い競い合いでは、「たったの一打が、されど一打」であり、石川も一打及ばず決勝トーナメントに進出できず、文字通り涙をのんだ。あのタイガーも、まだ忍耐力と心のコントロールだけは完全復帰ということにはならないようである。あと数ヶ月すると、私もグリーンに立てることになるかと思うと、ちょっと嬉しく心待ちにしている。
 診療報酬の改訂や自立支援法の重症児病棟への適用等で、この4月からの病院経営に一抹の不安を感じていた。結果としては、職員の頑張りで、4,5月と順調すぎるスタートが切れた。「有終の美を飾らせたい」という気持ちが嬉しい。
■ 患者数
 5月の入院患者数は369.3人で、計画に対し4.7人の増となった。平均在院日数は、調整前で17.4日と全く問題はない。外来は163.0人と、計画比で1.4人の減となった。
■ 診療報酬点数
 5月の診療報酬点数は、計画比で入院では1,751,310点の増、外来は311,654の減で、対計画では入院・外来合わせ1,439,656点の増となった。累計では3,445,915点の増となっている。
 損益計算書でも、5月は調整後で108,0%と高い収支率で、累計でも109.1%である。
■ リスクを取る
 日経新聞の「経済教室」では「復興から再生へ」を連載していたが、北岡伸一氏(東大教授)の「受動的な無責任を改めよ」と題する主張は、私には現実的であり勇気のある発言として素直に受け入れられた。
 まずポイントとして、日本の現状を次の三点に要約している。
・危機意識の欠如と公的精神の衰退が顕著
・世界の原発増加を踏まえ事故への備え必須
・日本の経済停滞の根源はリスク回避の精神
 まず一番目の危機意識については、日本のように平和で安全な国に暮らしていると、ついつい「平和ボケ」てしまうのもやむを得ないかも知れない。国家としてもそのようなことがいえるが、個人としても同意できるところがある。
 当院は隣は錦江湾に注ぐ別府川の河口なので、今回のような大津波が来たらまず壊滅的な被害を受ける場所にある。だが危機意識はどちらかというと薄い。さりとて意識はあっても対策は実際には「お手上げ」の状態である。高台に避難しようにも近くに高台はないし、患者の多くは自分では移動できない。ただ錦江湾は東シナ海に面しているので、取りざたされている南海地震の影響はまともには受けない位置関係にある。それでも桜島の爆発で大量の土砂が錦江湾を埋め尽くすと、潮位は当然上がるだろうし、錦江湾奥の海底火山の噴火等があれば一溜まりもないが、文字通り「杞憂」として考えなければ生きていけ
ない。
 ライフラインに関していえば、一応の備えはしているが、これもコストをある程度考えての対策になるのはやむを得ない。数年前に落雷による停電で痛い目に遭ったので、非常電源の整備は高い金をかけて整備し直した。水や食料は基準の範囲内にあるが、今後もっとしっかりした対応が必要とされるだろう。
 原発に関して論じれば、総論としては廃止が好ましいということは論を待たない。日本のような地震国で、核廃棄物への対応もできない状況で原発を動かすというのは、狂気の沙汰であるという議論である。ただ廃止論者の言われるように、すぐに廃止できるかというと、日本のもろもろの状況や世界の情勢を考えたときに、即廃止というのは現実的ではないような気もする。再生エネルギーに徐々にシフトしていく道が、現実的な選択のようにも思われる。それでも絶対安全はないわけで、一刻の猶予もないことかも知れないとも思うし・・・それでも日本が廃止しても、周辺諸国の中国や韓国の原発がやめる訳ではな
いので、最低限の原子力技術の継承は今後も続けていかなければならないだろう。ただこの問題を考えていくと、自己矛盾のるつぼに陥ってしまう。
 最後のリスク回避の精神については、北岡氏は「安全」と「安心」を分けて考える。
 大事なのは安全(こちらは客観的)の確保であって、安心(主観的)の確保ではないとする。安全を強調するのは、お上に依存することである。国民が安心を求め、リスクをゼロにせよといえば、政府がリスクは限りなくゼロに近いというようなフィクションはやめるべきだという。
 「人生はリスクに満ちているのであって、リスクを直視し、これをできるだけ減らすように努力をして、あとはリスクを取って行動する」ことが必要だという。医療安全管理でも全く同じようなことがいえる。
 地球上で何をするにしても、リスクのない場所はないわけで、リスクを取って果敢に挑む精神がなければ発展もないといえる。起業などで成功した人は必ずリスクを取っているが、私をはじめ多くの凡人はその踏ん切りがつかないでいる。
■ 香川真司 
  先日、北島康介を取り上げた時、日本人の誇りとして海外で活躍中のアスリートとしてイチローを挙げた。その後も、先日のULPGで優勝したゴルフの宮里藍、そしてドイツサッカーリーグの一部ドルトムントの連覇に貢献した香川真司など、日本の若者で大きな外国人を相手に堂々の活躍をしている若者が続々現れている。
 香川についてはさほどよく知っているわけではないが、日経の「香川真司のアタマの中」が面白かったので紹介したい。
 まだ23歳という若者なのに、彼のインタビューの内容がすごいと思う。「やっぱり結果が出ているときというのは、自然と楽しいです。でもこれがどこまで続くかという不安もある。その不安と期待の調整が、今はうまくできている。結果を求めながら、次に切り替えてというサイクルができているというか・・・精神的な波がないように引き締めています。」「この舞台で結果を残すんだという覚悟、強い気持ちがないと生き残っていけない」。そしてこれほど好調なときに不安を口にする選手は珍しいと思いますが、という質問には「人それぞれだと思いますけどね。勢いは大事だけど、そういう時こそ自分を見つめ直す必要があるんじゃないか。性格上、現状に満足しなしということもあります。でも満足しないだけでなくて、自信を持つ必要もあって、その自信が今、プラスになって働いています。なんていうのだろう、そのバランスを大事にしている感じです。自分を客観視する感じですかね。そういうのは自分で意識しているところでもあり、自分の特徴なのかと思いますね」
 彼のサッカー人生をひもとくと、「サッカー少年の申し子」のような経歴であるが、ずっと順風満帆だっというわけではないようである。
 神戸の生まれで、小学一年からサッカーを始め、小学時代は地元のクラブチームに所属していた。中学は仙台にサッカー留学、やはりジュニアユースで活躍、U-15、U-18などにも出場した。高校時代にプロチームと契約しているが、極めて稀である。19歳の時にはセレスト大阪で活躍、20歳の時にはチームと共にJ1に昇格、20歳でドルトムントに移籍している。
 ドルトムントではプレシーズンマッチで華々しくデビューを飾り、21歳の時にはFIFAの発表した「2011年期待の若手13人」の一人に選ばれた。ところが22歳の時に、1月のアジアカップで負傷し、ドルトムントの9シーズンぶりの優勝のピッチには立てなかった。
 そして2011年8月に開幕した今シーズンの前半ではもがき苦しみ、10月には2試合続けて出番がなかった。そして「必ずうまくいくようになると信じて」試合を続け、12月に入ってかねてのキレが戻り、快進撃が続く。
 いつも言い聞かせているのは「いつも通り」だという。私生活でもいつものリズムを保つことを心がけ「試合に向けて徐々に集中力を高めていく。でもピリピリした雰囲気を作るのではない」という。「この時間は何をしなければならないとか、時間だから寝なければならないというふうにはしない。思うままに動く」自然体だと話す。
 地元でも、そして日本でもビッグクラブへの移籍の報道がささやかれている。
■ 夫婦の思いやり2話
 難病相談・支援センターにはいろんな悩みを持った人が訪れるが、その相談内容も千差万別である。
 先日は二組の高齢夫婦の相談にあたったが、それぞれに互いを思いやり・気遣う気持ちが伝わってきて、「そういうものだろうな」と思うことだった。
 最初の相談の男性は「妻の状態が少しでも元の状態に戻れないものでしょうか」と、隣に座っておられる奥さんを見つめながら絞り出すような小さな声で訴える。
 3年ほど前、いつもの朝と同じように理髪の仕事の準備をしていたら、突然電話が鳴った。奥さんが近くの警察署の近くで、自転車と共に倒れて意識がないというものだった。救急車でI病院に搬送され、「くも膜下出血」の診断でその日の昼から緊急手術が行われた。
 術後の状態が思わしくなかったのか、シャント手術などを受けている。術語3ヶ月後ぐらいで市内の一般病院に転院し言語訓練等のリハビリを受け、数ヶ月後に自宅に退院された。
 「搬送される病院が違っていたら、もっと経過がよかったのではないか」とか、「挿管の時に若い女医さんが、しくじって肺に出血した。そのために後遺症が残ったのではないか」というような苦情も言われたが、「私にはよくわからない」と話題を変えた。理髪業という仕事柄、いろんなことを耳にされるようで、納得がいかなくて悶々とされてきたようである。
 現在の状態は、どうにか自分で歩けるが不安定で、また右手の細かい動きが悪いので家事がうまくできない。もっとも大きな問題は、言葉が出にくくて困るというものだった。その日、私と話している時には、ある程度会話は進んでいくのだが、時々固有名詞が出なくて話が途切れてしまう、いわゆる運動性失語症の状態である。発作時には意識のないような重度のくも膜下出血であり、術後経過としては致し方ないのではないかと話すことだった。
 「子どもに帰ったと思って、根気よく発声の練習を繰り返したり、字を書く練習をしないといけないですね」と言うと、「私が言うのも何ですが、家内はよくできる人で、民生委員をやったり、地域の仕事も活発にやっていました。地区の代表もしていたので、入院中は家内の残した地図を頼りに一軒一軒、私が回ることでした。血圧も高かったのに無理をさせてしまいました。後悔しているんです」と言う。
 「どのようなきっかけで、奥さんと一緒になられたのですか」と話を変えてみる。
 「私は加治木町の田舎に育ちました。中学を卒業して、国分の床屋に住み込みの奉公に出されました。当時はお湯を沸かすのも薪で、毎日それはそれは苦労しました。実は家内は床屋の旦那の娘で、私が働き始めたときには小学5年生でした」と話し始める。昭和30年前後の話であり、日本は貧しく多くの有能な少年が義務教育を終えると働きに出た世代である。「10年ほど修行して一人前になって、26歳(昭和42年)の時に、売りに出されていた小さな理髪店を買いました。そしてその年に、家内と結婚しました。当時家内は高校を卒業して、国分市役所に勤めていたのです。今思えば、辞めさせなければ良かったと後悔しています」と言う。「私はどうしても、家内を元の状態に戻したいのです」と何度も繰り返される。
  次は重症筋無力症の76歳の男性の話である。「私は東京生まれなんですが、阿久根市(鹿児島県)から上京していた今の家内と結婚しました。病気にもなり、田舎暮らしがいいと思って、数年前に家内の故郷に引っ越してきました。鹿児島は空気もよくて住みやすい所です」。
 「67歳の時に複視や眼瞼下垂が出現し、東京医科歯科病院で手術して、その後都立神経病院でステロイドの大量療法を受けました。少しずつ減量してもらって、現在は鹿児島大学病院に通院しております」という。相談は最近体が重たいが、3月に主治医に無理を言って、ステロイドを減量してもらったためではないかということと免疫療法の適応を訊ねるものだった。
 私も30数年前に都立府中病院(現在の神経病院)で働いていたことや、奥さんが川涯先生(以前、加治木養護学校に勤務されており、Viewの会では一緒に活動した)と懇意にされており、拙著の「病む人に学ぶ」を貸してもらって読んだこと等で話は弾んだ。
 病気になって都会から田舎に引っ越してこられる人は多いが、この方もその一人である。
■ はろばろと(前)
  「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」という徒然草の一節をつい思い浮かべてしまうのだが、すこぶる元気だった義母が病気であることが判明した。そこで、前から気になっていた蔵書を整理する決断がついた。今住んでいるマンションが狭いので、10年ほど前から貸トランク代わりに預かってもらっていた。先日の土曜日の昼下がり、義母の居宅となっているS病院の5階の倉庫に入り、10個余りのダンボール箱を開けて寄贈先の仕分け作業を行った。
 すると一つの箱から、「はろばろと」という、私の母校である鶴丸高校の年誌が出てきた。平成12年の発行(第17号)で、その前年に刊行した「難病と生きる」が図書館の一鶴文庫に寄贈本として収録されたという記事が掲載されている。当時鶴丸高校の教頭をしていた田中昌平君の手紙も添えられているので、彼が送ってくれたものだろう。田中君は中学、高校と同級生だったが、彼は文系だったこともあり同じクラスになったことはなかった。京都大学を卒業し英語の教師をしていたが、県立図書館長の時に胸腺腫であっけなく亡くなった。明るいおおらかな性格で、誰にも好かれていた。きっと母校の校長として活躍されるだろうと誰もが期待していただけに、惜しまれてならない。
 ページをめくっていたら、特別寄稿「過ぎ行く時の中で」(中馬幸子)と、世界一の歌詞をもつ鶴丸高校の校歌(その作曲について)(郡山正)の2編に釘付けになった。二人とも、高校では校歌の作詞、作曲家として「伝説的」に語られてきた先生方である。
 鶴丸高校の校歌は「はろばろと」というものだが、校歌としては極めて異質で、是非甲子園で聞きたいものだと思っているのだが、私の生きているうちには実現しそうにない。作詞は国語の教師だった中馬先生、作詞は美術教師だった郡山先生という当時現役の教師コンビである。中馬先生は旧姓は池畑で、お父上は玉龍高校の校長先生をされた有名な方で、息子さんは呼吸器科医師で当院にも務めておられたことがある。
 さてこの校歌は、昭和26年、作詞299、作曲45もの応募作品の中から投票で選ばれ、昭和27年の卒業式で初めて歌われたという。
 この同じ冊子に、作曲された郡山正先生は次のような言葉を寄せている。
 ・・・次に校歌が募集されると、中馬幸子先生の歌詞が、圧倒的な賛同で決定された。私も二点応募したが落選した。発表された中馬先生の校歌の歌詞は、気品があり、思想深遠であってウットリするほどすばらしいと思う。日本全国にある型にはまったような校歌に比べ群を抜いた叙情と知性を秘めたもので、私はまさに世界一の校歌の歌詞と信じ、これを選んだ当時の在校生・教職員の炯眼に敬服する・・・
 私は母校にさほど愛着を持っている方ではないが、確かにこの歌詞、そしてメロディーはすばらしいものである。年とともに、あまり楽しい思い出のない高校時代も、ちょっと懐かしく思えてくるのは、この校歌のおかげではないだろうか。
 さてこの特別寄稿は、昭和30年に卒業された方々が平成7年に「卒業40周年記念行事」として企画された「記念授業」を掲載したものである(当時中馬先生は58歳で、神奈川県の茅ケ崎市に住んでおられた)。話の内容や構成が素晴らしく、在校生にも有意義だということで掲載の運びとなったという。私も一読しながら、このような格式が高く、幅広い分野からの引用を統一性を保たせながら、一つの物語にまとめられた力量に敬服する。先生は昭和25年から39年年までの14年間、鶴丸高校で国語科の教師として在職されている。私は昭和38年の入学なので2年間重複するのだが、残念ながら記憶にない。
■ はろばろと(後)
  授業は三部構成で、第一部が「徒然草」、第二部が「現代の詩歌(新しい古典)」、第三部が「黒田三郎」という順序である。
 授業の導入がいい。平成7年といえば阪神大震災やサリン事件の後で、昨年の3:11大震災後の現在と同様に無常観が人々のあいだに芽生えていた時代である。
 まず徒然草の「若きにもよらず、強気にもよらず、思いかけぬは死期なり」と、「今日まで遁れ来にけるは有り難き不思議なり」という一節を披露して、この日の授業のアウトラインを暗示する。そして、「久しぶりに出会って『何ネ、アンタハチットモ変ッチョランネ』など言い合っていますが、それは例えて言えば、無限に動くエスカレーターの同じ段上にいて、お互いが平行移動しているからのこと、今こう言っている間も、そのエスカレーターだけは刻々と休みなく動いているのです。誰がいつこれを降りるかなんて全くお構いなしに無限に動いてゆくベルトコンベアみたいなものの上に私たちは乗っています」
という喩えは、さすがにわかりやすい。エスカレーターの行き先は、もちろんあの世である。
 そして徒然草を取り上げた理由として、昭和11年に一中を卒業し、徒然草研究の途上で亡くなられた宮内三二郎先生を偲びながら、「志半ばで亡くなられました鶴丸のたくさんの先輩、お友達~今それらの方々を、一人の宮内先生に代表させて供養する気持ちで、先生ゆかりの徒然草から話を始めようと思います」と続く。
 徒然草を読むでは、「われらが生けるけふの日(百八段なかほど)」と、冒頭に紹介した「沖の干潟はるかなれども(百五十五段の後半)」について解釈を加えている。「死はいつくるかわからない。突然足元から来るぞ、われわれが生ける今日の日は、いつでもそういう死を目前にした日なのだ。生きている唯今の一瞬を惜しめ」と手厳しい。
 無常観付言では、自らの戦争体験を語る。
 昭和20年の鹿児島空襲で、3人の同級生を失う。そして無常の自覚が自然や人間の深い意味を見せてくれるという無常観の積極面を紹介する。さらにプラス思考にも触れながら現代の無常観を解く。空海の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」という言葉を引用し、私たちの命がほぼ同じ時を同じうしてこの世にピカッと光り出て、また同じ頃、永遠の闇の彼方に消えていくように我々は光仲間だという。難しい解釈になるが、人の人生とはそんなものなのだろうと漠然と納得する。
 第二部は現代の詩歌で、「わが痛き夢よ(伊藤静雄)」の「曠野の歌」という詩、「日常の存問(高浜虚子)」として3つの俳句を紹介する。そして「末期の眼(上田三四二)」の3つの歌と祈り 「全てを感ずるものであらんことを!(中原中也)」の「羊の歌」という詩を紹介している。
 最後の第三部が黒田三郎で、大正八年に生まれて61歳で亡くなっている。鶴丸高校の先輩で、一中を卒業後、東大経済学部を経てNHKに勤務していた現代詩人で、その4つの詩を紹介している。
 最初の詩は「僕はまるでちがって」という戦後最高の恋愛詩集と呼ばれた「ひとりの女に」(昭和23年)に収められており、惰性の中で生活していたのに「白い美しい喋」が現れるという詩である。
 「夕方の30分」(昭和30年)では、結婚して6年目に結核で入院していた自分が退院すると、奥さんがやはり結核で入院する。その留守中、3,4歳だったユリという娘のことを詠っている。「日常」(昭和45年)では、黒田が50歳を過ぎて、エリート的な考え方から貧しい民衆の心に近づいていく様を描いている。そして最後が親友の宮内さんの死を悼んだ「遠からん者は音にもきけ」(昭和52年)である。
  「おわりに」では、「生老病死をおそれず視点にいれながら、一日一日ピカリピカリと光る気持ちで、権力や権威を恐れず、淡々と生きて欲しい」と呼びかけ、「人間になる道は無限と言いたいほどに遠い、私どもはまだまだ全てに感じ足りていないのです」と自戒も忘れない。
 最後に徒然草から「されば 人死をにくまず生を愛すべし。存命の喜び日々に楽しまざらむや。」(93段)と、黒田三郎の詩「紙風船」を贈っている。
落ちてきたら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
何度でも打ち上げよう
  最後に、また校歌の「はろばろと」にかえるが、「今朝 先生からいただいたメールを読み 鶴丸高校の校歌を聞いてみました。本当に 素敵な校歌ですね」というメールを、里中さん(ALS協会鹿児島事務局長)からもらった。里中さんはピアノ教師もされているので、きっと正しい評価だと嬉しく思った。

 鶴丸高等学校 校歌
作詞 中馬幸子
作曲 郡山 正     
(クリックで歌流れます)  http://d.hatena.ne.jp/shuntastic/20090426/p1

はろばろと 流れてやまぬ みんなみの 青雲のはて
地(つち)ふかく 炎(ほむら)をのみて さくらじま けふ静かなり
ああ われら かへらざる 三年をここに
展けゆく 歴史をおもふ

究めなむ 道遠くとも たゆみなく 日々に新たに
この窓に 陽はかがやきて 甲突の水は澄みたり
ああ われら 学ぶもの ををしく直く
ひたすらに 己を彫(きざ)む

悠久の 天を敬ひ まこともて 人を愛せむ
さやけくも 負ひきしその名 いよいよに 栄光(ひかり)あれかし
ああ われら 若き日を 互いにたたへ
声高く いざや歌はむ
■ 2012年サラリーマン川柳
 毎年楽しみにしている第一生命保険の「第25回サラリーマン川柳コンクール」の人気投票の順位が発表された。ただ率直に言えば、昔の入選作に比べたらいま一つ物足りない感じを持つのは年のせいだろうか。
 第一位は「宝くじ 当たれば辞める」が 合言葉
 この川柳が最も多くの人の共感を得たという。ちょっと「よかぶっている」と言われるかも知れないが、私にはちょっとピンとこない。宝くじを買ったことは少ないし、仕事を辞めたいと思ったこともないからだろうか。あぶく銭がはいったからといって遊びほうけても、一時は楽しめてもただそれだけである。
第二位は 女子会と 聞いて覗けば 六十代
 居酒屋やホテルで、女子会なるものが最近はやっているのだという。六十代でも女子会であることは事実であるし、元気な60代が増えたことは喜ばしい限りである。でも傍から見れば、好ましきものではない。
第三位は、妻が言う「承知しました」 聞いてみたい
 人気ドラマ『家政婦のミタ』をネタにしたもののようだが、あまり面白みがよくわからない。確かに年とともに素直に「承知しました」というシュツエーションは少なくなっていく。
 第四位は スマートフォン 妻と同じで 操れず
 三位と同じような中年サラリーマンの悲哀ということだろうか。私もまだ携帯の使い方がよく飲み込めていないのに、もうスマートフォンの時代に移っている。私が遅れるのは構わないが、日本の電機メーカーはアップルやサムスンに大きな遅れをとってしまったようである。
第五位は EXCELを エグザイルと読む 部長
 私はITにも、最新の芸能情報にも疎いが、まだエクセルの方が親しみやすい。
第六位は 何気ない 暮らしが 何より宝物
 今年はこの気持ちに、共感を持つ人が多いのではないだろうか。
第七位は 胃カメラじゃ 決して見えない 腹黒さ
 これは例のオリンパスの粉飾騒動を揶揄しているのだろうが、あんまり面白くない。
第八位は 立ち上がり 目的忘れ また座る。
 これはよくわかる年になった。
第九位は 定年後 田舎に帰れば 青年部
 これもよく時代を反映した川柳で、田舎には若い青年はほとんどいない。
第十位は 最近は 忘れるよりも 覚えない
 第八位とよく似た川柳である。
 せっかくだから、11位から30位を羅列する。
頼んでも “こだまでしょうか”と かわす妻、「内定です」 返った言葉が 「マジッスカ!」、図書館で FaceBookを さがす父、KARAブーム おれの財布もからブーム、円高だ! 海外行くぞ 円が無い、携帯に やっと慣れたら 皆スマホ、おとうさん 胃酸でるけど 遺産なし、タバコやめ メタボになって 医者通い、エコ給与 ハイブリッドな 仕事量、父に聞き その後必ず 母に聞く、「おーい飯!」 こだまでしょうか 「おーい飯!」、多過ぎる 「でかした」よりも 「しでかした」、「もう、ステキ!」 モテ期終われば もう捨て期、毛虫いる さわげば娘の つけまつげ、 ノ
ー残業 形ばかりで 猛残業、 管理職 仕事ふやすの 得意です、 叱らずに 育てた部下に 怒鳴られる、 オレ子・守・り・ 子供マルモリ 妻大・盛・り・、 リビングは妻がセンター 総占拠、「あー」言えば 「こう」言う「部下」達 A・K・B
■ 胃瘻の適応(前)
 南日本新聞会館で「さわやか介護セミナー」が催され、私はパネラーの一人として出席する機会を得た。コーディネーターの久永繁夫氏(鹿児島女子短大教授)から事前にお願いされていたことの一つに、「あなたは将来、どこで、どのような最期をおくりたいですか」というものだった。若いころならピンとこないような問題提起であるが、私のように10年後、少なくとも20年以内には確実に自分自身の問題になることとなると、人ごとといっておれない気持ちになる。
 さてこの問題、いろいろな条件があり、また状況も変わるので予測できない部分も多い。「可能なら住み慣れた自分の家で、最期の時を送りたい」と考えるのが自然だが、これがなかなか簡単なようで難しいことである。まず介護力が確保できるのかということ、そして医療的な処置を必要とするような状態でないのかということになる。
 私が外来で診ている高齢の患者さんで、在宅で暮らせるのは、健康な配偶者とある程度の経済状況に恵まれ、娘が近所に住んでいるような場合に限られる。60歳頃に脳卒中で右麻痺となり、それでも必死のリハビリで独歩で歩行していた94歳の男性は、嫁がかいがいしく付き添ってきてくれるまれな例である。それでも時々レスパイト入院なども利用している。
 次善の策としては施設入所や、老健施設等も選択肢の一つに挙げられるが、我々の団塊の世代が後期高齢者を迎える時代には、いわゆるこのような「ハコモノ」と呼ばれる施設は大変な競争率になっているだろう。
 次にどのような状態で「最期」の時を迎えたいかというと、無理な延命処置は望まず、可能なら「尊厳死」に近い形で最期の時を迎えたいと思っている。ここで問題になるのは、生命維持に直接関係してくる人工呼吸器と栄養の問題になる。前者についてはここでは論ぜず、後者の栄養補給の問題に関してであるが、最近とみに普及してきた胃ろう栄養法がさまざまな問題を提供している。
 私の義父は7年前にがんで亡くなったが、自身が医師であったこともあり余命を悟っていたのか、最期は食事や点滴を拒否していた。自らの病院に入院していたのでこのようなわがままが許されたのだろうが、一般的には点滴を拒否するのは難しい。西行が「如月の望月の頃、花の下」で亡くなることができたのは食と水を断って断食したからに違いないと言われるのは、さもありなんと思ってしまう。
 さてこの胃ろうという処置であるが、内視鏡を併用して局所麻酔で胃に瘻孔を造る手術法(PEG、ペグ)である。最近は注入する栄養剤にも工夫がこらされ、経口的に食事できなくてもこの方法で何年でも命はつなぐことが可能となった。
 病院に入院し、何らかの事情で口からものが食べられなくなったとき、もちろん本人の意思は聞くわけだが、多くの場合家族の考えが優先する場合が多い。平均寿命を遙かに超えた高齢者の場合、無理に胃ろう処置など差し控えた方がいいのではないかと思うことが多い。それでも家族の中で一人でも強硬に「胃ろうを」という人がいると、やむなくその意見に従うことになる。
■ 胃瘻の適応(中)
 数ヶ月前になるが自民党の石原伸晃幹事長がBS朝日の番組で、高齢者の終末期医療で「胃ろう」を受ける患者に関し、「社会の最下層で身寄りもない人の末期医療を担っている所に行くと、意識が全くない人に管を入れて生かしている。何十人も寝ている部屋を見たとき何を思ったか。エイリアンだ」と発言した。
 また同時に「そこで働いている人に感動した。看護師さんたちが、反応はないのに患者に語りかけながら面倒を見ている」と現場の職員の動きを評価し、「こんなことをやったらお金がかかる。医療はやはり大変だ」と指摘したという。多くの報道では、前半の部分のみが強調されている。
 石原氏の発言は率直だし、そのように思ってそのような発言をしたものだと理解される。ただ将来の日本を背負うともくされている政治家の発言としては軽すぎるし、表現の仕方があまりにも稚拙と言わざるを得ない。患者本人や関係者からは、「あんたにだけは言われたくないよ」という声があがってもおかしくない。ただ繰り返すようだが、胃ろう問題は現代医学の副作用みたいなものともいえるが、診療報酬制度などいろいろな問題が複雑に絡んできておりその解決は容易ではない。
  2011年9月7日に朝日新聞に掲載され、全国パーキンソン病友の会会報(2012年1月)に「提言」として転載された元自治医科大学消化器外科教授の笠原小五郎の主張が最もわかり易いので、核心の部分を抜粋して紹介したい。・・・私は昨年4月に60床の介護療養病棟を初めて担当し、意識もなく痛みの刺激にか
すかに反応するだけの寝たきり高齢者が、回復の見込みもなく、胃ろうからの栄養補給で生かされているのをみて衝撃を受けた。
 3カ月間に入院した67人の患者の主な疾患が脳卒中の後遺症と認知症で、うち40人は胃ろうなどで栄養を補給され、そのうち17人は植物状態である。
 急性期の病院で脳卒中の治療が終わると、嚥下障害のある患者には胃ろうを造設、療養施設への早期退院を促す。病院として「在院日数の短縮」をはかるのである。胃ろうのリスクは少ないが、致命的な合併症をきたすこともあり、術前に説明と同意が必要だ。
 しかし、たいていは意識障害を起こしている患者に代わって家族に同意を求めることになる。
 早期に退院させたい担当医が、「口から食べ物を取り続けると誤嚥性肺炎を起こします。胃ろうを作らないと死にますよ」といえば、家族はなかなか拒否できない。脳卒中後の症状の安定しないこの時期に、多くの患者は胃ろうを造設される。・・・
 胃ろうを作らなければ、患者の多くは輸液を受けつつ数ヶ月内に「飢えや渇きもない」安らかな表情で枯れるような平穏な死を迎える。
 欧米では「脳卒中の後遺症や認知症の終末期で、食べられなくなったら寿命」という哲学が根付いているという。・・・
 複数の調査で、医師の8割、市民の7割が「植物状態に陥ったら、胃ろうで生かされるのは拒否したい」と答えている。誰もが、病院の都合や家族の思惑に左右されずに、人間らしく安らかに自然な死を迎える権利を保護されなければならない。
 施設間で差はあるが、一人の胃ろう患者には、年間ざっと400万円の公費と100万円の自己負担が必要となる。全国40万人の胃ろう患者のうち植物状態にある人が3割を占めるとすれば、毎年6千億円ものお金が使われていることになる。
 「終末期医療における胃ろうのあり方について、考え直すべき時が来ているのではないか」と結んでいる。
■ 胃瘻の適応(後)
 胃ろう造設に関しては、私も「この人が胃ろうで生かされているのは、メリットよりデメリットの方が多いんじゃないか」と思うことはしばしば経験する。特に本人の意識がない場合や、意識が少しあってもうめき声を出すのが精一杯のような場合、胃ろうで「ただ命が続いている」というのは人間の尊厳という意味でも好ましいことではないと思っている。
 ところがこの問題、やはり事は容易ではない。最終的には「私たち人間はどのように生き、どのように死んでいくのか」という死生観を問うことになる。
 先日、ブロック事務所で恒例の医療事故調停員会があった。
 ある機構病院での、「胃内容物の誤嚥による呼吸不全事案」という議題である。
 79歳のびまん性レービ小体型認知症の患者が、胃内容物の気管支への逆流により窒息死したもので、医師や看護師の「注意義務違反」があったとして提訴されている。
 この女性は20年ほど前からパーキンソン病の診断で、近くの病院で外来通院を受けていたが、2年ほど前に体重減少や脱水でこの病院に入院している。当初は経口摂取していたが嚥下不良のため、入院後すぐに経鼻経管栄養(流動食)となっていた。
 本事例では窒息したのが午前6時過ぎで、気管内挿管までにやや時間を要したこと、そして「誤嚥による気管内閉塞を防ぐために、経管栄養ではなく『胃ろう』を造設すべきではなかったか」というのが提訴理由になっている。
 数年前にも80歳代のパーキンソン病の男性が近隣の老健施設から機構病院に土曜日に緊急搬送され、家族が入院生活用品の買出しに出かけて留守のあいだに、胃内容物が逆流して窒息、同様に提訴されるという事案があった。
 このように、高齢者でパーキンソン病類縁疾患による誤嚥は後を絶たない。というより、この年齢で球麻痺症状等で嚥下障害を伴う患者では、誤嚥や胃内容物の逆流による窒息は避けられないのである。飛躍した表現を許してもらえるなら、自分で自分の口から食べられなくなった時が、人間、寿命の尽きるときなのかもしれない。
 (いくら何でも、このような偶然があるものだろうか。ちょうどここまで書いた時、電話である。電話の相手はMさんで、「ばあちゃんが先ほど亡くななりました。喉に食事を詰まらせたようです」という。一昨日の外来で、「毎日様子をみに行っているのですが、元気になってねえ、リーダーをしているんですよ」と聞いたばかりである。「手もかからなくなって、介護の人も付いていなかったようです」という。この婆ちゃん、私とはご主人が大学に通院していた頃からの付き合いで、ご主人の亡き後、ご本人、そして娘夫婦も私の患者さんになっている。子供たちの行き届いた介護で在宅で生活していたが、病状が悪化したこともあって特養、老健を経て、一年ほど前からグループホームに移っていた。「施設の人が申し訳ありませんでしたと言われましたが、これがばあちゃんの命だったと思いますし、よくしていただいたと感謝しています」という。「人によっては大騒ぎになって、クレームをいう場合もあるのですよ」と言うと、「本当ですか」と信じられない様子である)。
 最近の日本人は、「人のいのちは有限であり、いつかは無に還する」という厳粛な摂理を忘れているようにも思えてくる。病院に入院すると、どのような状態でも生かされることが道理で、そうでなければ病院側の怠慢や注意が足りなかったと考える。
 胃ろうも、人工呼吸器と同様に一度造設すると簡単に取りやめるわけにはいかない。法的には、命が続く方法があるのにそれを選択しなかった場合や、命が続く方法をやめて命が短くなった場合には、医師としての義務を果たさなかったと判断されて、有罪になることもある。今回の事案に関して詳細はまだ把握していないが、年齢や病気の特徴を勘案すると、窒息の可能性があるという理由で安易に胃ろうを造設することには反対である。
 先日の産経新聞に、国立病院機構都城病院長の小柳先生が「死生観を置き去りにした長寿社会」という「直論」を寄稿されていたが、まさに正論であると思う。法律やマニュアルが先行することなく、人間の情意をみつめた生と死のありようを深く考えるべき時である。
■ いつまでもお元気な先生方
 学会での楽しみの一つに、若い頃にお世話になった旧知の先生方にお会いできることである。
 5月22日から東京の国際フォーラムで始まった日本神経学会、水曜日のポスター会場で、私が40年ほど前に都立府中病院で大変お世話になった3人の(偉い)先生方と、次々に再会できた。そして偶然にも3人の先生方の年齢が、89歳、79歳、69歳と10歳ずつの幅があったことにも驚く。
 まず、宇尾野先生、お久しぶりにお会いしたが、少し首の所が曲がっているものの、頭の方は89歳という年齢は感じさせない。いつもと変わらずシャープで、「よく頑張っているね」と励ましてくださる。私が昭和49年に府中病院神経内科で働いていたときのトップで、副院長を併任されていた。当時、数多くの俊秀を輩出していた有名な沖中内科で、恩師の井形先生の6年先輩にあたり、当時51歳だった。「名は体を表す」というが、お名前が公義で、いかにも昔のお公家さんを思い起こさせるような端正な風貌であった。初対面ではどことなく取っつきにくい感じもあったが、根は優しい人である。
 その後国立静岡病院の院長に転任されたこともあって、同じ国立病院という関係で何かと眼をかけていただいた。先生が静岡におられるときには、難病のことで講演する機会も作っていただいた。「5年前に、胃を全部取っちゃってね。そのときには、佐橋夫妻が見舞いに来てくれたよ」などと話される。
 すると、その佐橋先生(前愛知医大神経内科教授)に、ばったりお会いした。私にとっては最も気の置けない先輩で、何でも話すことの出来る年長の尊敬する友人である。丸いテーブルに腰かけながら、四方山話に花が咲く。先生のメールによると、「大学教授等を引退されると、学会への出席が少なく、その出席者の皆さんも寂しそうでした。しかし、個人の性格によるのでしょうか?私は性格的に皆さんに声を多く掛けて頂き楽しい一時です」と。
 すると、隣のテーブルに、帽子をかぶり黒い背広を颯爽と着こなした小柄な先生の後ろ姿を見えた。佐橋先生はすかさず「藤澤先生!」と声をかけた。すると案の定藤澤先生で、こちらに向き直って、私たちのテーブルに歩み寄って来られた。「やっぱり先生でしたか。何となくそんな雰囲気がして」と笑顔の佐橋先生は、得意げである。それからしばらくの間、「あの武蔵野の木立に囲まれた在りし日の都立神経研究所」の昔話に花が咲いた。
 藤澤先生は神経病理では日本の大御所で、当時都立神経研究所の上席の研究員だった。厳格な先生で、電子顕微鏡等使わせてもらうときには気を使ったものである。「昭島の日本電子の研修所で、修了証書をもらってこないと扱わせない」と言われて研修を受けたが、これが留学するときには大変役に立った。私はこの頃、生化学の堀先生の指導で、筋ジストロフィー患者の血小板のセロトニン含量を測定していた。
 先生は79歳ということだったが頭脳明晰で、聖マリアンナ医大の特任教授もされているという。「今、どこですか」と聞かれたので、「28年、同じ病院です」と私が答えると、「28年も同じところで働いているということは、それ自体が大変素晴らしいことです」と変な褒め方をしてくれる。先生も東大の精神科のご出身であるが、研究所に何十年も勤められたのではないだろうか。
 そして神経病理の話になり、最近の病理医を志す研究者がいない風潮を嘆かれる。「ALSでもパーキンソン病でも、全て同じ標本というものはありません。その人の生きていた長い人生が、病理の中に少しずつ反映されてくるものです」と。「明日は札幌で精神神経学会があるから、新幹線で行くんだよ。飛行機は嫌いでねえ」と話しながら、私たちのテーブルを後にされた。
■ 豊かな社会からの訣別
 原発を巡る問題はその電力の供給力を巡って刻々変わっているが、新聞報道では「九州も計画停電も」という記事も見られるようになっている。「ご時世を考えると仕方ないことかな」とあきらめる反面、病院で実施されたら当院のように人工呼吸器装着患者が70人を超える病院では不測の事態も憂慮される。もちろん自家発電装置は整備されており、それぞれの呼吸器には数時間のバッテリーを整備されているが、それでも安全という保証はないし安心できない。
 さてこの原発問題、日本のエネルギー問題を考えるとき、極めて深刻な事態となってきた。鹿児島ではこの8月に知事選挙が予定されているが、原発問題が大きな争点になりそうである。原発を動かす危険と動かさないことによるもろもろの危機、まさに隣合せの状況にある。福島原発のような事故が再来したら日本の未来は閉ざされるし、原発なしでは企業は疲弊し雇用も失われて目下の生活が成り立たなくなる。
 南日本新聞で連載中の「時事春秋」で、哲学者の種村完司氏(65歳)は原発事故に関して「豊かさを問う議論の欠落」を指摘している。確かに現在の原発再稼働の議論では、安全性の問題と電力需給だけに焦点が当てられており、問題の本質である「消費社会」とどのように向き合っていくべきかという議論はほとんど聞こえてこない。
 この電力(エネルギー)問題を深く考えていくと、20世紀以降の資本主義社会の発展と生活のあり方、もっというならば「幸福とは何か」というこも問われている。アメリカを筆頭とする戦後の大量生産、大量消費、大量破棄の生活スタイルが行き詰まり、我々は今後、どのような生活スタイルを選択していくべきなのか、ということに収斂してくるように思われる。もっと端的にいうならば、現在の便利で豊かな社会から慎ましやかな清貧な生活に戻れるかということである。
 種村氏は65歳であるので、私と同様、戦後生まれの団塊の世代であり、昭和20年代から30年代の貧しかった時代と、そして40年以降の豊かな時代の両方を経験されている。鹿児島大学教授から県立短大学長をされているが、私は直接面識はない。ただ奥様のエイ子さんは司書学の専門家で、ご自身が進行がん(胃がん)からの生還を『知りたがりやのガン患者』(農山漁村文化協会 1996/12)という本で著している。当院の緩和ケア棟を訪問され、いくつかの本も寄贈していただいた。
 私の生まれた頃は日本は戦後の貧しさの真っただ中にあり、電気といえば40Wの電球とラジオだけという時代であった。その頃はおそらく水力発電だけで日本の電力はまかなうことができたわけで、社会の教科書でも水力発電の種類が記載されていた。まさに身の丈にあったような生活が行われていた時代である。
 その後、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の時代になり、水力だけではまかないきれずに火力発電、そして日本最初の原発が昭和38年(1963年)に東海村に建設されている。ただ現在のような商業用の本格的な原発は昭和49年(1974年)に電源三法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)が成立し、原発をつくるごとに交付金が出てくる仕組みができてからである。
 さてこの夏、現在の電力供給量で乗り越えられるのだろうか。クールビズは定着してきているが、冷房なしに鹿児島のように窓を締め切って生活しなければならない特殊な環境でが、我慢の程も限界がある。
 うっとおしい夏を迎えそうである。
■ つながるご縁(前)
  5年ほど前まで国立病院機構九州医療センターの院長をされていた朔元則先生から、「歳古りし外科医の独り言」という洒脱な装丁の本をいただいた。退官された後、さまざまなところに投稿したものを一冊の本にまとめたものである。さすがに朔先生、何事にも関心の幅が広くて深く、どのページも読みごたえがある。その中に「犬尾修三君を友に得た喜び」という追悼記があり、読み進むうちに、「つながる喜びと驚き」を感じた。
 犬尾修三先生は昭和32年に朔先生の九州入学以来の親友であったが、胃がんのために68歳で逝去された。(本からの引用だが)昭和39年の正月、インター終了後それぞれの入局先を思案していた時のこと、・・・修三の決断は早かった。「俺は二外科にする。兄貴(修三が最も尊敬していた犬尾博治先生)にも相談したが、就任されたばかりの井口潔教授の許で、これから発展していくのは二外科だと思う」というくだりである。
 この「犬尾博治先生」という名前に、確かな記憶があった。
 早速本棚から、私が格別に大切にしている「フランス見たまま聞いたまま(寺尾尚著)」(昭和62年、三月書房)という本を取り出した。するとページの間に織り込まれていた、既にセピア色に変色した犬尾先生の便箋と、寺尾冴美さんからの封筒が出てきた。
 犬尾先生の手紙には「久しぶりに医療というものを教えてくれる文章にお目にかかりました。ご存知かと思いますが『フランス見たまま聞いたまま』を贈らせていただきます。臓器移植かれこれ、ヘンな時代にあって教えられることも多い記事でした。スタッフの方々共々頑張ってください・・・」と、私の随筆を褒めてくださっている。
 ちょっと説明を加えると、平成4年10月、私は日本医事新報(3574号)に「印象に残るALSの在宅患者さん」という随筆を寄稿した。当時在宅ケアで関わっていた4人のALS患者さんの生き方を記したもので、医事新報に投稿した最初の随筆である。この随筆を読まれて、犬尾先生が感想とともに「フランス見たまま聞いたまま」を贈って下さったのである。
 驚いたことに本のカバーが裏表になっており、また末尾の柳家小三治の書かれた「著者のこと」についての前には、「本文読了後に読んでください」と、犬尾先生自ら鉛筆による書き込みがあった。
 当初は何のことかわからず戸惑ってしまったが、この本を先入観を持って読んで欲しくないという配慮によるものだということが後でわかった。ところで寺尾先生は1931年に東京で生まれ、日本大学医学部を卒業後皮膚科を専攻された。1970年から2年間、フランス政府給費留学生として留学されている。その時の見聞記を日本医事新報に連載されていたもの等をまとめて、一冊の本とされたものである。本の完成を見届けることなく、54歳という若さでみんなに惜しまれながら、入院先の日大板橋病院で亡くなられている。 
 この時、犬尾先生が医事新報に書かれた書評も同封されていた。「情報の洪水の中で多忙な医師にとって読むに値する本が少ない。まして読んで頭がスッ
とするものなぞ稀有である」という文に始まり、「この本をはじめは寝転んで読んでいて、後で座り直したという人もいる。だが、その理由はこれから読む方々に残して、今は語らないのが著者へのエチケットかも知れない」で終わる、心のこもった素敵な書評である。
■ つながるご縁(後)
 カバーを裏表にした理由や、座り直した理由とは、概ね次のようなことであろう。
 寺尾先生はALSを発病され、10年間の闘病生活のうち亡くなられる前の3年間は寝たきりで人工呼吸器をつけておられる。そしてこの380ページにも及ぶ大作の三分の二は、この時期に書かれたというのである。ただ本文には、ただの一行も自分の病気のことについては触れていない。
 病気に関する記載は、最後の数行に、昨年春、彼は主治医グループに加わった研修中の若い精神科医から「先生ご自身の生に対する心がどのように変化し、魂の存在についてどうお考えになっているかを知りたいのです」という問いかけに、「本当のことを言うと小生は生や死について何も考えていません。人並みに悩みもしましたが、『ああでもない、こうでもない、何でもない』という結論に達しました。人は進化の頂点に立つ哺乳類に過ぎないので、生命の価値は人も犬も同じであり、やがて『その日』が来れば、消滅して土に帰るだけだと思っています」と、筆記係(きっと奥様)の言葉が記されているだけであ
る。
 昭和60年前後というと、現在のようなパソコンや便利な入力装置はまだ普及していない時代で、奥様との壮絶な共同作業で、この膨大な品格の高い作品を完成させたのである。
 その辺の事情は柳家小三治による「後書き」に要領良くまとめられているので、抜粋したい。
 寺尾先生は若い頃から多くの噺家と交友があり、「この方面の誰からも好かれて、また誰もが慕っていた」という。小三治は病気になってから見舞いに行って、「何としても先生の作品をまとめて本にしたい」とお願いしたら、「その本のまえがきを書く」という約束で、承諾されたのだという。・・・「今は、まばたきと足の親指の鈴と、歯と歯がわずかに動くだけです」と奥方の話。広くない部屋に人工呼吸器の機械の音が、ズーファー、ズーファーと片時も休まない。枕元の脇に、五十音や句読点等が行儀良く並んでいるパネルがある。回覧板ほどの大きさのガラスのパネルで、文字や符合の一つ一つに豆電球が灯
くようになっている。スイッチを入れると電光ニュースのように光がツ、ツ、ツとスライドする。先生が歯と歯の間にはさんだ超ミニスイッチを噛むと、光が止まるようになっていて、その止まった文字を拾って奥方が書き取る。どうかすると一文字のカナを拾うのに二分も三分もかかる。・・・・このような根気は。どこから湧いてくるものなのか。・・・実は、もし先生が存命中だったら、これらの病状や文字を並べる方法などについては一切触れないことになっていた。それが前書きを書くにあたっての先生からの唯一の条件であった。こんなに大変な思いをして書いたのだということは、読み手にどんなことがあっ
ても知られたくなかったのである。生前の先生の気骨を知っている者なら、誰もが納得いくことだ。
 文章はひとまず仮名で並び上がったものを奥方が読みながら、どこをどんな漢字にするのか、どこに句読点を入れるのか等、まばたきや鈴の音で一つ一つ知らせるのである。ただし後期になると、まばたきや鈴も、ままならなくなってしまう。それでもエッセイづくりはやめなかった。激烈である。つまりこの文章作りは彼のいのとであり、戦いであった。そして奥方の戦いであり生き甲斐であった。・・・
 私たちALSと関わってきた者にとっては、現在では比較的日常的行為であるが、当時は大変な作業だっただろうし、初めて見聞きする人には理解を超えたことだったのだろう。それでも寺尾先生のすごい記憶力と忍耐力、そして奥様の献身は驚異的である。
 本の最後に、犬尾先生が未亡人となった奥様の住所を書いてくれていたので、当時作成していた「(ALS)闘病のしおり」を送った。すると直ぐに、流れるような文面と達筆な文体の、いかにも「冴美」という名に相応しい返事が届いた。・・・ 先生からの「闘病のしおり」とご丁寧なお手紙を頂戴しまして、本当に思いがけなく読み返しては涙が溢れ、当時がまざまざと蘇ってまいりました。主人が逝って六年半の歳月が流れましたが、その間十年に亘った闘病生活を思いますと、残された私自身、もう立ち直れないような気がしておりました。闘病というよりミゼラブルな病を淡々として受け止めることしか叶わなかった主人の心情を思いますと、誠に辛うございますが、最近になりまして漸く想い出と共に生きることに安らぎを得られるようになりました。先生からのお手紙は、本当に嬉しゅうございました。・・・
 あの時代から、20年あまりが経つ。奥様はどうしておられるかと思いを巡らす。
■ 敏秀のこと再び(前)
 東京の若い書家から「つながる」という書が贈られてきて玄関に飾った話をしたことがあったが、世の中のこと、いろいろなところで繋がりが生まれるものである。
  発端は、私が5月に開催された日本神経学会で、新潟大学の西澤教授と「神経内科のプロフェショナリズム」と題するシンポジウムの座長をすることになったことに始まる。その西澤教授から「大熊先生が事務局に送られた抄録が少し変わっているが、このままでいいのか、先生は大熊先生を存じているということだから連絡を取ってもらえないだろうか」というようなメールだった。ちなみにこのシンポジウムでは4人の先生方が発表されたが、私は企画には参加していないので、大熊先生を推薦したというわけではない。
 そこで大熊先生にメールすると、「そのような体裁にしたのには私の気持ちも少し働いていて、プロの流儀で聴衆におやっと思わせたいという意味も込められている」ということだった。何でも先生自ら学会事務局に問い合わせると杓子定規な返事で、シンポの内容もよく理解できないのに、抄録の部分の修正だけをお願いされたらしい。
 そこで私が先生にシンポの趣旨を説明し、最終的には「原型はそのままとし、抄録を読んだだけでも情報が伝わるように参照サイトと文献を付け加える」ということで一件落着となった。・・・そして大熊先生から、私と西澤教授宛のメールに、「秀敏先生とは、敏秀さんhttp://homepage2.nifty.com/htakuro/todoroki/が存命のころからのお付き合いです」という言葉が添えられていた。
 そこで上記のアドレスにアクセスすると、敏秀のホームページ(~自分らしく、ありのままに~)につながり、なんと当時のままで残されていた。久しぶりに「あの、アホでわがままで、それでも印象に残る」敏秀のことを、振り返ってみる。
 (注釈には)このホームページの制作者である轟木敏秀氏は、1998年8月3日、母親
始め多くの友達に見送られながら、安らかに息を引き取りました。ただ彼の残した強烈なメッセージはみんなの心の中でいつまでも生き続けると思います。
 そしてこのホームページも永久保存を望む声が大きく、関係者、及び御遺族に御相談しましたところ、長年主治医をつとめた福永秀敏(国立療養所南九州病院)が著作権を継承することになりました。勿論のことですが、ホームページ内にあるメールアドレスへはメールは届きません。
 このサイトは,轟木氏が生前に開いたサイト http://www.synapse.ne.jp/~tosichan/ に,氏の亡き後,著作物を追加したものです(現在早稲田大学の教授となっている畠山さんの労による)。
 インデックス(目次)として、私という人間、マスターベーションついて、パソコン環境、出生前診断について、なかまWEB、死についての思い、障害者という壁を作っている?、福祉に関する様々な情報、使用機器の感想などで構成されている。
 ところで大熊先生と敏秀との関係は、大熊さんがまだ朝日新聞で現役バリバリの論説委員だった時に、一度取材されたことがある(1993年頃かな)。そして亡くなってからちょうど一月後の1998年9月3日の朝日新聞の「窓(論説委員会から)」に、「筋ジスと恋」というタイトルのエレガントな小文を書いていただいたが、今読んでも面白いので紹介する。
 駆け出しの科学記者のころ、筋ジストロフィーのデュシェヌ型について書くのはつらかった。・・・書けば、筋肉が次第に侵され、呼吸器に及び、二十歳前に命を落とす現実を当の少年も読んでしまう。
 時代は変わった。五年前、「デュシェヌ型でありながら、三十歳を超えて輝いている人物がいる」と聞いた。
 鹿児島の国立療養所南九州病院を訪ねたその人、轟木敏秀さんは、人工呼吸器をつけて横になっていた。・・・ 本が出て四年後の昨年暮れ、彼はインターネットのホームページで一人の看護婦さんと知り合い、恋をした。指輪を交わし、短い新婚旅行もした。
 八月三日、彼の心臓は静かに鼓動を止めた。三十五歳。
 十五年余をともにした主治医の福永秀敏院長はいう。
 「生命を受けたものは、生まれたその瞬間から死へ歩み始める。だれも、止められはしません。ただ、人の心の中に思い出として確固たるメッセージを残すことができる。それが人間です。敏秀君がそうでした」・・・
■ 敏秀のこと再び(後)
 敏秀が亡くなったとき、朝日新聞の他にも毎日新聞や読売新聞、そして地元の南日本新聞でも取り上げてくれた。まさに芸能人か、名士クラスの扱いであるが、主な部分を転載する。
 毎日新聞の白戸圭一記者は、「筋ジスと闘いながら数々の福祉機器、世に」という見出しで、リハビリ工学を研究する二人の仲間(畠山さんと岡本さん)との関わりに触れている。白戸さんはその後も2,3度病院にも遊びに来てくれたが、今頃どこで働いているのだろうか。・・・亡くなる二日前、ついに目と唇動くだけになった。畠山さんが轟木さんの目を見ると、瞬きを繰り返し、何かを訴えていた。
 「目でパソコンを操作するっていうのか。思わず声を上げると、轟木さんは目でうなづいた。畠山さんはもうゆっくり安もうやと、のど元まで出かかったが、言えなかった。『そうか、目か、また新しい機械を作らなきゃ』と言うと、静かに目を閉じた。最後まで人間らしく生きることを絶対にあきらめなかった」と話す。
 岡本さんは「彼は『死は怖くないが、僕には時間がない』と言い、短い人生を突っ走り、燃え尽きた。どんなにい障害があっても、絶対に奥へ引っ込む必要などないことを見せてくれた」と語った。
 南日本新聞では、当時加治木支局長だった海江田由加さんが、「自分らしく」35年の生燃焼、というタイトルと、「記者の目」の両方で取り上げてくれた。海江田さんは才色兼備の女性記者だったが、今や社会部長として活躍されている。
 「記者の目」では、・・・月末に「自分らしく 35年の生、燃焼」の見出しで紹介したが、記事にするまでは、少し迷いがあった。轟木さんはベッドにいながらパソコンを通して日本各地の人と交流。障害者でも使いやすい機器の開発にも多くの提言をした。そのパワーに引かれてか、全国に友人が多かった。
 迷ったのは、話を聞くほどに「障害があるのに頑張った」と思われるのを嫌がる人だろう、と想像されたからだ。「障害を売り物にするのが大嫌いだった」と話す人もいた。そんなとき、横浜市総合リハビリテーションの畠山卓朗さんがこんな話をしてくれた。
 亡くなる数日前、畠山さんが「たとえ命が絶えても君はみんなの中で生きる。僕は君のことを伝えていきたい」と告げると、「伝えて欲しい。一生懸命生きたことが後からの人を勇気づけることができれば」と答えたという。・・・
 難病と闘っていたことを抜きにしても、すごい人だった。
 ところで、彼が亡くなって今年で13年が経つことになる。大熊さんが書かれた「筋ジスと恋」の彼女は、長野県で妻として母親として、またお年寄りの介護施設の長として活躍されている。秋になると、よく信州のりんごを届けてくれる。
 秋といえば毎年、東京などから馳せ参じた仲間を空港でピックアップしてそのまま新燃岳に登り、夜は宿で楽しく飲んで、翌日えびの市の納骨堂にお参りすることを年中行事としていた。昨年は新燃岳の噴火で登れなくなったので、東京のオリーブで「敏秀を偲ぶ会」を開いた。
 今年も何らかの名目で集まりたいが、無理かも知れない。それでも、いつまでも「敏秀のこと」は、みんなの心のなかに生きている。
■ 難病対策基本法制定への気になるところ 
 がん対策基本法は2006年(平成18年)に、民主党の山本孝史参議院議員が自らのがんを告白して早期成立等訴えた結果、この年の6月に成立したことでも有名である。日本人の死因で最も多いがんの対策のための国、地方公共団体等の責務を明確にし、基本的施策、対策の推進に関する計画と厚生労働省にがん対策推進協議会を置くことを定めた法律である。
 このがん対策基本法をモデルにしながら(私にはそのように受け取られる)難病対策基本法?の骨子が、私もその委員の一人として参加している厚生科学審議会の難病対策委員会で審議されている。
 その前提として、この問題での国の政策的な動きでは、次のようなものである。
 現在国会で審議中の「地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健福祉政策を講ずるための関係法律の整備に関する法律案」で、障害者の範囲に難病等により障害のある者が加えられた。また障害者総合支援法案の第4条第1項に「治療方法が確立していない疾病、その他の特殊の疾病であって、政令で定めるものによる障害の程度が厚生労働大臣が定める程度である者であって、18歳以上であるもの」が新たに規定されれることになった。そしてこの法案が成立した場合、平成25年4月1日から、難病等により障害のある者は、障害程度区分の認定を受けたうえで、障害福祉サービスを利用することができることになった、というものである。
 そこで難病対策委員会に、難病研究・医療ワーキンググループ(WG)と在宅看護・介護ワーキンググループが組織され、私は後者の座長を務めている(前者の座長は前精神・神経センター院長の葛原先生)。実は明日のWGが3回目で、今までの議論をまとめることになっている。
 事前に送られてきた抄録の中でちょっと気になることが、各県における制度の枠組みである。事務局(疾病対策課)の提示した案では、地域で生活する難病患者が、医療、福祉、介護サービス等を円滑に利用できるよう、難病医療地域基幹病院(仮称)を中心として、二次医療圏毎に、地域難病医療連絡協議会(仮称)を設置してはどうか、そしてこの協議会が拠点病院や家庭医、福祉、介護サービス事業者等との調整窓口として、難病医療専門員(仮称)を難病医療地域基幹病院に配置する、というものである。
 そして県における地域基幹病院は、研究・医療WGの議論では、特定機能病院であるところの大学病院が想定されているようである。確かにがん診療では研究・治療の主体は大学病院であるが、難病では様相が異なってくる。大学病院の多くでは、診断がつくと「用なし」とも思えるようにその後の長期療養は専門病院や機構病院に丸なげしているのが現状といえる。大学の目的を考えるとやむを得あない側面もあると理解しているが、神経難病では原因のわからない病気が多く、治療も対症療法やケアが主体である。もちろん研究は精力的に行なって一日も早く原因究明と根本治療にたどり着いて欲しいというのがみんなの願いであるが、その道のりはまだまだ遠い。
 今回の議論では難病の範囲を拡大したいという思惑もあって、神経難病だけが難病ではないとする空気が強い。たしかに正論であるが、歴史的にもまた現実の地域医療でも、入院病床確保をはじめ長期にケア等で社会問題になるのは、ALSをはじめとする神経難病であるというのは厳然たる事実であり、共通認識ともいえる。
 私としては地域基幹病院を各県に、研究・治療開発と長期療養・登録・研修を主体にした複数の基幹病院を設置できないか提案したいと考えている。ただ大学病院の研究もそれぞれの得意分野があり、また各県の事情もまちまちであるが、法制化を目指し各県での均霑化を目指すとなると時間をかけて足並みを揃えるしかないだろう。
 また二次医療圏ごとに地域難病医療連絡協議会の設置に関しては、現在当院の属する姶良保健所管内ではこのモデル事業を実施している。全体的な地域の現状認識と対策に関しては有効であるが、現実の入院調整等は、各病院の地域医療連携室が担っている場合が多い。また地域の基幹病院(拠点・協力病院)を中心にした難病医療検討会・研修会(調整会議)のようなものがあれば、連携した地域での難病医療が展開できるかと思われる。
■ ボランティア活動と生きがい
 日本産業退職者協会の有馬さんに頼まれて、下記のコラムを書いたのは実は昨年のことである。ところがあの3:11となり、急遽、震災関係に変更をと、お願いされた(生きることへの希望を、というタイトルで寄稿した)。
 鹿児島では鹿児島銀行版「爽やか倶楽部」(平成24年特別号)となり、同誌には萬田先生(アイガモ農法)の取材も掲載されている。また昨年同様、浅田次郎のトークエッセイも連載されている。鹿児島銀行内のロビーに置かれている小冊子なので、銀行に行かれたら一冊持って帰って読んでください。
      ボランティアは健康長寿につながる。
 ボランティアの世界では、日本の古きよき伝統である「お年寄りを敬う」という精神がしっかりと根付いていると感じた。健康長寿の秘訣も、案外この辺りにあるのではないだろうか。
 恒例の「ボランティア交流会」が、病院の大会議室で開かれた。毎年、当院でボランティアとして活動された団体や個人に対して、感謝状の送呈などが行われる。そして筋ジストロフィーや重症児の患者さんの描いた絵や作った飾りを添えることにしているが、たいそう喜ばれる。そのあとで4つのテーブルに分かれて、ボランティアの方々と病院のスタッフでささやかな茶話会となる。テーブルの上には、あり合わせのお菓子とペットボトルのお茶などが用意されている。
 私は「おはなしおじさん・おばさん」や「コスモス」というグループの方々と一緒のテーブルに座った。このグループでは自己(団体)紹介のときに、松山慶子さんという50歳を少し超えたぐらいの、しゃきっとした女性が代表して話をされた。
 「私たちのグループは月に一回、重症児病棟を訪問して、お話や紙芝居をしております。私の隣のMさんは今年90歳になりますが、すこぶるお元気で紙芝居の時には欠かせない存在なのです。子どもたちがMさんの紙芝居でないと、満足してくれないのです。何といっても、お話しされるときの表情やしぐさが素晴らしく、お年を重ねられないとできない演技なのです」と、まずMさんのことを紹介した。そして若いころから姶良市で図書館活動にたずさわってこられたこともさりげなく付け加えられた。Mさんは小柄な身体を丸めながら、うれしそうに聞いていた。
 しばらくして私は松山さんの横に席を移して、「昔、おけいちゃんと言われていた松山恵子さんと同じ呼び方ですね」と言葉を向ける。「さすがに先生、年の功!、よくご存じで。本当は山を坂に変えて、松坂慶子さんと呼ばれたいのですが・・・」と笑いながら話される。そのあと、耳の遠いMさんに、耳元で少し声を大きくしながら私のことを紹介したり、「お子さんは大学の有名な教授なのですよ」などと、見るからにMさんを大切にされていることが傍目にもよく伝わってくる。
 ところで百壽者にその秘訣を1つだけ求めたところ、「物事にこだわらない」をあげた人が男女とも15%と最も多く、以下「腹八分目・暴飲暴食をしない」が9%、「規則正しい食生活・早寝早起き」、「マイペース・自由気まま」がそれぞれ8%だったという。
 逆に高齢者の元気を奪っているのは、家庭内や社会での役割の喪失のような気がする。最近日本でも、Mさんのようにボランティアに従事している高齢者は増えている。ボランティアは社会貢献はもちろんのこと、ボランティア自身の健康や生きがいづくりに大いに役立っている。
 お年寄りを大切にすることの意味を、もう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。

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