院長雑感詳細

院長雑感(134号)

毎年、「七夕飾り」コンテストを実施している。審査委員が各職場の七夕を審査し、順位を決定する。今年も慢性期病棟が優位で、一位は6病棟(療養介護病棟、旧筋ジス病棟)で、二位を緩和ケア棟と4病棟(神経内科病棟)が分けあった。私も時々短冊を見るが、いずれも健康への切実な願いが込められている。ところが、4病棟の七夕に願いをかけると叶う(結婚できた?!)という風聞が広まって、ひそかに短冊を結びつけたという看護師もいた。
  私の部屋の前の医療安全管理室(医療安全管理者と教育担当師長の居室)の扉には、小さな七夕飾りが掛けられている。何気なく見ると、「健康で過ごせますように(そういえば、住人の一人は長いこと咳が続いていた)」、「毎日イケメンに会いますように(男性師長のことだろうか)」「5Sがうまくいくように(さすがにセイフティマネジャー、短冊にまで願をかけて)」「時々美味しいものが届きますように(腹をすかした小鳥に餌をめぐむように、私も貰い物の差し入れをしているが)」など、それなりに切実な願いが込められている。でもシビアに分析すると、七夕飾りはうまく成就しないから毎年願いを込めるわけである。
 鹿児島は梅雨明けが遅く、まだはっきりしない天気が続いている。
■ 患者数
 6月の入院患者数は369.4人で、計画に対し5.4人の減となった。平均在院日数は、調整前で15.9日と全く問題はない。外来は155.2人と、計画比で5.0人の増となった。
■ 診療報酬点数
 6月の診療報酬点数は、計画比で入院では169,196点の増、外来は327,842点の増で、対計画では入院・外来合わせ497,038点の増となった。累計では3,942,953点の増となっている。
 損益計算書でも、6月は調整後で1082%と高い収支率で、累計でも108.8%である。
■ 「復興財源」という名の錦の御旗
  先々週、機構本部から、「国立病院機構の給与改定について」という通知が発出された。
 要約すると、「国家公務員の給与の改定及び臨時特例に関する法律」の施行により、国家公務員は平成24年4月から給与の減額措置が実施されている。そこで政府から国立病院機構にも国家公務員と同様の給与見直しを実施するようにと要請があった、機構としては、これらのことを踏まえつつ、継続的な医療提供に支障を生じさせないことを基本とした医療人材の確保等を勘案し、職員の給与削減措置を次のとおり実施するというものである。
 対象者は、病院に勤務する幹部職員である院長、副院長、事務部長、看護部長、薬剤科長で、あと本部、ブロック事務所に勤務する職員となっている。減額率は給与法の適応を受ける国家公務員と同じで、病院幹部はいずれも9.77%である。
 さて、ここ二月ほど続いた懸案事項に、一定の方向性が示されたことになる。この通知を読んだとき、事務部長や看護部長、薬剤科長などの病院幹部には本当に申し訳ないが、個人的にはホッとしたというのが実感である。
 政府の方針に真っ向から反対できないだろうし、マスコミや国民の目もあるし、道理がそのまま通らない世界である。協力と恭順の意が幹部職員の削減ですむとすれば、次善の策といえる。もし一般職員にも同じような減額措置がこうじられたら、医師や看護師などをはじめとする病院職員の人員確保が非常に難しくなり、病院運営に大きな齟齬を来すと懸念されていたからである。そして何より、「みんなで頑張って利益も上げているのに、このような大幅な減給をする病院とは!」と、モチベーションの低下も懸念されていた。
 ただ今回の「復興財源」という、誰も反対できないような錦の御旗を盾にとって、給与見合いの運営交付金を受けていない国立病院機構にも減額措置が要請されたことには納得していないし、憤りを覚える。復興財源が必要だということには納得しており、どうしても必要というなら「寄付金」など別な形で徴収して欲しいものである。
 今回のいきさつをもう少し詳しく説明すると、次のような経緯をたどった。
 5月11日の閣僚懇談会で、安住財務大臣と岡田副総裁から、「独立行政法人等の役職員の給与についても国家公務員の給与見直しの動向をみつつ、必要な措置を要請する」という発言が唐突に飛び出した。
 この復興財源を巡っては、2月末に国家公務員の給与を2年間にわたって平均で7.8%引き下げる特例法が成立し、この4月から実施されている。ただこの給与引き下げは独立行政法人の中でも、国からの運営交付金が給与に回されている法人に限っていると理解しており、国立病院機構の場合には、給与は診療報酬として得た金から支払われているわけで、今やほぼ独立採算(税金の投入はない)で運営されている。県立や市立等の自治体立病院の収支率では、運営交付金という名の税金が投入されての数字である。
 4月に機構の理事長になられた桐野先生にとっては降ってわいたような試練であったと思われるし、おそらく苦渋の選択をせざるを得なかったものと理解している。今回の減額措置で院長と副院長はやむを得ないとしても、他の三役には申し訳ないと思っている。減額の幅が大きいので大変だろうし、実際に他の病院では「憤懣やるかたない感情をストレートに表した職員もいた」という話も聞いた。当院では事務部長も看護部長も薬剤科長も、大人の対応をしてくれて有り難いと感謝している。いわば多くの職員の「いけにえ」にされたわけで、廊下ででも会った時には温かい「ねぎらいの言葉」でもかけて欲しい。
 それにしても昨今の、マスメディアや民主党政権をはじめとするポピュリズム政治屋の公務員たたきは目に余るものがある。先ほどの朝日新聞では「元国税庁長官の横暴」を掲載していたが、真実なら信じられない行動といえる。このような極めて一部の悪質な高級官僚や橋下大阪市長の「入れ墨」職員の摘発などを矢面にした公務員たたきはやめられないものだろうか。おそらく日本が明治以降、短期間に欧米列強と肩を並べ、また戦後の繁栄を可能にしたのは官僚機構と、そこで黙々と働いた従僕がたくさんいたからにほかならない。今後、優秀な人材が公務員を敬遠するようになったら、将来的には国家として由々しき事態に陥るのではないだろうか。
 政治主導という名のもとの昨今の政治をみるとき、稚拙以外の何物でもない。
■ 出版記念会 in 福寿司
 平成21,22年度の厚生労働科学研究「医療機関の規模や特徴に応じた職員研修の具体的で効果的なカリキュラムの作成と実際の活用と普及」に関する研究の成果を、一冊の本にまとめた「医療安全研修マニュアル(編集、嶋森好子)」 の(私的な)出版記念会を、浅草の福寿司で開催することにした。呼びかけたのは開催日の数ヶ月前のことだったが、福寿司の大澤さんご夫妻が快諾してくださり、なんとその夜は贅沢にもお店を貸し切ることができた。
 そこで嶋森班(通称)と日本病院会の医療安全対策委員会のメンバーに声をかけたところ、嶋森さんはじめ、日本病院会からは末永さん(副委員長)も参加してくださることになった。そして仙台から五十嵐さんと望月さん、名古屋から長尾さん、山梨から小林さん、福岡から鮎澤さん、東京の穴見さん、また福寿司組から貴志さん(銀座の公認会計士)も出席してくださることになり、私を含めると総勢10人ということになる。
 その夜のために、私はささやかな準備を始めた。
 まず「出版祝賀会 in 福寿司」という大きな横断幕を地域医療連携室の前田君にお願いした。カメラマンもお願いしている貴志さんが集合写真など撮影したときに、一目でそれとわかるからである。前田君は本の表紙も巧みに取り込んだ、私のイメージ通りの横断幕を作ってくれた。そして、スモールプレゼントとして「何がいいかな」と思案していたとき、西之表保健所の武田さんが研修会の時に種子島名産の「おみそ豆、安納芋、紫芋グラッセ」を持ってきてくれたのがヒントになった。「食べ始めると止められなくなる」ほど美味しかったので、出席者にも味わってもらおうと、日曜日に山形屋で買いそろえた。
 そしてなんといっても最大のお土産は、日高君(43歳)のグラフィックではないだろうか。医療安全の祝賀会とは特に関係はなかったが、医学の常識(ちょっと前までは、デュシェヌ型筋ジストロフィーでは20歳前後で多くの患者は亡くなっていた)を破りながら淡々と、そして着実にエレガントな作品を発表し続けている日高作品を、出席者に記念品として差し上げたいと思ったのである。なおこのグラフィックは、当院の保育士さんがL判の大きさにきれいにプリントしてくれた。また日高君の生い立ちや日常も知ってもらうために、私と日高君で随筆かごしまに6回連載で掲載したものもコピーした。
 さて祝賀会当日、あいにくの大雨で鹿児島空港からの出発が少し遅れて気をもんだが、東京は曇り空で、福寿司には6時半前には着くことができた。すでに嶋森さんと五十嵐さんは先に着いておられ、早速二人の手伝いももらいながら、寿司ネタを表示している小さな板の下に貼ったが、これがピッタシ決まった。両面テープは事務の米森さんに用意してもらっていた。
 参加者も三々五々集まり、ほぼみんなが出そろったところで、嶋森さんの挨拶から始まった。嶋森さんらしいほんわかとした挨拶の後、私には誕生日のプレゼントとして立派な豚の置物(ヴェネツッアングラスで、千年の歴史をもつほのう芸術とPR)と、みんなには色とりどりの可愛いグラスのプレゼントも用意されていた。その後、それぞれの近況報告を聞かせてもらったが、五十嵐さん(仙台市で歯科クリニックを開院)の3:11による死亡者の歯型による確認作業のボランティア活動などその苦労の程も偲ばれ、頭の下がる思いである。
 祝賀会は楽しく和気藹々とした雰囲気の中で、時の経つのも忘れるほどだった。肩肘張ることなく自然体で歓談できる機会はだんだん少なくなっているが、この祝賀会はそんな意味では貴重な時間である。こんな時間が持てたのも、大澤夫妻のやさしい心遣いがあってのことである。また事前に焼酎「伊佐美」を送っていたが、皆さんに大変好評をいただいた。
■ いつまでもサポートしてくださる恩師
 恩師とはいつまでも、いくつになってもありがたい存在である。
 私が鹿児島大学第三内科に入局したのは1973年(昭和48年)のことだから、恩師の井形先生とのお付き合いはかれこれ40年ということになる。先生は私が入局する2年前の1971年10月に43歳の若さで教授として赴任されている。私はそれまで先生とはほとんど面識はなく、親友の丸山先生に誘われて入局したようなものである。
 ただ振り返ってみると、私のように引っ込み思案で消極的な性格を、人前で話をしたり、それなりの役割ができるように「性格改造」してくださったのは、とりもなおさず井形先生の薫陶である。先生はいつもおおらかで、前向きにプラス志向で物事を考えておられた。先生との出会いがなければ、鹿児島の田舎で普通に地味な臨床医としての生活を送っていたはずである。先生のおかげで、早くから東京の病院への出張や米国への留学の機会が与えられ、その結果として多くの方と知己になり、研究班の班員や班長をすることとなった。また厚労省のさまざまな審議会の委員や日本病院会の医療安全委員会の委員長など、分不相応の責務を仰せつかっている。これもひとえに、陰に日向に井形先生のサポートがあってのことである。
 先月の初め頃、読売新聞社から「鹿児島県難病・相談支援センター」について、所長として取材を受けた。途中で広告社の企画によるものだとわかったが、私と同姓の人のよさそうな担当者だったこともあって断れなくなった。というのは、このような企画では、紙面の一区画を数万円のスペースで買ってもらう協賛者が必要になるからである。案の定、その担当者から「どなたか紹介いただけませんか」との依頼を受けたが、相手にははなはだ迷惑なことだからと、「本当に申し訳ないけど、遠慮させて欲しい」と断った。
 「乗りかかった船」でもあり、担当者には悪いことをしたと感じながら過ごしていたら、6月22日の読売新聞鹿児島版を見て驚いた。その紙面に井形先生のお名前が載っていたからである(他には、恐らく納先生つながりで今村病院分院、厚地脳神経外科病院、肝属郡医師会病院など)。申し訳ない気持ちで井形先生にメールしたら、「メールを有り難う。読売から協賛を求められ、自然な気持ちで喜んで参加しました。・・・」というご返事である。井形先生と納先生のご恩情には、涙が出るほど嬉しかった。
 井形先生と納先生には、毎月の「管理診療会議録」をずっとお送りしている。お忙しい方々だから読む暇もないだろうと考えていたが、お二人ともよく読んでくださっているようで、恐縮至極である。
 先日、井形先生から「先生の会議録の鶴丸高校の校歌についてのくだりがあり、名古屋で時々この校歌を歌っているとのエピソードを郵送で送りました。鶴丸高校は第一中学第一高女が合併して出来た学校で当然第一高校が希望であったが、インターネットによれば戦後第一、第二などの序列表現は許されず、鶴丸を見て『鶴は平和で宜しい』と許可になった由。もしアメリカの係官が鶴丸は島津の城の名前と知ったら、許可にならなかった筈とあります。それにしても鹿児島には重厚な名前の高校が揃っています。鶴丸、甲南、玉竜など、(永松先生曰く・・鹿児島の高校は芸者の名前のようだ・・・)。私が云った
訳ではないのでご容赦」というようなメールを頂いた。
 そして数日あとに送られてきた手紙では、先生が名古屋の地で、多くの一中、鶴丸高校OBとの親交についても触れられていた。また同封の江田島(海軍兵学校第77期会会報)に投稿された「わが町日進~軍艦日進との関係~」は、興味のある内容だった。先生は現在、名古屋学芸大学の学長をされているが、この大学が日進市にあるということである。そしてこの日進市の名称は1906年に三つの村が合併して新しい村が誕生した時に、村の総意として不朽の名鑑「日進」の名前をとって日進村に、そして1958年に日進町に、1994年に日進市に発展したのだという。
 ところで名鑑「日進」について、流石に井形先生、流れるようにそして愛情をもって書かれている。第一代の日新丸は幕末の佐賀藩が1870年にオランダから購入し、日進月歩からとった名前だという。明治維新で新政府に献上され、西南の役にも参戦して1892年に老朽化で除籍。二代目の巡洋艦日進は数奇な運命で生まれ、東郷元帥で有名な日本海海戦で活躍するが、詳細は省略する。最後の部分の、井形先生の名文をそのまま添付するが、同期の方々には、我々の世代とはちがった気持ちで読まれるのだろうと思うことだった。・・・連合艦隊第一戦隊の最後尾六番艦で活躍、この艦には後日の山本五十六連合艦隊司
令長官は少尉候補生として乗り込み、負傷で左手人差指、中指を失っている。また、アルゼンチン観戦武官メドック・ガルシア大佐(後の海軍大臣)も日進に座乗、決死の観戦記を出版しており、期友で読まれた方も多かろう・・・
 井形先生とは18歳ほどの年の開きがあるが、積み重ねられた経験は足許にも及ばないといつも思うことである。
■ 計画停電の影響
 7月4日付で九州電力から「セイフティネットとしての計画停電の準備について」というお知らせの文書が届いた。
 その内容は「今夏は、大変厳しい需給状況となる見通しであることから、7月2日から9月7日の平日9時~20時において、一昨年の使用最大電力からマイナス10%以上の節電をお願いしております。・・・当社は電力需給の急増や大規模な電源脱落など、不測の事態により需給逼迫が予測される場合には、需給両面の対策を総動員し、需給逼迫による停電をなんとしても回避すべく最大限努力してまいります。
 それでもなお、供給力不足が改善されない場合の大規模停電を避けるため、万が一に備えた『セイフティネット』としての計画停電について、国と十分連携を取りながら検討を行ってまいりました。・・・
 なおお客さまは、国の方針に基づく影響緩和措置対象(通電を継続する施設)となっておりますので、計画停電実施時も停電対象外です・・・」というものである。
 当院は停電対象外ということで少し安心できるが、楽観は許されないものと思っている。常時70人を超える人工呼吸器装着者が入院しており、もし「停電にでもなると自家発電機の準備はあるとはいえ、何が起こるかわからない。
 7月1日の南日本新聞では、一面トップに「在宅呼吸器 鹿県234人」という大見出しである。県の調査によるものだが、人工呼吸器以外では酸素濃縮器の使用者が1099人、たん吸引器が178人だという。県としては在宅患者には「かかりつけの医療機関との事前の相談、バッテリーや非常時の入院先の確保」を呼びかけているという。そして社会面では鹿児島県ALS協会の会長をされているYさんの療養生活が紹介され、人工呼吸器だけでなく、痰の吸引器、酸素濃縮機、そして室温の調整のための冷房などを考えると不安でたまらないという記事である。
 私にも、民放2社から「病院としての対応について」の電話取材があった。お二人ともかねて懇意にしているプロデューサーということもあって、「あまり不安を煽るような報道はしないでください」と念を押した。先日、川畑部長の話では、在宅酸素を使っている患者から「2ヶ月間、入院させてください」という電話があったそうだ。不確実な報道は患者を必要以上に心配させる。確かに世の中に100%安全ということはないが、人工呼吸器を装着している人は、かねて医療機関や訪問看護ステーションとの関係が深いわけで、それぞれに計画停電への対応は行われているはずである。
 九電の説明では、計画停電の実行は、万が一の場合ということなので、その一が起こらないように願うしかない。
■ 65回目の誕生日
 「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」という徒然草の一節を紹介するまでもなく、突然死の影は前からばかりでなく後ろからもやってくる。
 最近、私が若い頃にテレビなどでよく目にしていた芸能人が次々と亡くなったり、身近な先輩や同級生の訃報を聞く機会がふえてきた。「ああ、遠からず自分もその仲間入りすることになるのかな」との想いが、自然と胸の中にやんわりと染みこんでいく。それなりに折り合いをつけて潔く受け入れたいと思うのだが、これは結構難しいことである。
 よく、「お元気ですね、どこか悪いところがありますか」と聞かれることがある。「検査していないので、わかりません」と答えることにしている。この答えは半分は正解で、検査をすればきっと悪いところが出てくるのだろうが、検査しなければ悪いかどうかはわからない。年に一、二回の病院で行う定期検診のデータからすると、「コレステロールやγ-GTPなどが少し高いようなので、食事の工夫をしなければなるまい」と思うのだが、「いまさら」という気持ちの方が強くて実行が伴わない。またPETなどで全身を精査したらがん組織なども見つかるかも知れないが、「まあ、なったときはなったとき」と開き直ってしまう。
 今日、7月10日は私の65歳の誕生日である。今朝は「あることで」、3時半には出勤した。
 生まれてこの方、この年まで入院するような大きな病気にならなくてすんだのは、幸運というしかない。丈夫に産んでくれた両親と神様(私の場合は仏様かな)に感謝している。学生時代は高校まで皆勤賞だったし、南九州病院に勤めるようになってからも30年近く、病気で休んだのはたったの一日だけである(勝手に無菌性髄膜炎と自己診断し、ボルタレンを服用)。特段、人に自慢のできるような健康法はないが、規則正しい生活にこだわっていること、出張などではタクシーを使わずよく歩くようにしていること、そして毎朝のテレビ体操ぐらいである。
 さてこの年になると、「人生のまとめ」も大目に見てくれるだろうとの甘えもあって、たまたま続いた先々週と先週の土曜日での講演では、「人の一生は・・・」と、大仰にも5つにまとめてみた。
 まず、「人の一生は、生老病死という4楽章を辿る旅人のようなものかもしれない」ということである。生老病死とは、仏教における四苦八苦という言葉の四苦にあたるが、人は生まれた瞬間から死への歩みをはじめる。その間、病気をしたり老いを経験し、そして死で一生を終える。この厳粛な理はみな平等であり、始皇帝でさえ不老長寿は叶わなかった。兼好法師なら「だから、生きている今の一瞬を惜しみなさい」ということになる。
 人の一生は「偶然やたまたまに支配されることが多い」。そして「人間万事塞翁が馬」でもある。自ら思い定めたように人生を歩まれる人は少ないわけで、多くの場合、ちょっとした偶然で人生が変わる。私も初めから医師を生業(なりわい)にしようと思っていたわけでもないし、この南九州病院で30年も働くとは夢にも思っていなかった。また長い人生にはいいことも、悪いこともある。でも悪いと思っていたことが結果的にはいい方向に進むことは多々経験することで、悪いと思った時に投げやりになったり落ち込んでばかりになってはいけない。
 またある講演で、「治療法のない難病とか、進行がんと告知されたら、どのように生きていけばよろしいのでしょうか」という質問を受けたことがあった。あれやこれや考えたが、詰まるところシンプルに、「人の一生は一生懸命に生きることだ」と答えた覚えがある。この言葉は私が長年付き合ってきた筋ジストロフィーやALSの患者から教えてもらったものだが、仏教でも同じように考えるらしく、以前講演を聴いたことがある田畑先生(医師で仏教僧)は、「昨日の夜、昨日の私は死んでいるのです。今日という初体験の一日が、今日の朝は始まったのです。そして今日の夜、今日の私は死んで行くのです。私たちは人生の長さだけ、毎日死ぬ練習をしてきたのです。そして今生きている、生かされていることを精一杯生ききっていけばよいのだという世界に導かれることです」と話されていた。
 最後の「人生は生きがい探しの旅で、思い出作り」という言葉は、私が筋ジス病棟を担当していた時、20歳前後で亡くなっていた筋ジストロフィーの青年たちに、「人生は思い出作りであり、生きがいのある生活を送って、たくさんの楽しい思い出を作ってあの世に旅立とう」と呼びかけていた言葉でもある。
 月日の経つのは早いもので、南九州病院での勤めもあと9ヶ月を切ってしまった。頼もしく、そして献身的なスタッフに恵まれて、楽しく仕事できることをいつも感謝している。
■ 日本海溝
  早いもので、3:11のあの日からから一年四ヶ月が経ってしまった。
 「喉元過ぎれば」ではいけないことだが、過去の記憶は薄らぎつつある。ところが先週の火曜日、難病対策委員会の時に体に感じる揺れがあり、天井の照明もしばらく揺れた。千代田区にある都道府県会館の一階にいたが、耐震構造になっているのかさほど大きな揺れとは感じなかった(後で調べると震度3ということ)。帰りの羽田空港でインターネットを開くと、震源地は東京湾深く(約100キロ)で、マグニチュードは5.4である。震源の深さからすると直下型の断層地震ではなくて、いわゆる海溝型地震ということだろうか。
 ところで中学の社会科の授業の時、日本海溝とか千島海溝とかいう名前を覚えさせられたことがあったが、今更ながら「海の深い溝」であることを再認識した。 
 最新鋭機ボーイング787機には、座席の前に一台ずつ個人用シートモニターが装備されている。タッチパネル式になっており、好みのチャンネルを選択でき、マップに触れるとスカイマップという画面になり、再び触れると飛行ルート、タイムゾーン、オートズーム、高解析度、方向表示などと画面の中から選択できる仕掛けになっている。
 高解析度を選ぶと、日本や中国を含むアジアの地形を、空から見た写真に次々と移り変わる。私がここでビックリしたのは、日本列島に沿って、カムチャッカ半島からフィリピンへと続く海溝である。当然ながら頭の中では理解していたつもりだが、画面上に示される太平洋の青い色と異なる深い黒色をした溝の連なりを見ると、まさに太平洋プレートが日本の東岸近くでユーラシアプレートに沈み込んでいる様が手に取るようにわかるのである。
 文字通り日本列島そのものが海溝を隔てて沈み込んでいくプレートの上に乗っかっているわけで、おっかない地盤の上に不安定に位置しているのが日本列島である。ある一定の時間が経つと耐え切れなくなって、このひずみがある程度までなると、元に戻ろうとしてプレートがはね返ることによって地震が発生することになる。
 なお昨年の東北地方太平洋沖地震では日本海溝に沿って南北約500km、東西約200kmの広範囲にわたり断層の破壊が進んだが、日本海溝と千島海溝の接続部分が現在も地震空白域となっており、この地域には約120kmの海底活断層があることからもM8規模の巨大地震の発生が懸念されている。また南方でも同様に、今回の地震で大きな破壊が起きなかった日本海溝南端部にあたる房総沖での巨大地震の発生も気になるところである。
 このようにみてくると、日本には完全に安全といえる場所はないわけで、原発の立地条件としては極めて好ましくない国といえる。
 昨年の東日本大震災などの日本で起きる巨大地震もその一つだったわけだが、地球をこのような角度で眺めると、日本の位置する場所が特異な場所に位置しているのがよくわかる。
 また日本列島はほとんど緑色(森)で色分けされているが、中国は南京から青島、北京、そして西安かタクラマカン砂漠へと、灰色に塗られた広大な平地や砂漠地帯が拡がっていることに驚かされる。「外国の子供は山を茶色く塗るが、日本の子は緑色に塗る」とは、よくいったものである。
 飛行機の座席に座っているとパソコンを打つか、機内誌を読むか、このようなシートモニターで遊ぶしかない。機内で眠れたらどんなにいいだろうと思うのだが、乗り物の中で眠れたことは滅多にない。  
■ ながい坂(前)
 東京への出張が多くなっているが、赤坂東急や羽田東急といったような東急系のホテルに泊まることが多い。この系列のホテルでは、朝食時間が早い(赤坂は6時で、羽田は5時から)のと、朝刊の4つの全国紙をゲットできる(本当はいけないことかもしれないが)ので、新聞好きの私にとってはかわるがわる読み比べる楽しみがある。
 ある朝、読売新聞を開くと、橋本五郎さん(読売新聞編集顧問)の薦める本というコーナーがあり、その日は山本周五郎作の「ながい坂」を取り上げていた。(橋本氏は毎年繰り返し読んできて、もう数十回も読んだということである)。
 私は周五郎の著作は原作ではあまり読んだことはなかったが、橋本さんがそれほどにまで推薦するのならと、早速本屋さんに走って文庫本の上・下巻を買いこみ、飛行機の中などを利用してやっと読み終えることができた。というのもこの作品は、周五郎作品としては「樅ノ木は残った」に次ぐ長編だそうで、上下合わせると1000ページを優に超えている。
 物語は江戸時代に、小藩の下級武士(徒士組 )として生まれた主人公の小三郎が、少年時代から向学心に燃え文武両道に励み、主君の交代などのお家騒動に巻き込まれながら、次第に地位を得て藩政改革を断行し、城代家老にまで上り詰めるというサクセスストーリーである。このように一人の人間の人生を丹念に追う物語は結構多いが、私は昔から好きなジャンヌである。
 封建社会での身分制度の厳しさなど、今の世間の常識からは想像できないことばかりで、主人公の生き方などよく理解できない部分もある。武士とはいえ身分が家柄により代々固定されていて、一事が万事、すべてのことが出自に支配されていた、今から考えると異常な世界である。
 作品としては、ちょっと冗長で重複も多く言動などちぐはぐと思える部分もあり、生意気を覚悟でいうと、洗練された作品とは言い難い。この作品を読みながら、藤沢周平の「蝉しぐれ」が思い出された。どちらも一人の下級武士の少年の成長の物語であるが、「蝉しぐれ」は簡潔でテンポがよく哀惜の残る名作といえる。ただこの「ながい坂」は周五郎の晩年の作品でもあり、作者の生き方を投影しているともいえるようだ。周五郎自身、学歴もなくいわゆる生来のエリートとはほど遠く、大衆作家として生きてきた人生だということもできる。無骨ではあるが、それでも不条理に向かって必至に立ち向かう小三郎の人生を、自分の生き方と重ね合わせようとする強い意志が感じられる。
 下巻の後半で、小三郎改め、今や藩の中枢となった三浦主水正(もんどのしょう)が少年時代の籐明塾(下級武士の子弟の塾)の教師であった小出方正(70歳近くになっている)と語る場面がある。
「ごらんのとおり、私は老いさらばえた余り者、師弟であった昔のことなどは忘れてください」・・・「あなたはたいした人だ」つる(主水正の妻)が去ると、小出は茶をすすりながら云った。「侍として出世するばかりでなく、山根どのの評判娘まで、あんなにしとやかで温和しい妻女に仕込まれた。外にも内にも、本当にあなたは天成の才をもっておられますな」「そういう時期がきただけです」「子どものころ先生に、人間の一生は長い、一足とびに登るより一歩一歩を大切にせよ、という意味のお言葉を頂きました」「そいいうことがありましたかな、いま考えると釈迦に説法という」「いえ、そうではありません、あのころは私は出世したいという一心に凝り固まっていたのです」と云って主水正は声を低くした、「但しそれは一身の栄達を望んだからではありません。このことはまだ誰にも話しておりませんが、八歳のとき私は、胸を刺されるような出来事を経験したのです」
 その話とは「8歳のとき、釣りに行く時、いつも父親といっしょに渡る小橋が壊されていた。その橋のたもとには家老の家があり、そこを人が通ると子供の勉強のさまたげになるからだというのである。道というのは公のもの。そんな理不尽なことが許されていいのかと、子供ながらに小三郎は憤る。そんな理不尽は絶対許してはならない、そのためには自分が偉くならなくてはと、剣術や勉強に一生懸命に励み、いい成績を収めていく」というものである。
 「そのとき私は、そういうことが平然と行われ、それに対して誰ひとり抗議する者がいないことを知って」と云って主水正は苦笑いをした、「いま思い返すと恥ずかしくなりますが、ぜがひでも尚功館(上級武士の子弟の塾)へ入学しよう、そしてできることなら、こんな無道なことのできないような、正しい制度を確立しようと思ったのです」
■ ながい坂(後)
 そして小三郎は揺るぎなく、そしてぶれることなく少年時代に抱いた志を一つ一つ実現していく。それは私利私欲のための出世ではなく、不条理に対する闘いであったので、みんなの共感を少しずつかち得るのである。
 この橋を壊したのは3代続く城代家老の滝沢家の家臣で、その嫡男は兵部といった。幼少時から英才教育を受け、文武両道に英明の誉れを欲しいままにした。家柄からいえば小三郎とは雲泥の差があったが、何かにつけライバルともくされていた。ところが、長ずるに、兵部はプレッシャーに負け、酒と女で身を持ち崩してしまう。
 ところが主水正は自分が城代家老となったとき、長年の宿敵ともいえるこの兵部を次席家老として迎える決断を下す。そして兵部のアルコール中毒からの治療のため、身体からアルコールが抜けるまで、自らも食を断つという荒療治を行う。「ご存じのように、私は平侍あがりです。藩政の切り回しなど、多少の知恵のまわる者ならさほど困難ではないけれども、城代として一藩をたばねてゆくには、それだけでは不足で、家柄、血統はもとより、人間としての威厳が備わっていなくてはなりません」。
 ちょっとこの辺りの構成は、小説といえばそれまでだが、主水正は周りの反対を押し切って兵部を次席家老として迎える。
 最後の章では、城代家老となった主水正が城の大手門から登城するシーンがある。
 「たかが七万八千石の城代家老ではないか。しかも自分で選んだ道だ、自分で選んだ道が、ここに続いていただけではないか」
 そして二の丸の方に曲がったとき、その道が緩い勾配の坂になっているのに気づいた。「ここは坂だったのか」彼は立停って、道の上下を眺めながら、びっくりしたように呟いた。「知らなかった。まるで気がつかなかった。これまで幾十度となくここを通ったのに、ここが緩い勾配ながら坂になっていたことに、まったく気づかなかった」。「おれは少年のころから、脇見をする暇さえなく、けんめいにながい坂を上ってきた」と歩きながら呟いた。「多くの困難や、むずかしい仕事や、いのちを狙われたことさえある。三十八の今日まで生きてくることができたのは、幸運というべきだろう」「そして登りつめたいま、おれの前にはもっと険しく、さらにながい坂がのしかかっている。」「そしておれは、死ぬまで、その坂を登り続けなければならないだろう」
 人生はながい坂のようなもので、登っている間は坂であるということも気づかないほど一心不乱だということだろう。
 橋本さんは、「『不条理は許さない』という初心を忘れず、徹底して己れを律しあらゆる苦労に耐えながら、『ながい坂』を一歩一歩登る。心がくじける時に読み、自分を奮い起こしています。すぐれた本とは、生きる勇気を与えてくれるものだと思います」と語っている。
 人生が「ながい坂」であることに同感する。
■ 南九州病院の看護を語る(1)
 「先生、涙が出ました」とは、「南九州病院の看護を語る」のリハーサルを済ませて看護部長室に帰ってきたときの上別府部長のうれしそうな一声である。
 今回の企画は看護部で行い、実習指導者を対象に「指導者としての自己の看護観、指導観を明確にして、看護を語る」ことを目標としている。と同時に、現在当院で実習中の看護学生にも聴講生として参加してもらって、南九州病院の看護に興味を持ってもらいたいという思惑もあった。
 この「語る会」は6月22日の午後、大会議室で開催され.た。私はこの日、日本病院学会の座長を頼まれて福岡に出張することになっていた。「あいにくだなあ」と残念に思っていたが、願いは通じるもので3時の開催時刻に間に合わせようと「頑張った」結果、会が始まる前に帰り着くことができた。ところがその代償としてかわからないが、気が焦っていたのか帰りの新幹線のチケットを紛失してしまった。座席に乗り込んでチケットを探すのだが、どこからも出てこない。自動改札で取り忘れたのか、博多駅構内に落としてしまったのだろう。JRには哀れみの情はないらしく、「ゴメンナサイ」では許してもらえなくて、結局、片道の切符をあらためて買わされる羽目になった。「仕方ないなあ」と、恩師の井形先生の教えではないが「往復ともなくさなくてよかったじゃない」と、ここでも前向きに考えることにした。
 さて「語る会」は、大会議室の前方には聴講の学生が、後方の座席には実習指導者や師長さん方が腰を下ろして、久永副師長の司会で始まった。3人の発表は内容もプレゼンの仕方も素晴らしいもので、感極まって目を腫らす人も多かった。私は自分から希望して、予定外の締めの挨拶をさせてもらった。そのなかで、企画が素晴らしかったことに触れ、それは当院の特徴である筋ジス、重症児病棟、そして緩和ケア棟の看護を取り上げたこと、そして発表の内容もそれぞれの看護の特徴をよく捉えていたこと、また3人の発表者は看護の本質をよく掘り下げて表現してくれて、まさしく私の持論でもある「看護は文学である」ことを実践してくれたことなどを、ちょっと気を昂ぶらせながら話すことだった。
 この日発表された3人のみならず、当院で働いているほとんどの看護師が、同じような感性の持ち主であることをよく知っている。また入職後数年で、このように立派な看護師として育ててくれた先輩看護師と当院の教育システムを、院長として大変誇りに思うことだった。
 発表者のひとりの発言にもあったが、「看護で痛みをとることはできなくても、傍に寄り添い、そして肩に手を添えることで慰めることができる」という言葉は、近代外科学の父と呼ばれているアンブロワズ・パレの「ときどきな治すことができる、しばしば和らげることができる、いつでも慰めることができる」という有名な言葉にも通ずるものがある。
 識者の中には看護理論とか難しいことを振りかざす人もいるが、看護の基本は日常の現場にあるわけで、そこでの経験ほど貴重なものはない。最近、このようなナラティブな形式での発表会がよく行われているということを後で聞いたが、なるほどと頷けるものがある。自分の経験は文章化することで後世に残るのである。
 そこでこの「語る会」に出席できなかった人にも、この日の感動を分かち合って欲しいと思い、少し長くなるが、発表者の原文にできるだけ忠実に、私の感想も交えて紹介したい。
■ 南九州病院の看護を語る(2)
 まずトップバッターの6病棟の京田景子さんは、「1ミリの世界とは・・・(筋ジス病棟の看護を語る)」というタイトルである。
 私はこのタイトルを見た瞬間、関根千佳さん(現同志社大学教授)の「誰でも社会へ」(岩波書店、2002年)の一節を思い出した。それは「指先二ミリでこころを伝える」というタイトルで、南九州病院の筋ジストロフィー病棟を温かい眼差しで全国に紹介してくれていた。まず轟木君(1998年に死亡)と日高君(現在も、グラフィックを描いている)のIT環境やネットワークを、次のように記述されている。・・・轟木さんは気管切開した後も声を失わず、30歳を過ぎても生きていた。メールや電話のやりとりでは、超お茶目で明るかった。「調子はどう?」と聞くと、「障害以外は元気です」と返ってくる。電話をかけると、看護婦さんが子機を持って枕元まで走ってくれるのだと聞いて、びっくりした。そんなサービスをしてくれる国立療養所が存在するなんて信じられなかったからである・・・。・・・日高さんは、わずかに指先が2~3ミリ動くのみである。これを使ってパソコンで絵を描く。「水彩」というソフトを使用しているが、ほとんど油絵のような印象の絵である。日高さん、たった指先二ミリで、世界を感動させることができるのですから・・・。
 さて本題に戻るが、京田さんの1ミリは、関根さんの言うところの二ミリとは少し違う。まず、筋ジストロフィーという病気について簡単に説明し、その後スライドを使って食事や排泄、入浴などの日常生活の援助の模様を、実際の写真を示しながら説明する。そして筋ジス患者との関わりを通して、「私の看護に大きな影響を与えた3つの出来事」としてまとめている。・・・筋ジストロフィーの看護は「1ミリの世界」と表現されます。1ミリと聞くと定規で測る1mmを想像される方が多いと思いますが、ここでの1ミリは少し違っています。私たちが看護する「1ミリの世界」とは、目で見ることのできない世界であり、定規で測る数値の1ミリではありません。
 私が就職して間もない頃、マウス(コンピューターの入力装置)のセッティングがなかなか決まらず、患者さまは自分の思いが上手く伝わらないもどかしさから、涙を流されたことがありました。そのときのことを振り返ると、私は「次にしなければならないこともあるのに、どうして決まらないのだろう」「先輩がするときにはすぐに決まっているのに、どうしてだろう」と自分のことばかり考えていました。患者さまの涙を見て「自分では上手くマウスをセッティングできない」と感じた私は、先輩に「マウスの調整をしているのですが、なかなか決まらないのです。代わっていただけませんか?」と声をかけました。先輩は「決まらないときには誰がしても決まらないのだよ。だから大丈夫、私が行ってみるからね」と話して交代してくださいました。すると患者さまはすぐに「いいよ」と笑顔で言われました。
 そのときは、マウスのセッティングが決まらないことや他の業務のことが気になり、焦っていた私の気持ちが伝わり、患者さまに不安を与えてしまったのです。患者さまは先輩の姿を見て「この看護師さんなら、上手くマウスを調整してくれるだろう」と安心できたのだろう思います。そのときは先輩は言葉には出しませんでしたが、焦る気持ちがこちらにあると患者さまに伝わることを教えてくださったのだと思います・・・。
  確かに医療者の焦る気持ちは患者にはそのまま伝わるもので、お互いに緊張してうまくいかないことは多い。例えば神経内科医がよくやるルンバールも、一度ではいらないと双方が緊張してうまくいかない。医療者にゆとりの気持ちがあると、患者も安心するのである。
■ 南九州病院の看護を語る(3)
・・・患者さまの体位を整えるときに、患者さまはよく「足を反対にして」「肘をちょっと外に動かして」「背中のシャツをちょっと引っ張って」と言われます。私は「ちょっと」動かしたつもりでも、動かし過ぎたり引き過ぎており、今度は「肘を内側に動かして」「背中のシャツを反対に引っ張って」と言われます。この繰り返しを数回行ううちに、患者さまの安楽な体位に調整することができます。
 患者さまの言われる「ちょっと」はどのくらい動かすかを詳しい言葉で表現することは難しく、援助する側がそれを的確に判断することが必要になります。患者さまとの関わりの中で、次第に勘が働くようになり、「この患者さまはこれくらい動かすと丁度良い」というように、それぞれの患者さまの「ちょっと動かして」に合わせて、体が勝手に動くようになってきました。毎日の関わりの積み重ねや患者さまとじっくり向き合い、思いに寄り添うことで、自分の感覚や直感が磨かれ、的確に安楽な体位調整ができるようになってきました。・・・
  「ちょっと」の分析には教えられる部分が多い。次に患者の死から気づいたことや学んだことに触れている。・・・一人目の患者さまは30歳代のデュシェヌ型の筋ジストロフィーの患者さまで、心不全が悪化し背部痛が強く「痛い、痛い、背中をさすって」と言われ、その日の夜勤の看護師が交代で背中をさすっていました。私が「どこが痛いの?」と背中のどの部位が痛いのか問いかけると、「どこが痛いのかわからなくなってきた。でもさすってもらうと楽になるよ」と言われました。3人の看護師で夜勤しており、一人が付きっきりになることは難しく、ナースコールが鳴り他の患者さまの所に行くことを告げると、「なんで、行かないで。ここにいてよ。でも、みんなも待っているんだよね」と言われ、しばらく離れては戻り、背中をさすることを繰り返しました。
 この患者さまは翌日、息を引き取られました。家族も遠いところで生活されており、夜間は付き添いの方はおらず、暗い個室の中で一人寝れない夜を過ごすのは怖く不安だったのだと思います。筋ジス病棟の患者さまは長期に入院されており、スタッフが家族よりも長い時間を過ごすことが多いので、患者さまは家族のような存在になっています。患者さまの「痛い、助けて」という言葉は、私にとっても苦しく辛いもので、背中をさすりながら涙が溢れてきました。この患者さまは気が優しく、そんな患者さまのご希望を受け止められなかったのは心が痛みました。患者さまが亡くなられたことを知り「もっと傍にいて、もっと背中をさすることができていたのではないか、もっと経験の豊かな看護師に看てもらったら、もっと患者さまが楽になる声掛けや援助を行うことができたのではないか」と後悔があります。これから経験を積み、患者さまの不安や恐怖を軽減できる声掛けや援助を行えるようになりたいと思います・・・。
  筋ジス患者との死別は、現在ではまだ根本治療の見つからない筋ジス医療の悲しい宿命といえる。ただ20年前までは優れた人工呼吸器もなく呼吸管理も稚拙だったので、20歳前後で命を落としていた。その時代から考えると、平均寿命は倍近くに延びており、そしてQOLの高い生活も可能になっている。
 人は誰しも、生まれたその瞬間から避けられない死への道程を、ゆっくりと歩んでいることになる。確かにその長短はあるが、悠久の歴史からすると微々たる差という見方もできるし、人の心の中にどれほど「思い出」として残れるかは別のことである。京田さんの心に確かな足跡を残すことのできたこの患者は、幸せだったともいえる。
■ 南九州病院の看護を語る(4)
・・・二人目の患者さまは、50歳代の筋強直性ジストロフィーの患者さまで、亡くなるその日まで電動車椅子で過ごされた方です。亡くなる数日前、勤務が終わって帰ろうとすると私を引き止めて、「帰らないで、もう会えないから」と言われました。普段はそのようなことは言われないので不思議に思いながら、「また何日かしたら会えるよ」と返答すると、「もう会えないから」と。「爪を切ってもらいたかったのに」と残念そうに話されたので、「今切りましょうか」と言うと、「夜に爪を切るのは、『世をつめる』と言って良くないと言われているから今は切らない」と話されるので、次の勤務の日に切ることを約
束して帰りました。
 この時の会話がこの患者さまとの最後の会話になり、「まさか、本当に会えなくなるなんて思っていなかった」と後悔が残っています。この体験から、「一つ一つの援助に対して心を込めて行うようにしよう。業務の合間に少しの時間があったら、患者さまの希望する援助をしよう」と考えるようになりました。この患者さまは、私が入浴の援助をすると、「あなたに髪を洗ってもらうと気持ちがいいよ」と言ってくださる方であり、私が行う援助で「気持ちがいい」と感じ、自分の援助を求められることは喜びになり、看護する面白さややりがいに繋がることを実感しました・・・。・・・私はこの原稿を書きながら「5年間、看護師を続けてこられたのは何なのか?」を考えてみました。仕事をするなかには「喜び」「面白さ」「やりがい」というプラスの気持ちだけでなく、「焦り」「イライラ」というマイナスな気持ちもあります。そんな気持ちから「私は看護師に向いていないのではないか」と思うこともありますが、そんな自分と向き合って反省したり、自分の看護観について考える機会にしています。一緒に働いているスタッフが協力してくださることや助けてくださることが多く、私はこの仕事を続けることができました・・・。
 京田さんはわずか5年の臨床経験で、「筋ジス・ワールド」の悲喜こもごもをきっちり会得しており、確かな看護観も身につけつつある。昔から体位の決め方は筋ジス看護にとっては最重要課題の一つで、「家族がやったらすぐに決まるのに」とぼやく場面に何度も遭遇した。二人がかりでベッドから車椅子に移動させ、体位を決めるのに何十分もかかることがあるとは、知る人ぞ知る世界である。ぼやきを通り越して、「看護師に対するいじめ」ではないかと思ったりしたこともあった。「ちょっと」とは、物差しでは測れないお互いの「ア・ウン」を示す言葉である。結論からいうと、お互いの信頼感が必要で、また「焦る気持ちが患者に自然に伝わって、安楽になれないのだ」と看破されている。
 「筋ジス・ワールド」という点で言えば、千頭(ちかみ)先生が養護学校で経験されたカルチャーショックを思い出す(「筋ジストロフィーの高校生、宇宙を学ぶ」岩波ジュニア新書、2003年)。
 冒頭の「筋ジストロフィーの生徒たちとの出会い」の中で、「筋ジス・ワールド」を面白おかしく紹介してくれている。先生は鹿児島市内の普通高校から加治木養護学校に赴任し、中学の理科の授業に臨んで、洗礼を受ける。B君が「先生、手を上げてください」と言うので、何言うんだろうと思いながら自分の手を上げたら、みんながくすくす笑った。「B君の右手を机の上に上げて」ということだった。次に、「スイッチを切ってください」というので電灯のスイッチを切ろうとしたら、電動車椅子のスイッチだった、というような話が続く。
 私も30年近く前に筋ジス病棟に赴任した時には、戸惑うことが多かった。挨拶でも、また面白おかしく話をしても無表情に見えて、拍手一つ起きない世界である。そのうちに、彼らは筋力がないので、拍手したくてもできないということがわかった。顔の無表情も多分に表情筋の筋力低下が関係している。「所変われば品変わる」わけで、「筋ジス村」には変わった掟がいろいろある。でもその掟がわかってくると、大学に帰れなくなっていった。
■ 南九州病院の看護を語る(5)
 当院には重症児病棟が8,9,10と3個病棟あるが、今回は10病棟に勤務している町佳保里さんの登場である。タイトルは「キラッと光る児の可能性」。....
 さて筋ジス病棟の患者は自分の要求を、「そこまで言わなくても」と思えるくらいに自己主張する人も多いが、重症児看護は「物言えぬ」患者への看護ということになる。・・・私は看護学校時代に関わってきた患者さまは、全員が自分の思っていることや感じたことを言葉にして表現することができました。患者さまの一言一言に耳を傾け苦しみや悲しみを共有し、受容していくことがいい人間関係を築く第一歩になると思っていました。
 しかし重症心身障害児の患者さまと初めて関わった時、最も難しく感じたのはコミュニケーションでした。言葉にして自分の思いを相手に伝えることが難しい患者さまがほとんどであり、そのような患者さまとどのようにコミュニケーションをとり、意思の疎通を図ればいいのか悩みました。
 一年目には少しずつではありますが、患者さまの表情や行動を読み取り、いつもと少し違う変化を感じることができるようになりました・・・。
 そして2年目に行った事例発表の内容は、人間の可能性と教育(訓練)の大切さに焦点を絞った内容だった。この5歳になる女の子は脳炎後遺症のため、発達レベルは1歳半ぐらいだった。そのため食事や排泄、更衣など全てに全介助の状態にあった。町さんの観察力がすごいと思ったのは、日々の関わりの中で気分の良いときには袖を自分で通す児の姿に着目し、「もしかしたら、自分で着替えることができるようになるのではないか」と思ったという。これは常日頃の細やかな観察力と、児に対する深い愛情からくるもので、看護の本質そのものといってよい。
 そこで、幼児期前期の「まねる」という特徴や、自分でやりたいという欲求に焦点をあて、視覚的に訴えることのできる「絵入りのカード」を作成する。
 このような長い間にわたる努力が実って、手洗いや更衣、食事も少しずつではあるができるようになった。・・・10病棟の患者さまには、これから発達の可能性のある小児の患者さまが多くいるので、少しでも成長していけるように関わりたいと私はこの病棟にきて思いました・・・。
 たまたまつけた先日のテレビでは、介助犬の訓練の様子が放送されていた。人間も動物も成長・発達の過程は同じであり、やって見せてうまくできたら誉めてあげることの繰り返しであること、そして自ら楽しく遊べないと習得化できないということだった。まさに町さんのやり方は、そのものの実践といえる。
 先日の院内巡視の時に病棟で、この子供と会うことができた。ベッド柵の中に一人で座っていたが、一見すると普通の可愛い女の子である。ところが周産期や乳幼児期のちょっとした病気で、不可逆的な重度の障害を負ってしまったのである。このような子供たちが普通の生活安心して営めるようにすることも、私たち大人のそして社会の責任と考える。
 最近、意識のない高齢者や認知症の人に対する胃ろうなどによる延命治療の是非が取りざたされている。人の「いのち」をどのように考えればいいのか、果てしなく難しい問題である。「いのち」という視点で考えると、単純に年齢による区別はあってはならないともいえるが、病態からの判断はあってもいいように思う。やはり幼い子供たちの重度の障害や若い世代の死は、せつなく不憫に感じるのは人情である。
■ 南九州病院の看護を語る(6)
・・・この事例を通して、私が一番大切にしたことは、「こどもたちはできない」と決めつけず、自分でできる部分を見守りながらできるまで待つという関わりでした。また日々の関わりの中から、患者さまの少しの可能性を見いだし、そこに着目してその可能性を引き出すことが大切な看護の一つだと感じました。そしてできないところは援助しながら関わることで、児の日々の成長をみることができ、児に合わせて計画を立てることができました。またどのスタッフが関わっても同じように看護ケアができるように、関わり方の統一やスタッフ間でのカンファレンスを重ねながら児に働きかけをしました。
 このことから、看護は一人でするものではなく全スタッフの協力が必要であり、チーム医療の大切さを改めて学ぶことができました.。また小児は家族を含めた看護が必要であり、今回靴を履くことができるようになった児は家族の面会も多くなりました。家族と過ごすと笑顔も増え、家族にとっては些細な成長が嬉しく感じるということを改めて感じたので、家族を含めた看護の必要性を実感しました・・・。
 正直にいって、私には重症児医療の経験がないので細かいところはよくわからない。ただ全ての介護を委ねることの多い重症児看護こそ看護の原点といえるのでないかと推察する。重症児病棟に行くと、黙々とただひたすらに児に向き合っている看護師の姿を目にする。そのような看護の中から、「キラッと光る看護の原点」を見いだした町さんの感性に敬意を表したい。
 最後に、緩和ケア棟の福留いずみは、「その人らしく生きるために、私たちができること」というタイトルである。
 看護学生に対する就職試験での面接の時によく経験することだが、「緩和ケア棟で働きたいです」と希望を述べる学生は多い。ただ福留さんの発表を聞きながら、重心児病棟や外科病棟での経験を生かして、そのあとで緩和ケア看護に就いた方がスムースに入り込めるのではないかと思うことだった。・・・重症心身障害児病棟で看護の基本となるものを学び、外科病棟で多くの患者・家族との出会いや別れの中で、自分の目指すものが見えてきました。外科病棟でターミナル期の患者さまを看ながら、十分にケアできないことへのジレンマを感じ悩みました。自分にできることはないかとターミナルケアやグリーフケアを学び、ケアに役立てられるように頑張ってきました。
 私はこれまでいつの時も、人との関わりを大事にし、人への感謝の気持ちを忘れず、人の心に寄り添えるようなケアを目指してきました。また多くの患者さまや家族と出会い、嬉しいことや時には辛いこともありながら、多くのことを学ばせてもらっています。それでは多くの出会いの中で、心に残る患者さまについてお話ししたいと思います・・・。
 その患者は70歳代の肺がんの肝転移の男性で、抗ガン剤治療の後、自分で決断されて緩和ケア棟に入院された。まずは信頼関係の構築が大切であると思い、毎朝「今日もよろしくお願いします」と握手するようにした。握手することで相手を大切な存在であること、そして手から伝わる温もりで伝えられるものがあると思ったからだという。福留さんの、患者としてではなく人間として大切に思うという気持ちが伝わって、「私が勤務するのを楽しみに待ってくれるようになった」。
 緩和ケア棟に来られてしばらく経ったころに、寿命がそんなに長くないことを自覚して、「奥さまのために何かしてあげたい」という相談を持ちかけられた。約半年後が金婚式ということだったが、「その時にはもう、自分はいないだろうから」とつぶやかれたので、奥さんには内緒で、緩和ケア棟で金婚式を行う企画を立てた。
■ 南九州病院の看護を語る(7)
  当日、微熱があったが、酸素カニューレと事前に予防的レスキュー(モルヒネの服薬)を使用し、車いすで参加された。息子さんの司会で、ケーキカットや花束贈呈、息子達からの両親への感謝の気持ちや記念品贈呈もあり、心温まる雰囲気で会を終えることができた。・・・ 「今日は母ちゃんがいい顔をしていたな。着物を着るとかわいかった。みんなのお陰でいい式ができた。よかった」との言葉が聞かれました。私はきつい中でよく頑張られたことを伝え、家族皆が喜ばれたこと、看護師も感動したことを伝え、本日の思い出に写真のプレゼントをしました・・・。・・・緩和ケア棟では「患者さまや家族が主役であり、緩和ケア棟のスタッフはその生き方を支援します」との理念を掲げ、スタッフみんなで患者さま・家族が望む生き方を支えられるように取り組んでいます。チームカンファレンスを大事にし、みんなで患者さま・家族のためにできることを考えています・・・。
 このあと「語る会」では、緩和ケア棟での日々をスナップ写真で紹介していく。家族と院内を散歩されている様子(背景には、錦江湾と干潟、雄大な桜島が)、家族の集合写真(みんなの笑顔が素晴らしい)、家族みんなで乾杯(緩和ケア棟では、コーヒーや酒も飲めるラウンジがある)、花嫁衣装の娘さんが、満足げに目を閉じた父親の頬にやさしくキスをしている写真、クリスマスの様子(長濱先生のサンタクロースが決まっている)。・・・しかし、緩和ケア棟での勤務は時に辛く、一生懸命に頑張っても報われないことや、時には患者さまや家族から大きく心を傷つけられることもあります。何度かバーンアウト
しそうになりました。看護師は心をつかう仕事であり、自分自身のケアも大切です。辛いときには、誰かに聞いてもらうことにしています。緩和ケア棟のスタッフは担当患者さまが亡くなると「お疲れさまでした」と声をかけてくれます。辛いときには気にかけてくれ、声をかけてくれます。その一言でどれだけ救われたかわかりません。
 まだまだ未熟ですが、自分自身が患者さまや家族に影響を与えるということを忘れず、自分を高められるように日々学んでいきたいと思います。そして患者さまや家族から多くの元気を与えてもらっていること、スタッフの支えがあるから頑張れていることを忘れず、感謝の気持ちを大事にして、その気持ちを伝えていけるようにしたいです・・・。
 当院の緩和ケア棟のモットーは「あたたかく さりげなく あなたとともに」である。まだ発足して10年にも満たない病棟であるが、福留さんの発表を聞きながら、「いい伝統」が芽生え、そして後輩に着実に受け継がれていると意を強くすることができた。
 緩和ケア看護はチーム医療の最たるものだと理解するが、担当の患者が亡くなったときに「お疲れさまでした」という声かけをしていることは初めて知った。私も主治医として多くの患者を見送ってきたが、その度に肉体的にも精神的にも大いに消耗するものである。緩和ケア棟のように、ほぼ毎日患者を見送らざるをえない病棟では、どのようにして精神のバランスを保っているのだろうかと気になっていた。スタッフ間での心の支えと患者や家族からの「感謝の気持ち」が、次なるエネルギーの源ということになりそうである。
 この「語る会」の最後には、出席していた学生からの感想ももらったが、「このような機会に参加させていただいて良かった、感動した」という声が聞かれた。看護学校の山下先生からのメールでも、「この感動があるから、やっぱり看護という仕事が好きなのでしょうね」と書かれていたが、全く同感である。
  この「語る会」の後、発表された3人の看護師のかねての仕事ぶりについても尋ねてみたら、「その通りです」ということを聞いてホッとした。政治の世界に触れるまでもなく、言行不一致があまりにも多いからである。
 「南九州病院の思いやりの看護」に、また万歳である。

院長雑感

交通アクセス

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