院長雑感詳細

院長雑感(135号)

  9月も後半になって、やっと秋らしい風が吹き始めている。病院の外来の生花には燃えるような赤の彼岸花が飾られているが、この花は別名「曼珠沙華」と呼ばれているように文字通り名は体を表している。
 それにしても今年の夏は暑かった。前半は、オリンピックで「熱く」なり、後半は領土問題で「暑く」なってしまった。双方ともナショナリズムが根底にある問題で、特に後者はコントロールの難しいやっかいな問題である。
 この暑い夏で嬉しかったのは、B型通園グループ(障害児・者のデイケア)からスイカを半分いただいたことである。ほどよく色づいていたが「どうせ・・・」と思って口にしたのである。ところが・・・これが予想を見事に裏切って(失礼だよな!)、とても美味しかった。旧筋ジス病棟との間の中庭で育てたものと思われるが、この美味しさは通園者やスタッフの心がいっぱいこもっていたからに他ならない。
 世の中、思い通りにはいかないもので、ここ数年、7月から9月は患者数がうなぎのぼりで「稼ぎ時」だったのだが、今年はどういうわけか「想定外」に終わった。みんな「有終の美を飾らせたい」との思いで頑張ってくれており、そのうちに盛り返してくれるものと信じている。
■ 患者数
 8月の入院患者数は372.4人で、計画に対し20.8人の減となった。平均在院日数は、調整前で15.3日と全く問題はない。外来は146.8人と、計画比で2.3人の減となった。
■ 診療報酬点数
 8月の診療報酬点数は、計画比で入院では36,941点の増、外来は250,200点の増で、対計画では入院・外来合わせ287,141点の増となった。累計では5,733,238点の増となっている。患者数が大幅に減少したにもかかわらず点数がさほど影響を受けなかったのは、平均在院日数が短くなり、一日ひとりあたりの点数が増えたことによる。
 経常収支率では8月も調整後で110.5%と高い数値であり、累計でも109.9%である。
■ うちの病院
 ・・・経営不振が続くある会社で、こんな話を聞いたことがある。頑張れば会社が立ち直るのか、それともこのまま落ちていくのか。振り返れば、社員が会社を「うち」と呼ばなくなり、「この会社」と言い始めたときが、転落の始まりだったのではないか・・・(日経、春秋、2012年6月15日)
 これを病院に当てはめれば、病院の職員が「うちの病院」から「この病院」という言い方になったら、「危ないと思え」ということになる。ちょっとした言葉の言い回しに過ぎないが、案外的を射た指摘かも知れないと思った。
 ところで日本の総理大臣が「わが国」という言い方から、「この国」と言うようになったのはいつ頃からだろうか。
 野田総理大臣もテレビ番組で「消費税率の引き上げを含む社会保障と税の一体改革について『この国を守るために、政治生命をかけてやりぬく』」とよく口にする。野田総理に限らず歴代の総理が「この国」という表現を、流行りのように頻繁に使うようになったのはいつ頃だろうか。
 察するに司馬遼太郎の連作で評判になった「この国のかたち」(全6冊、1990~1996文藝春秋)になぞらえて使っていると思われるから、1990年以降だろう。特に民主党政権になってから顕著のように感じられる。ただ司馬が「この国のかたち」という題名を決めたのは、「あとがき」から類推すると、1990年1月に、熊本城を望むホテルでのことである。彼は23歳で終戦を迎えるが、そのとき「終戦の放送を聞いたあと、なんとおろか
な国にうまれたことかと思った」と書いている。そして20余年が経ち、「23歳の自分への手紙を書送るようにして書いた」ということだから、ある面では「この国」に対して思い入れは省いて突き放すように書いたのではないだろうか。
 さて「うち」と「この」の違いは、その組織に対する帰属意識の差に起因するものだろう。
 「この」という言い方は、物事を客観的に見ている言い方であり、対象からちょっと距離を置いて突き放したような感じにも受け取れる。冒頭の項に当てはめれば、「会社がどうなったって私には関係のないことです」と言うような意味が言外に込められている。これを敷衍すれば、一国の総理が「この国がどうなってもわしゃ知らないよ」ということになり、はなはだ由々しき事態ともいえる。
 ただ今回の消費税をめぐる政治家の去就を目にするとき、「私たちの政治家」という気持ちにはとうていなれずに、「この国の政治家」という突き放した表現がピッタシのように感じられる。
 先に当院の医長以上のスタッフのヒアリングを行った。院長になってから毎年この時期に行ってきたことで、あらかじめお願いしていた項目(病院の将来や魅力ある職場づくりへの提言、改善点、自分はこのような仕事をしてみたいという要望)にそって話を進めることにしている。
 今年もそうだたが、ほとんどのスタッフが南九州病院の将来に対して夢を語り、真剣に考えてくれており、そのなかで自らの職責を果たしたいという強い思いが感じられた。院長としてこれほどうれしいことはなく、「いいスタッフに恵まれた」ことを実感し、感謝している。「この病院は」という言いぶりで、冷ややかに眺めている先生は一人もいなかった。
■ ノーマライゼーション
 「ノーマライゼーション」という月刊誌がある。サブタイトルに「障害者の福祉」という言葉が添えられているように、障害者福祉に係わる施策を特集したり、障害に関する広範囲な話題を連載している。
 昨年だったか、編集を担当されている薄マキ子さんから頼まれて、1000字提言のコーナーを3回担当したことがあった。今回(2012年7月号)、「障害者支援の課題と展望」という特集で、下記のようなタイトルで投稿を依頼された。たまたまこの号では、「列島縦断ネットワーキング」という連載のコーナーで、鹿児島県難病・相談支援センターも取り上げられている(原田副所長がよくまとめてくれている)。驚いたのは編集後記で、薄
さんが私のことを簡単に触れてくれていた。
 全文を掲載すると長くなるので、「はじめに(難病に対する考え方の変化)」の部分のみ掲載したい。
 はじめに~難病に対する考え方の変化~
 21世紀になり超高齢社会が進行していく中で、難病に対する考え方も次第に変化してきている。
 日本の難病対策は昭和47年の「難病対策要綱」に始まるが、くしくも私はこの年に医学部を卒業した。振り返ってみれば医師になって40年近く、(神経)難病医療と向き合うこととなった。「なぜそんなに長く」と問われても一言では言い尽くせないが、患者や家族との「共感」が一番大きかったのではないだろうか。
 当時は難病というと原因や治療法もわからず、健常者とは全く異質の「とんでもない病気」というイメージが強かった。ところが高齢者が激増し、何らかの病気を抱えながら生活している人が増えてきたことや、病気の原因が次第に分かってくる(遺伝子工学の進歩で、人間はちょっとした遺伝子の気まぐれで、重大な病気になることもある)と、病気と健康は連続したもので明確に線引きできないこともわかった。今日は健康と思っていても、
ある日突然、難病の仲間入りをしないとも限らないのである。
 また一方では、介護保険制度など地域での医療や福祉サービスの整備により、療養形態も一変されようとしている。長期入院の困難さや在宅医療技術の進歩、またQOLの向上を求める声とも相まって、施設入院から在宅療養へと、希望と不安をいだきながら踏み出す患者が多くなっている。
 在宅での人工呼吸管理も一般的となり、呼吸器を付けた後でも生き甲斐を持って暮らしていける物心両面の体制整備が問われている。今年(2012)4月、ALS(筋萎縮側策索硬化症)を患う男性2人が、和歌山市に24時間体制の介護サービスを求めた訴訟で、地裁は現行の一日約12時間から21時間以上への拡大を義務付ける判決を下している。
 国の難病対策も前項(厚労省疾病対策課)のように多岐にわたっており、私も委員として参加している厚生科学審議会難病対策委員会でもさまざまな支援が検討されている。
 ここでは医療体制の整備と医療費助成、レスパイト入院、難病相談・支援センター、医療・保健・福祉の統合、尊厳死問題について触れてみた。
■ オリーブでの楽しい語らい
  「敏秀つながり」の岡本さんとは、かれこれ20年を超える付き合いになる。新燃岳にも何度も登ったし、また故上野晶子さんのことでも大変お世話になった。昨年、筑波技術大学を定年退職されたので、私より2歳ほど年上になるのだろうか。
 先日、厚労省での会議のために、前日の海の日(祝日)に出発することになっていた。午前10時からの会議では、鹿児島だとどうしても前泊となる。そこで「夕食でも一緒に・・・」とメールしたら、いつも付き合いのいい岡本さんのこと、「敏秀つながりの面々にも、声をかけてみましょうか」ということ。そこで都合のついた戸島さん、小澤さん(日立の技術者で、あの「心語り」の制作者)、そしてノーマライゼーションの編集者である
薄(すすき)さんも都合をつけてくれた。戸島さんはパソコンが世に出た頃、IT関係の情報誌だったアスキーの編集者をされており、敏秀がアスキーに「入力方法」について投稿したことが縁で横浜リハセンターの畠山さんとの間を取り持ってくれた女性である。いわば、「敏秀つながり」の生みの親でもある。
 場所は岡本さんが長年懇意にされている麻布十番近くのオリーブである。この日は、定休日だったが、オーナーの小野さんの特別の計らいで、私たちのために開けてくれたのである。
 私は15時20分発のソラシド・エアで出発したが、羽田空港のボーディングブリッジには定刻から15分遅れの17時15分に着いた。13日の福寿司での出版記念会の時には飛行機の出発が遅れて気をもんだが、今回は定刻に近い出発だったのに結果的には遅延してしまった。機長は操縦室から「久しぶりの晴天となっております。左に見えますのは・・・」など丁寧な、それでいてくどい説明をしてくれたが、肝腎の到着が遅れることには触れなかった。遅れるということを言いたくなかったのかと、勘ぐってしまう。
 早速モノレールで浜松町に、そこで都営大江戸線に乗り換えると麻布十番は2駅目である。大江戸線はどこもそうだが、乗降口は地下5,6階にあるので、地上までの時間が大変に長い。両脇にお土産の薩摩揚げを抱えて、歩いて10分ほどでオリーブに着いた。すでにみんなそろって、待ってくれていた。
 私は薄さんとは顔を会わすのは初めてだったが、出席者は「敏秀つながり」や、「障害者福祉」という点で共通項をたくさん持っているので、すぐに十年来の知己のような打ち解けた語らいとなった。びっくりしたのは、この夏に薄さんが企画している障害者のキャンプに、たまたま戸島さんがボランティアとして応募していたこともわかった。ある意味では、狭い世界ともいえる。
 話題は、まずは近況報告で、この年になると健康や年金のことから始まる。岡本さんは相変わらずお元気のようで、趣味の自転車旅行を続けているようである。来年は沖縄を走破したいという夢を語っていた。
 ただ何といっても最大の関心は、また新燃岳に登れるだろうかということである。平成10年に敏秀の遺言による遺灰を巻いた場所は、火口の縁から20メートルほどのミヤマキリシマに囲まれた窪地だったから、今や火山石や灰に覆われているだろう。
 嬉しいニュースとしては平成24年6月26日から、立ち入り規制区域が新燃岳火口3キロ以内から2キロ以内に縮小された。そのため7月15日午前9時以降に入山規制が一部解除され、韓国岳・大浪池・高千穂峰(高千穂川原~高千穂峰山頂)の登山が可能となったことである。ただ自然の予測はつかないわけで、観光業に配慮した決断とならなければいいのだが。でも都合がよければ、来年は(新燃岳は無理としても)韓国岳か高千穂峰に登れたらと思っている。
■ 「患者さまの声シート」から
 院内全ての病棟や外来等に、「患者さまの声シート」という小さな箱が設置されている。いうまでもなく患者さんの生の声をできるだけ率直に拾い上げ、改善に役立てたいという思いからである。
 最近の「声」の中から、いくつか紹介したい。
 「×月××日、午前9時頃、父の検査のために来院しました。間違って女性用の車椅子に座らせたので、男性用の車椅子に乗せ換えようとしましたが、一人では手間どっていました。案内係のような看護師さんがドアのところに立っていましたが、見ておられるだけで、手を貸してくださることもありませんでした。
 尋ねた時に答えたり、案内するだけの仕事でしょうか。困っている様子がわかっていたら、手を貸して欲しいと思います。残念でした。」
 患者さんのご指摘はもっともである。看護部長にいきさつをたずねたところ、当日の外来案内係はかねては気配りのよくできる看護師だったという。きっと気づかなかったのか、あるいは機を逸してしまったのではないだろうか、ということだった。
 病院を受診される人は何らかの症状や病気を持って来られるわけだから、一人残らず不安な気持ちで病院のドアをくぐるだろう。そんなときに親切な声をかけてもらったり、何気なく手伝ってもらうと、いつもより百倍もうれしく思うのが人情である。
 私たちは廊下や待合室などで、そのような不安げな表情や戸惑いを見せているような人に出会ったら、率先して「声かけをする習慣」をつけよう。
 次はうれしい「声」である。 
 「××看護師さんはすごくやさしくて、頭が下がります。× 病棟の看護師さんは、みんなやさしく、素晴らしいです」というものである。
 当該病棟の師長さんからは、謙虚?にも「院長が、左手で書いて、箱に入れてくれたのではないですか」と、どういうわけか疑惑の言葉である。私の字はたとえ右手で書いても美しくないのだけどなあ。案の定シートには、きれいな字で70歳女性という書き込みがある。おそらく長期に入院されている方だろうが、よっぽどうれしかったのだろう。
 最後は栄養室への「声」である。
 「×月×日、昼食の肉料理が硬く、全く食べあられませんでした。もう少し工夫できないものかと思い、書かせてもらいました」というもの。
 早速栄養室から次のような返事が示された。
 「ご意見ありがとうございました。×月×日の肉料理は豚ロース厚切り肉を漬け込み、オーブンで焼いた料理でした。肉料理の場合、筋切りを行い加熱温度や時間等もマニュアル化しております。今回は筋切りが不十分であったか、調理過程で加熱が過度であった可能性が考えられます。
 食事は患者様の楽しみの一つですから、メニューや調理法について今後も改善を続けていきたいと思います。・・・」
 私も毎日検食しており、同じ肉を食べたような記憶がある。健康な私の食感では普通の硬さでも、高齢の患者さんには硬く感じられたのだろうと思うことである。
 ここでも、「相手の気持ちになって」調理することの大切さを知る。
■ つながるご縁(後) 
 このランで、「つながるご縁(前、後)」を書いた後の「事後報告」である。いろいろ錯綜するので読みづらいかとも思うのだが。
 よくよく考えてみれば、これらのご縁の始まりは、犬尾博治先生(諫早市で開業)が日本医事新報に掲載されていた「フランス見たまま聞いたまま(寺尾尚著)」を読まれたことに始まる(昭和62年)。
  先日、朔元則先生(元九州医療センター院長)から、「歳古りし外科医の独り言」という本を送っていただいた。その中に「犬尾修三君を友に得た喜び」という追悼記があり、68歳で胃癌で亡くなられた友だちについて書かれていたが、その修三先生のお兄さんが、博治先生であることがわかった。博治先生は20数年ほど前に、私に「フランス見たまま聞いたまま(寺尾尚著)」を送ってくれた先生である。先生は私が平成4年に医事新報にALS患者さんのことを書いた随筆を読まれて、ALSつながり(寺尾先生がALSで闘病)で、
私に寺尾先生の著書を送ってくださったのである。
 そこで私はさっそく、犬尾先生に上記のような「朔先生つながり」に触れて、拙著「病と老いの物語」を同封した。すると犬尾先生から「雨や花にそれなりの感慨を催す年(注:78歳かな)になりました。後期高齢とはよくいったものだと思っております。・・・拙著を一人で読んでおりまして、感情失禁のせいだけではなく、涙一杯でございました。お手伝いさんい見られました。・・・よろしければ拙著を一冊、亡弟修三と同僚の内科医、池田寿雄先生に贈って下されば有り難いです。感性のある方と思っております」と、大阪
の住所が書き込まれていた。
 犬尾先生とはその後は一度も「つながり」はなかったが、こんな形で「あ・うん」の呼吸というか、すぐにつながってしまえるところがうれしい。
 しばらくして、和泉市で開業されておられる池田先生から、お手紙と自署「空想の旅」が届いた。お手紙には「・・・故犬尾修三先生は、私が九州大学医学部在学中に、同級生だったので親しく交際させていただいていましたが、惜しくも68歳で胃がんのためにあの世に旅立って行かれました。彼の死後約一年が経過したとき、私が彼を偲ぶエッセイを九州大学医学部の同窓会誌『学士鍋』に投稿しましたところ、彼に兄さんの博治先生からお手紙を頂きました。まさに『つながる縁』を感じております」とある。ここで犬尾博治
先生と池田先生のつながりもはっきりした。
 池田先生は九大二内科のご出身で、あの有名な久山町研究に従事されていた。その後、1973年に和泉市で開業されているが、日本医科芸術クラブ会員(文芸部、書道部、写真部)で、多芸多趣味の先生のようである。
 同封されていた「空想の旅」(悠飛社)は、池田先生が今は亡き歴史上の有名人や身近な人と時空を超えての架空対談集である。取り上げられた故人はモーツアルト、ゴッホ、良寛、宮沢賢治、イエス・キリスト、シューベルト、葛飾北斎、パスカル、本田宗一郎、千利休、湯木貞一などという顔ぶれで、池田先生の多彩な教養のほどがよくわかるというものである。対談の内容も高尚で、上質で奇想天外のトーク集となっている。
 また「フランス見たまま、聞いたまま」のことは、入江芙美先生(九州厚生局医事課長)とも話題にした。彼女は厚労省に入省後、2007年から2009年までフランス国立行政学院に留学されていたことを知っていたからである。そしてその時の体験を「公衆衛生情報」という月刊誌に連載されている。彼女からのメールでは、「寺尾先生の本は我が家では父、母にわたっております。父や母がヨーロッパを訪れたのは寺尾先生より十年ほど前のことかと思いますが、やはり共感できる部分も多いようです」とある。入江先生のご両親は有
名な化学者であるが、フランスに留学されていたことは初めて知った。
 一方、朔先生からは丁寧なお手紙とともに、「リーダーシップについて考える」という「ほすぴたる」(2012年6月号)に寄稿された随筆も同封されていた。この随筆の書き出しが「大概(テゲ)」で、原発事故の国会事故調査委員会の報告を読んで、当時の菅首相に宰相の器量がなかった(テゲがなかった)ことに触れておられる。
 最近、大学から医学部5年生が隔週ごとにポリクリとして研修に来ている。私はそれらの学生に拙著を進呈しているが、さほど興味を示しているようには思われない。「看護とは文学である」と書いたことがあるが、医学も同様な側面がある。一冊の本から、このように多くの物語(つながり)が展開していくわけで、大仰にいえば「生きている甲斐」もあるというものである。
■ 谷口巳三郎さんの死去
  日経の九州版に「タイ農業にささげた30年~熊本から亘った谷口さんが死去~」という新聞記事を見つけた。昨年末に88歳で亡くなったということだから、私が萬田先生宅でお会いしてから約3年が経つことになる。
 記事によると、タイから突然の訃報が届いたのは昨年12月末。「その数日前に電話で笑いあったのが最後。もうちょっと頑張って欲しかった」と(妻の)恭子さん、とある。
  たまたま翌日の日経「大機小機」では「シニアよ大志を抱け」というタイトルで、シニア世代が何らかの社会貢献をしたいと思いながら、現実にはきっかけがつかめないでいるジレンマを紹介している。谷口さんは30年も前に、60歳を目前にして単身でタイのバンコク空港に降り立ったというから、その勇気に驚嘆する。
 幸いにも私自身はまだ現役の延長でシニア世代という実感はないが、外来には退職後身を持て余している団塊の世代の患者さんの話を聞く機会も増えた。その能力を、高齢化が急速に進む街で活かす道はないものだろうか。

       死ぬとき最も輝きたい(南日本新聞、、こころ散歩道から)
 世俗的に目立つことなく、高い志の仕事をしている人がいるものである。こんなにも情熱的に人生を語ることのできる人に、久しぶりに出会った。今、86歳とのことだが、そんな高齢には見えない。「耳も、目もまだ大丈夫」と豪語される風格からは、あのインドのガンジーをも彷彿させる精悍さと気迫がみなぎっている。
 A先生の在宅医療に同行して溝辺町のMさん宅を訪問したとき、見知らぬ方が座っておられた。紹介されたのが谷口巳三郎先生。1983年、59歳のとき、退職金(前年に熊本県立農業大学校を定年退官)と農業の専門書など20キロの荷物を持って、タイのバンコク空港に降り立ったという。目的は発展途上国の農業技術指導と、農村青少年の教育に余生を捧げたいとの思いからである。
 以降二十数年間、協力する公的組織もなく力の限りを捧げ、「21世紀農場」を創設しタイ国立大学などから名誉博士号なども授与されている。先生がいかに地域に溶け込まれているかは、近隣の農家の人たちから「アチャン(先生というタイ語の敬称)、身体をもっと大事にして私たちを心身ともに支えて下さい。長生きして下さい」というメッセージにもよく表れている。
 「日本という島国は、世界一住み心地のいい国です。そのため日本全体がフニャフニャになり隙間だらけで、生きるための厳しさに欠けたところがあります。若者は遊ぶことに熱心で、汗を流して働こうとしません。熱帯は自然条件が厳しいので、植物も動物も生易しいものは一つもありません」。そして「自ら何かしようと思って飛び込んできたのだから、いつまでも日本に居た頃を懐かしがり、ここに馴染むことを拒否しては何も生まれない。厳しい自然と貧困にあえぐ社会をそのままとらえてみれば、自ずからの生活にゆとり
が生じ、幸せ感も持てるようになります。日本もタイも他の世界の国々も、小さな地球の上にあるのですから」と語る。「先生はなぜこれほどまでに、個人で他国の援助をされようと思われたのですか」という問いかけには、「そこに困っている人がいれば、そこに苦しんでいる人がいれば、そこに助けを求める人がいれば、我々は助けなければならないというだけです」と素っ気ない。
 先生の決意の底には、学徒動員で特攻隊に選ばれながら自分だけが出撃の機会がなく、終戦を迎えたことなどの痛ましい戦争体験があるようである。
 「余生という言葉が嫌いです。死ぬときには青春の真っ直中で死にたい。死ぬときが最も輝いているというのが理想です」と言われた言葉には、力がこもっていた。
 日本の途上国援助は今回の西松建設事件でも明らかなように、橋やダム、道路などの大型土木工事に偏っている。谷口さんなどの地域に密着した本当の国際協力が、もっと評価されていいのではないだろうか。
■ リトル・チャロ
  私の日課一つに、朝のテレビ体操があることは何度も書いたりしゃべってきた。時間はEテレの6時25分からの10分間であるが、数週間前のこと、たまたま5分早く、6時20分にテレビをつけたら「リトル・チャロ」という5分間英語アニメをやっていた。ストーリーに引きこまれて、最近では体操の前の5分間、適当に体を動かしながら、この番組をみていることが多い(どうも再放送らしく、月曜から木曜日の放送)。私は一度テレビで観てしまうと引き込まれて次をみたくなる癖がある。韓国映画の「トンイ」もそうだったので、トンイの後に始まった「王様の女」は最初から観ないようにしている。
 さてこのリトルチャロ2であるが、リトルチャロ1話の要約をすると次のようなものである。
 チャロはもともと捨て犬だったが、心優しい少年・翔太に拾われ、育てられた。しかしアメリカ旅行からの帰国の際、何かの手違いによってチャロの入ったケージは飛行機には乗らず、チャロはニューヨークのJFK空港で迷子になってしまう。チャロは何とか日本に帰る方法を探し、翔太との再会を願いながらニューヨークの犬たちとの友情やさまざまな経験をし、ハラハラドキドキの波乱万丈の物語が一話ずつ続いていく。結果的には、ハピーエンドとなり、無事日本に帰ることができた。
 第2話は、日本で再び翔太と暮らすが、ある日、誤って土手に転落する。ところがチャロをかばって翔太が、意識不明の大怪我を負ってしまう。生死をさまよう翔太を助けるべく、彼の魂が連れて行かれた生と死の間にある「間(あい)の国」ミドルワールドへと旅立つこととなった。そこは未練をもつ魂たちが集う世界で、「迷いの国」そして「死の国」
へと続くミドルワールドである。
 でも「間(あい)の国」とは、素晴らしい想像力である。
 まだ物語は進んでいないが、先日は「なるほど」と思ってしまった。
 チャロが翔太を探して「間の国」を歩き回っていると、木からセミのなく大きな声が聞こえてくる。「なんで、そんなに大きな声で鳴いているの?」と尋ねると、そのセミは振り返って言う。「私たちセミは、あの国では幼虫の間は6年間も地下で暮らすんです。そして地上に出てきて、2週間ほどしたら死んでしまいました。私が生まれた年はあいにくの長雨が続いた年で、一日として晴天の空に向かって鳴くことのできた日はありませんでした。そんなわけで、この「間の国」で、大きな鳴き声で鳴いているんですよ」ということだった。
 ただこのストーリーも、セミの世界からすると誤解に基づくことになる。
 セミの一生を調べてみたら、その理由がよくわかる。セミの幼虫は土の中では樹木の根から樹液を吸って生きており、活発な活動をしている。というのは、地中と外の世界とでは地中の方が天敵が少なく安全なので、当然セミは安全な地中を生活場所として選択した。ただ人は地上に出てからをセミの一生と考えただけで、セミの世界では「最後の2週間」ということになる。
 7月26日の放送では、このセミが「もう思う存分鳴くことができたので、そろそろ死の国に旅立とうと思っている。生まれし者は一度は死ぬのですから」という言葉とともに飛び立ったことを紹介していた。
 おそらくチェロが「間の国」から翔太を引き戻すことで、この2話は終わるのだろうが、まだまだ先のことのようである。
■ クラウドコンピューター
 最近耳によくする言葉に、「クラウドコンピューティング」とか、「クラウドサービス」というものがある。なんとなく意味するところはわかったような気になっていたが、日経新聞の経営の視点の「スマホ対応、機敏さで明暗」を読んで、なるほどと納得することだった。
 編集委員の関口さんという人のコラムであるが、スペインのバロセロナでの携帯電話見本市で、日本の電機メーカーとサクソン電子や中国企業との間に、最先端技術では「大きな差」を感じたというのである。なんということだろうか、日本の高度経済成長の時代に世界をリードしていた世代としては、にわかに信じられないことだが現実はそうらしいのである。
 この差がいつ頃から生まれたのかといえば、この10年の間の出来事らしい。パナソニックやNECは10年前には、世界の第三世代携帯電話をリードしていた。そのために日本勢は国内市場に傾斜し、中途半端な市場規模の日本でどうにかやっていけるということもあって、さまざまな付加価値をつけることに力を注いだという。
 ところが世界では、全く発想を異にする「クラウドコンピューティング」が登場したのである。情報をデータセンターに預け、インターネットを介して利用する端末としてのスマホが普及する。情報を手元に置くパソコン時代と異なり、DRAMのメモリーも以前ほど重要でなくなってしまった。
 この技術の転換点で、スマホへと機敏に反応できたのは台湾やサムスン電子である。従来の技術にこだわったのは日本勢だけでなく、マイクロソフトやインテル、フィンランドのノキアも例外ではなかったらしい。日進月歩の技術革新の時代には、ともすれば過去の成功神話が邪魔するという好例ともいえよう。
 ところでクラウドとは日本語の「雲」のことだが、インターネット上の“どこか”にあるハードウェアリソース、ソフトウェアリソース、データリソースをユーザーがその所在や内部構造を意識することなく利用できる環境、ないしその利用スタイルを「クラウドコンピューティング」というのだそうだ。
 例えば当院では昨年、高い金を払ってNECの電子カルテシステムを導入し、保有している。もし九州ブロック事務所にメインのコンピューターをおいて、ブロック内の病院とネットワークを結んだら、初期投資は格段に少なくてすむ。セキュリティ等が確保できれば、今後の電子カルテもこの「クラウド」を利用する時代が案外早く来るのではないだろうか。
 それにしても、日本の企業がこのように世界の後塵を拝するようになったのは、日本的システムの欠陥や制度疲労に依るものかいくつかの理由があるものと思われる。「日本の再生」に向けて真剣な議論が必要なときである。
■ 厚労省医系技官の当院での研修
 先月のある日、国立機構本部医療課の国光課長から電話をもらった。
 「先生の病院でこの夏休み期間に、研修を希望している女性の医系技官がいるのですが、お願いできますか」というものだった。いつもの「頼まれたことは断らない」方針で、「いいですよ」と軽く返事した。ただよくよく考えてみると、神経内科を研修するというものなら、京都の宇多野病院や大阪の刀根山病院の方がスタッフも揃っているし、近いし、いいのではないかと考えて、もう一度国光課長に相談した。すると、「もともと出身が鹿児島で、神経学の研修だけではなくて、先生の病院でやっていることの全般的な研修をお願いしたいということです」ということだった。
 「それならまあ、いいか」と思っていたら、しばらくして当人のMさんから、次のようなメールを貰った。「貴病院では、難病や重症心身障害者への医療を含め、地域に根ざした取り組みを積極的に進めていらっしゃるとお聞きしており、今回、様々な制度の中で、医療と地域での療養との連携を具体的に見ることができれば嬉しく思います。その他、分野としては発達障害児の療育、感染症の医療などにも関心があります」というものである。
 略歴として平成16年に九州大学を卒業し、九州大学病院にて初期研修、平成18年に厚生労働省入省、現在は厚生科学課で仕事をされている。
 また奇遇というか、私の娘と付属小から鶴丸高校まで一緒だという。家内もよく覚えていて「Mさんは賢い子どもで、みんなの憧れの的だったのよ」ということ。
 私も「乗りかかった船」で、5日間の研修プログラムを立ててみた。神経難病、小児神経、重症児病棟、筋ジス病棟、結核病棟、緩和ケア棟、そして在宅医療、訪問看護ステーション等である。担当の方々、陪席や一緒に患者さんを診る等、よろしくお願いいたします。また医局に机も用意したいと思いますので、医局の先生方もよろしく。

【M先生、研修プログラム(予定)】
                    午前                午後
8月6日(月)オリエンテーション等(概況説明、福永)  重心病棟の療育(指導室担当)

    7日(火)小児神経外来(佐野先生)       訪問医療(一色さん、内田先生)
                      西澤教授講演(城山観光ホテル)                       
    8日(水) 結核(富山先生)、神経外来(福永) 訪問看護ステーション(上園さん)
              (母子入院病棟回診)
    9日(木) 緩和ケア棟(鳥越師長)        回診(神経内科&筋ジス)

    10(金) 地域医療連携室          訪問医療(北吉さん、園田先生)
              小規模多機能施設訪問
    11(土) 13時:ハートフル大学(西本願寺)田畑先生(希望なら)
■ 都道府県幸福度ランキング
 黒岩尚文さんは私の古くからの友人であるが、小規模多機能施設「よかあんべ」を運営しており、またこの方面での全国的なリーダーとしても大活躍されている。まだ50歳前後とかと思われるが、10数年前に在宅介護支援センター「さざんか園」で働いているときには、私の患者の故阿多さんなども大変お世話になった人である。
 その黒岩さんから毎朝、メール(ブログ)を送ってもらっているが、先日は「皆さんは都道府県幸福度ランキングってご存知ですか?」という書き出しのメールを送ってもらった。
 これは「法政大学の坂本先生の率いる幸福度研究会というメンバーで調査をされ、ランキングそれているもので、出生率や持ち家率、就業率、離職率、生活保護率、刑法犯認知数、出火件数、貯蓄率、等々40の指標から分析されランキングされている。ちなみに全国ベスト3は福井・石川・富山の文字通り北陸3県で、我々の鹿児島は35位だ」という。
 このランキングでは東京や大阪、福岡という都市部は軒並み順位は下位で、大阪に至っては最下位となっている。
 ただ幸福度と住みやすさとは、必ずしもパラレルの関係にないのかもしれないと思った。私の親友の栗山先生は福井大学医学部の教授だったが、定年を待たずに昨年退職し、現在福山市にある大田記念病院の院長に転任した。病院のホームページの院長挨拶では「生まれは九州福岡ですが、大学時代からは鹿児島で、30年近く過ごしました。その後福井で16年間生活しました。鹿児島では灰に悩まされ、福井では雪に悩まされましたが、気候温暖な福山、ことに歴史マニアの私は鞆の浦にひかれて赴任して参りました。早く、病院にも土地にも慣れて、充実した生活を楽しみたいと思っております」と書いている。
 九州生まれでは、冬の雪国での暮らし方は大変だと想像できる。私もアメリカで3年間、雪国での生活を体験したが、楽しい留学生活だったが苦労もあった。なにしろ冬の数ヶ月は平均でマイナス20度前後の日が続くのだから。ただ人間には順応力があり、それなりの愉しみ方もできるものである。それでも雪国に10年以上ともなると、暖かいところに替わりたくなるかもしれない。
 鹿児島は年中暖かく、最近は台風の直撃を受けることも少なくなったが、桜島の降灰には悩まされる。住みやすい土地柄だとは思うのだが、ランキングの幸福度では35位と下位にランクされている。
 先日、朝日新聞の「リーダーたちの群像」(2012年7月29日)で、「陰るエリート政治」というタイトルで、エリート主義と成果主義の行き着くところを描き出している。
 シンガポールは面積では東京23九ほどの大きさであるが、一人あたりのGDPはアジア首位である。これはリー・クアンユー元首相とその子どものリー・シェロン首相が、「余分なことに費やしエネルギーはない」と国民を叱咤し、成長路線をひた走ったからである。
 ところが最近異変が起こり、年間1200人が国籍を捨てているという。国民の人口規模で40倍の日本で、国籍を離れる人が年間800人程度だということを考えると、いかに多いかがわかるというものである。
 国家としての成功と国民個々人の幸福との間には、ずれがあるという現実を指摘している。人は複雑な生物である。
■ 名は体を表す
 「名は体を表す」とよく言われる。その意味するところは、「名はその物や人の性質や実体をよく表すものだ」ということである。
 先日、国立病院機構の役員会の後で暑気払いがあった。その時の挨拶で、桐野理事長は「平成26年4月からの新法人化への移行を考えたとき、残された時間はさほど多くはありません。なかでも新法人の名称をどうするかは琴瑟の大きな問題です」と切り出された。
 そして国からの規制の強かった独立行政法人から新法人に移行することで、何でも自由になるというような考えが一部にあるようだが、新法人になるからといって、そんなわけにはいかないと、釘も刺された。
 さて新法人の名称だが、最大の決断は「国立」という冠を残すかどうかということである。
 先の矢崎理事長は「国立」という名前を残すと、国民はいつまでも「税金によって運営されている病院」というイメージが残ってしまうので、国立という名前は残すべきでないという考えだった。確かに現在の独立行政法人国立病院機構は運営交付金という名の税金はいわゆる診療部門には一円も投入されていない。にも拘らず、多く国民は、そして医療関係者も、国立病院は国の税金で運営されているという昔のイメージで考えている人が多い。そこで新法人への移行時に、そのような誤解を払拭するためには「国立を取ったほうがいい」という考え方もできる。ただ今後の病院運営を考えたとき、事は簡単ではないよ
うな気がする。
 矢崎理事長は東京の生まれで、私立麻布高校から東大という学歴である。東京のような都市部と地方では、この「国立」という言葉の持つ意味合いが大きく違ってくるように思える。
 地方ではまだお上意識が強く、国立という名称だけで信頼を勝ち得ている部分もある。例えば看護師の採用の時でも、面接の時に「親から、国立だから安心できるので受験しなさいと言われました」という受験生も多い。たまたま昨日、重症児病棟にボランティアに来られた民生委員の方々が外来の待合室で懇談していた。この話をすると、「国立病院と聞いただけで、いい先生がいて、病気も治りそうな気がするよね」と話されていた。
 ところが東京などの都市部になると、いわゆる私立の大病院で質的にも高い病院が多いので、国立というネームバリューはほとんどないものと推察される。
 冠の「国立」という名前にこだわることなく、一種の「甘え」ともいえる「国立」を取り去って荒波に漕ぎでるべきだと強調する人もいる。ただ、今後のより一層厳しくなる医療界の経営を考えるとき、何ら投資することなくいくばくかのメリットがあるとするなら、「国立」という名前を安易に破棄することもないのではないだろうか。
 みなさんはどのように考えますか?
(それでも、理事長に求められた名称は、私は結局「日本病院法人」ということにして提出した)。
■ 過失がはっきりしないとき
 ある医療事故の検討会で提出された事案であるが、多くの病院でよく経験することでもある。医療行為は不確実なことも多く、同じように実施しても、患者側の要因で好ましくない結果を生むことも珍しくない。
 高齢の女性が、膵臓がんの診断とその後の治療法の選択のためにERCP(内視鏡的逆行性膵胆管造影)の検査を受けた。侵襲の高い検査であるので、このような高齢の女性に、とも思うが、最近の風潮として年齢は加味しにくくなっている。比較的経験の浅い研修医がこの内視鏡の検査を行った。最初の挿入で抵抗を感じ患者が苦悶様だったために、一旦口腔まで戻し再挿入を試みたところ、胃までスムースの挿入できた。そこで、ベテランの消化器専門医に手技を替わった。
 十二指腸乳頭部が判明せず、カニュレーションを何度か試みたがうまくいかず、造影はあきらめて内視鏡を抜いた。
 その夜、当該の患者がのどが痛い、腰が痛いということで、対症的に処方を行った。翌日のCT検査で、縦隔気腫や頸部食道裂孔の所見を得た。そこで、呼吸管理などを必要とする状況に及んだが、呼吸器外科の適切な処置で幸いにも事なきを得た事例である。ただ食道裂孔の原因は、内視鏡の挿入によるものと推察される。
 さて本事例について考えると(私見)、検査の適応には問題はない。患者は高齢であり患者には負担の大きい検査ともいえるが、診断と治療方法をはっきりさせるためにはやむを得ない検査といえる。ただ検査の説明では、食道裂孔の可能性については触れていない。
 本事例の院内での臨時医療安全委員会では「ERCPの手技にミスはなく、医療事故ではない」という見解であるが、内視鏡と食道裂孔の因果関係については明白で、医療者側からはやむを得ない合併症でも患者側からみれば「過誤」と言われても致し方ない。
 よくこのようなときに問題になることが、謝罪とその期間の医療費の支払いである。本事例のように過誤がある程度明白な場合には、検査のために要した医療費は病院側の負担となろうが、過誤が明白でなかったり、いわゆる合併症といわれるもののときには難しい判断を強いられる。安易に病院側から医療費の免除を申し出たり、患者側からの要求に無条件に従えば、あたかも病院側が過誤を容認したものと捉えられかねない。本事例では、病院側はその期間の医療費に関しては免除を申し出たが、患者側は「お金のことではないので支払いはしたい」ということだったという。
 一般論であるが、このような事例では、患者側の理解もあり病院側がいくばくかの「見舞金(慰謝料)」で決着が図られたとしても、弁護士の見解では「きちんと文書化しておく」ことが大切だということだった。
■ 山本益博のコラム
  私は「食べ物」には全くの無頓着で、舌で味わう前に胃の中に収まってしまう方である。もちろん、自分で料理したことはなく、ご飯もまともに炊けないし、出来ることといえば、カップラーメンにお湯を入れて、3分間待つことぐらいである。ところが家内は料理が大好きで、テレビの料理番組などは欠かさずみたり、料理の本もよく買ってくる。
 先日、山口に住んでいる娘から、「山本益博さんがいらして、料理なども写真に撮られて、ブログに載せてくれると言っていたよ」という電話があった。私は山本さんという料理評論家のことはよく知らなかったが、家内の話では「世間的には有名な人」らしいということである。
 そこでインターネットで調べると、自身のホームページを立ち上げており、日々食べた料理やお店の紹介などもしている。早稲田大学文学部卒業。卒論「桂文楽の世界」がそのまま出版され、評論家としての仕事をスタート。TV「花王名人劇場」(関西テレビ系列)のプロデューサーを務めた後、料理中心の評論活動に入る、とある。
 そして6月のブログで「割烹吉岡」の紹介記事が、次のように掲載されていた。
  山口市湯田温泉で素敵な日本料理店に出逢いました。山口の銘菓「豆志郎」のご家族が案内してくださった割烹「吉岡」です。「まだ若いけど、料理がシンプルでいいの」この一言で、私は「わくわく、どきどき」。明日の遠足を楽しみにしている小学生の「わくわく」気分と、大学受験を明日に控えた高校生の「どきどき」した気持ちが交錯しました。
若い料理人の作り出す料理が楽しみな半面、もし、私に理解できない料理だったらどうしようという不安も。でも、一皿二皿と戴くうちにどんどん引き込まれました。簡潔な味わいにして、素材の持ち味を存分に引き出す素直な技。そら豆の揚げものはほっくりと甘く香り、きすのすしは酢めしにおっとりとしたきすがほどのよい温度で寄り添っている。決定打は海老しんじょのお椀。早生の松茸が添えられたお椀ですが、それを上回る静かな存在感の出汁。昆布にも鰹節にも寄らない、まあるく円を描いたような奥ゆかしい甘露な味わい。海老のしんじょもふうわりとして海老の香りとうまみを残してするりと消えてゆく。
この一椀で、カウンターの向こうで手際よく調理する若い料理人を応援しなくてはと、心に誓いました。鮎の塩焼きも、頭から尻尾まで細かな配慮が行き届き、六月の御馳走をいち早く堪能しました。
 一つ一つの料理をこのように表現してくれると、「料理人冥利」に尽きるだろうが、私など「吉岡」で食べて帰ってから、家内に「どうだった?」と聞かれても、「美味しかった」の一言である。酒が途中で入ると、何を食べたのかも正確には思い出せない。
 さて吉岡君と娘の二人で、湯田温泉で小さな割烹を開いて、この10月で3年を迎える。あのようなスタイルの日本料理店を田舎でやっていけるものかと内心心配していたが、ごひいきにしてくれる人がいて、どうにか続けてこれたようである。京都や金沢などの古い街に比べると規模は小さいが、山口市は古くからの伝統もあり、有り難いことにこのような店を大事にしてくれる人が少なからずおられるということだろう。
 私も年に数回、カウンターで料理をいただいている。結婚するまでは家事などすることもなかった娘が、カウンターの向こうで立ちっぱなしでサービスに努めている。「大変なことだなあ」と思うのだが、「自分が好きで選んだ道だから、それでいいのじゃないの」と家内は屈託なく言う。まあ医師の仕事はそれなりに修行すれば誰にでも出来るが、料理や接客は特殊な才能と凝り性、そしてサービス精神が旺盛でなければ長続きはしないだろうと思ったりする。
■ 人間関係をよくするためには
 個人的には人間関係でさほど苦労した覚えはないが、最近の若者は学校で、そして会社でと人間関係がうまくいかずに不登校や会社を辞めたりする人が多いと聞く。少子化で兄弟も少なく小さいころからコミュニケーションが不足し、そして大切に育てられたために、堪える気持ちが薄いのかもしれない。人生は、いいことばかりではなくて、半分は悪いことと割り切って考えた方がいい。
 NIKKEIプラス1で、インターネットで1000人の男女同数(20~60代の勤務経験のある既婚男女)にインターネットで、「一般的な人間関係」「家庭での関係」「職場での関係」を良好に保つために何が重要化を、それぞれ30の選択肢から選んでもらった結果をまとめている。
 第1位は「ありがとう」と「ごめんなさい」は必ず言う、で第2位が「笑顔で明るく挨拶する」、第3位が「了解したことは守る。実行できない約束はしない」で、10位まで羅列すると次のようになる。
第4位は嘘を言わない。ごまかさない。
第5位が自分がされて嫌なことはしない。
第6位が必要な情報はしっかり共有する。
第7位が相手の立場になって考え対応する。
第8位が話を聞くときは相手の顔を見る。
第9位は本人がいないところで悪口やうわさ話をしない。
第10位は親しき仲にも礼儀ありを徹底する。
そして11位が、感情的になったり、直ぐに怒らない。12位が相手を追い詰めるような言い方をしない。13位が自分の意見を押し付けない等となっている。
 家族の場合には、「いただきます」「おやすみなさい」を忘れないや、最終的には家族を信用し、味方になる等が上位となっている。一方、職場の場合には、報告・連絡・相談を徹底するが2位となっている。
 さて挙げられた項目を眺めると、どれも特別なものはなく、「基本的な礼儀や態度」が大半である。初対面でどのような印象を持つか(持たれるか)は大切で、その印象の大半は、表情や挨拶で決まるといっても過言ではない。全体的な所作や声の大きさ、トーンも微妙に影響する。
 次に重要な要素として、「信頼関係の醸成」が挙げられる。「嘘を言わない、了解したことは守る」に集約されている。また嫌なことはしないや相手の気持ちになって考えるは当然のことだろう。そして「親しき仲にも礼儀あり」である。最後の12,13位は同じことで自分に意見を必要以上の押し付けたり、相手の逃げ道は用意しておくというのも、「武士道」である。
■ 最期の時をどこでどのように迎える?
           最期を、どこで・どのように迎える?(南九2012年8月)
 南日本新聞会館で「さわやか介護セミナー」が開催されることになり、私はパネラーの一人として出席したが、事前にコーディネーターから「あなたは将来、どこで、どのような最期を迎えたいですか」という問いかけがあった。若いころならピンとこないような問題提起であるが、私のように10年後、少なくとも20年以内には確実に自身の身に降りかかることとなると、人ごとといっておれない気持ちになる。
 さてこの問題、いろいろな条件があり、また状況も変わるので予測できない部分も多い。「可能なら住み慣れた自分の家で、最期を送りたい」と考えるのが普通だが、これがなかなか簡単なようで難しいことである。まず介護力が確保できるのかということ、そして医療的な処置を必要とするような状態でないのかということになる。
 次善の策としては施設入所や老健施設等も選択肢の一つに挙げられるが、我々の団塊の世代が後期高齢者を迎える時代には、いわゆるこのような「ハコモノ」と呼ばれる施設は大変な競争率になっているだろう。
 次にどのような状態で「最期」の時を迎えたいかというと、無理な延命処置は望まず、可能なら「尊厳死」に近い形で最期の時を迎えたいと思っている。ここで問題になるのは、生命維持に直接関係してくる人工呼吸器と栄養の問題になる。前者についてはここでは論ぜず、後者の栄養補給の問題に関してであるが、最近とみに普及してきた胃ろう栄養法がさまざまな問題を投げかけている。
 私の義父は7年前にがんで亡くなったが、自身が医師であったこともあり余命を悟っていたのか、最期は食事や点滴を拒否していた。自らの病院に入院していたのでこのようなわがままが許されたのだろうが、一般的には点滴を拒否するのは難しい。
 病院に入院し、何らかの事情で口からものが食べられなくなったとき、もちろん本人の意思は聞くわけだが、多くの場合家族の考えが優先する。平均寿命を遙かに超えた高齢者の場合、無理に胃ろう処置など差し控えた方がいいのではないかと思うことが多い。それでも家族の中で一人でも強硬に「胃ろうを」という人がいると、やむなくその意見に従うことになる。
 先日、九州ブロック事務所で、恒例の医療事故調停委員会があった。ある病院での、「胃内容物の誤嚥による呼吸不全事案」という議題である。79歳のびまん性レビー小体型認知症の患者の、胃内容物の気管支への逆流により窒息死したもので、医師や看護師の「注意義務違反があった」として提訴されている。
 複数の調査で、医師の8割、市民の7割が「植物状態に陥ったら、胃ろうで生かされるのは拒否したい」と答えている。施設間で差はあるが、一人の胃ろう患者には、年間ざっと400万円の公費と100万円の自己負担が必要となる。全国40万人の胃ろう患者のうち植物状態にある人が3割を占めるとすれば、毎年6千億円ものお金が使われていることになる。
 最近の日本人は病院に入院すると、どのような状態でも生かされることが道理で、そうでなければ病院側の怠慢や注意が足りなかったと考える人が多くなっている。「人のいのちは有限であり、いつかは無に還する」という厳粛な摂理を忘れているように思えてくる。
■ 孤独死
 最近マスコミなどでよく取り上げられる言葉に、孤独死とか孤立死というものがある。孤独死という言葉は、阪神大震災後に仮設住宅などで一人暮らしの高齢者が自室で死亡し、しばらく経ってから発見された時などに使われたようである。一方、孤立死という言葉は社会的孤立のために、住居内で死後他者に気付かれず遺体がそのままとなったケース(特に事件性は無いもの)で使われている。
 人は生まれてくるときには生まれる場所こそ違え、みな共通であるが、亡くなるときにはその人の意思によりいろいろな死に方を選択できるのではないだろうか。
 親友の丸山先生から、次のようなメールが届いた。・・・ところで「額田 勲」氏がご逝去されました。転移性の脳腫瘍が発見されて、原発不明のまま治療を拒否し、断食されておりました。蕭然とした最期で、葬儀なし、「遺灰を錦江湾に散布して欲しい」とのことでした。私は彼に影響を受け、尊敬もしておりましたので強いショックを受けております。・・・
 額田先生は大学の数年後輩だったが、京都大学薬学部を卒業されてから再入学しているので、年齢は私より7歳上である。私は個人的には親交はなかったが、神戸にあるみどり病院の理事長として阪神大震災直後には医療ボランティアに奔走し、地域に根付いた医療活動に取り組んでおられた。仮設住宅にプレハブの診療所を作り、医療活動のかたわら死に至る姿を「孤独死」(岩波書店)というう書名で出版されている。
 額田先生はこの本の中では、孤独死とは単なる「独居死」ではない。貧困の極みにある一人暮らしの慢性疾患罹患者(アルコール依存症も含めて)が、病苦によって就業不能に追いやられ、次いで失職により生活崩壊という悪性の生活サイクルに陥り、最終的には持病の悪化、もしくは新たな疾病の合併が引き金となって、死に追いやられるケースと定義されている。
 私は拙著「病と老いの物語」の中で、大原麗子の「孤独死」について触れたが、額田先生の定義する孤独死とは異なり、豪華な自宅で死後数日してから発見されている。大原はあるテレビ番組で「母がいなくなれば、餓死して死ねばいいのよ」というような発言をしていたことと重ね合わせれば、覚悟の尊厳死のようにも思えてくる。
 その大原も、今年の8月3日で3年忌となり、その法要がなされたと報じられていた。たまたまテレビでは、1983年に制作された「居酒屋兆治」を特集していた。そして大原の演じる薄幸な女性「さよ」も、30年を経た大原麗子とおなじように一人寂しく亡くなっていく。
 先日の日経文化欄の「生と死の営み」というエッセイで、小池真理子氏は「私は偶然『死ぬ時はここがいい』と思える場所を見つけた」と書いている。そこは旧い別荘地のはずれで、山間のうねうねと続く小径の頂上付近の自然林で、風の音と野鳥の鳴き声以外には何も聞こえない至福の場所だという。そして世間で問題視されている孤独死という問題について触れ、「孤独も孤立も、私たちの生命の営みの壮大さの中で見れば、本の一瞬のできごとに過ぎないような気もする」と、肯定的にも思える考え方を披露している。
 最近過疎地で、誰に知られることなく亡くなっていた老人が多くなり、この孤独死への対策が論じられている。額田先生や大原麗子(想像であるが)のような断食死もあるだろうし、小池氏が理想とするような静かな自然林の中での死に方も悪くないような気がする。
 孤独死の持つ意味はもっと広範であり、誤解を恐れずにいうならばポジティブな意味合いで考えてもいい場合もあるのではないだろうか.。もちろん家族みんなに見守られながら亡くなることが好ましいし、必死に闘病することを否定するものではない。
■ 戦場の軍法会議(前)~父の戦争体験
 今年になって領土問題などが絡んで、日本と周辺諸国との緊張関係が厳しさをましている。まずロシアはプーチン大統領が北方四島を訪問し、竹島には韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が、そして数日前には尖閣諸島に香港の活動家が上陸した。このように相次いで不法入国している背景として、指導者には国内的な政治的意味合いと日本の政権の弱体化、そしてアメリカとの日米同盟のきしみが根底にあるように思われる。外交問題は相手国があるので極めて難しい問題である。ウィンウィンの関係が好ましいが、そういうわけにもいかない。このような事態に乗じて国内の行き過ぎたナショナリズムの勃興や軍
備拡張論と結びついていくのは、由々しきことと考える。どのような解決策があるのか、私にはわからない。
 おりしも、15日の終戦記念日には、さまざまな戦争関係の番組が放映されていた。そのなかで、終戦末期、補給の絶たれたフィリピンやニューギニアの南方戦線で、違法な軍法会議により、本来は死刑判決になるべきでない多くの兵士が死刑になっていたというショッキングなドキュメンタリ番組があった。
 私がこの番組に惹きつけられたのは、番組の冒頭で「太平洋戦争の激戦地となったフィリピン。日本兵約50万人が命を失った。ジャングルに送り込まれたある部隊で、食料を求めて部隊を離れた22歳の日本兵が逃亡罪で処刑された。しかし判決に関わった人物は『死刑宣告に値しない』」。そして映像では、ルソン島の戦場風景が描き出されていたからである。
 私の父は昭和49年に61歳の時、くも膜下出血で急逝したが、戦地はこのルソン島だったと聞いている。終戦直後、多くの兵士が帰還する中で、父は帰還が遅れて随分心配したということだ。翻って考えてみれば、父の帰還がなければ私と弟はこの世にないことになる。父はもともと物静かで寡黙な性格だったが、戦場のことについては一切口にしなかったという。きっと想像を絶するような苦難の連続で、言葉にすることもできなかったのではないだろうか。
 帰還したある兵士のひとりは、当時の状況を次のように綴っている(インターネットから)。 
  大半がジャングルのルソン島の日本軍は、食糧の補給は完全に途絶えて餓死者が続出し、マラリアや赤痢にかかる者が続出した。部隊としての統制は乱れ、小部隊ごとに山中に散開して生活していた。降伏は固く禁じられていたため、伝染病にかかった者はそのまま死ぬか自決し、衰弱した日本兵は抗日ゲリラや現地民族に襲撃され消耗していった。飢えた兵士は食糧を求めて村や現地人を襲い、戦争どころではなくなった。兵士の間で台湾までたどり着けば助かると信じられていたために、筏を作成したり泳いで台湾まで行こうとするものまでいた。
 おそらく私の父も同様な悲惨きわまる体験をしたものと思われる。戦後、「同期の桜」ということで歓談する光景を見聞きするが、そのような人は比較的恵まれた戦争体験のあった人たちなのだろうか。
 私の家の小さな仏壇には、父の遺影が飾られている。どことなく寂しげに写っているが、きっとこのような戦争体験も微妙に関係していたのだろうと、今思うことである。  
■ 戦場の軍法会議(後)~戦争の罪~
 終戦特別番組として「わたしは貝になりたい」というドラマが放送されていた。このタイトルは若いころに聞いた懐かしいタイトルで、フランキー堺の名演技で話題を呼んだが、今回は中居君だった。戦争という異常な状況では、特に弱者に理不尽な現実を強いることが多い。
 さてこの「戦場の軍法裁判」であるが、当時法務官として軍法会議に関わっていた馬場元中佐の資料(日記と14時間のインタビューテープなど)を、第二次世界大戦を研究している北さんが入手した。ただ馬場氏の生存中には、そして関係者に迷惑がかからない時期になるまでは、公表を控えるという約束で、やっと今年になってこの番組が制作されたという。
 馬場氏は東京帝国大学卒業後、司法試験に合格し、裁判官としての道を歩み始めたが、戦時下で海軍の法務官となる。当初は軍法会議では、4人の軍人と一人の法務官で裁判が行われていた。法務官は被告となった兵士の人権を守ることが役割で、馬塲元中佐も自らを法の番人だと自負していた。
 ところが昭和16年12月、太平洋戦争が始まり、軍の中で法務官の立場を揺るがす事態が起きた。軍から一定の独立性を保っていた法務官を軍人にする法改正が行われ、馬場氏も軍服を着て会議に臨むこととなったという。
 戦後、馬場氏は弁護士として活躍し、日本弁護士連合会の副会長も歴任されたという。この聞き取り調査は24年前に行われ、馬場氏はすでに死亡されている。北さんは「(馬場氏も)死刑にするかどうか随分悩んだんですよ。堪忍してくれってことでやったんです。かわいそうなことしたなと思ってたんですよ」と、当時の軍法会議の実態を話している。
 ある22歳の兵士の場合、その罪が死刑に相当するものではないにかかわらず、軍法会議でそう判決したことに馬場氏は自責の念を感じていた。その兵士は、飢えに襲われて戦場を離脱し、食料をあさりまわって放浪し、15日後に逮捕された。軍法会議の規定によればこれは逃亡罪に当たり、懲役または禁錮6か月以上7年以下の刑罰に相当するものだった。それを死刑にするためには、手続き上、違う罪状を適用する以外になかった。
 そこで馬場氏は、奔敵つまり敵に投降したという罪で死刑にしたというのである。馬場氏の苦汁の判断には、上官の意向が強く働いていたという。軍の上層部は兵士の逃亡が軍隊の士気の低下につながることを恐れ、見せしめのために、逃亡者に極刑を課したかったというのである。また極刑に処するかわりに、特攻をやらせたケースもあった。特攻は体裁を変えた自殺強要なのである。同じようなケースはフィリピンだけでなく、各地の戦場の軍法会議で多数存在していたのではないかと、番組は推測していた。
 また中田上等兵の場合には、敵に逃亡したという理由で極刑になるが、実は英語が堪能だったためだという。米国側に捉えられたら、軍の機密が漏れるという理由で汚名を着せられた。記者が中田さんの地元の山口県周防大島を訪ねたが、そこには遺族は一人としていなかった。当時、戦地から反逆罪で処刑されたという通知が来ると、親族はみな戸籍を別の場所に移し島から出て行かざるを得なかったのだという。
 おそらくこのようなあってはならない理由で処刑され、戦後になっても名誉も回復されず、遺族年金ももらえない例がいくらもあったのだろう。昭和20年だけでも、5000件以上にのぼったという。「戦争が悪い」と言ってしまえばそれまでだが、戦争は一人ひとりの生活を、根本から変えてしまう恐ろしさがある。
■ 五輪に学ぶ七つのヒント
 ロンドンオリンピックも大変な盛り上がりを見せて、いろいろな思い出を残しながら閉幕した。昨日は銀座でメダリストたちの凱旋パレードがあり、50万人の人出で賑わったという。初めての試みらしいが、どうも国威発揚に使われてきたのが気がかりである。
 私も開幕前はさほど関心はなかったが、サッカーなど日本選手の活躍で、オリンピック病(睡眠不足)を心配しなければならないような体調になった。一発勝負の真剣勝負に挑むアスリートたちの躍動は、気持ちを高揚させるものがある。
 日本は今度のオリンピックで金7、銀14、銅17のメダルを獲得し、総数の38個はこれまでの最多であるという。獲得メダルの総数や金銀銅のメダル数の分布を、どのように評価するかは意見の分かれるところである。あるコーチは、銀メダル10個より金メダル1個の方が価値があるような発言をしたし、新聞の国別のメダル獲得数も金メダルを基準にしている。日本の場合、柔道や体操で予想したより金メダルが取れなかったのでこのような結果になってしまったが、スポーツの底辺を広げるという意味では金の1個より、銅メダルの10個の方が価値が高いとみるべきではないだろうか。日経の社説では、五輪が示
した「成熟国」への道、という社説である(8月14日)。
 またさすがに日経というべきか、「経営の視点」というコーナーでは、「五輪に学ぶ7つのヒント」と題するコラムを掲載し、企業経営という視点で企業を元気にするヒントを論じている。
 まず第一は女子選手の活躍で、会社でも女性を十分に活用すれば、成果は倍増する可能性があるとする。病院という職場はもともと女性社会であり、女性の数が圧倒的に多い。まだ院長の数はさほど多くないが、看護職の副院長は増加しており、今後は院長も増えていくのではないだろうか。
 第二は異能の人材が光ったことをあげている。眼光鋭い女子柔道の松本選手とマイペースの内村航平選手をその例としているが、袋小路の経営を打開するには異彩が欠かせないという。
 第三はグローバルな人材で、男子サッカーなど外国で活躍する日本人選手を挙げている。
 第四は絶えざる革新が欠かせない点だという。女子レスリングの伊調や吉田を例に挙げ、ライバルに研究されたらその上を行く競技スタイルで望んで三連覇を果たした。
 第五は敗因はとことん分析して、戦略を立て直して巻き返せということである。当然男子柔道を例にとっているが、頑張ろうの精神論では限界があり、構造的な要因を探るべきだと提言している。
 第六は自己満足に陥って、小成に安じてはならない。隣国の韓国やイギリスやドイツと比べると、日本の方が人口では多いのに、メダル数には格段の差がある。企業に置き換えれば、利益率が低いのに、内部留保が厚いからと安住してはダメだと。第七は、信賞必罰を忘れるな。男子柔道を例に挙げている。
 最後の結論は、松下幸之助の「雨が降ったら傘をさすように」、「当たり前のことをやりなさい」と締めくくっている。
■ 気持ちがあれば
 私はどちらかというと、レールの上に敷かれた何の変哲もない普通の人生を歩んできたので、変わった経歴の人をそれだけで「尊敬」してしまう。
  日経新聞の「旬の人 時の人」というコーナーに、40歳定年を唱える東大大学院教授として柳川範之氏(49)が紹介されている。私はもちろん面識はないが、その経歴が面白い。
  高校には通わず、銀行マンの父親の赴任先のブラジルで過ごす。学校に入らず、小学生とサッカーなどして過ごしたという。独学の末に大検に合格し、慶大の通信課程で経済学の面白さに目覚める。その後、東大の大学院博士課程を修了している。
 そのような経歴があっての考え方だろうが、「リストラの不安に怯えながら同じ企業で働き続けるのは幸せなのか。いったん退職して社会の変化に合わせて学び直して、自分をより生かせる仕事に就いた方が、企業にとっても自分自身にとってもプラスになると訴える」。
 変わった経歴で有名な人に、熊本県知事の蒲島氏がいる。熊本県の鹿本高校卒業後、自動車販売会社に勤めたが3週間で辞め、地元の農協に勤めた。農業研修で渡米したことが転帰になり、ネブラスカ大学農学部に入学、その後ハーバート大学で政治・行政学を修め、東大法学部教授、そして現在、熊本県知事という経歴である。
 人間、やる気と志の持続、能力、そしてチャンスがあれば、いかようにも人生は変えられるもののように思える。
 先日、私は都城のあるクリニックを訪問する機会があった。そこで建設中のウエルライフパーク3号館という名の建設現場を見学させてもらったが、その壮大さに度肝を抜かれた。この施設は平成23年度国土交通省-高齢者居住安定化推進事業に採択されており、「地域住民の拠点・情報拠点として開放し、地域住民・入居者および施設が地域の中で一体となって豊かな街づくりに貢献したい」というコンセプトで運営したいということである。「高齢社会でのサービス付き高齢者住宅」としてどのような展開になるのか、楽しみである。
 ところでこのグループの理事長のM先生も「変わった経歴」だと知った。代々大きな事業をしていた家に生まれたが、高校時代に何かに反発して家出して北海道に渡った。そこで10年ほど消息不明のまま、いろいろな仕事をしながら生活していた。どのようなきっかけがあったのか知らないが、一念発起して大検を受け大学への受験資格をとり、宮崎医科大学に入学したのだという。
 先日は建設中の建物を案内していただいたが、M先生は絵も描かれるということで、南欧の修道院を思わせるドーム型の窓で、三角形の建物の内部は新燃岳の溶岩を固めた特殊なレンガが敷き詰められる予定で、その真中にフランスの宮殿にあるような噴水が置かれるという。私とさして年は変わらないのに、いくつになっても夢は追いかけられるものだと感心した。「一部屋、空けていてください」と、お願いすることにした(ほとんど冗談だが)。
■ サイン帖からの思い出(前)
 昔の文献や資料をチェックしなければならならなくなり、院長室のキャビネットを「あせくって(探して)」いたら、「赤い表紙」のサイン帳が出てきた。このサイン帳は、外部(特に外国からの賓客)からの訪問者に、病院の印象などを書いてもらうためのサイン帳として利用してきた。パラパラめくると、昔の思い出が蘇ってくる。その中から、特に印象に残っている「サイン」を紹介したい(以前、一度簡単に触れたような気もする)。
 まず最初のページには、ノリスご夫妻とガジュゼック博士が記帳されている。日付は1978年2月となっており、偶然にも私が一年間、南九州病院に出張した時にあたっている。ノリス、ガジュゼック、両博士とも既に亡くなられている。
 ノリス博士はサンフランシスコにあるALS研究センターの所長で、ALS研究の第一人者だった。
 まずノリス博士の記帳から。
 南九州病院は私にとっては、新しい経験となりました。今まで私は、この病院のように多くの神経筋疾患が入院している病院はみたことがありませんでした。そして非常に高いレベルのケアがなされており、また看護も行き届いていることに感銘を受けています。そして高いモラルと、高いレベルの医学研究も行われています。
 一方、1776年にプリオン病(Kuru)の研究でノーベル医学・生理学賞を受賞されたガジュゼック博士は、南九州病院の訪問をことのほか喜んでくれていた。そして1988年にも再訪してくださり、行く先々で当院をPRしてくれたり、アメリカやイギリスの在日大使館の方々にも「日本にいて、南九州病院を訪問しないのは、なっとらん・・・」と格別なPRのお蔭で、当時大使館や領事館から多くの関係者が訪問された。ノーベル賞の受賞者から言われたわけだから、効果抜群である。
 ガジュゼック博士の両親は東欧系で、博士ご自身は小児科医だったという。そのためか特に子供たちには優しく、親しく話をされていたのが印象的である。
 ガジュゼック博士の、ちょっと長い記帳から。
 鹿児島には夕方到着しましたが、空から大きな噴火口を見たり、また美しい景色にめまいを覚えるほどでした。私は思わず、ニューギニアやニューブリテンの島々を思い出していました。夕暮れの中、南九州病院の筋ジストロフィー病棟を訪問しました。そこはかって私も経験した、短命を宿命とする患者たちの重苦しい雰囲気の病棟のはずでした。ところが、皆さんの努力で、一人一人の患者さんが生き生きと楽しそうに生活されていることに驚きました。
 私のニューギニアでの経験からは、クル(Kuru)の患者さんも隣人も、この宿命的な病気を前にして、ただ打ちひしがれるばかりでした。ところがここでは、高い文明を持つ市民社会が確立し、ヒューマニティと知性に溢れるスタッフが、この困難な病気と真摯に向き合っている姿に感動しています。
 ただただ私は、あなたがたの献身に頭がさがります。私は病棟で、幸せそうな少年たちと話をしているうちに、涙が出てくるのを止めることができませんでした。私をここに招待して下さり、あなたがたとこのような素晴らしい機会を共有できたことに、心からの感謝の気持ちを捧げます。
 ノーベル賞受賞者に、トンデモナイ賛辞をいただいている。かなり異訳しているが、博士の文章は綺麗で文学的である。心優しい気持ちが伝わってくるが、これがやがて文字通りノーベル賞学者の「命取り」になるのである。
■ サイン帳からの思い出(後)
 1988年のガジュゼック博士のサイン帖への寄せ書きは、至極簡単である。
 今回は二回目の訪問になります。あなたが患者さんと一緒になりながら、患者さんのために貢献している姿にびっくりします。いい仕事だと心から思います。
 さて、晩年、ガジュゼック博士は信じ難いゴシップに巻き込まれてしまう。
 ニューギニアに研究に出かけた際、彼はより良い教育を受けさせる目的で、子供たちをアメリカ合衆国に連れて帰り、壮大な邸宅に一緒に住まわせた。こうして連れて来られた男児の一人が成年後、彼を性的虐待で訴えたのである。1996年4月、彼は児童性的虐待の罪で起訴された。そして、彼が研究室に残したノートの記述や被害者の証言、およびガジュセック博士自身の自白に基づき、1997年に有罪判決が言い渡された。
 彼は既に亡くなっているが、晩年は経済的にも困窮し、悲惨だったと聞いている。
 あと、サイン帖で印象に残るのは、ジョン・ニューソム-デービス博士である。
 彼はいかにもイギリス紳士といったような隙のない風貌で、若い時にはイギリス空軍のパイロットだったと聞いたことがある。イギリスを代表する神経学者で、ロンドン大学教授(当院の園田部長も、この先生のもとに留学していた)であり、あの有名な「Brain」というジャーナルのチーフエディターも務めておられた。
 当院には2000年12月に訪問されているが、数年前に東欧旅行中に自動車事故で亡くなられている。
 サイン帳には、短く次のように記されている。
   あなたがたの病院を訪問できたことは大きな喜びであり、また本当に久しぶりの再会を嬉しく思います。My best  regards 私はメイヨークリニック留学中に、何度かお会いしたことがある。ボスのエンゲル先生の親友で、ラボにも何度か訪問されていたからである。
 ある日、エンゲル先生が「Toshi(ファーストネームで呼ばれるときにはトシだった)、今からシカゴまで実験動物(ニューソム-デービスのラボからのマウス)をとりに行こう」と、突然言い出したことがあった。「航空便でいいのに」と思ったが、エンゲル先生は気が短くて待てない性分である。高速道路でも、ロチェスターから片道6時間もかかるというのに。
 私の主要な研究テーマは、筋無力症候群の病態を明らかにすることで、当時重症筋無力症は神経筋接合部(シナップス)の受容体に対する自己免疫疾患であるということが分かっていた。一方、筋無力症候群は神経終末のカルシウムチャンネルに対する自己免疫疾患ではないかと考えられていたが、証明されていなかった。そこで、ニューソム-デービスの研究室で免疫したマウスを空路エンゲルラボに運び、私が凍結割断法と電子顕微鏡を使って、カルシウムチャンネル(アクティブ・ゾーン)の異常を明らかにした。神経終末は平面ではなく月の表面のような凹凸があるので、立体的な表面積を正しく計測するために、
当時導入されたパソコンでプログラム化(エンゲル先生が考案)し、正確な面積測定を可能にした。
 いつも、免疫したマウスとコントロールがそれぞれ送られてきたが、どちらを免役していたかは私にはわからない。最終的に、コントロールとの間に違いがわかった時には「万歳!」と叫んだもの(本当は叫びたい気持ち)である。
 この研究は、1983年にマルセイユで開催された4年に一度の神経筋学会で発表したが、「もっともエキサイチングな研究」と賞賛された。3年間の苦労があったというものである。私はこのあと、イギリスに向かい、ロンドン大学のロイヤル・フリーホスピタルで、アンジャラ-ビンセントやベス-ラング女史(両者とも女性で、ニューソムダービスのラボで研究)などと初めて顔を合わせてのである。
 私が「研究者」として最も輝いていた時代で、もう30年前の話である。
■ どうかしている半信球団
 9月を前に、プロ野球もいよいよ佳境に入ることになるが、阪神球団においては既に来季に向けての「敗戦処理」が始まっている。・・・ 8月25日の広島戦、七回裏カープの攻撃。天谷の放った左中間への打球は、前進守備の金本を越え、フェンスまで達した。その間に、天谷は一塁を回り、二塁を蹴り、三塁を駆け抜け、本塁まで走ってのランニングホームラン。決して広くないマツダスタジアムで打者走者を本塁までかえしてしまった金本の打球を追う姿や返球は、3万を超える観衆の目にはおそらく『緩慢プレー』に映ったことだろう。でも、違うんだよ!! せつないけど…寂しいけど…「走れない」「守れない」。あれが44歳、満身創痍(そうい)の
金本知憲の真の姿なんだよ!!もう、人気のある金本を客寄せパンダに使うのはやめてくれ~!!・・・ 
 このくだりは、阪神ファンとして有名なたけし軍団の「ダンカン」によるものである。
 私も全く同感で、和田阪神の低迷の主たる原因は、選手起用の誤り、特に「年寄り偏重」によるものと考えている。力の衰えたベテランほど扱い難いものはないといわれるが、そこはプロの世界、シビアに切らないといけないのに和田監督にはそれができなかった。
 近代野球は「走れない」「守れない」では、たまに打っても帳尻は絶対に合わないのである。たまに打つかといえば今季の金本の場合、これが本当にたまにで、今シーズンのホームラン数はまだ4本という有様である。
 実のところ、私自身この数年の「心の変容」に信じ難い思いでいる。
 生まれてこのかた(ちょっと大げさかな!)タイガース一筋に生きてきて、「タイガースこそ我が命」とまで公言してきた。毎年、4月から10月までのシーズン中は携帯ラジオを2台肌身離さず(朝日放送と毎日放送をキャッチするには電波の都合で2台必要)、たとえ会議中でもトイレ休憩などを利用して、山口君(前・日総研)に電話して、現在の試合状況(何回で、何対何)を確認したりしていた。優勝した年には、小田屋(三越の中で営業していたが)に特注の紅白饅頭をお願いして、全国に何百個も発送したりしてきたのである。
 ところが、真弓阪神の中頃から、特に和田阪神に政権が替わって、金本、新井、檜山、福原といったようなロートルを、これでもか、これでもかと出場させるようになって、興味を失いつつある。金本など最悪期には、ショートまで山なりのボールしか投げられないのに使い続けた。そのため、ピッチャーはレフトに球が飛ばないようにと右打者の内角攻めはできなくなるし、ショート(阪神ではショフトと呼ぶとか)の鳥谷は、金本が投げられる距離にまで守備位置を移さなければならないし、センターはレフトまでカバーしなければならないといったような、異常な守備隊形を強いられた。また金本自身、自分の肩の悪さはよくわかっているのか、守備位置を極端に前にとったり後ろにとって、エラーをカ
ムフラージュするように際どいプレーを避けているようにも思える(勘ぐり過ぎかな)。44歳という年齢を考えれば、よくやっているという見方もできようが、そこはプロの世界、ファンははつらつとしたアスリートたちの真剣なプレーに金を払っているのである。
 以前、晩節を汚したことで有名になった選手に巨人の「清原」がいたが、まさに似たような状況にある。ところが28日の新聞によると、阪神金本残留!球団方針固まっている」と耳を疑うようなニュースである。阪神球団には、まだ「客寄せパンダ」との思惑があるのかも知れないが、今や多くの阪神ファンはあの鉄人と呼ばれた頃の金本ならともかく、「疫病神」と化した選手など過去の遺物だと思っている。競争社会では自己満足は封印すべきである。
 功績のあった選手だけに、相応の「花道」を作ってあげるのも球団の責任ではないだろうか。
■ 院長と話ができる券
 「みなさんは4月に入職されて、ちょうど5ヶ月となります。毎日楽しく仕事が出来ていますか。何か悩み事はないですか。院長としても非常に気になるところです。
 私は4月のオリエンテーションで、石の上にも3年、がむしゃらに3年、喜びに感じて3年という話をしました。そして当院では、ここ数年、新人の看護師の離職者は一人もいないことを誇りにしている、というような話もしました。
 今日は看護部で、このような懇親会を準備していただきました。わずか一時間しかありませんが、いろんなことを歓談できるかと、楽しみにしております」。
 これは8月28日、「新人看護師との懇親会」での私の挨拶のあらましである。
 私に引き続いて上別府看護部長の挨拶では、昨年は5月に懇親会をしたということだが、今年はちょっと遅れて今日となったようである。今年の新人(既卒者は除いて)15人で、大会議室の4つのテーブルに分かれて腰掛けることになった。机の上にはお菓子類(松元師長がアミュプラザから買ってきて、10分前に解凍したという特製のバウムクーヘンのようなお菓子も)と、看護部長室の内村さんの手作りのアクセサリー、そして「なんでもサービス券?」を入れた小さな封筒が置かれていた。
 その間を、秋葉原のメイドカフェで、ちょっと年増のメイドとでも表現できそうな出で立ちの吉原さん(副看護部長)と後藤さん(教育担当師長)が、かねての厳しい表情とは似ても似つかない優しげな表情で、注文に応じてジュース類をコップに注いでくれている。
 私と看護部長はそれぞれのテーブルを回りながら、かねてゆっくりとできない話などすることができた。住まいや車のこと、ふるさとのこと、若い頃のこと、コミュニケーションのこと、戸惑ったこと、(的場師長さんに怒られたこと・・・これは嘘)などなどである。
 この懇親会のあとで新人さんに聞いたところでは、出席した新人さんは「院長と話しができてよかった」、「またこのような機会を設けてくれたら」というようなうれしい意見が多かったという。まずは大成功ということになる。
 さて「なんでもサービス券」であるが、どらえもんの「なんでも共通割引券」を思い出させる。どらえもんの割引券を使うと、なんでも割り引くことができる。買物に使用すれば値段が割り引かれるのはもちろんのこと、お小言の時間を割り引いて短くしてもらったり、宿題のノートに挟んで宿題を少し済ますだけで許してもらえたりとさまざまに活用できる、というものである。
 看護部で作ってくれたサービス券には、「院長と話ができる券」や「院長と写真を撮る券」、「看護部長に願いを聞いてもらえる券」(正確な名称は忘れてしまった)などである。私としては、「新人さんなら、いつでも、どこでも、いつまでも、お話したいので遠慮なくどうぞ。券など無用で、綺麗に整頓された院長室に足を運んでください」という気分である。
 どうせなら、私にも「院長の肩をたたいてくれる券」「患者数を増やせる券」「年を引いてくれる券」「ゴーヤをいつまでも食べられる券」「車の灰を落としてくれる券」など欲しかったけどなあ。
 朝夕は秋の風が吹いて、涼しくなった。この週末の2日間は、鹿児島ストリートジャズフェスティバルということで、中央公園では夜遅くまで野外のコンサートが行われていた。あまりにもスピーカーの音が騒々しいので、土曜日の夜はちょっと出てみると、昔懐かしい「かまやつひろし」や「上田正樹」が熱演していた。灰も降らず、秋風が心地よかった。
■ 一日看護体験
 「けっさい」という日本語には、「決済」と「決裁」の二つの意味がある。辞書で調べると前者は「お金のやり取りが済む事」で、後者は「書類で伺いを上げて、最終的にその方針を承認する権限のある人が、承認 若しくは 否決して結論を出す事」とある。
 長いこと院長をやっていると、これまでどのくらい決裁のためのハンコを押してきたかわからない。私の場合、インクの切れかかったシャチハタで、タイトルだけを見て内容は見ない、いわゆる「盲判」になることが多い。経験から、よく吟味しなければならないものか、そうでないものかはおおよそ見当はつく。それでも事が起きたときには、判子を押して承知していたかどうかが重大な結末を招来する場合もあり、本当はもっと慎重であらなければならない。
 今朝、いつものように盲判を押していたら、「一日看護体験の実施報告について(伺)」というものがあった。起案者は看護部長で、実施報告者の最後の部分に「補助金振込先」とあるところから考えると、この報告があれば鹿児島県看護協会からいくばくかの補助金が出るということなのだろうか。
 ところで今年の「ふれあい体験」は7月27日に実施され、中学生3人、高校生8人の11人が参加している。実際の臨床現場で働いている看護師さんの仕事ぶりをみてもらったり、患者さんに直に接してもらうことで、若い人たちに病院と看護業務への理解と、将来的には看護師への道を進むことの動機付けにもなってくれたらとの思いで開催されている。
 この報告書には、中学生1人、高校生3人の感想文が添付されている。
 中学3年のSさんは「母がやっていたからやってみようという考えは、この看護体験を通して変わったと思います」というところをみると、母親が看護師なのだろうか。「最初は何すればよかったか分からなかったけど、やっていくうちに分かってきて、楽しさが溢れました」。
 高校3年のIさんは「今日の看護体験に参加してみて、看護師って素敵だな、と思いました。今まで看護師に対するイメージは『やりがいはあるけど大変だな』とか『キツそうだな』というものでした。大変な仕事はしたくないというのが私の本音でしたので、看護は決めかねていました。ですが、今回の体験で、看護師はすごいし、面白そうだなと興味をもちました。やっぱり大変な仕事というのは変わらないのですが、そのなかでもいろんな患者さんとの出会いや看護することの喜びを知り、看護師という仕事はやりがいがあって素敵な仕事だと思いました」。
 高校3年のMさんは「病院は患者さんが生活しやすいように、いろいろな事が工夫されていてすごいなと思いました。患者さんとの散歩、ベッドメーキング、血圧測定、食事のお手伝い、車椅子体験など、初めての体験がたくさんできてよかったです」。そして「患者さんがこの人に看護をして欲しいと思ってもらえるような、優しくて温かい看護師になりたいです」。
 高校3年生のNさんは「下津曲さんはとても優しくて、時に面白くて、患者さんとのコミュニケーションが上手で・・・。私も下津曲さんのような看護師になりたい!と思いました」。
 若い感性は素晴らしいことだし、少子化の日本での将来の病院を考えると、多くの有能な若者が看護師を目指して欲しいと思うところである。

院長雑感

交通アクセス

トップへ戻る