院長雑感詳細

院長雑感(136号)

コスモスは秋桜とも書くが、まさに秋の桜のようで、野辺に群生して秋風に揺れる様は、日本の原風景の一つともいえる。
 この10月は、山中教授のノーベル医学・生理学賞で明け暮れた。アイデアとハードワークとラッキーが夢を現実のものにした。一日も早い臨床応用が期待されるが、私の専門分野のALSやパーキンソン病の患者さんが、もっとも切望している。
 9月は患者数が伸びず、私が院長就任以来、患者数、診療報酬点数とも計画よりもっとも悪い月になった。今年もあと半年である。みんなで力を合わせて頑張りたい。
■ 患者数
 9月の入院患者数は368.4人で、計画に対し27人の大幅な減となった。平均在院日数は、調整前で18.1日と問題はない。外来は167.98人と、計画比で1,2人の減となった。
■ 診療報酬点数
 9月の診療報酬点数は、計画比で入院では4,109,195点の減、外来は121,691点の増で、対計画では入院・外来合わせ3,987,504点の減となった。累計では1,745,734点の増となっている。患者数が大幅に減少し、今までの貯金を大幅に取り崩してしまった。
 経常収支率では9月は調整後で103.7%で、累計では108.9%は維持できている。
■ 小村先生の筋ジス看護(前)
  これまで何冊か本を著してきたが、その本を丁寧に読んでくれている読者に出会うとちょっとうれしいものである。
 今回、初めてお会いした小村三千代先生(東京医療保健大学教授)もそのお一人で、私が平成11年に刊行した「難病と生きる」を、「筋ジストロフィーという病気を知り、看護を考えるときのバイブル」として、大切に読んでくれているということである。
 今年の2月に東京の機構本部で開かれた「筋ジス看護を語る会」に、当院の上別府看護部長も出席したが、その時に先生の基調講演を聞いて、当院の看護師にも是非聞かせたいと思ったという。 
 先生は国立小児病院(現在の国立成育医療研究センター)で看護師として働いていた時に、14歳の筋ジストロフィー(デュシェヌ型か)少年との運命的な出会いを経験し、その後の人生が変わったようである。筋ジストロフィーの少年は一般的に寡黙であるが、構音障害も伴っていたためにコミュニケーションをとることに難渋する。そんな経験から東埼玉病院の筋ジス病棟で筋ジス看護を学びたいとの志が芽生え10年以上の臨床経験をして、ついには筋ジス看護の研究(博士論文も筋ジス看護をまとめたもの)を極めてしまう。
 今回の講演のタイトルは、「これからの筋ジストロフィー看護」と題するものだった。それは筋ジス看護を新しい視点で捉えなおし、「筋ジス看護学を打ち立てたい」という先生の熱意を感じさせるものである。私たちのように筋ジス病棟で「普通」に日常の臨床を行い、その中にどっぷりと浸かってしまうと、彼らの示す言動をただの「普通」のこととしか捉えられなくなる。
  ところが先生には、今までに経験することのなかった「寡黙で暗黙の了解に基づく看護」がより新鮮に映ったのだろう。そしてこの看護を、「1ミリの世界における看護」として提案されたのである。偶然にもこの「1ミリ」は、今年の「看護を語る」で6病棟の京田景子さんの「1ミリの世界とは・・・(筋ジス病棟の看護を語る)」と全く同じである。
 さて今回の小村先生の講演のContents(目次)は、「看護が語れない」に始まり、「看護を語らない」、「1ミリの世界における看護の技」、「看護を語る」、そして最後に「これからの筋ジストロフィー看護」という流れで進められた。
 まず講演の冒頭で、「看護はScience(科学)であり、そしてArt(芸術)である」というナイチンゲールの有名な言葉を紹介し、筋ジス看護はまさしくArtに属する部分が多いのではないかと結論づけた。科学万能の時代に、ともすればEBM(根拠に基づいた医療)という言葉が金科玉条のように語られる時代に、ヒューマニティに基づく筋ジス看護に注目されたのである。
 日本の医療は急速な科学の進歩とともに、一方では経営も重視されてきている。そのために一般病院での入院期間は年々短縮され、いわゆる患者との親密な人間関係は希薄になりがちである。ところが筋ジス病棟では長期の入院患者が多いので、日常の生活の援助を基本にした患者との関係は濃密で、いわゆる看護本来のArtを根底に置く看護が可能となる。本来、看護に限らず医療も、創造的で個別性の高いもののはずである。
 私自身も、筋ジス医療こそ医療と看護の原点だとずっと考えていた。
■ 小村先生の筋ジス看護(中)
 また従来の筋ジス看護では、実践した看護を「ことば」で表現することが難しく、「感覚で感じる看護」であった。例えば、臥床状態の患者が「ちょっと上、ちょっと下」と言っただけで、筋ジス病棟で働いている看護師には患者の意味するところが瞬時にイメージ化して即座に対処してしまう。看護師の頭の中には、彼らの安楽な姿勢のイメージが既にできあがっていて、細かい要求を聞くまでもなく楽な体型を創り上げることができる。それ以上の言葉も、説明も不要であった。いわゆる、患者・看護師間の「あ・うん」の呼吸であり、暗黙の了解を基本とした看護の独自の 世界といえる。
 それでは、この講演の主題ともなる「1ミリの世界における看護の技」とはどういうものだろうか。
 この1ミリにはさまざまな意味が込められている。先生は「目で見ることのできない世界、測ることのできない世界、数値の1ミリではない世界」であるとする。患者の1ミリの世界とは「動かすことのできない世界、戻すことのできない世界、レベルが変化している世界」である。一方、看護者の1ミリの世界とは「勘が働く世界、こんな感じと表現する世界、身体が勝手に動く世界」だと定義している。
 そこには「共有感覚」を働かせる看護の技があり、それこそArtそのものであるという。ただ視点を変えれば、筋ジス病棟でのこの1ミリは、文字通りの数字という見方もできる。この1ミリの長さがとても大切で、1ミリずれたらナースコールなどの入力が全くできない世界である。また厳しい現実であるが、一年に1ミルずつ徐々に筋力が衰えていくとも表現できよう。
 小林先生はここで「共通感覚」という言葉を登場させる。この技とは、「看護師が五感を基盤とする『共通感覚』を働かせ、患者が感じている身体の感覚を自分の全感覚を通して感じ取る高度な技」だとする。すなわち、「看護師は歩いているのではなく走っていて、病室内で人工呼吸器を着け臥床している患者の呼吸音を聴き逃さなかった。走っている状態で呼吸音を聴くとは、一瞬でその音を捉えていたということになる。しかも、看護師は患者の呼吸音を捉えただけでなく、音の質感や大小などさまざまに聴こえてくる音の中から、気管内吸引が必要な音を聴きわけていた」と表現する。
 筋ジス病棟に限らないことだが、準夜や深夜帯ともなると、40人の患者を二人や三人の看護師で看護することになる。患者の日常生活のさまざまな援助をしながら、一方ではリスクの高い呼吸管理という仕事を同時に担っている。共通感覚を鋭く働かせなければ、安心できる看護はできない。
 この共通感覚は筋ジス看護に限らないものであり、「看護はタペストリーである」という言葉にも通ずるものがある。看護という仕事は患者の日常生活の単純にみえる繰り返しの援助(移動、食事、排泄、入浴など)であるが、この援助こそタペストリー(さをり織り)を織り上げていくときの一本一本の織り糸である。このような日常の鋭い「観察」があってはじめて患者のベースラインを把握でき、ちょっとした異変に気づき、重大な結果を予測できるのである。
■ 小村先生の筋ジス看護(後)
 そして東埼玉病院での「看護を語る」の実践の模様を紹介した後、「これからの筋ジストロフィー看護」として、「看護の記述と看護を伝承する」ことの重要性を説いた。
 看護を記述するとは、日常の筋ジス看護の経験知の言語化であり、オリジナリティのある看護を開発することである。伝承とは筋ジス看護の教育・研修であり、内外の学会への口演や論文による発表である。看護に限らず、医療の中で見出した新しい事実や次世代の後輩に役立つと思われる経験を積極的に発表し、そして論文にまで仕上げて欲しい。臨床研究とは、小さな発見の積み重ねである。
 最後に「筋ジストロフィー看護の開発」というテーマで、「一瞬で患者のSOSを捉える」重要性と、「ケアのバトンタッチ」について触れられた。筋ジス看護に限ったことではないが、看護の現場では安全を守るためのアンテナを張り巡らすことと、常に感覚を研ぎ澄ませておくことが大切である。
 「ケアのバトンタッチ」についても、なるほどと思える部分が多かった。
 患者をベッドから車いすに移すときなどによく経験することに、体位の決め方がある。健康な人ではもちろんのこと、脳卒中の患者のベッドから車いすへの移動は私でもできる。ところが失礼を顧みずに表現すると、筋ジス患者の身体は背骨のない軟体動物のように柔らかく、身体の体位を決めることは想像以上に難しく高度の技術を必要とする。二人がかりで行う場合もあるが、どのようにやっても患者にとって満足のいく体位が取れないと、患者も看護師もイライラしてくる。このようなとき、別の人にやってもらうと、すんなりスムースに成就することは日常の看護でよく経験する。先生はこれを「ケアのバトンタッチ」という言葉で表現したが、患者との距離を保つこと、ケアに行き詰まったときにはバトンタッチすることの重要性を指摘した。
 ケアには根底に、お互いの関係性というものがあり、信頼関係と表現してもいい。何の専門性も持ち合わせていない家族がベッドから車いすに移動させるときなど、簡単に体位が決まってしまうことはよく経験することである。
 「看護のArtは、即座に、一瞬にして意識的に深く考えることなく、私たちがその場にどんなふうに存在し、どのように行為すべきかを知らせてくれます(Peggyl Chinn、2004)」という言葉で講演を閉じた。
 小村先生の講演を聴きながら、私たちが筋ジス看護で感じていた「モヤモヤ感」を払拭できた人も多かったのではないだろうか。文字通り、適切な言葉で「看護を語って」くれた気がした。ただ先生が経験した筋ジス病棟は、おそらく100%デュシェヌ型筋ジストロフィーの病棟であり、当院のように半分近くは脊髄性筋萎縮症など「モノ言う患者」である病棟での対応とは、少し異なるかも知れないと思った。
 先生はこの講演では触れられなかったが、筋ジス看護の問題としてこの他にも、病気の受容や思春期の性の葛藤、患者と看護・介護者との権利主張と「わがまま」の問題、そして死の臨床という大きな課題が残されている。
■ 老後の幸せとは
 東京での会議の夜、浅草の福寿司で新鮮な魚と美味しい寿司に舌鼓を打たせてもらった。私にとってはもちろんのこと、多くの福寿司ファミリーにとってこのような「至福の時」が持てるのは、ご主人と女将さんがお二人ともお元気で、いつまでもお店を続けてもらってのことである。
 この夜も黙々と寿司を握っておられるご主人に、「大澤さん、今どこか悪いところがありますか」と聞いてみた。少しだけ手を休めながら穏やかな表情で「お陰様で、今のところ元気です」という言葉に安堵した。お伺いしたところ、このお仕事をはじめて52年間、数十年ほど前に腎盂炎で一月ほど入院された以外には、元気だということだった。
 そのとき、暖簾の向こうで仕事をされていたお女将さんが顔を出された。「みなさん、夫の健康だけを心配してくれますが、実は私が昨年から両手の指が曲がってきて、痛いのですよ・・・」と言われた。びっくりして出された両手を握るとやや熱感があり、指の第一と第二関節が少し内側に曲がっている。握手などでも痛いということなので、ふきんなど絞るのは大変だろうと想像される。水を使っての仕事なので、さぞかし大変だろう。いつもご主人の健康だけ気にしてきたが、このお店ではお女将さんあってのご主人である。
 このお店には東大の副院長をされていた五十嵐教授などもよく見えておられるので、整形外科も紹介してもらったらしい。ただこれといったいい治療法は今のところないらしく、痛みは続いているという。どうにか、ならないものだろうか。
 そしてその後の言葉が、私にはぐさっと突き刺さってしまった。かねがね自分も思っていることを、そのまま言葉で表現してもらった気がしたからである。「主人も私も、もう70を過ぎています。みなさんから頑張ってくださいと言われるのですが、仕事だけで人生を終えるのもどんなものかと思ってしまいます。もっと楽しいことなどして、人生を終えられたらとも思ったりします」。
 私ぐらいの年になると、先々の人生にそれほど時間が残されているわけではない。どうせなら、やり残したこともなく悔いなく人生を終えられたら本望といえるだろう。
 そうはいっても生きがいに繋げられそうないい高邁な趣味や、稽古事など持ち合わせていない。庭いじりやグランドゴルフだけではつまらないし、結局健康で、今の自分の仕事を続けられることが最大の幸せかもしれないという結論に落ち着いてしまう。
 でも福寿司の女将さんのいわれるように、ただただ働いて病気になったり、それだけで人生を閉じてしまうのも空しい気もする。そして私たちのエゴでご夫妻に、このまま働き続けてもらうのも同じように悪い気がする。
 よく、定年になった瞬間、それまでの生気が失われて急に年をとったように感じる人は多い。人間、健康だけを考えると、生涯現役という生き方が理にかなっているように思える。
 いむた池で宿泊研修があったとき、露天風呂にはいっていると白髪の高齢の男性が話しかけてきた。現在72歳で、県内の大手のホテルを退職して南九州病院に近い姶良ニュータウンに住んでいるという。暇があると、奥さんと県内の温泉巡りや海外旅行を楽しんでいるようだ。「定年になる前は、老後の生活にいろいろ夢を描いていたこともありました。でも結局、部下をせっつきながら仕事をしていた頃が最高ですよ」ということだった。
 そして定年後の生活のことを細々と教授してくれた。車は高いものは買わないこと、電化製品は定年前に10年は持ちそうなものを買い換えておくこと、家のリフォームも定年前に。年金だけでは足りなくなるので、若いうちに計画的に貯蓄しておくこと・・・。お互いに名前も名乗っていない身も知らずの人に、定年後のノウハウを教えてもらえるのは、温泉での裸の付き合いということだろうか。
 適当に人生を楽しみながら、そして仕事を続けながらが最も理想的な生き方だと思うのだが、これがなかなか難しいことだろう。
■ 信念で描いたそれぞれの絵
 学生時代の事故で首から下の運動機能を失い、口にくわえた筆で絵を描き続ける霧島市横川町の長丸修一さん(39)の初画集「一筆の旅路 口で描いた心の景色」が全国の書店で発売されている。12年間、全44点の集大成に「無感量。障害を抱えている人や、壁にぶつかって悩んでいる人に勇気を与えられたら」と話している(南日本新聞)。
 長丸さんは、私にとっては懐かしい名前である。
  20年近く前に、鹿児島大学農学部3学生の時に、学園祭で神輿を担いでその勢いで甲突川に頭から飛び込み、頚椎捻挫して完全に四肢麻痺となった。いつ頃だったか相談を受けたが、「現代の医学をしてもいかんともしがたく、ただ見守るしかない」ことを告げたことを覚えている。
 その後しばらくして、姶良郡医師会訪問看護ステーションの上園さんから、口にくわえた絵筆で風景等を描いているということは聞いたことがあった。先日、他の用事で上園さんに電話した時に聞いたら、「もう15年、訪問看護をしています。精神的にも随分、逞しくなっていますよ」ということだった。
 先日、厚労省のMさんが研修で来られたので、医療機関と地域との連携を知ってもらう目的で上園さんに同行をお願いした。上園さんは長丸さんのところも案内されて、この「一筆の旅路」という本を買ってきていただいた(上園さんから私へのプレゼントと勝手に理解して、私は長丸さんにちょっとばかりカンパした)。
 表紙は長丸さんが描いた帆船でカバーには絵筆を口でくわえながら描いている写真が添えられていた。「あとがき」で、長丸さんは12年前に、「母の日にカーネーションを、父の日にアジサイを描いて贈ろう」と口で絵を描き始めたという。「失敗と妥協の連続で、100%満足のいく作品は一つもありません」と謙遜されているが、歳月を重ねるごとにうまくなっているし、「力をいただける」ような絵である。そして自ら「目標を持って一生懸命頑張っていけば必ずよいことがある」と前向きに未来を捉えている。
 話は変わるが、ひと月ほど前に浅草の福寿司で、医療安全の本の出版記念会を開いた時に、日高君の描いたグラフィックをお土産に持っていったところ、出席者に大層喜ばれた。最初は日高君がどのような状態で描いているのかも分からず、それでも素晴らしいものだという賛辞を惜しまなかったが、詳しく説明すると信じられということになった。
 日高君はデュシェヌ型筋ジストロフィーという病気で、8歳の時に大隅半島の佐多から入院している。20歳から水彩画を描き始めたが筋力が低下して絵筆を持てなくなり、コンピューターグラフィックに転向した。23歳の時に人工呼吸器を着けて、以降ほとんど寝たきりの生活である。唯一動かすことのできる右手の親指のわずかな動きでパソコンを巧みに操作して、多くの作品を仕上げている。ひとつの作品に一月ほど要することも珍しくない。
 平成12年に「花のちから」という歌集を出版しているが、その中で、「花を詠い描き続けることで、私は自分自身のあるべき姿、進むべき方向を自覚できるようになりました。」そして同じ病気で平成10年に亡くなった轟木君を「彼はどんな時でも前向きな人でした。そんな姿を見て、私も前向きに生きようと思いました。それが私の原点です。」「もし、私が筋ジスでなければ、短歌や絵に出会うこともなかったでしょう。この筋ジスという病気にも感謝しています」とさりげなく書いている。
 彼の絵を見ていると、波打つ心も穏やかになっていくから不思議である。
■ 正しく恐れて、必要なだけ悲しむ
 「宿命」という言葉の意味を辞書で調べると、「前世から決まっている避けることのできない運命」とある。古来、地震とそれに伴う津波は日本人にとっては「宿命」ともいうべきもので、適切な対応で被害を最小限にとどめるしか術はない。
 国の有識者会議は東海、東南海、南海地震などが同時発生するマグニチュード(M)9級の「南海トラフ巨大地震」について被害想定などを公表した。それによると、死者数は最大(在宅者の多い冬の深夜を想定)で32万3000人で、そのうち津波による死者は全体の7割の23万人に達するという。有識者会議では、迅速な避難により津波の死者は8割減らせるとして、国や自治体に対し避難施設や避難路の確保を図るよう求めている。ちなみに南九州病院のある姶良市はマップ上では震度5強であるが、津波の高さはわからない。
 そして報告書では、「正しく恐れて」被害を最小限とする対策を呼びかけている。
 この「正しく恐れる」ことがいかに重要であるか、先の東日本大震災の時の福島原発による放射能の影響を論じた時にもよく使われた。いたずらに悲観的にも、また楽観的にもなることなく、客観的に「正しく恐れる」ということである。
 ただこの32万人の死者が独り歩きして錦の御旗となり、震災対策なら費用対効果も無視して対策を講じるべきだという意見にも賛成しかねる。
 ところでこの「正しく恐れる」という言葉の出典は、寺田寅彦の随筆によるものであることはよく知られているが、いろいろ調べると必ずしも同意語ではないようである。
 出典は昭和10年に書かれた「小爆発二件」というもので、浅間山の爆発について書かれている。
 寺田は一度浅間の爆発を見聞したいと思って近くまで出かけた。そして小規模の噴火を火口から7キロ離れたところで体験した。十時過ぎの汽車で帰京しようとして沓掛駅で待ち合わせていたら、今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。爆発当時その学生はもう小浅間のふもとまでおりていたから、なんのことはなかったそうである。その時、別に四人連れの登山者が登山道を上りかけていたが、爆発しても平気で登って行ったそうである。「なに、なんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生が、さも請け合ったように言ったのに対して駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです」と言いながら、何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
 ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることは、なかなかむつかしいことだと思われた。
 最後の2行が引用される部分で、「正当にこわがることは、なかなかむつかしいことだ」と書いている。「正しく恐れる」という言葉は、どちらかというと言外に「必要以上に恐れてはいけない」というニュアンスに受け取れるが、寺田は「正当にこわがる」ことの難しさを強調している
 「必要以上に」という言葉をここで使ったが、ALSで闘病中の一色さんが、アメリカのダグラスさんの「ALSと付き合うために」というホームページを紹介してくれたことがある。その12ヶ条の3番目が「必要なだけ悲しむ」というタイトルで、次のような説明が加えられている。
 いくら希望をもちつづけても、この病気自体がとても深刻なもので、数年で死んでしまう可能性が高い病気であることも事実です。夢、目標、将来に対する計画なども失われてしまいます。パートナーとともに歳を重ねることも、子どもたちがりっぱな大人になる姿を見ることも出来ないかもしれないことに気づいてきます。病気が進行するにつれて身体の機能は次第に失われることになり、このことは好きな身体活動も次第に失われていくことを意味します。体が弱っていくと友人のなかには離れていくものもあるでしょう。なぜなら、彼らはそのような人間の傍にいるだけで苦痛に感じるようになるからです。このように多くのものが失われてしまうことを深く悲しむことは私たちにとって大切なことなのです。泣き叫び、涙を流し、愛する人を抱きしめ、そして一緒に悲しむ。必要なだけ悲しむことが大切です。そして、この病気を診断されて特に数ヶ月間は悲しむものなのです。
■ とんだこと
 世の中には、ついうっかりして「とんだこと」に陥ってしまうことがある。
1) 先日、朝早く鹿児島空港に車を駐めたときのこと、一台の黒っぽい高級車のライトが点灯している。その車の周りには人影はないので、スイッチを切るのを忘れてしまったのだろう。旅行から帰ってきてバッテリーはあがってしまっていて、うろたえることになる。
 私もスモールランプは消し忘れることはよくあるが、お互い気をつけよう。
2) 駒沢の機構本部に行くときのこと、羽田空港から渋谷まで、京急バスで行こうと考えた。普段は京急線で品川まで行き、JR山手線に乗り換えて渋谷駅までというルートだったが、時間的にも余裕があるし、首都高速から眺める東京の景色も悪くあるまいと思ったのである。乗客は数名で、がらがらである。 
 首都高速を下りて、渋谷東急ホテルで客を何人か降ろし、終点のシティホテルに向かっていた。ところが前方の信号は赤だというのにどうしたことか、運転手はスピードを緩めようとしない。私は運転手の背後の一番前の席に座り前方を眺めていたので、「この運転手さん、どうしたのだろう」と思っていたら、ぶつかる寸前で急ブレーキがかかった。衝突寸前である。車内は、大きな荷物が倒れたりする音がする。運転手さんは「すみませんでした」とマイクから平謝り。
 プロでも、頭の中が一瞬、空白になることがあるようだ。
3) 与次郎にある鹿児島県看護協会で、医療安全研修会の講師を頼まれていた。朝の9時から10時までの1時間の講義だったが、5分ほど時間を残して余裕で終わった。司会の女性が、「こんなに『高名な先生』に質問できる機会はないのですから・・・」と、歯の浮くような持ち上げ方をしてもらって壇上から降りる。
 階段を颯爽と下りていると、一人の中年の女性(受講生)が追いかけてきた。「ありがとうございました」と言った後、ちょっと言い及んでいるように見えた。「『高名な先生』に質問することをためらっているのだな」と思ったので、「何でもどうぞ」とここでも余裕で話しかけた。すると「私は前の方に座っていたものですから・・・先生のズボンの裾が少しほどけていたようでした・・・」と言うではないか。予期していなかった言葉に、しばし動揺する。一応、「どうも・・・」と余裕なく言って、そのまま外に出て車に乗った。
 「どこだろうか」と思って、ズボンを触ってみるがよくわからない。病院に帰ってもよくわからないまま医療安全室に顔を出したら、神野師長さんが「先生、股のところが破けて見えますが」と、めざとく見つけてくれた。自室に帰りよく見ると、確かに左足内側部の鼠径部に近いところが、5センチほどほどけている。きっと朝、テレビ体操をするときに、「安いズボン」なので仕上げが粗く縫い目がほずれてしまったのだろう。
 余り目立たないところなのでそのまましようかとも思ったが、午後から回診もあるし、内村さんにお願いして取り合えず縫ってもらうことにした。裁縫道具を持ってきて、手際よく縫い合わせてくれて、めでたく一件落着と相成った。
 おそらく今ごろ、看護協会では昼食でも食べながら、「あんたみた。あの『高名な先生』、股んところが破けていたんよ。本当のヒヤリハットだよね」と肴にされているのではないか。
 その日の午後の回診の途中で、かいつまんでこの話を披露した。「○○さん、ご主人を亡くして49日が開けたところでまだふさいでいました。久しぶりに思い切り笑った顔をみました」とは、いつも相手への気遣いを忘れない野村師長の慰めの弁である。
■ 筋ジス病棟同窓会(前)
 なんと表現したらいいのだろうか、さまざまな仕事や重い障害を持つ人が集って、夜遅くまで飲んだり、食べたりしながら「遠慮することなく、言いたい放題」歓談できる。時空を超えて、30数年前の世界に一挙にタイムスリップしたような、しかも不思議なたおやかで温かな連帯感を感じることができた。青春時代の一時期を、「筋ジス村」で一緒に生活した人たちならではのことかも知れない。当時の病棟は、治療するというよりともに生活し、教育していくという側面が強かったように思う。
 10年ほど前に当院の筋ジス病棟を退院した患者さんのグループが、NPO法人自立生活センター「てくてく」を運営している。その職員の研修会を開くということで、かって当院で児童指導員として働きながら、その後臨床心理の分野で博士号まで取得した西村君(現西九州大学教授)を講師に招いて研修会を企画することとなった。私も岩崎さんから研修会の場所の相談を持ちかけられたが、県の医師会館は使用料で折り合わず、結果的には鴨池の友愛館で開催したようだ。
 その夜、懇親会に誘われたので、鹿児島市の天文館公園の近くの「和(なごみ)」を探していた。ちょうど公園の交差点の所で、同じ目的で歩いていた今村さん(やはり当院で児童指導員として長いこと働いていたが、当院を辞職後独立し、鹿児島県臨床心理士会会長として活躍)とばったり出会った。インターネットの地図を頼りに歩いていたら、出入り口に簡易なスロープをしつらえている店があり、そこが和(なごみ)だった。
 中に入ると、奥のテーブルには既にけんじろうと岩崎さんが座っていた。けんじろうは現在、宮古島(沖縄県)に住んでいるということだが、実に久し振りの再会である。確か47歳ということだったが、相変わらずよくしゃべるし、昔と少しも変わっていない。それでも奥さんのしゃべりには負けるようで、向こうの椅子に座っている奥さんに「本当にもう、いつも世話を焼きすぎて、仕切るんだから」と、座る場所などを指示している奥さんに突っかかる。
 「でも、まあお互いよく生き長らえて、このような会ができるなんて、考えてもみなかったなあ」という言葉は、集まった全員の感慨かも知れない。
 「小学校の時、かあちゃんに元気になって帰って来いとだまされて、徳之島から入院したんだから」と鹿児島弁のイントネーションで話す。「よく鹿児島弁を覚えているね」と向けると、「そりゃ小さいころ、10年も生活すると忘れませんよ」という。
 最近では障害者を巡る状況も、少しずつではあるが、いい方向に変わってきたようである。この店もインターネットで調べたそうだが、電動車いすで出入りできるようにと、入り口のスロープは店側で付けてもらえたそうである。また岩崎さんの話でも、街を電動車いすで移動しても自然に溶け込める場面も多くなり、特段自分の障害を気にすることも少なくなってきたという。
 そのうちに、鼻マスクの呼吸器を付けたひろしやまゆみ、ひろこ(年に1回病院を受診しては、私にある宗教の勧誘を続けている)、やまだ、みちえとみゆき(姉妹)なども集まってきた。お互いの呼び方は、小さいころのままである。当時、私より年長者にはさん付けであるが、そうでない場合には呼び捨てである。また元職員としては、今村さんの他にも、今隈先生、浜崎看護師、坂元保母さんなどが参加していた。
■ 筋ジス病棟同窓会(後)
 それぞれに思い出があるが、ここでは「けんじろう」について触れている。講師の西村君が、けんじろうの対面に座る。「今日の講義、あれOTじゃないの、手が疲れてしまったよ」と、朝の10時から夕方の4時まで行われたコラージュ技法を取り入れた?研修会の模様を披露する。西村君の話では「重症児と異なり、筋ジス患者のコラージュには、自己主張の言葉が多く散りばめられていて面白い。やはり言葉で自己表現をするということかなあ」と分析していた。
 「けんじろう、今年のマンゴウ、小さかったし、熟してもいなかったよ。もっとちゃんとしたものを送れよ」と西村君。「ごめんごめん、でもよく言うよなあ、送ってもらっているのに。確かに今年はいいものがなかったんだよ。でもまあ、自分が今ここにあるのは、西村先生のお陰だからなあ」とけんじろう。
 その言葉は真実で、西村君あっての今のけんじろうである。
 信じ難いことだが、昭和50年代、西村君は20歳代独身の時代に、筋ジス病棟に入院していたけんじろうを「普通高校に入学させる」という一念で、中学3年の時に自分の家に引き取った。そして一年間、勉強や日常生活の面倒をみたのである。「あの当時、まだ走れるのに、入院させておくのはけしからんと単純に思ったし、普通高校で教育を受けさせたかったからなあ」(当時、養護学校には高等部はなかった)と振り返る。「でも、毎日食事を作ったり、飲みに行くときにはけんじろうの食べるものを用意してから出かけたんだよ」と、さぞかし大変だっただろうと思う。
 けんじろうは中学を卒業したが普通高校の受験には失敗し、谷山にある私立の高校に入学した。そして高校卒業後障害者のための訓練校に通い、加治木町にあった印刷所に就職した。また訓練校で知り合った沖縄の女性と結婚した。教会であった結婚式の仲人は西村夫妻が務め、空港ホテルで行われた披露宴には私も出席した思い出がある。あの頃はよく看護師さんの結婚式にも出席していたが、「前山さんの隣の席なら」と無理な注文をして困らせていたものだ(説明省略)。
 しばらくして、けんじろう夫妻の子どものことで、みゆきから相談を持ちかえられた。医者の立場でいえば、「けんじろうは脊髄性筋萎縮症なので劣性遺伝であるが、奥さんの病気では優性遺伝することもあるので慎重に考えた方がいい」というような返事をした。ところが世の中のこと分からないもので、生まれてきた二人の子供はすこぶる元気で、成長して両親の車いすを押している様子が週刊誌で取り上げられたこともあった。現在、21歳になった長男は施設で働いており、19歳の次男はOTの専門学校に通っているという。
 ところで今隈先生とは昭和52年に、中島先生との3人のコンビで筋ジス病棟を担当した。まだ患者さんも若く、元気な時代で、いろいろな行事が盛んだった。夏には指宿や霧島などでの療育キャンプを計画し、病院内に本格的なお化け屋敷もこしらえて、子どもたちを怖がらせたこともあった。冬はクリスマスで、あの頃流行っていたピンクレディーになりきって、踊ったりしたものである。
 浜崎さんには、稲元師長とともに、当時の筋ジス・ALSの看護研究をリードしてもらった。現在は加治木養護学校で週に一日ほど、養護の仕事をしている。当院の副師長から指宿病院の師長に昇任し、私としては将来的にはまた南九州病院に帰ってもらいたいと思っていた。ところが思い通りには行かないもので、たまたま助産師の資格も持っていたので、産科病棟の師長になった。資格はあっても経験は少なかったが、助産師不足のために緊急時には駆り出されることもあったという。結局ストレスがつのって、53歳の時に辞めてしまい、南九州病院への異動は叶わなかった。
 なおこの懇親会には西村君の奥さんや3人の子供、今隈先生の奥さんと娘さん、それぞれの患者さんの介護者で、小さな部屋は一杯になった。西村君が乾杯の音頭をしただけでそれぞれの挨拶はなく、場所をそれぞれ移動しながら10時半過ぎまで飲んだり語り合った。最後にみゆきが、「来年は福永先生が退官のようなので、またこのような機会を持ちましょう」と呼びかけて散会となった。
 後日、山田からメールで、「どの人もいつ死んでもおかしくないので(笑)、みんなが生きてるうちにまたこんな機会を作りたいものです」とはよく言い得ている。
■ 高齢夫婦の心中事件
 先日、松下忠洋金融担当大臣(73歳)が自殺して、内外に衝撃が走った。鹿児島では地元選出の大臣ということもあって、かなりの関心である。
 一方、介護疲れなどが原因となって、高齢夫婦の無理心中という痛ましい事件が最近よく報道されている。
 もうずいぶん前のことになったが、家でテレビを観ていたら、次のようなニュースが放映された。
 「○月○日午後10時半ごろ、鹿児島県○○市の無職Uさん(75)方の1階寝室で、Uさんが死亡しているのを帰省した長男が発見、110番した。約2時間後、敷地内の倉庫で妻(69)が首をつって死亡しているのを駆け付けた○○署員が見つけた。○○署によると、Uさんの遺体は死後数日がたち、首に何かで絞められたような痕があった。同署は司法解剖して死因を特定するとともに、妻による無理心中の可能性があるとみて調べる。同署によると、Uさん夫婦は2人暮らし。住宅と倉庫は内側から施錠され、第三者が侵入した形跡はなかった。Uさんの遺体は布団をかぶった状態だった」。
 まことに痛ましい事件である。
 実はこのUさんは、私が10年ほど外来で診てきた患者さんである。軽い小脳症状があったが、最近は調子もよく、先月も笑顔で「庭野菜作りが楽しいです」と話されていた。いつも言葉は少なめで、ぼそぼそとどもりながら話すことが多かった。この間、いつも穏やかな性格で、一度もトラブルは経験したことはなかった。
 私は奥さんも当院を受診されていたことは、今回の事件まで知らなかった。あとでわかったことだが、当院の呼吸器内科を受診されていたようである。
 さっそく病院に電話すると、「奥さんのカルテを見せて欲しい」という警察からの依頼で、医師と相談してコピーを警察に渡したという。どうして私の方にはそのような要請はなかったのかと考えてみたら、今回の事件では被害者ということになる。
 翌日病院で、奥さんの主治医だった呼吸器内科の先生に聞いてみたら、最近、「私の言うことを聞いてくれないなど、夫に対する多少の不満らしき言動があり、また鬱っぽいところもみえたので精神科の病院を紹介した。それでも症状としてはさほど深刻には見えずに、軽い抗うつ薬が処方されていた」という。
 特に夫婦仲が悪そうには見えなかった高齢の「普通」の奥さんが、夫を道連れにして無理心中を図ったということに私は大きな衝撃を受けた。
 何が原因だったのかと考えているうちに、「私の言うことを聞いてくれなかった」という部分に引っかかった。というのは、夫にはかなり強度の難聴があり、外来でも名前を呼んだだけでは駄目で、看護師さんに待合室まで呼びに行ってもらうこともしばしだった。おそらく家庭でも、奥さんの問いかけにほとんど答えることができない状態ではなかっただろうか。
 その結果、相互のコミュニケーションがはかられなくなって、大きな溝が生じ、今回のような悲惨な事件に至ったのではないだろうかと推察することである。
■ 共生ホーム「よかあんべ」(前)
  昨日は「敬老の日」だったが、65歳以上の高齢者が3000万人を超えたと報道されている。一人ひとり、老後をどこで暮らすかは、それぞれに大きな課題である。それも高齢で、そして入院するほどでもない病気を抱えたとき(要支援、ないし要介護状態)である。住み慣れた自宅で過ごせればそれにこしたことはないが、介護力などままならない場合も多い。
 私の外来に通ってきていた3姉妹がいる。姉妹といって80歳前後でありが、一番下の妹が最近認知症を発症して、精神病院に入院して来れなくなった。入院するほどのこともなかったが、さりとてひとり暮らしとなると大変である。「毎日、3回ぐらい電話が来て、帰りたいというのですよ。でも昼間は私たちが面倒をみれてもずっとというわけにもいかないし・・・」と、二人の姉は涙ながらに切ない気持ちを話していた。
 このような時に利用できる小規模多機能型居宅介護施設は、重要な選択肢の一つになり得るのではないだろうか。
 ちょうど一月ほど前、厚労省のMさんが当院に研修にこられた時に、共生ホーム「よかあんべ」を紹介した。昔からお世話になっている黒岩さんが手塩にかけて創りつつある施設であることはよく承知していたが、訪問するのは初めてだった。
 ホームページには次のように書かれている。
 築(推定)100年の民家をそのまま活用して、定員10名の通所介護事業を行っています。
 定期的な御利用のほか、御本人やご家族の必要な時に柔軟に対応できる事が、小規模な「よかあんべ」が提供していくサービスだと思っています。そして、自宅で介護をするときに大きな問題となるご家族が都合や病気などで家を留守にしなければならない時は、自主事業でお泊りを利用して頂いてます。自宅で、住み慣れた地域で、ご家族、ご利用者さんのあきらめないで良い暮らしを支えるお手伝いをしたいと思っています。
 場所は、加治木町の中心部の椋鳩十記念館や加治木高校から高速道路に向けて少し入った住宅街にある。幹線道路から、まだよく整備されていない昔ながらの狭い道路をしばらく行くと、普通の民家が見えてきた。庭先に車を停めたが、庭のテーブルの上には採ってきたばかりの茄子やトマトが並べられていた。
 昔ながらの段差のある玄関を上がると、居間が4つほどあり、その一室にソファーや椅子に7,8人ほどのお年寄りが思い思いに座ったり、職員と話をしていた。かなり高齢の人が多く、認知症が進んでいるのか、きちんと意思を伝えられる人は少ないように思えた。
お昼前に伺ったので、数人の職員が昼食の準備にかかっていた。
 「この方は、脳梗塞で家では寝たきりだったのですが、ここに来てすっかり元気になって家族からも喜ばれています」と黒岩さんに手を出しているおばあちゃんをあやしながら黒岩さんが話してくれる。窓際に座っているおじいちゃんは、ぼおーと天空を睨んでいる。
ここにも、超高齢社会の一つの縮図がある。
 最近、高齢者用のケア付き高級マンションができているが、建物の設備は豪華でも地域との交遊はなく、もっぱら家族単位のものとなっている。もちろん人それぞれの考えがあり、なかにはプライバシーを重視して地域や周りの人との接触を好まない人もいる。
 ただ黒岩さんの考えは「認知症や身体的な機能低下により自分自身の存在意義を見出せなくなったり、自信を喪失したりしている人と一緒に、心の奥底にある「声」を一緒に考え、代弁し、実現するために、その人が大切に辿り、創り上げてきた人生という物語を実現することが、私たちの使命であると考えます」である。
■ 共生ホーム「よかあんべ」(後)
  先日のホームページには「よかあんぺ・夕涼み会」の模様が写真とともに紹介されていた。・・・たくさんの方のお蔭でよかあんべがあります。その感謝の気持ちを込めてささやかではありますが行いました。雨がずっと心配でしたが、16時~18時の予定していた2時間だけまさにピタッと止んでました。不思議ですねぇ。はっぴもちょうちんも、全部借り物です。ジュースやカレー、ウインナー等の出店もロコペリさんに全部お願いしちゃいました・・・・・・近所の踊りグループの方々です。平均年齢は女性に対して大変失礼ですが、相当なもので、最高年齢は96歳、凄いです・・・・・・加治木中学タンス部の演技です。オープニングふさわしく、元気に笑顔で踊ってくれました・・・・・・ 最後の閉めはよいどこいスタッフの大山の三味線でした。みんなうっとりでした・・・
 これぞまさしく地域と一体となった施設の特徴である。
 ところで、この「よかあんべ」の運営する小規模多機能施設「たから」が、NNNのドキュメントとして、深夜帯で取り上げられていた。
 宝島のたからもの~100人の島の介護難民~というタイトルである。
 宝島は鹿児島市から330キロ、十島村の一番南端の小島で、十島丸という船で13時間もかかる。ここにはかって介護施設はなく、介護保険料を払いながら介護サービスは受けられなかった。そのため高齢で介護が必要になると住みなれた島を離れて、鹿児島市などの転居せざるを得なかった。このような状況の地域が全国に206ヶ所あるということだが、宝島もその一つだった。
 この島に昨年春、住民生活センターの一角を借りて、小規模多機能施設「たから」がオープンした。「一日でも長く島で暮らしたいと思う人の生活を支えたい」という黒岩さんなどの思いと、村の思惑が一致して、所長として27歳の米倉祐介さんが赴任した。そしてその実績が認められて、国の交付金3000万円がおりて、新しい介護施設が完成した。宿泊もできるようになり、人員は基準に満たないが特例として介護保険の施設に認められることになった。
 開所式の日、89歳の最高齢の女性がテープカットし、みんなの「やっぱり我が島が良いですよ」というお年寄りの表情はいかにも嬉しそうだった。真っ赤なハイビスカスに、カラフルな蝶々がが舞っていた。
 黒岩さんからの「よかあんべ通信 (2012年09月10日)」によると、
 「宝島から夕べ帰ってきました。途中の島の港の着く位置が多少変更になったようで30分早かったです。地域密着型サービスでは、2か月に1回の運営推進会議が必須になっています。宝島の事業所でも当然必要で、その会議をしてきました。今回は、宝島以外の島の方々も研修を兼ねて参加してくださり、大勢での会議になりました。会を重ねるごとに活発な意見が頂け、『この事業所はこの宝島に必要なんだ』とはっきりとおっしゃっていただけます。本当に涙が出るほどうれしいです。島の方々の期待を裏切ることなくこれからもがんばっていきます」とある。
 創ることも難しいが、もっと難しいのは継続していくことである。
■ 東山魁夷館と善光寺
 ずいぶん前から、一度は長野県信濃美術館の「東山魁夷館」を訪ねたいと思っていた。東山は私がもっとも好きな日本画家で、画集なども買っている。たまたま金曜日に東京で会議があり、翌日の土曜日があいたので秋の一日、半日ほどかけて念願を達成することができた。
 8時過ぎの東京駅から信濃新幹線「あさま」に乗ると、10時前には長野駅に着く。駅前から善光寺大門前行きの直行バスがあり、10分ほどで参道前に到着する。そこからまず、「牛に引かれて善光寺参り」ならぬ善光寺参拝をしたが、このお寺は宗派の別なく宿願が可能な霊場で阿弥陀信仰の聖地であるという。また女人禁制があった旧来の仏教の中では、稀な女性の救済(女人救済)があげられている。ただ大門の仁王像や内部の仏像は、真言宗のお寺に近い印象を受けた。
 さて東山魁夷館は善光寺の西隣の城山公園内にあり、谷口吉生(有名な建築家の谷口吉郎の息子)の設計で、モダンでかつ落ち着いた雰囲気の建物である。善光寺から城山公園に入ると高いヒノキ(モミ?)の木が整然と植えられており、その脇を通って進むとエントランスとなる。入り口はいわゆる美術館というような厳めしさはなく、「簡潔な意匠と十分な機能性」といった意図がよくうかがえる。
 ちょうど私が訪問した日は「夏から秋にかけての自然の変化」をメインテーマに、東山魁夷が描いた情緒溢れる作品約80点、展示されていた。そして11時からは学芸員による「おしゃべり散歩」という企画もあり、女性の学芸員が展示作品についての説明やその背景について語ってくれた。
 どうして長野県に東山の美術館ができたのかは不思議に思うことだが、自身が次のように語っている。
 私が初めて信州へ旅したのは、今から64年前の大正15年夏のことでした。当時、東京美術学校日本画科の一年生だった私は、友人三人と木曽川沿いに天幕を背負って、10日間の徒歩旅行をし、御嶽へ登りました。横浜で生まれ神戸で少年期を過した私は、初めて接した山国の自然の厳しさに強い感動を受けると共に、そこに住む素朴な人々の心の温かさに触れることが出来たのです。・・・
 いつの間にか私も年を重ね、子供がいませんので今の内に、自家所有の作品などの処置について、真剣に考えねばならない時期になりました。いろいろ考えました末に、私の作品を育ててくれた故郷とも言える長野県にお願いしたいと決心したのです。甚だ唐突なことのようですが、それは私の心の中で長い間に結ばれてきた信州の豊かな自然との強い絆が今日のような結果となったわけです。
 この日の作品は、ヨーロッパに留学時代の風景画や京都の「京洛四季」と奈良の「大和春秋スケッチ」、中国「天山遥か」スケッチ、「白い馬の見える風景」などが展示されていた。日本画は痛みやすいいので、一年に2ヶ月ほどの展示しかできないということだった。 
 入口には代表作の「道」、出口には「秋翳」の精巧なタペストリーが掲げてあった。タペストリーとは「つづれおり」のことだが、丹念に横糸と縦糸を組み合わせて織り上げるものだが、ある意味では東山の制作スタイルにも共通することかもしれない。たとえばこの秋翳の制作にはスケッチや習作を何度も繰り返したことが伺え、いわゆる落款印を押すまでにどれほどのスケッチと習作を繰り返しているのかがよくわかった。
■ 2012年院長協議会九州支部総会 
 今年の院長協議会九州支部総会は、9月14日、宮崎市のシーガイア内の会議場で開催されることになった。昨年までの4年間は九州支部長として会議を主催する立場にあったので何かと気忙しかったが、今年からは一役員ということになり、気分的にはずいぶん楽である。
 当日の朝、本部の桐野理事長、清水副理事長、梅田企画役、九州ブロック事務所の村中理事などの院内巡視があったため、病院を10時15分頃に自家用車で出発した。役員会が12時から予定されていたので、できるだけ早く着こうと思い、小林周りで九州自動車道にするか、末吉経由の西九州自動車道にするかちょっと迷ったが、かってよく走っていた前者を選んだ。高速道路脇にはススキの葉がたなびき、彼岸花もきれいに咲いていた。でもそのような風景を楽しむ余裕はなく、今日はエコ運転も断念し、ただひたすら走った。プリウスのドライブ情報の到着予定時間が少しずつ前倒しになり、11時45分には目的地に到着できたということは、結構なスピードで走ったことになる。
 役員会に続いて、総会、シンポジウムなどがあり、3時過ぎから伊藤一彦先生の講演「若山牧水の歌と人生」があったが、非常に面白かった。さすがに多くの歌集の受賞者だけあって豊かな博識と縦横無尽な話題、いかにも牧水研究では第一人者(牧水記念館館長)だけのことはあり、時間を忘れて聴いていた。「サラダ記念日」で有名となった俵万智からはお兄さんとも慕われているようで、最初の頃は創作のお師匠さんでもあったようである。ちなみに伊藤先生は前加治木養護学校の先生だった川涯先生の友達で、鹿児島でも何度も講演されたことがある。
 牧水は伊藤先生にとっては同郷の歌人で、また早稲田大学で学んだという共通点ももっている。牧水の生きた時代は明治18年から昭和3年(44歳で死亡)で、伊藤先生に言わせると、非常に幸福な一生だったという。幼少時には自然環境の豊かな土地(日向の坪谷)で、医師をしていた両親に大切に慈しまれて育った。長ずるに自己表現である歌を持ち、その歌を受容してくれる友人を多く持った。また惚れっぽく、酒を愛し、放浪の人生であったが、死ぬときは安らかなものだったという。昔は宮崎県でも牧水の評価は芳しくなかったが、最近、いろいろな形で再評価が進んでいるという。
 この日は30種ほどの有名な歌を、解説付きで紹介してくれたが、有名な歌を四首ほど紹介したい。
・けふもまた こころの鉦(かね)をうち鳴らし うち鳴らしつつ あくがれてゆく
・幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
・白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ 
・山を見よ 山に日は照る海を見よ 海に日は照る いざ唇を君
 この夜はシーガイアに泊まったが、豪壮であるがいかにもバブル期のお化けのようなホテルで、ムダに広く機能的ではない。朝食会場に行くにも随分長い距離を歩かされる。もっとも驚いたのはパソコンの接続で、一日の使用料がなんと1575円である。今時、どこのホテルでも無料だというのに、これではよっぽどのことがない限りリピーターにはならない。
 宿泊したのは30階だったが、窓の前に拡がる松林と太平洋という取り合わせはいかにも素晴らしい。この朝も4時頃には目が醒めたので窓から外を眺めていたが、夜明けとともに灯りを点けた釣り船?も見えてきて、「これぞシャッターチャンス」と思って撮ったがフラッシュがたかれてうまく撮れなかった。
 6時から朝一番で朝食を摂り、6時45分にホテルを出発し、今度は都城で九州自動車道をおりて東九州自動車道に乗り換えた。ガソリンの消費は少ないと思うが、時間的には20分ほど余計にかかることがわかった。
■ 2012「宿泊研修」 in 藺牟田池
 今日(9月21・22日)は恒例となった病院行事の一つである「宿泊研修」の日である。
 昼過ぎに基金の審査会に立ち寄ったあと、鹿児島中央駅で講師の西村先生をピックアップして、車で藺牟田池に向かった。西村先生とは三十数年来の知己であり、車中では当時の筋ジス病棟での様々な話題で、一時間があっという間に過ぎた。
 西村先生は1976年に指導員として南九州病院に就職し、都合20年近く当院で働いたことになる。講演でも触れていたが、76年から筋ジス病棟、83年から重症児病棟、そして91年から小児慢性病棟で働いた。この時の臨床経験が「心理学」を志すきっかけとなり、現在の「心のケア」の臨床と研究の礎となっているという。
 生まれは長崎県で、大学を卒業して飛び込んだ筋ジス病棟だったが、指導員としての業務内容に関してはまだ確立されておらず、「何でも好きなことをしてください」と上司には言われたという。当時の筋ジス病棟には「頑張って治療したら治るよ」と言われて、親元を離れて入院した小学生が多数生活していた。西村先生もまだ20歳代の青年であり、毎日の仕事が楽しく、お兄さん的な役割だったようだ。夜も消灯の9時頃まで子どもたちと遊んだり、本を読んであげていたという。休日は県内各地に家庭訪問し、まさに心身ともに「のめり込んでいった」という。
 あの頃の筋ジス病棟は、患者にとっては生活の場、教育の場、そして医療の場であった。看護師は母親の役割も果たしていた。ある医療相談で、今は亡きT君のおばあちゃんの言った言葉が忘れられない。看護師が「しつけができていない」という発言に、「うちの孫は5歳の頃から入院しております。その後ずっと病院に入院しておりますので、しつけの責任は病院です」と言われて二の句が告げなかった。
 またあるとき、県知事が訪問したことがあったという。西村先生が子どもたちを壁の前に立たせて膝をストレッチしていたら、「今からラグビーの練習ですか」と声をかけられた。当時の子どもたちは頭部の保護のために「ヘッドサポーター」をしていたので、知識のない知事が誤解するのはやむを得まい。カズユキが「ラグビーができたら入院するかよ!と怒ってねえ」との言葉に私も大笑いした。 
 さて彼の講演のタイトルは「関わること つながること」というもので、逆説的には「関わらないとつながらない」ということである。
 現代は生きるうえで、さまざまな困難が渦巻いている。厳しい生活上の困難や生活における情緒的交流が欠如すると、環境との不調和が生じて、何ともいえない不快な感覚となる。そして「心地よく生きられない」叫びが、身体症状として頭痛や吐き気、関節の痛みなどとなって現れる。
 「心のケア」を人間の一生にあてはめると、乳幼児期は家族との、児童期は仲間との、成人になると社会との、そして高齢では再び家族との関係(ふれあい)となる。その関係を通して、生きる上でのエネルギーをもらっている。心が適切に育たなければ心地よさの欠如となり、心の安全・安心が失われる。心のケアとは支えていくことであり、「安心基地」の提供ということになる。
 傷ついた心を回復させる「心のケア」とは、クライアント(相談者)との丁寧なコミュニケーションであり、自分が大切にされているという体験を持たせることである。傷ついた人に寄り添うには、自分も痛みを伴なわなければならない。そこには、ほどよい「湿気」と「謙虚さ」が必要である。
 「向き合う」とは、怒りや悲しみを受け止めて安全感を保護するという作業である。包み込みの世界を体験させ、不安を包み込むことが心の支援の中核となる。そして安定した環境や安定できる人が傍に寄り沿うと、次第に人間性の回復が計れるようになる。
 一時間足らずでは思いの丈の半分もしゃべれなかったのではと思うが、スタッフのそれぞれの心に、大きなインパクトを与えたのではないだろうか。
■ 井形先生を囲む会2012(前)
 9月22日は、待ちに待った2012年「井形先生を囲む会」である。今年の会は、広島県福山市にある脳神経センター大田記念病院院長の栗山先生のお世話で、「鞆の浦」で開催されることになった。 
 4年前に始まったこの会であるが、鹿児島大学医学部第三内科の創始者であり、私たちにとっては恩師にあたる井形先生を囲んで、先生のご健康とお互いの親睦を図ることを目的にしている。出席者に特別の制限はないが、原則として昭和53年入局より古参の医局員となっているようである。井形先生は現在84歳になられるが、すこぶるお元気で、現役の学長(名古屋学芸大学)として大活躍されている。日本尊厳死協会の理事長は退任されたが、今度は日野原先生の設立された「日本総合健診医学会」の理事長になられたという。.
 当日、私はいむた池での「宿泊研修」で講師をしてもらった西村先生と一緒に、博多行きの新幹線に乗りこんだ。彼は新鳥栖駅で降りて、私は博多駅で「さくら」に乗り換えて福山駅で降りた。ホテルのシャトルバスの時間まで少し時間があったので、駅の前の福山城の城壁の前の公園を少し歩いて、14時40分発のシャトルバスに乗ると、浜田、丸山、原田、中川ご夫妻もご一緒である。
 会場の「鞆の浦 ホテル鴎風(おうふう)亭」まで約30分足らずである。このホテルは瀬戸内海の島々を眼前に望む風光明媚な場所に建っている。部屋の机の上に置かれた270度のランドスケープによると、波静かな鞆の海(宮城道雄はこの海のインスピレーションから、「春の海」を創作したことでも有名)の向こうに福山港から右に向かって、笠岡・神島、高島、白石島、北木島、仙酔島、走島、弁天島を眺めることができる。
 ところで鞆の浦は潮流の変わり目の場所で、船が風と潮の流れで航行していた時代、「潮待ち風待ちの港」として栄え、大陸との交易もあったという。すなわち、瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み、瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。江戸時代には北前船も往来し商人の町として栄え、今も名所、旧跡、古寺が数多く点在し、様々な商家の遺構を見ることができる。
 宴会まで少し時間があったので、屋上の露天風呂に行くと、高嶋教授と3歳になるというかわいいお子さんが湯船に浸かっていた。利発そうで人見知りをしない感じで、私の方に駆け寄ってきて「じじー、じじー」と声をかけられた。私にはまだ孫もいないのでこのような呼び方は初めてで、一瞬ひるんだ。教授は「沖縄のお祖父さんも眼鏡をかけて髪が白いので、同じように見えるのでしょうね」と、ちょっと釈明してくれる。しかし考えるまでもなく、「立派なじじー」であることに変わりはない。
 宴会は夕方の6時に始まった。
 会場に集まったメンバーをみると、多くは60歳を超えており、歳月の早さを感じる。私が第三内科に入局したときには、井形先生も45歳前後であり、今回参加していただいた助教授の永松先生も40歳前の油の乗り切った壮年医師だった。
 郡山先生の司会で、パワーポイントなども使って近況報告となり、井形先生から力強い声で井形家の10大ニュースを報告された。そして笑いながら、「今日は成年後見人を二人連れてきました」と、息子さんと娘さんを紹介された。お二人とも13年前に亡くなられた奥様によく似ておられる。重大ニュースの一つには、現在学長をされている名古屋学芸大学が10周年(愛知女子短期大学が前身)を迎えるということで、そのパンフレット(10年の歩み)も配られた。井形先生の元気なお姿を拝見しながら、ここに参集したメンバーは誰しも、「井形先生あっての今の自分」と思っていたのではないだろうか。
■ 井形先生を囲む会2012(後) 
 永松先生は今年喜寿を迎えられたということだが、髪もふさふさとしており若くお見受けする。私たちは先生から臨床神経学のイロハを学んだが、生来手先が器用で、当時は血管造影のためのガイドワイヤーを手作りで工夫しておられた。現在は、その器用さを生かした木彫りの彫刻で、大分県教育長賞なども受賞されたという。先生と一緒に仕事をした期間は短かったが、個人的にも父親がくも膜下出血で入院したときには大変にお世話になった。また私には「お前が井形イズムをもっとも継承しているのではないか」と、いつも過分な言葉と励ましをいただいている。
 納先生は鞆の浦と聞いて、「宮崎駿が鞆の浦に長期滞在して【崖の上のポニョ】の構想を練られた散歩コースを歩きたい」と思ったという。私と同じ新幹線で福山駅に着いたのだが、早速タクシーで鞆の浦まで直行して探索をはじめた。ちょっとした情報と想像力を働かせて宮崎駿が逗留した家を特定し、いつも買っていたあんパンまで調べ上げていた。このプロセスを早速パワーポイントを使って紹介したが、かって筋ジストロフィーの家系調査での緻密さを彷彿させるものがある。
 次に日本画のその後の発展の話になり、福島県郡山市の星総合病院の新病院に「安達太良山と希望の光」をモチーフに、素晴らしい群青の日本画を完成させたという。院長の星北斗先生は東関東大震災で病院が全壊した時に、従業員全員を集めて「みなさんの給料は全部支払うし、近日中に再建する」と宣言し、見事に実行させた。私も星先生とは厚労省の「ALS患者の在宅療養支援に関する分科会」で、委員として数回ご一緒したことがある。そして、来年度は京都府立大学病院の新館にも、京都東山をモチーフとした日本画が飾られるという。まさに「絶好調」が続いておられる。また最近は「農業」にも進出し、玉ねぎやじゃがいも(要した費用を換算すると、一個1000円の玉ねぎか)も植え付けたという。
 このような近況報告(高嶋教授による医局情報や川崎医科大学の教授になられた斎藤先生の紹介も)が続いて(あとの人の分は省略)、所定の時間である21時までには語り尽くせないことも多く、私たちの部屋(47年卒の栗山。中村君の3人で、奥さんを同伴していない)に移って、11時過ぎまで飲み、そして語った。栗山君作成の「鞆の浦物語」は30分のところを5分の簡略版になったのはちょっと残念であった(また、この会も、計画段階からずっと仕切ってくれた)。
 翌朝、早く起きて温泉に行くと、納先生や高嶋教授は既に湯船に浸かっており、第三内科は代々「朝型の教授」ということになる。
 朝食が8時と遅いので、私も宮崎駿の愛でたという鞆の浦の街を散策することにした。石畳の狭い街路に古民家が並んでおり、いかにも風情のある景観である。まず小鳥神社の前を通り抜けて、沼名前(ぬなくま)神社の急な石段を登る。京都の祇園神社(八坂神社)の本社にあたり、旧社格は国幣小社と格式も高い。豊臣秀吉遺愛の能舞台は重要文化財に指定されている。 広い境内からは瀬戸内海が一望でき、20人ほどのお年寄りがラジオ体操をしていた。参道を右に海側に向かうと、いくつもの大きな寺が並んでいる。ささやき橋という、遊女と役人との悲恋の橋も残されている。しばらく海側に歩を進めると、突端に常夜燈が見える。1867年に鞆沖で龍馬と海援隊の「いろは丸」が沈んで引き上げられた展示館も近くにある。ちょうどこの時、丸山先生がいつものランニング姿で現れた。後で聞くと、この朝も7キロほど走ったということである。保銘酒の醸造元の並ぶ通りを歩いて、40分ほどでホテルに帰り着いた。案内図も持たずに飛び出したのであるが、あと
で地図で振り返ると、ちゃんと要所は押さえたことになっていた。
 帰りは中里先生と一緒で、新幹線で福山駅から、広島駅と博多駅で乗り換えて鹿児島中央駅に着いた。「井形先生を囲む会は、時間と金とを要しても、全然損をしたという気持ちがわかないのだよなあ」で一致した。井形先生からは、「『囲む会』は私にとって最も楽しい会で教師冥利につきます」とのメールを頂いた。
 来年は名古屋(大府)の健康プラザ内「健康宿泊館」で開催されることとなった。みんな元気で、集まりたい!
■ ラッキーとアンラッキーは半々か!
 飛行機で移動するとき、最も気になることはその日の天気である。特に台風が近づいているときには、「行きはよいよい、帰りが怖い」でなければいいがと思ってしまう。無事に予定通り帰って来れるかどうかが心配になる。
 9月末から10月1日の鹿児島、札幌、そして喜界島という日本縦断の「旅」は、結果的には「ラッキー」そのもので、台風の進路の合間を縫って滞りなく終えることができた。
 9月28日のANA一便で鹿児島空港を出発し、羽田で乗り継いで札幌に向かった。この時、台風17号が伊豆諸島沖に、また18号はまだ沖縄の宮古島の辺りにあった。
 札幌には「日本難病ネットワーク研究会」に出席のためだが、世の中には「偶然」というものがあるものである。この会に出席した里中さん(日本ALS協会鹿児島県事務局長)とは全く打ち合わせてはいなかったのに、飛行機の座席が隣同士になった。航空券は別々にとっており、全くの偶然というほかない。でも機内では共通の話題、共通の知人などであっという間に羽田に着き、その後も会場まで同道することとなった。(余談になるが、帰路は別々で、私は翌日、台風の影響もなく快適に鹿児島に帰り着くることができた。一方の里中さんは、翌々日に札幌・関空・鹿児島経路で帰る予定が、台風のため関空で足止めになり翌日帰る羽目になったという。かねての心がけのせいなのか、ピーチ航空というわけのわからない格安航空を選んだためか)。
 この研究会は平成16年に九州大学の吉良教授が中心になって立ち上げたもので、私は第一回の研究会で特別講演をさせてもらった思い出がある。そして来年からは発展的に「日本難病医療ネットワーク学会」になることになり、平成26年の第二回大会を鹿児島で、私が学会長を引き受けることになった。そのときには私は南九州病院を退任しており、学会の運営など難しいだろうということで最初は断った。ところが吉良教授が、鹿児島大学の高嶋教授に副会長をお願いして、運営も大窪医局長などを中心に行ってもらうようにするからということで引き受けることにした。まだまだ先のことになるが、一つの宿題である。
 さて研究会はシンポジウムと一般講演、ポスター発表、そして特別講演で構成されている。特別講演は伊藤たておさん(日本難病・疾病団体協議会代表)の「患者側から見た在宅療養」で、伊藤さんの40数年にわたる自らの闘病体験と北海道難病センターの活動などについて話された。現在は奥様の介護をしながら、そしてこれほど長い間難病に関わってきたということは、それだけでも凄いことである。また伊藤さんは、現在厚生科学審議会難病対策委員会委員の一人で、私と一緒に会議に出席しているので、私の名前も何度か出ることになった。
 夜は札幌駅構内の丸海屋パセオ店で懇親会が開かれた。100人以上が集まって大いに盛り上がったが、2年後の鹿児島ではどこでするか、これも思案のしどころである。
 私はそのあと、旧知の渡辺一史さんに電話をして、ホテルの近くの焼鳥屋で会うことにした。渡辺さんはフリーのルポライターで、「こんな夜更けにバナナかよ」や「北の無人駅から」という素晴らしい力作を発表している。特に前者ではその年の講談社ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞のダブル受賞に輝いている。
 しかし定職を持たないフリーの生活は不安定のようで、渡辺さんのように最優秀な作家でも経済的には非常に厳しいことがわかった。「それじゃ、生活保護以下になるんじゃない」と冗談のつもりで話すと、「全くその通りなんですよ」と心なしか声にも力がない。44歳と脂ののりきった年頃であり、彼の才能を発揮できる道は何かないものかと真剣に案じている。
 ところが、ところが世の中のこと、捨てたものでもない。10月4日の夜、携帯で渡辺さんのうれしそうな声を聴くことができた。焼鳥屋からの帰りにも話していたことだったが、今年の石橋湛山早稲田ジャーナリズム大賞の文学部門で「北の無人駅から(北海道新聞社刊)」が大賞を獲得したというニュースである。思わず「副賞の50万円が何よりですね」と言うと、「ほんとうに」という返事には実感がこもっていた。 
■ 医師法20条の解釈通知
  私たちの病院でも、もうずいぶん長い間、難病などを中心に在宅医療を行ってきた。
 厚労省も超高齢社会への対応として、在宅医療をその切り札と考えているようである。その場合によくあることだが、患者さんが在宅で亡くなった時の「死亡診断書」をどうするか、現場ではその解釈で混乱も見られていた。すなわち、病院で亡くなる場合には医師がその場に立会い死亡を確認できるが、在宅となるとそうはいかない。今までは、死亡する前に医師が24時間以内に診察し、当該診療に関連した傷病で死亡した場合には、改めて診察することなく死亡診断書を交付できると理解されてきた。
 ところが医師の診察を受けてから24時間を超えて死亡した場合には、「その医師が診断書を書くことはできない」とか、「警察に届け出さなければならない」とか(誤って)解釈されてきたようである。
 今回の「解釈通知」は次のようなものである。
 ①医師が死亡の際に立ち会っておらず、生前の診察後24時間を経過した場合であっても、死亡後改めて診察を行い、生前に診療していた傷病に関連する死亡と判定できる場合には、死亡診断書を交付できる。
 ②診察中の患者が死亡した後、改めて診察し、生前に診療していた傷病に関連する死亡と判定できない場合には死体の検案を行い、死体に異状がある場合には警察に届けなければならない。
 ただ逆に言うと、24時間以内に診察していなければ(すなわち24時間以降の場合には)、死亡後改めて診察しなければ(家族が取りに来ても)死亡診断書は書けないということになる。
 この問題に関しては、平成24年7月25日の「社会保障と税の一体改革に関する特別委員会」で、ある議員の質問に対して辻前厚労副大臣が上記のような答弁をしている。そして8月31日に、厚労省医政局医事課長名で「医師法20条ただし書の適切な運用について」の通知が出されている。
 私には元鹿児島県衛生部長をされ、鹿児島県の衛生行政の草分けともいえる内村裕先生から、9月5日に「忙しい先生に、余計な話しかも知れませんが。医師法第20条の件、気になっていましたので、参考になるかも知れないと転送してみます」という丁寧なメールを頂いていた。
 数年前のことになるが、在宅で人工呼吸器を装着して長期療養をしておられたALSの男性が、夜間に呼吸器が外れて死亡されたことがあった。奥さんは長い期間、文字通り身を粉にして介護に専心していて、この夜も夜半に痰の吸引をしてちゃんと呼吸器を装着したことを確認していたのに、なんらかの弾みかで脱落してしまったようである。この件では、警察がサイレンまで鳴らして自宅まで押しかけたと聞いて、警察の無神経さに驚くやら腹立たしくなったことを記憶している。田舎の家に、それも夜半にパトカーがサイレンまで鳴らして押しかけると、大変な騒ぎになることは目に見えている。奥さんは何度も事情聴取など受けて、その心的外傷は長い間続いていた。知り合いを通じて、県警にも善処をお願いした。この時に警察の返事では、「特に都市部では、いろいろなことが起きますので、やむを得ないこともご承知ください」というものだった。
■ 歩いてアンチエイジング
  この9月に、「シニアライフの安心手引」という小冊子が刊行された。発行人は(株)アール・シップで、代表取締役は有馬弘純さん(日本産業退職者協会)である。私は有馬さんに頼まれて、「歩いて生活習慣病を予防」という項を担当した(下記の随筆からの抜粋である)。
 私の他には「忍び寄る骨・関節疾患の予防と治療」(九大教授、岩本幸英)、「高額な医療費の負担は意外と軽くなる」(武田祐介)、「老齢年金の受給手続きと注意点」(武田祐介)、「残す財産と使う財産の仕分け方」(三好貴志男)、「現代のお墓事情と上手なお墓の引越し術」(小原崇裕)、「エンディングノートの効用と書き方の手順」(鷲山俊男)、「決め手は法的効力のある遺言書」(西尾孝幸)となっている。
 表紙は「私の大切な覚書き」でも好評を博した鹿児島県出身の画家、唐仁原さんである。わずか17ページと薄いためか、謹呈するとタダと勘違いされてしまうようである。ちなみに定価は180円である。
 歩いてアンチエイジング~~歩けることの有り難さ、歩くことの大切さ!~
 先に厚生労働省は「国民の健康の増進の総合的な推進を図るための基本的方針」、すなわち「健康日本21」の素案を発表した。そのなかで特筆すべきは、生活習慣病予防のために一日の平均歩数として男性9000歩、女性8500歩という具体的な目標値を設定したことである。
 健康長寿は国民すべての願いであるが、その達成のためには「がんの早期発見と生活習慣病の克服」が最も重要な課題といえる。なかでも心筋梗塞や狭心症等の心臓病、脳梗塞、糖尿病などの生活習慣病対策として、今回「歩くこと」の重要性が強調されることとなったのである。
 江戸時代の儒学者貝原益軒は、養生訓の中で「どんなことでも、頑張れば頑張るほど効果がある。若いときからの養生が大事で、内なる欲望と外なる邪気、七情を慎む」と書いている。すなわち、生活習慣病克服のためには、この欲望(快楽)習慣との闘いが眼目となる。
 私の青春時代に、「スーダラ節(植木等)」という歌が流行ったことがあった。その一節に「わかっているけど、やめられない」という有名なフレーズがある。美味しいものは好きなだけ食べたいし、休日は寝転んでテレビを見たい。適量なら酒も百薬の長というではないかと都合良く解釈して過量に飲む。このような生活は誰にとっても心地よいし、わかっているけど変えたくない生活習慣である。
 ところがこのような不摂生な生活を続けていると、病気は体の中で静かに進行し、気づいたときには血管はボロボロとなり、後の祭りとなる。
 さて健康長寿の秘訣としていろいろなことが言われてきたが、金もかからず誰にでも手軽にできて、そして効果的なことが「歩くこと」である。これを毎日続けることが難しいのだが、肝腎なことは「続けること」である。
 私たちはある時期がくれば自然に歩けるようになることを、普通のこととして考えがちである。ところが幼少時に発病する難病では、生まれてこのかた一度も歩いたことのない人もいる。もう30年近く前のことになるが、現在私が勤務している病院で、当時小学4年生だった中島君の詩を読んで衝撃を受けた。
「ぼくは うまれて いちども 走ったことがない。だから 先生のおっしゃることやかんごふさんのおっしゃることなどきいて 走ってみる。でも 走れない。ぼくは 思いきり走って びょうきをふりおとしたい。そして げんきなからだを つくってみたい」。
 中島君は筋ジストロフィーという病気で入院し、懸命に訓練に励んでいた。当時は20歳がこの病気の平均寿命だったので、中島君はもちろんこの世にいない。
 歩けることのありがたみを喜びとして、エレベーターを使わないで階段にするなどちょっとした毎日の心がけが、健康への、そしてアンチエイジングへの第一歩ではないだろうか。

院長雑感

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