院長雑感詳細

院長雑感(137号)

11月2日、人事院から平成24年度人事院総裁賞受賞者の発表(個人2名、職域6グループ)があり、個人受賞者の一人として思いがけずも受賞することになった。「長年にわたり筋ジストロフィー等の難病医療、難病患者の在宅医療への取り組みと医療安全対策に尽力」したことに対する評価ということである。これもひとえにブロック事務所、機構本部はもちろんのこと、何より当院の職員一人一人、そして多くの患者さんのお陰であると思っている。12月10日に明治記念館で授与式の後、皇居で畏れ多くも両陛下とのご接見が予定されている。
 黒岩尚文さん(共生ホームよかあんべ代表者で、全国をまたにかけて「小規模多機能ホーム」のスポークスマン的役割を担っておられる)から嬉しいメールを頂いた。
 人事院総裁賞、本当におめでとうございます。推薦理由を読ませて頂き、納得できることばかりです。ネットワークについても書かれていて、なんか自分達も評価されたような感じでとても嬉しいです。勝手に解釈してすいません。でも、いつも福永先生は患者さん、ご家族、そして私達介護現場の声に耳を傾けてくださいました。それがぼくたちの何よりの力になりました。ヘルパーの吸引についても先生から声をかけて頂き、鹿児島はもとより新潟や徳島など知り合いを通じてアンケートをとったことを思い出します。それが現在、介護の現場では、あの時代に比べればかなり進みました。本当に福永先生に出会うことができたのが何より感謝です
 黒岩さんには、故阿多さんとの共有する思い出も多く、今回の受賞に関して妹さんからもハガキをもらったが、100歳近くで亡くなられたお母さんともども思い出している。もう10年以上も前になるかと思うが、在宅医療で伺うと庭先で鶏が餌をついばみ、オロナミンCをいつも帰りにもらっていたことなど。
■ 患者数
 10月の入院患者数は372.2人で、計画に対し13.5人の大幅減となった。平均在院日数は、調整前で17.0日と問題はない。外来は1673人と、計画比で6.7人の増となった。
■ 診療報酬点数
 10月の診療報酬点数は、計画比で入院では641,0770,点の増、外来は463,355点の増で、対計画では入院・外来合わせ1,104,432点の増となった。累計では2,850,166点の増となっている。10月は入院患者数は減少したが、手術の増加などで一件当たりの点数が増加し、収支的には好調であった。
 経常収支率では調整後で114.7%で、累計では109.7%である。
■ 時代を共有したある女性の死(前)
  昭和から平成への時代を自らの信じるところに従って、そして精神的には自立し、親孝行な女性が静かにあの世へと旅立った。私はさほど親しい間柄ではなかったが、同時代を共有したということもあって、亡くなる前の2ヶ月間ほどを比較的身近に寄り添うことができた。彼岸花からコスモスの間を、当院の緩和ケア棟で過ごしたことになる。
 「もうこの世にそんなに未練はないし、がんでこのような死に方ができるのは、本心からよかったと思っているのですよ 」と、Yさんはまだ60歳をちょっと過ぎたばかりだというのに淡々と話される。窓の向こうには静かな錦江湾と桜島が開ける当院の緩和ケア棟の一室である。朝の看護部長の報告で入院されたことを聞いたので、9月20日の初秋の昼下がり、見舞いがてら訪問してみた。
 Yさんはベッドに座り、私は部屋の備え付けの椅子に腰を下ろしている。10年ほど前に隼人町の霧島病院との統合により当院に転勤となったが、お母さんの介護のために2年あまり働いて早期退職されたようだ。私はその後お会いしたことはなかったので、久しぶりの再会ということになる。
 「看護師として働いていたときから、がんになったら化学療法などは一切しないと決めていたので、末期の状態で見つかってかえってよかったと思います。初期だったら、迷ったかもしれませんし・・・」「でも看護学校の同期の人に、こんなにお世話になるとは思っていませんでした。昨年末に食事が通らなくなってバイパス手術を受けたときにも、代わる代わる泊まりに来てくれたんですよ」という。
 実はYさんとは、私が医学部の学生時代に参加していた社会医学研究会での活動と重なるのである。当時、この研究会は部員が100人を超える大所帯(Yさんは部員ではなかった)で、霧島病院付属の看護学校や国立病院付属の看護学校の学生まで含まれていた。そして時々、学習会などと称して看護学校まで遠征したものである。
 当時Yさんの霧島病院付属の看護学校の建物は今にも崩れ落ちそうな戦前からのものだったが、学生は明るくはつらつとしていた印象を持っている。Yさんの語るところでは、一クラスが25人という小人数で多くの学生は田舎から出てきた人が多かった。食事の時にはリヤカーで食事を取りに行ったり、一つのコッペパンをみんなで分け合って食べたこともあったという。たしかに、貧しく、それでいてみんな元気な、そのような時代だった。寮生活で仲がよく、団結心が非常に強かったようである。実習は鹿児島市立病院などで行われたが、のんびりしていたのでよく怒られた。先輩にあたる師長から、「後輩がほかの師長に怒られると悔しいので、先におこったんよと言われたりしてねえ」。
 「そういえば、『朽ちたおんぼろ校舎に、可憐に咲いた一輪の花のようなMさん』、どうしているの」と聞いてみた。「やっぱり・・・でしょう。本当に彼女は目立っていたのよね。かわいくてきれいで、性格もよくて。今、大分に住んでいるんだけど、私の見舞いに来てくれると思うから、そのときに先生と会えるように段取りしましょうか」と見透かされてしまっている。
 Mさんは大口の明光学園の出身で、清楚な感じが印象に残っている。もちろん、当時、個人的に話をした記憶はないのだが、妙に気になっている。壁にマリア様の写真が置かれていたが、きっとMさんが持ってきてくれたものだろう。「どうせなら、この部屋で同窓会でも開くことができたらいいのだけど」と話は弾んでいく。
■ 時代を共有したある女性の死(中)
 Yさんは看護学校を卒業したのち上京し東京の国立小児病院に就職したが、何となくなじめずに1年足らずで辞める。そして「保健師になりたい」と、逃げるようにして滋賀県立保健師学校に進学した。その後、伊豆長岡にあった都立の病院で2年7ヶ月ほど働いた。その病院は小児主体の病院だったようで、小児結核が少なくなったあとにさまざまな障害を持つ子供たちが入院していたという。温泉もあり保母さんなどとも仲良くなり、楽しく仕事ができていたが、昭和49年7月に父親が病気になったこともあって帰郷した。
 そして霧島病院に再就職した。しっかり屋にみえるし、「師長さんなど目指さなかったの」と聞いてみると、「自分は強い性格だから管理者には向かない。自分のしたことは自分で責任のとれる一看護師として働きたかった」と、キャリアアップは希望しなかったという。確かに、こうと思ったことは、容易に曲げない頑固な一面もあったようである。また高校時代からの友達である栫さん(当院の医事課で働いておられた)の話によると、青年海外協力隊で海外にも2回ほど出かけたり、またアフガン孤児の里親制度にも応募したりなど、積極的な面も持ち合わせていたようである。
 平成12年に当院に異動後は4病棟や手術部で働き、今度は母親が認知症になったために早期退職した。日本古来のいい伝統である「親孝行精神」が、まだ健全だったといえる女性である。
 数日後に部屋を訪ねると、栫さんが見えていた。自宅の庭にブルーベリーを栽培していて、それをジャムにしたものをもらっていたのでお礼を言う。
 「11月27日が誕生日だから、その日に死ぬのも悪くないわね」とYさんが言うと、「そんなこと言って、まだ大丈夫よ。お婆さんの墓参りには私がおんぶしていってあげるから」と栫さん。
 「あのフェルメールの真珠の首飾りの少女、どうしたの」と聞くと、「神戸展に一緒に行こうと約束していたのだけど・・・、友達が買ってきてくれたの」という。マリア様にフエルメールの絵、おばあちゃんの遺影、そして姪御さんと思われる写真などが並んでいる。食事は口からはほとんどとれなくなっているが、状態は落ち着いていたので他愛ない話をしながら部屋を後にする。
 10月5日、私は機構本部の役員会に出席のために上京していたが、月曜日にパソコンをあけると、「おはようございます。Yさんより伝言を預かりました。大分のMさんが到着するそうです。栫さんが院長室に案内してくださるでしょう」。
 ところが6日には、「おはようございます。5日にYさんがみえました。残念ながら先生とすれ違いとなりました。また、いつか会いに来ますからとのことでした。写真を撮りましたので添付しますね。調整が上手く出来なくてすみませんでした。しかし決して計画的犯行ではありませんので、お許し下しませ」とは、緩和ケア棟の鳥越師長からのメールである。
 「年々歳々花あいにたり、歳々年々人同じからず、という詩を思い出します。かって美しい花は、そうでなくなるのも早いのでしょう。鳥越さんは、ラッキーでしたね。深い意味はありません」と師長さんにメールを。「先生、また、もう・・・」と言われそう。とはいえ、45年ぶりにみる写真だったが、年相応に落ち着いた感じでいい歳のとりかたをされていたMさんである。
■ 時代を共有したある女性の死(後)
 10月10日、窓の外のコスモスが満開である。頭の方はしっかりされているが、るいそうが目立ってきて見るからにきつそうである。「今月末に、Mさんがまた来ると約束して帰ったよ」と、こんな時にまで私を気遣ってくれるYさん。私は「今月末では難しいだろうな」と心の中ではしんみりとした気持ちになる。
 10月15日、ベッドにうずくまっている。覇気がない。痛みはないけど力が入らないという。「昼ごろから少し楽になるのだけど・・・」。「また来るね」と言って部屋をあとにした。中心静脈栄養など施したら延命も可能なのだろうが、きっぱりと断念されている。
 10月23日、久しぶりに小雨が降っている。桜島はうっすらと眺められるが、コスモスは満開を過ぎている。看護師に聞くと、つじつまの合わないことを話されたり、少しせんもう状態だという。顔を見ながら軽く手を握っているだけだが、時々握り返してくれる。あったかく柔らかい手である。ぼんやりと、Yさんの半世紀を振り返る。この時代の看護師には、家庭の事情などで自己犠牲をいとわないタイプの女性も多かったのではないだろうか。
 10月24日、部屋に行くと、妹さんがみえている。皮下に持続注射をしており、話す言葉は聞き取れない。掌に書いてもらうと、やっと「来週、Yさんがみえる」と読み取れる。「そのときまで元気でいようね」と話しかける。
 10月26日、緩和ケア棟に行こうと思ったら廊下で栫さんとばったり会う。
 肩で大きな息をして、呼吸が10秒程止まる。脈は少し触れるだけである。週末は東京なのでこれが最後の別れになるだろうと思いながら、病室をあとにする。
 10月27日の朝、静かに息を引き取ったという連絡を受けた。
  10月28日、院内のサイボウズに、鳥越さん(緩和ケア棟師長)から、以下のような書き込みがあった。読みながら、自然に涙が出てきた。
 おはようございます。Yさんが、27日の朝、1時30分に亡くなられました。
 最後は妹さん家族と親戚の方に見守られ、穏やかな表情で笑ってらっしゃるようにみえました。
 お帰りの時の大島紬のジャケットがとてもお似合いで、Yさんのお気に入りの服だったそうです。大島紬といえば、「もう何もかも準備は整っています」と言われていたYさんでしたが、1週間くらい前に「外出をしたい」と言われました。目的は「大島紬のネクタイを買いたい」とのことでした。結局、外出はできませんでしたが、最後のケアの時に妹さんにそのことをお尋ねしたところ、院長先生に、自分で選んだネクタイをプレゼントしたかったのだそうです。妹さんが買ってくると言われたそうですが、どうしても自分で選びたいとのことだったそうです。「思いはかなわなかったけど、そのお気持は伝えておきますね」と、Yさんに話かけながらケアをさせていただきました。
 院長先生のお人柄と人を包み込むような笑顔にYさんもどんなにか癒され、支えられたのだろうなあと思うことでした。本当にありがとうございました。
■ 喜界島医療相談(1)~出発~
 鹿児島県難病相談・支援センターの業務の一つに「巡回医療相談」というものがある。一般的な医療相談は県のセンター内で行われているが、アクセスの悪い地域(離島など)には、センターから出かけて行こうということで、今回は日帰りで副所長の原田さんと喜界島に行くこととなった。
  10月1日、文字通り台風一過、すがすがしい秋晴れの中を、36人乗りのプロペラ機SAAB340Bは8時10分に鹿児島空港を飛び立った。そして揺れることもなく安定した飛行で、9時15分には喜界空港に着陸した。
 実は喜界島に出かけるのは今回で2回目である。大学5年か、6年の時だったかと思うが、鹿児島女子短期大学から、当時私の属していた社会医学研究会に、大学の離島研究のお手伝いをしてくれないかとの要望があった。この研究所では、南の島々の食物や衣服など生活全般を研究の対象としており、喜界島での調査の一環として医療や保健面での調査を頼まれたのである。数日の宿泊調査だったかと思うが、楽しい思い出として今も残っている。
 ところで喜界島は奄美大島の東方に位置する小さな島で、高い山がないのでハブは生息していない。町の発行している紹介パンフレットの表紙には、「蝶の飛び交う隆起珊瑚礁の島」となっている。人口は7800人で、高齢化率は32.9%と日本の平均(23%)よりかなり高い。あらかじめ送られてきた資料では特定疾患受給者数は42人で、そのうち在宅療養が36人で、入院や入所は6人である。疾患別では、パーキンソン病関連疾患と網膜色素変性症が9人と最も多く、潰瘍性大腸炎7人、ベーチェット病、重症筋無力症、全身性エリテマトーデス、多発性筋炎、特発性大腿骨骨頭壊死がそれぞれ2人となっている。
 空港には、奄美大島の名瀬保健所の大井はるか保健師が車で迎えに来てくれていた(喜界町も担当地区で、時々名瀬市から来られているようである)。県に就職して3年ということだったが、いかにも「おーい!はるか」という名前がピッタシの、元気はつらつとした女性だった。彼女の話では、先日通過した台風17号の被害がかなり深刻なようで、基幹作物であるサトウキビなど大きな影響を受けたという。昨日までは電気も停電だったそうである。彼女の運転で海岸沿いを走っていたが目的地がわからず、リフトを操っている男性に尋ねると、親切にも車から下りて細かく教えてくれた。「右に折れると坂になっていて・・・」という案内だったが、確かに坂には違いないが少し傾斜があるだけで「これ坂なの?」とみんなで大笑いした。それほど平らで、坂らしい坂はない島である。
 県庁大島支所に挨拶に行った後、喜界町役場で保健福祉課長と懇談し、すぐに午前中に訪問予定の事例について地元の保健センターの保健師、岡田さんも交えて検討を行った。この方、色々な面でかなりの「難物」なようで、今後どのようにしたら少しでもいい方向
■ 喜界島医療相談(2)~ある出会い~                  
 この50歳代の女性はご主人と二人暮らしで、疾患名は資料では「甲状腺機能低下症、うつ病、パーキンソン病の疑い」となっていた。さっそく訪問すると、かなり大きな家の奥まった部屋で布団に大の字に横たわった奥さんと60歳代後半の穏やかな表情のご主人が出迎えてくれた。色白の整った顔立ちだが無表情で、体幹は痩せており、両手は屈曲し両足は尖足位でかなり重度であると直感した。島の生まれには見えなかったのでちょっと踏み込んで聞いてみると、案の定、東京の世田谷の生まれで、縁あって15年前に結婚し、喜界島に移り住んだのだという。ご主人は島の生まれの島育ちだのようだ。この女性、若いころから胃潰瘍などもあり、かなり神経質で痩せた体型であったようである。
 20歳代ごろから便秘がちだったが、下剤でどうにかコントロールしていた。3年前から不眠となり睡眠剤を飲んだが効かなかった。このころ夫は、妻が方向転換するときに不安定であることに気づいている。昨年の春頃から不眠が強くなり、鹿児島市の精神科病院に入院したが、いろいろあって一ヶ月足らずで退院した。
 その後は島内の徳州会病院の心療内科や内科で診てもらっていた。今年になって両手の振戦が出現し、身体の方々の痛み、食欲不振、胃腸症状などを訴え、寝たきりになった。徳州会病院の神経内科の医師(月に一回、福岡からみえるようである)は、パーキンソン病の可能性もあるということで抗パーキンソン病薬を処方したが、胃腸症状を懸念して本人は薬を拒否している。
 私は一応簡単な神経学的な検査をした。顔貌は無表情だが、時々冗談を言うとかすかに笑ってくれる。マイヤーソン徴候は顕著で、ときどきパーキンソン病様の振戦を両手に認める。筋固縮や無動もありパーキンソン病の診断基準とは合致する。その他に手の骨間筋の萎縮や変形から、頚椎にも変形があるのではないかと予測される。
 いずれにせよ、「ダメ元」で抗パーキンソン病を一度は試みるべきだと判断し本人に勧めるが、薬の服用に関しては頑固に拒否的である。島内には徳州会病院しかないので、福岡から来るという神経内科の先生と相談して、薬の使い方をきちんとできるようにするといっても納得しない。最悪の場合は、貼付の抗パーキンソン病薬もできている。
 ご主人は入院治療するのなら島外でもいいと言われるが、搬送の問題もあるし、治療してもよくなるという保証はないし、もしも悪化すれば島に帰れないかも知れない。このあたりのことになると、離島医療の難しさが顔を出す。今後、ご主人や本人とよく話し合って、いい選択肢を考えていくこととした。
 帰り際に、ご主人がたわわになったまだ緑色のミカンを三つほどもぎ取って手に渡してくれた。「酸っぱいけど食べられますよ」という。このご主人、惚れた弱みか、辛抱強く看病している。「ほっぽり出したくなりますよね」という私の冗談にも、ちょっとうなづきながら、それでもにこやかな表情には変わりはなかった。
 訪問した翌日、大井さんからメールをもらった。「・・・今日も喜界町の保健師さんと訪問に行ってきたのですが,なんと,本人さんから治療をやってみるとの意向をお聞きできました!!!・・・ご主人より福永所長に対しての熱い感謝の言葉もいただいてきましたので,あわせてお伝えさせてください」ということだった。
 結果的には、いろいろなやりとりがあって当院に入院して治療することになった。ちょっとした縁で始まったつながりであるが、本人にも頑張ってもらって、島に帰るときには自分の足で帰って欲しいと切望している。(実は、本日入院予定であるが、台風接近で無理かな)。に持っていけるか、大きな宿題を抱え込むこととなった。
■ 喜界島医療相談(3)~難病でも~
 午後からは、私の講演と意見交換会、そして個別相談会という段取りである。朝の訪問が長引いたので、500円の弁当をかけ込んで昼の部となった。患者本人の参加者は10人と少なかったが、私にとっとも勉強させられた意見交換会となった。
 講演のタイトルは、事務局から「難病とうまく付き合う方法」というものを依頼されていた。そこで私はポイントとして、「病気をよく知る、それぞれである、家庭医(専門医)とのいい関係、保健師とのいい関係、看護師・介護者とのいい関係、あきらめない、必要以上に心配しない」の7項目をまず挙げた。
 難病相談・支援センターでの医療相談の経験から、患者さんは自分の病気のことについて案外知らないものである。「敵」を知らずして、いくさはできない。そのために必要以上に心配したりする。また病気の経過は人それぞれであるのに、いろいろな情報を誤解して、無理に自分に当てはめようとする。特に悪い情報となるとなおさらである。そのために、「患者さん、それぞれである」ということについて説明した。
 また離島であることも考えて、専門医ではなくてかかりつけ医(家庭医)と、そして患者さんを取りまく様々な職種との「いい関係」を築いて欲しいことを話した。さらにいい患者になって欲しい」ことも。都市部では、患者さん自身の選択で「相性」のいい医師を選べるが、離島となるとことは容易ではない。できるだけ「いい患者・医師関係」になるように相互で努力しなければならない。そして現代医学は日進月歩に進歩してきているので、決して諦めないこと。 
 意見交換会は原田副所長の司会で始められ、一人ひとりに自己紹介も兼ねて病気について話してもらった。
 もっとも印象深かったのは、最後に話されたYさんである。50歳近くのベーチェット病の女性であったが、自分の病状や経過、そして今の気持や、病気の受け止め方の移り変わりを率直にわかりやすく語ってくれた。病気の性格からして、どちらかというと隠しておきたいのが普通だろうが、少しでも同じ病気で苦しんでいる人(たまたま28歳の同じ病気の女性も参加されていたが、面識はないようである)に役立てたらという気持ちに思えた。
 この女性は24才の頃に発病し、25年間付き合ってきたと話される。鹿児島市内の病院で診断され、コルヒチンを服用され、医師から「この薬を飲んでいるあいだは子供は作れません」と宣告された。子供がどうしても欲しかったので、コルヒチンの服用を自分の判断で、3か月間中止してから妊娠した。そして病気と闘いながら、3人の子供(現在20歳、18歳、15歳)を育てたが、みんな元気だという。「先生が言われたように、病気をよく知り、自分なりの対応を考えることが大切だ」と思う。医師は子供は生めないと言われたが、自分の判断で決断した。
 このような病気で、しかも離島で、3人の子供の母親というのは、それだけでもすごい「快挙」といってもいい。この女性も、最初は病気のことを受け入れられずに悩んだが、少しずつ乗り越えていった。また数年前に神経ベーチェットと診断され、うつ状態で苦しんだが、それを乗り越えてから一段と強くなれたようで、人前でもこのようなことを話せるようになったという。
 でも離島での悲哀はたくさん味わった。私のような長期の病気になると、病院を変わったり主治医が変わると、経過を話すのも大変で、先生によっては指導の方法も異なるので混乱してしまう。ある時、徳州会病院の先生でずっと島におられる先生に主治医をお願いしようと思った。ところがこの先生が「コルヒチンは、痛風に使う薬じゃないですか」と言われて、「こりゃだめだ」と思ったという。現在は同じ病院の内科の先生に診てもらっているが、医師がコロコロ変わるので安心できない。「どうにかならないですか」と訴える。そこで、長期療養を必要とする難病では、気のあった主治医にずっと診てもらえることが理想的だが、離島ではそれは難しい。でも主治医は代わっても、きちんとカルテ上でつながっているし、また連携パスという手法で、例えば専門医には年に一回でも診てもらう方法もあるのではないかと話した。
 また自ら、「自分がいい患者になる努力も必要だし、いい関係を築くことは大事だ」と話される。「私の場合は、徳州会病院の看護師さんが、外来を受診した時に、何かと気にかけてくれて嬉しい」。「あきらめないことも大切で、先生の挙げられた7ヶ条はいずれもぴったしだと思います」と、お墨付きを頂い私もホッとした。
■ 喜界島医療相談(4)~懐かしい至(いたる)~
  この他に、医学的に興味を持ったのは、68才の女性と64才の男性が参加されていたが、お二人は眼筋型の筋無力症(3人兄弟)で、姉と父親はパーキンソン病だという。一家族(子供と両親)で4人の特定疾患の患者がいることになる。
 帰りの飛行機は17時の出発だったので、16時半頃に飛行場に着くと、衛守至(いたる)君のお姉さんが待ってくれていた。
 お姉さんは喜界町の保健師を長い間されていて、町民の病気のことはこの人に聞けば全てわかるというような厚い信頼を受けていた。ところが母の看病のために早期退職されて、現在は非常勤で勤めているという。随分昔、若いころ南九州病院には2年ほど勤めて、そのあとで保健師の学校に進学したということである。
 ところで、「衛守」君の思い出を少し語りたい。
 私たちが作成した「筋ジス病棟20周年記念誌」などに書かれたら彼の寄せ書きから「年譜」を辿ると、1960年の生まれて1973年から1980年に南九州病院に入院、そして1980年に退院して郷里の喜界島に帰り、1987年に再入院して1998年頃に亡くなっている。
 衛守君は何をしても優秀な青年で、女性にもよくもてた。とりわけ囲碁が得意で、島のチャンピオンだったと聞いたことがある。1994年には「恋しくて」(近代文芸社)という短歌集を出版している。その中に、「負けて知る プロの強さと碁の深さ 無我夢中の初対局」というものがあるが、当時、ボランティアで鹿児島県出身の日高プロが来訪した時のことだろう。
 「恋しくて」の中から、私の印象に残っている俵万智調の短歌を数首紹介したい。
・窓から空が見えるってそれだけでとても幸せ気分
・限りある力で箸さえままならぬ食事もまた闘いなり
・三十まで生きれたらいいって言ってた俺ももう三十歳
・荒波を小さな身体で受け止めて防波堤となりし婦長さん
・訳もなく頬を伝う哀しみに溺れて行く深い夜の海
・喝の文字薄くなるほど握りしめ我が手となりし根性棒
・たった一度きりの我が人生思うがままなるがまま悔いはなし
・声を聞かせてと涙するあなたに初めて気づく愚か者
・療友(とも)が逝きし朝いつもと変わらずいつもとは違う朝の風景
・あなたが流した涙の分だけあなたを幸せにしてあげたい
・秋深くあなたを想うガラス窓好きと指で書き慌てて消す
 またこの短歌集の「あとがき」には、次のような文が記されている。
 「こんなはずじゃなかった・・・」。肺炎をこじらせてからずっと調子が悪く、ちょっと診察してもらうつもりで島から出てきたはずなのに、そこで具合が悪くなってしまい、結局そのまま島には帰れず仕方なく再入院する羽目になってしまったのが、二十七歳の秋でした。それから車椅子に乗ることも自分で呼吸することも出来なくなって寝たきりになってしまい、次から次へと大切なものを奪われてゆくそんな哀しみに沈んでいるとき、短歌と出会いました。・・・
 衛守君と私とは、時代的に微妙にすれ違ったりした時期もあったが、再入院してからはずっと一緒である。いつも「根性棒」を持っていた頃を懐かしく思い出している。お姉さんが「2年ほど前に13回忌を済ませました」と話されていた。
■ 屋久島医療相談
 難病相談・支援センターの事業の一つに巡回医療相談なるものがあるが、今回は屋久島町ということになった。事前の資料では参加者は患者さんが10人ほどで、、その他に訪問看護師やケアマネジャーとなっていた。
 屋久島は県本土最南端の佐多岬の南方60キロの海上にあり、九州最高峰の宮之浦岳(1,936メートル)を筆頭に、なんと1000メートル級の山が45以上もある特異な島で、世界遺産の島としても有名である。人口は13,641人で高齢化率は28.0%(県が26%)と他の島に比較するとそんなに高くはない。特定疾患患者は79人で、在宅59人、入院・入所6人となっている。潰瘍性大腸炎が14人と最も多く、後縦靱帯骨化症9人、パーキンソン病関連疾患とSLEが8人である。
 ところで屋久島に行くのは今回が3回目で、最初は学生の時に宮之浦岳に登ったことがある。シャクナゲの咲く6月ごろだったかと思うが、天気にも恵まれて山小屋で一泊し、無事に宮之浦岳の頂上を極めた懐かしい思い出がある。もう一度は、講演か何かだったかと思うが、正確には覚えていない。
 朝、7時45分に鹿児島港の高速船乗り場を出発した。今回もセンターの技術主査(保健師)である笹原さんが同行してくれた。高速艇ロケットは、おそらく登山を目指しているようにみえる老若男女で一杯である。天気は良く、波も比較的穏やかで、指宿市に寄った後、約2時間で屋久島の安房港に着いた。港には屋久島保健所の保健師、岩下祥子さんが迎えに来てくれていた。彼女はこの4月に県職に採用されたばかりだそうだが、車の中の雑談で、私の長男と同じ名山小学校の卒業で、大学が山口大学保健学部の出身だと聞いてにわかに親しみがました。いい意味での「天然ぼけ」のような性格のようで、厳しい保健師としての仕事を乗りこえて大成して欲しいと願うことだった。保健所長に挨拶した後、約30分ほどで、会場の安房にある屋久島総合センターに着いた。
 さっそく事例検討となったが、48歳のALSの男性で、兵庫県で働いていたがALSと診断され、妻と3人の子供を残して、故郷の屋久島に帰って療養していた。屋久島の徳州会病院にしばらく入院した後、現在は在宅での療養となり、夜間はBiPAPを使用している。いずれにせよ、どのことをとってみても厳しい事例であり、今後患者本人の生きる意志を確認することや、予想される球麻痺症状に対しての対応をできるだけ早めに準備しておくようにと助言した。
 弁当で簡単な昼食を摂り、午後からは喜界島と同様に、私が一時間ほど講演した後、相談会になった。10人ほどの患者と家族が出席していた。50歳の特発性間質性肺炎の女性も、また64歳のクローン病の女性も、自分の生活スタイルを病気に合わせながら、賢明な生き方をしているように思えた。
 保健所長さんも出席されていたが、難病という言葉について面白い見方をされていた。難病という名前は多分に政策的な名称であり、難病というと今ではかなりコントロールのできるようになった病気でも、患者さんは必要以上に重大な病気だと誤解してしまう。難病にもいろいろな病気があり重症度も異なるわけだから、一括りに呼ばない方がいいのではないかというものだった。確かに一理はあるが、それこそ難病という言葉が政策的にインパクトを与えて、予算を獲得したりするときには有効に働くこともあるかも知れない。稀少疾患が多いので、一つ一つ個別に対応しても大きな力になり得ないということもできる。
 帰りの高速艇の時間の関係もあって、早めに会場を後にした。
■  藤原氏のインタビュー
 MBCテレビ・ニューズナウから、「難病相談・支援センター開所1周年」の取材を受けることになり、センターのセミナールームで、キャスターの藤原一彦さんから、いくつかの質問を受けた。藤原さんとは何度もお会いしており、何かと懇意にしてもらっている。藤原さんご自身も、番組の取材を通してALSへの思い入れは人一倍強く、その番組のお陰もあって、鹿児島県人のALSをはじめとする難病への理解は格段に進んだといえるのではないだろうか。
 インタビューではさまざまなことで質問を受けたが、主な部分は次のようなものである。
Q1:この一年の歩みを教えてください 
 昨年の10月1日、患者さんからの要望に応える形で県知事の英断もあって、県直営の独立型としてオープンしました。全国の会合に出て感じるのですが、鹿児島県の「難病相談・支援センター」がその規模や専門職の質の高さ、内容の充実などの点で全国一だと自負しております。
 早いもので、ちょうど一年を迎えることになります。
 「難病患者・家族の悩みや不安に誠実に耳を傾け、解決への糸口を共に考えるセンター」という理念で出発したのですが、専門的な豊かな知識を持った職員が難病で悩める人のために少しでも役立ちたいという思いで、頑張ってくれています。またテレビや新聞、県政かわら版などでもPRしてもらったこともあって、県民の理解も少しずつ進んできた、多くの相談を受けることができております。
Q2:具体的な成果はいかがでしょうか。
 相談件数など具体的成果ですが、この11ヶ月で、専任の相談員が対応した相談件数が2795件、特定疾患の56疾患に絞ると、1782件(66%)です。
 内訳ではやはり神経筋疾患が最も多くて、678件、そして消化器系253件、免疫系と骨関節系が191件となっております。
 病気別では、パーキンソン病関連疾患が最も多いかと思います。
 相談内容としては医療面118件、特定疾患の手続き1136件、福祉制度92件です。みなさんに利用しやすいようにと土日でも相談を受け付けていますが、土曜日が198件、日曜日94件の相談がありました。
 居住者の保健所管内別では、やはり鹿児島市が最も多く、1395件、以下、姶良郡が228件、川薩、伊集院となっております。
 その他にもセンター内での医療相談(ちなみに私が35件)、また各地に出かけていっての巡回相談もあります。10月は1日が喜界島に、8日は屋久島で巡回相談を行う予定です。
 また患者交流会の支援や隣の鹿児島難病支援ネットワークの活動への支援なども行っております。 
Q3:今後の課題も教えてください。
 今後の課題といいますと、「誰に相談してよいかわからずに悩んでいたが、思い切って相談してみてよかった、もっと早く相談すればよかった」というような言葉もよく聞きます。もっと県民の方々にこのセンターを理解していただき、より身近な存在になっていけたらと考えております。
 そして保健所や職業安定所などの就労機関、病院などとの連携の緊密化も図っていきたいと思います。
(後日談)
 10月1日のMBCニューズナウで、ほんの一部が放映されていた。何度テレビに出ても上手くならないものである。
■ 日本病院会医療安全対策委員会(前)
 国立病院機構では6月から10月まで夏休みがとれることになっている。このように長い期間を設定したのは病院としての勤務割の都合や、シーズン外の安い運賃を使って海外旅行でもという人への配慮もあるのだろうか。私はというと、いつものことながら、この夏も正式にはとっていなかったので、10月19日、日本病院会の医療安全対策委員会への出席も兼ねて、夏休みとすることにした。
 会議はお昼の2時からとなっていたので、朝一便の飛行機に乗って、有楽町で映画を観ることにした。当初「最強のふたり」を観ようと思ったのだが、有楽町のビルの映画館に行くと時間の都合がつかない。そこでやむなく、「ツナグ」に変更した。「なにか割引に該当するものありますか」と聞かれたので、「シニア」と答えたら、1000円にしてくれた。当院の玄関には、ある女流書家の「つながる」という作品を展示しているので、これも何かの縁だろうと思った。
 予備知識は全くなかったのだが、辻村深月の吉川英治文学新人賞受賞作を原作に、「ROOKIES 卒業」の平川雄一朗監督が映画化したものだという。死者との再会を望む人々と、その仲介を司る“ツナグ”として、他人の人生に深く関わっていく一人の少年の葛藤と成長を描いたものである。時間つぶしには最高の時間帯だったが、わざわざ東京まで来てまで観るほどの映画ではない。
 1時ごろ、有楽町駅前の吉野家で「牛丼」を食べ、半蔵門にある日本病院会へと向かった。この病院会の建物は数ヶ月前に自社ビルとして購入したものだが、半蔵門駅から数分で、ローマ法王庁に隣接した閑静な住宅街にある。
 会議は2時に始まったが、事務局の3人以外には、出席者は私と長尾先生(名古屋大学教授)、土屋先生(日本薬剤師会副会長)の3人である。事務局の大内さんから、嶋森先生は青森の方に出張で、鮎澤先生と児玉先生も遅れるか、あるいは来れないかも知れないという報告があった。
 まず、24年度の医療安全管理者養成講習会の第2クールについて、事後に行ったアンケート集計結果も参考にしながら検討した。受講者からは、「大変満足と満足」を合わせると73.4%になり、満足できる「いい結果」で安心した。12月に第3クールが残っているが、こちらも大丈夫だろう。
 そのあと、25年度の養成講習会について、日程やプログラムなどについて検討した。プログラムに関しては24年度とほぼ同じ内容にして、一部講師の都合なども考慮して、マイナーチェンジを加えることとした。
 この日の最大の眼目は、25年度から計画している「アドバンスドコース」についてである。このコースは、先の委員会で長尾先生から提案されたもので 、GRM(医療安全管理者)を対象にして継続学習と5年ごとの更新に合わせて企画するものである。来年度は3回(東京、名古屋、大阪)開催し、インシデントレポートをもとに、ワークショップ型の運営を基本として、コミュニケーショントレーニングや他職種連携マネジメントなどを学ぶ場として、GRMが現場で抱えている問題も議論していくことにした。そしてこの一年間の経験をもとにして、その後は、院内医療事故調査報告書をどのように記載しまとめていくか、ノンテクニカルスキルなどのチームトレーニングをいかに現場に浸透させられるかなどの新テーマにも挑戦していくこととした。
■ 日本病院会医療安全対策委員会(後)
 そして日本病院会雑誌への特別寄稿として、次回は土屋先生にお願いすることにした(ちなみに、第一回を私が「医療の安全と安心は質の高い医療安全管理者を養成することから始まる」で、第二回は長尾先生で「医療安全管理者のさらなるスキルアップのために~医療安全管理者のアドバンスコースの提案~」となっている)。
 議事進行が予定よりスムースに進んで、そろそろお開きにと思っていたとき、鮎澤先生(九州大学准教授)が駆け足で部屋に入ってこられた。東京の別の場所で病院管理学会の会議があったようで、それを済ませて寄ってくれたようである。そこで、私が今日の会議の模様をかいつまんで説明し、その後鮎沢先生も加わって、細部について検討し直した。
 3時40分頃、「児玉先生が見えられると、また最初から説明し直さなければならなくなるので、そろそろ・・・」と言いかけたとき、その児玉先生が疾風のごとく部屋に現れたのである。私はそれまで持病となっている「しゃっくり」が断続的に出ていたが、先生の姿を見て、「幸いにも」止まってしまった。
 でも鮎澤先生、児玉先生と、さすがに役者というべきか、最後になってこの委員会は思いがけず盛り上がった。日本広しといえども、児玉先生ほどのキャリアの持ち主はおられないだろう。日本のみならず、アメリカやイギリスでの弁護士資格を持たれ、また医師免許証も持っている。おまけにその風貌そのものに(法廷での鋭さは知らない)、いつも穏やかで人を暖かく包み込む雰囲気がある。
 先生の話では、医療訴訟に関して自分の関わっている件数はあまり変わりはないが、全体としては少し減ってきているのではないだろうかということである。逆に裁判所では、時勢を反映して労働争議関係が賑わっているという。また、判決も、数年前の期待権侵害などといったような、医療側からはとても納得し難いような判決も鳴りをひそめるようになったということである。
 時間も押し迫っていたが、私の「しゃっくり」が止まったことと関連して、「先生、どうされたのですか。前回の委員会の時には病気になられたのではと思えるぐらいに痩せておられたのに。確かその時には、ノートパソコンを開いて、毎日のカロリーを見せてくれて、『人間にやれないことはないですよ』と豪語されていたように記憶しているのですが」と恐る恐る突っ込んでみた。先生はいつものように慌てることもなく、「ストレスですよ、○○(忘れてしまった)の法則にもあるように、ストレスが高じると、卵かけご飯につい手がでるのですよ」と言うのである。
  忘れる前に確認しておきたいことは、日本病院学会雑誌への寄稿は、土屋、鮎澤、児玉、そしてこの日は欠席だった嶋森先生の順である。
 早速、翌日の当院の健康フェスタ(秋祭り)では、「毎日を元気で過ごすために」というタイトルで講話したが、このことにも触れてみた。要は如何にして過食を防げるかということで、現代の生活習慣病は過食との闘いであり、「わかっているけどやめられない」という欲望との終わりのない葛藤である。かくいう私も立派なメタボになって、快楽習慣に負けそうな形勢で、「あの児玉先生でも・・・」と責任を転嫁している。
 また第三回の医療安全対策委員会を3月2日に名古屋で開催することにしたが、病院に帰って別の手帳を見ると、「日本難病センター研究会」が鹿児島で開催され私は講演を頼まれていた。またもやダブルブッキングである。みなさん、スミマセン。
■ 昔懐かしい養護学校の先生
 臨床現場で一生懸命に働いていた頃にお付き合いしていただいた養護学校の先生方とは、特別な思いで結ばれている。
 鎌田睦先生から、美味しいブドウと大きな梨が届いた。そこでさっそくお礼の電話をすると、元気な声が聞こえてきた。「先生、おいくつになられましたか」とお聞きすると、「もう84ですよ。お陰様で、元気にしております。何かあったら相談に乗ってもらいたいと思っております」と言われる。「今村先生はお元気でしょうか」と問いかけると、「それがですね、私も電話するのがこわいのですよ。奥さまを亡くされて、川内の方で一人で暮らしているはずですが・・・先生のファンは学校の先生にも多いのですよ。元気にしていてくださいね」とかえって元気づけられる。(後日談では、今村先生はご自宅で元気に生活されているということである)。
 鎌田先生も、今村先生も二十数年前、筋ジス病棟の時代に苦楽を共にした先輩の学校の先生方(加治木養護学校)である。当時、学校は筋ジス病棟と棟続きで、何をするにも一緒に活動することも多かった。また医教連携という旗印で、九州管内の筋ジス病棟を持つ療養所と付属の養護学校が各県持ち回りで研修会を開いていた。そのために、一緒に沖縄や熊本などにも研修旅行などしたこともあった。物理的に隣どおしということもあって、現在の養護学校との関係とはまるっきり違っていた。
 話は変わって、元養護学校の久保先生から突然、電話をもらった。「先生、9月28日の十五夜に、私の家の庭でお月見会をしますが、いかがですか」というものだった。楽しみにしていたら、学会で札幌に出張していた時、「台風のため一週間延期します」という電話である。
 ちょうど1週間後の10月7日、久保邸で盛大な「お月見会」が催された。
 この夜はお月さんはは全く顔を出さなかったが、夜の7時ごろから10時まで、盛大な宴となった。久保先生のご主人も学校の先生で、退職後にこの明和町の家で暮らしておられるようである。もう何年か前に、急性硬膜下血腫で厚地病院に緊急入院されたことがあり、久保先生から相談を受けて見舞いに行ったことがあった。幸いにも後遺症もなく、元気な様子である。家が団地の端で崖の上にあり、その斜面に大きなテラスを増設している。眼前は大きく開けており、桜島の全景を眺めることのできる。
 この夜は、久保先生のつながりで、十数人、さまざまな職種の愉快な人たちが集っていた。そして、それぞれが自己紹介も兼ねて、現在の活動状況などについて触れておられたが、久保先生つながりとあって、みなさんそれぞれ「百戦錬磨」の元気な方々だった。
 自ら紙芝居を披露してくれた79歳の男性は、素晴らしい博学ぶりで、次から次へと正調の鹿児島弁が飛び出してきた。この歳で、頭の回転がものすごく早く、楽しい人生を歩んできたことがよくわかる。また久保先生と現在、外国人に対する鹿児島観光地ガイドをされている男性の、「中国、韓国、台湾人論」も時が時だけに面白かった。
 吉野町で園芸店を営んでおられる男性は、盆栽や観葉植物のセリの仕方や買い方のコツなどを披露された。他にも久保先生の娘さんの高校の担任だったという私と同じ年の数学の先生は、加治木町に住んでおられて、広大な庭にコスモスなど植えて楽しんでいるという。初任地が養護学校だったという牧先生は現在は田上小学校の教頭先生であり、南幸啓くんのことなど懐かしんでおられた。南くんのふる里は甑島で、カノコユリを見ると今でもよく思い出す。また姉の聡子さんの純白のウエデングドレスの死化粧も。叔母さんが結婚式にと作ってくれていたものである。
 あの時代からもう20年近くが経つ。 
■ 琴線響魂
 「琴線響魂」とは難しい四文字熟語だが、末永汎本(ひろもと)先生の好きな言葉だという。
 法曹生活四十年を記念したお祝いの会で出席者に送呈された本の題名が、この「琴線響魂」である。表紙カバーには「人の琴線に触れ、人の魂に響くような仕事をする人生を送りたいという念願からこのタイトルを選ばれた」と書かれている。
 「理想と現実はなかなかに一致しない。それでも選んだ道をまっしぐらに往くしかないか。後に続く者のある事を信じて」と続く。一読するに、末永先生は信じる道を真っ直ぐに歩んで、そして成功者の果実を充分に享受できた幸せな人生だ(もちろんまだ現役であり、ご活躍してもらわなければならないが)といえる。この本の「あとがき」には、「多分私は人より運に恵まれていたらしいこと、良い人たちとのめぐり合いが多かったという意味で、幸せなこれまでであった」と率直に述べておられる。
 ところで先生は現在山口市にお住まいで、検事を10年、弁護士を29年という法曹人生を歩まれている。山口県弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長、山口県公安委員会委員長などの要職を歴任されており、いわば山口県の法曹界のドンともいえる。ちなみに元の外務大臣だった高村氏も末永法律事務所の一人である。また先生は法曹分野のみならず博学多識として知られており、一方では「大の食通」としても有名である。そのこだわりが嵩じて、「おれの雲丹・末永法律時事務所」をプロデュースしたり、「おれの酒・末永汎本」というラベルの貼られた酒まで造っておられる。
 たまたま私の娘夫婦が湯田温泉で営んでいる「割烹吉岡」もひいきして頂き、高村氏や料理家の服部氏などの「有名人」も多数お連れしてくださっているようである。私もこの正月に、ご夫妻が鹿児島を訪れた折に熊襲亭でご一緒したり、仙嶽園を案内したりして親しくなった。
 「食通」という点では私と趣を異にするが、読書傾向には似たものがありそうである。平成10年に刊行された「わたしの弁護士論・弁護士となるおまえ(息子のこと)に」の中には、「おまえに対して藤沢周平を読めと言いたい。私の手元に揃っているから藤沢周平の全集全部を是非読んで欲しい」と書かれている。
 先日、先生の誕生日に、一升瓶(伊佐美)に、この「琴線響魂」というエッチングを施したものを贈らせてもらった(前園君の友だちに頼んで)。この機会に再度この本を読み始めたのであるが、本に収められたインタビュー、講演記録、母校の新聞への寄稿、同窓・友人・後輩の寄せ書きなど全て面白く、ついつい引き込まれて読破してしまった。
 先生のお父上は昭和19年に、先生が6歳の時にニューギニアで戦病死されており、実感として父と接した記憶はないという。ただ戦地から祖父や母あてに送られてきた25通の軍事郵便を何度も読み返し、父を偲んでおられる(この本にも全て掲載されている)。母は裁判所の前で食堂を営みながら二人の息子を育てる。中学の時に若い検事と親しくなり、「法律家はやりがいのある仕事だ」という話に触発されて、法曹界に入る決意をされたという。
 山口高校時代にその検事が、「法律家になるなら、中央大学に入り、真法会という研究室に入れ」という言葉のままに中央大学に入学し、大学3年の時に司法試験に合格、その後の法曹人生は順風満帆である。29歳のときには、あの東京地検特捜部で活躍され、36歳で検事を辞職し、弁護士登録されている。
 機会があれば、一献傾けながら医療界と法曹界の接点などについて話が聞けたらと思っている。
■ 鹿屋での巡回医療相談
 県の難病医療相談・支援センターの業務の一つとして、センター外での医療相談がある。今回は鹿屋市で開催することとなり、11月9日、朝10時前にセンターの笹原保健師が自ら運転して、北心理療法士も同行して、南九州病院まで私を迎えに来てくれた。そこから鹿屋に行くことになったが、海岸線を垂水経由で行くべきか、牧ノ原から高隈山経由にするべきか迷った末に結局前者のルートで行くことにした。
 快晴のいい天気で桜島を眺めながらのドライブは快適そのもので、牛根辺りの道路は崖崩れ後の改修で、海をまたいで桜島側へと高架の観光道路に変わっていた。予定していたより早く約1時間半で到着し、鹿屋保健所に挨拶後、鹿屋健康増進センターに向かった。この建物は鹿屋医療センターに接して建てられていたが、広大な敷地に内部もムダに広い設計で、健康増進を目指した機器の大半は「故障中」と書かれており、自動血圧計だけは作動していたので測ってみた。
 私の講話は1時30分から、センター内の階段状のホールで行われた。「パーキンソン病とうまく付き合う方法」というタイトルにしたが、パーキンソン病とその介護者である伴侶など多くの方が参加してくれていた。事前に届いていた出席者名簿から、病気の性格を反映して60歳代の方が最も多く、病状的には会場までこれるくらいで比較的病期の長い患者さんが多いことがわかった。そこで講話の内容は病気の簡単な説明と、ウエアリングオフや副作用などについてやや詳しくしゃべった。また最後は、現在進行中の難病対策の検討内容についても少し触れた。
 講話の後、20分間ほど質問の時間をとったが活発な意見も寄せられた。特定疾患指導料の2700円はなぜ取られるのか、かかりつけ医とうまくいかないけどどうすればいいのか、良い患者になるということはどういうことか、などさまざまなことが話題になった。一番前に座って目を閉じられていた人は、「私は眠っているのではなくて、目が開けにくいので閉じています(メージ症候群)。ただ朝方の調子の良いときには、ゴルフに行ったり、趣味の木工工作や陶芸などもやっております・・・」ということで、この方が作られたという立派な五重塔が入り口の前に展示されていた。
 3時からは、私は個別相談で、その他の患者さんは二つのグループに分かれて患者交流会となった。個別相談には3人の方が来られたが、幸いにもうまくコントロールされている人だけで、「先生の講話を聞いて、ほとんど問題点は解決できました」ということだった。そのため同世代を生きてきたことの回顧談や、先日南日本新聞に掲載された「時事春秋」のことなどが話題になった。「あの写真より小さくて、ビックリしました。もっと大柄の人だと思いました」というような「論評」の後で、「握手してください」と五木ひろし並の待遇に変じた。
 4時過ぎに予定していた全ての行事は終わり、今度は垂水フェリーで帰ることにした。県の公用車のホンダ・インサイトの後部には、会場の設営のための文房具なども詰め込まれており、さながら「五木ひろし一座みたいだね」と言ってしまったが、あたらずとも遠からずというところである。
 この相談会には角さんを代表とするパーキンソン友の会のメンバーも鹿児島市から参加されていたが、角さんはお母さんがパーキンソン病で、亡くなられた後もボランティアとして会の運営にあたられており、頭の下がる思いである。このような人に支えられて、日本の難病医療は成り立っているともいえる。
■ 時事春秋のインタビュー
 10月中旬頃、南日本新聞社の海江田由加さんからの電話を受け取った。
  本当に久方ぶりだったが、今や南日本新聞の社会部長の要職(このポストは、女性では初めてだという)にある。要件は、南日本新聞の「時事春秋」という企画のインタビューの打ち合わせである。この欄は毎週日曜日に掲載される1面の大型インタビュー記事で、「県内各界、各分野で活躍する人物に多彩なテーマで論じてもらって、『鹿児島の今と、これから』を読み解いてもらう」という、今年度から始まった新しい企画である。
 ところで海江田さんとは、十数年前に彼女が加治木支局長時代に懇意にしていた間柄である。端正な容貌と親しみやすい人柄で、筋ジス病棟の患者さんにもファンが多かった。取材の時の話では、「私もちょうど先生が院長になられた歳になりました。あの当時は娘は小学2年生でしたが、今は22歳になっています」ということ、歳月は容赦なく過ぎ去っていくことを実感する。
 私が最も印象に残っている事柄は、1998年7月18日未明の当院の病室火災の時の取材と、その記事である。
 64歳男性による寝タバコによる火災だったが、私にとっては院長になって4ヶ月目の思ってもいない痛恨時だった。彼女は冷静な判断で、当日の夕刊と朝刊にセンセーショナルな表現を用いずに、事実のみを淡々と掲載してくれた。後々、タバコと出火、また病院における禁煙の問題などをまとめて論じたいと言っておられたが、実現はしなかったようである。それにしてもこの10数年で、病院は敷地内禁煙が原則になり、喫煙に対する世間の見方は大幅に変わってきている。
 この他にも、轟木敏秀の取材を何度もしていただいて、亡くなった後には「自分らしく35年の生燃焼」(1998年8月28日)というタイトルで、素敵な記事にまとめてもらっている。最後の部分に「轟木さんの知人らは10月ごろ遺灰を霧島にまくことや、ホームページを永久に保存する事を計画している」と書いておられるが、両方とも実現した。ただ昨年から新燃岳には登れなくなったので、今年は一昨日(3日)に開聞岳登山を敢行した。
 さらに9月上旬には、「記者の目」というコーナーで、「轟木さんのこと」として取り上げてくれている。このなかで、海江田さん自身が迷ったのは、「障害があるのに頑張った」とかいうような捉え方をされるとしたら、「轟木さんの本意じゃないだろう」ということだった。確かに彼はよく筋ジス患者の紹介で目立つ「お涙頂戴」風の書き方は良しとしない性格だったが、海江田さんはそのあたりの微妙な彩を見事に描いている。
 さて当日の取材であるが、10月22日の午後、まず海江田さんが見えて、しばらくした後、カメラマン来られて、大げさに表現すると何百枚も撮って帰られた。被写体が被写体なので何枚撮っても変わらないと思うのだが、「今はデジカメで、フイルムロスにならないので助かります」ということを聞いて、なるほどと納得する。
 取材の方はというと、久しぶりの再会だったがすぐに時間を飛び越えることができた。当時の思い出や共通の患者さんのことなど話題は尽きず、一時間半ほどがまたたく間に過ぎてしまった。いわゆる紋切り型の取材ではなく、次から次へと四方山話の連続だったので、肝心のインタビューがあれでよかったのかと後で少し不安になった。 
 さて掲載は予定通り、10月28日(日曜日)の朝刊の一面となった。
 写真の方は自分でも太ってしまってと多少忸怩たる思いもあるが、インタビューの内容に関しては流石に勘所を捉えてよくまとめてくれている。よく目に付く一面だったので、その朝散髪に行くと、早速「先生、載っていましたね」と言われた.
■ 人事院総裁賞への道(1)
  今般、思いがけずも平成24年度「人事院総裁賞(個人部門)」の受賞が決定してしまった。「しまった」というのが実感で、もともとブロック事務所や機構本部(厚労省)の推薦を前提としているので、自分の意志で達成できるものではない。まさにこの受賞は、南九州病院やブロック事務所、そして機構本部の方々のご支援とそして今まで私と関わりを持っていただいた多くの患者さん方の後押しによるものであり、心からの感謝の気持ちを捧げたい。定年を迎える年に、それも私と同等の資格のある方は大勢おられる中で受賞できるということは、ラッキーというよりほかない。
 人事院からの発表が予定されていた11月2日は機構本部の役員会の日でもあり、会議に先立って総務部長から紹介があり、役員の前で簡単に挨拶の機会も与えられた。桐野理事長からは「この賞は、大変重みのある賞なんですよ」という言葉をいただいたし、清水副理事長からは「公務員の鑑ですからね」と好意的に皮肉られてしまった。また梅田部長や村中理事など多くの方々から、「おめでとう」という言葉をかけられた。
 正式な受賞は、12月10日に明治記念館で授与式、そして皇居で畏れ多くも両陛下とのご接見が予定されている。
 南九州病院に赴任して29年、大学卒業後まで含めると医師人生の大半を筋ジストロフィー等の「難病医療」の臨床と研究、そして在宅医療のシステム化等と取り組んだことになる。同時に病院長になって15年、忘れがたい痛恨時から医療安全対策の構築にも関わってきた。
 この人事院総裁賞は、「国民全体の奉仕者としての強い自覚の下に職務に精励し、国民の公務に対する信頼を高めることに寄与した職員又は職域グループの功績を讃えるもの」で、昭和63年に人事院創立40周年を記念して創設されたという。被顕彰者は、人事院総裁の委嘱する各界有識者からなる選考委員会(委員長:樋口公啓東京海上日動火災保険株式会社相談役の下、6人の委員)が、各府省及び独立行政法人から推薦された職員又は職域グループについて厳正な審査・選考を行い、その結果に基づいて決定している。第25回を迎えた平成24年度「人事院総裁賞」は、個人2名及び職域6グループ(うち震災関係3グループ)に対して授与さたが、平成24年度までの被顕彰者の合計は個人54名、職域70グループとなっている。
 選考委員長の樋口公啓氏は「人事院総裁賞選考を終えて」で、つぎのように記しておられる。・・・選考委員会の当日は、全委員が事前に配布された資料を丹念に読み込み、それぞれに勉強した結論を持って集まる。選考委員の多様な経歴を反映して、議論は毎度百出する。それぞれの委員は自らの経験・知見をふまえ全く違った視点からの結論を披露するが、不思議にもその結論が取捨不能の如くに分かれることはほとんどない。・・・選考委員会に臨むつど人事院総裁賞の意義を改めて噛み締めさせられているわけであるが、日本の各地で我が国とその社会を支えている多くの公務員の方々の献身的なご努力に対し、ここで重ねて心からの敬意と謝意を捧げたい。
 また選考委員の一人で読売新聞社編集委員の橋本五郎氏は、「『自己犠牲の集団』になり切れるか」というタイトルで、次のようなコメントを寄せておられる。・・・人事院総裁賞の選考委員になってとても嬉しかったことは、公務員であることを「天職」と思い、日夜奮闘している人たちがいることを再認識したことである。どんな職業に従事しようが、自分のためだけではなく、めぐりめぐって世のため人のために少しは役に立っているのではないかと思えることは、生きる希望になるだろう。・・・公に仕える人の層の厚さによって、国の厚みは決まるのではないかと思うのである。
 もっとも私自身は「公務員」という自覚に乏しいし、どちらかというとそのような枠で縛られることを好まない。また「社会貢献とか自己犠牲」といったような仰々しい文言もぴんとこないたちで、ただ自分に与えられた仕事を淡々と誠実に、「持続する志(大江健三郎の長編エッセイ)」を持ち続けただけである。
 確かにこれまで受賞された方の中には、皇室の陵墓の高屋山上陵の管理を30年以上にわたってされた方や、官記、位記、辞令及び表彰状等の作成に従事しその作成枚数は20万枚を超えるという方など、まさに「天然記念物」とおぼしき方もおられる。私の場合は強いていえば、医師という仕事の内容そのものが患者さんやご家族の気持ちとうまくベクトルが合って、結果的に「貢献」という二文字に収束したということなるのだろうか。
■ 人事院総裁賞への道(2)
  受賞が決定するまでの経緯は、概ね次のようなものである。
 今年の夏の初めごろ、西田事務部長の机の上に私の著書が数冊置かれていた。4月に本院に異動してきたばかりなので興味本位で読んでくれているのだろが、変わった人もいるものだと思っていた。後で聞くと、西田部長は熊本医療センターに在職時(平成20年)に、救命救急センターが職域部門でこの賞を受賞したことがあり、推薦の仕方などよく知っていたようである。
 7月9日、部長から「人事院総裁賞の推薦文(第一次推薦調書)を書きましたが、これでよろしいでしょうか」と藪から棒に聞かれて、初めて私の本が机の上に何冊も置かれていたその理由がわかった。
 そこで私は当初少なからず躊躇したが、「ダメ元でも、乗りかかった船」だと思いUSBを預かり家で仕事しようと持ち帰った。ところが私の家のパソコンのワードは古いバージョンなのか動かない。ビールを少々飲んでいたので引き返すわけにも行かない。この方面には詳しい弟に電話するとクラウドを使うと出来るということだったが、私にはそのような芸当は無理である。締め切りが迫っているということだったので、結局朝の3時に家を出て病院で仕事することにした。この日が偶然にも、私の誕生日の7月10日だったと記憶している。
 その後、少し間を置いて(正直に言って、ほぼ忘れていたが)、8月中旬頃だったかと思うが、部長から「一次選考を通ったようで、もう少し詳しい推薦理由を求められています」ということだった。そこで今回も、部長が書いたものを私が推敲するというやり方で完成させたのが下記の書類である。作成にあたっては、ブロック事務所の斎藤統括部長や宇土人事係長からの助言もあった。何しろ「推薦」ということなので、ちょっと気恥ずかしい部分もある(経歴などの記載や、資料も数点提出したが、ここでは省略する)。
(推薦理由概要)
 難病医療と医療安全のシステム化への「ながい道」
 医局の異動で当院に赴任し、筋ジストロフィー患者との出会いがきっかけとなり、28年間の長きにわたって「難病医療」と取り組むこととなる。この間、医長、副院長、院長を歴任し、神経難病の在宅医療とケア・システムの構築、医療安全のシステム化、さらに地域ネットワークの立ち上げや看護・介護者の教育・研修にも力を注ぎ、高齢化社会における医療と福祉、在宅ケア・システムの構築等果たした功績は顕著である。
 更には、難病に関心の薄い人々に、患者や介護者の喜びや悩みを理解して欲しいとの思いから、「語り部」として多くの著作も刊行し、普及活動にも取り組んでいる。
(推薦理由)
①【研究者から臨床家に】                                                  
 氏は昭和59年に国立療養所南九州病院に採用以降28年間の長きに亘り、難病の臨床と研究に従事してきた。赴任当時、筋ジストロフィー患者の多くは成人式を待たずに亡くなっていく時代で、「この子供たちを残して大学には帰れない」との強い思いがあり、期待の大きかった大学での研究を諦めた。(昭和58年に氏がメイヨークリニック(米)留学中の「筋無力症候群の病態解明」の研究が国際学会で「最も素晴らしい仕事」と賞賛され、世界的な注目を集めていた背景がある。)「病む人に学ぶ」という院是のもと患者中心の医療を実践する傍ら、恩師の「頼まれたことは断らない、問題点を解決していくのが研究である」との教えに従って、数々の実績をあげている。
②【在宅ケアに対する先進的な取り組み】                                     
 昭和59年に近隣の保健所長から「ALSの父を家族4人で、2年間休むことなく胸を押している」という相談を受け、日本で初めて在宅で体外式陰圧人工呼吸器を導入した。当初はボランティアで行っていた在宅医療を、病院として組織的に行う道筋を作った。その過程で、平成3年に地域の保健医療福祉機関も参加する「南九州医療福祉研究会」を設立、平成6年には「国立療養所における在宅医療推進に関する研究会」の班長、平成8年には「鹿児島ALS医療福祉ネットワーク」を設立した。これは平成11年から始まる厚労省による各県の「重症難病医療ネットワーク協議会」設立の礎ともなった。
③【在宅ケアを担う看護・介護者への教育・研修】                             
 同院での在宅医療は、実践(やってみないとわからない)、教育・研修(やってくれる人を教育する)、研究(やったことをまとめる)を三本柱としている。平成3年からボランティア介護大学(210人)、ヘルパー研修(3,511人が資格取得)、難病等ヘルパー養成研修(2,027人)など、県下の介護実務者養成に尽力した。また氏はヘルパーが吸引できないことは時代の要請に合わないと、厚労省の「ALS患者の在宅療養支援に関する分科会」の委員として、介護者の吸引を可能にする方向性を打ち出した。
④【医療安全のシステム化】                                                 
 院長就任直後よりリスク管理、とりわけ医療安全対策に取り組み、その結果、平成12年に厚生省の「リスクマネジメントスタンダードマニュアル作成委員会」委員長、平成19年には厚労省の「医療安全管理者の質の向上に関する検討作業部会」部会長、現在は日本病院会医療安全対策委員長として、日本の医療安全の向上に尽力している。
⑤【まとめ】                                                               
 病院経営では、職員の心を一つにして患者と地域に信頼される病院づくりを目指した結果、院長就任後、常に黒字で安定的な経営実績をあげ、また平成16年の国立保健医療科学院の行った「患者満足度調査」で入院部門で全国第一位という評価を受けた。「患者との対話で新しい物語(ナラティブ)を創造し、患者の悩みを理解していく」という氏の考えのもと、そのやり取りなどを著作(難病と生きる、病む人に学ぶ、てげてげ院長の早起き通信、病と人の生き方、病と老いの物語)にし、関心の薄い人々へ患者や介護者の喜びや悩みを理解して欲しく、普及活動にも取り組んでいる。
■ 人事院総裁賞への道(3)
  その後、9月中旬頃、「人事院総裁賞候補についての質問事項」なるものが人事院から送られてきて、これに対しては私自身、短い時間にもかかわらずやや「気合を入れて」書き込んだ。そのために一人称になっているが、自分のこれまでの歩みを整理するうえでもいいチャンスと考えた。ちょうど宮崎のフェニックスホテルで開催された院長協議会九州支部総会の時だったので、朝早く起きてホテルで完成させた。このようなとき毎朝書いてきた「院内ラン」や、著書が大いに役立った。忘れかけていた記憶を蘇らせてくれるからである。その一部を掲載すると、次のようになる。
Q: どのような難病を対象にされたのですか。
 私は昭和47年に医学部を卒業した。たまたまこの年に、日本の難病対策のバイブルともいうべき「難病対策要綱」が制定されたが、これもなにがしかの縁だと感じている。
 さていわゆる希少性の難病は4,5千はあるといわれているが、その中で現在、56の難病が特定疾患に指定されている。そのうち神経難病は10疾患ほどだが、いずれの難病とも係わりをもってきた。時代順に整理すると重症筋無力症、多発性筋炎、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、筋ジストロフィー(特定疾患ではない)、パーキンソン病が主な疾患である。
・まず医師になって3年目(昭和49年)、東京都立府中病院(現在の神経病院)に2年間出張した。この病院は重症筋無力症の日本の基幹施設であり、多くの患者が入院し治療していた。筋無力症は若い年齢で発病することが多く、特に二人の高校生が印象に残っている。Aさんは18歳のかわいい女子高校生だったが、かなり重度で胸腺摘出やステロイド治療、血漿交換療法などで治療した。寛解した時に美容師の資格を取り、小さい頃からの夢を実現させた。オーナーの理解もあってその美容師の仕事を現在も続けているが、50歳を過ぎた今でも(埼玉在住)、病気や人生相談などの電話を時々もらっている。
・Aさんの友達だったBさんもほぼ同じ病状だったが、気管切開したまま郷里の福岡に帰りたいということで、飛行機で羽田空港から福岡空港、そして九大病院まで付き添った。二十歳を過ぎたころ、クリーゼ(急性増悪)で亡くなったという話に大きな衝撃を受けたことを覚えている。
・ここでの臨床経験が、アメリカのメイヨー・クリニックでの神経筋結合部(シナップス)の研究テーマにつながった。
・鹿児島に帰って、南九州病院に赴任(昭和59年)し、厚生省の委託でスモン検診を始めた。特に印象に残っている当時80歳の女性は、ほぼ盲目に近い状態で脊髄障害も伴っていた。一人暮らし(甥が朝夕の面倒をみて)を続け、在宅で100歳まで生きた(最期は老健施設で)。最期は先生の病院で死にたいと常々言われていたが、実現はしなかった。「ただ薬害に対する怨念は、ほとんど持っていなかった」のが救いだった。
・多発性筋炎の患者の治療と診断を多数経験した。幸いにも上手くコントロールできて、感謝されることの多い病気である。
・多くの筋ジストロフィーの患者さんとは、30年近くの付き合いである。ただ最重症のデュシェヌ型の患者さんの多くは、既に亡くなっている。
・ALSの患者さんとは、県内のみならず宮崎県など在宅医療などを通して多くの方と縁を持った。患者さんとの思い出は多岐にわたっており、拙著にも多数紹介させてもらった。特に「日本医事新報」に、ALS患者に関する随筆を掲載した(平成2年頃)ことで、日本全国の多くの方々と「縁」ができた。
・高齢社会になるにつれてパーキンソン病が激増し、日常の臨床ではもっとも診る機会の多い病気となった。この病気に関する3冊の一般書(法研)を出版したということもあって、東京など遠くからわざわざ受診してくださる患者さんもいる。
■ 人事院総裁賞への道(4)
Q: キャッチフレーズの「ながい道」とは何を指しているのですか。
 私は歴史小説が好きで、特に藤沢周平、司馬遼太郎、山本周五郎の小説の愛読者である。そのなかで周五郎の長編「ながい坂」も好きな小説の一つで、自らの人生と重ね合わせて多少の「遊び心」も手伝って、「ながい道」という言葉を使わせてもらった。
 主人公の小三郎が、江戸時代の身分制度の厳しい時代に、少年時代から向学心に燃え、文武両道に励み、最終的には城代家老にまで上りつめるというサクセスストーリーである。その根底にあったのは、幼少時に経験した「理不尽な事件」であったが、そのことへの闘いは「私情がなく無心である」ことで人々の共感を得ていき、結果的には目標を達成する。
Q:「介護者に吸引を可能にする方向性を打ち出した」とは、具体的にはどのようなことですか。
 私の患者さんに60歳のALSの女性がおられたが、在宅療養となったとき、ご主人がかいがいしく看病されていた(若い頃は船乗りで、家内には何もできなかったので、せめてもの罪滅ぼしと笑いながら語ってくれた)。
 ただ夜間、一時間おきに、奥さんの気管から痰の吸引をしなければならなかった。介護保険制度が始まりヘルパーは来てくれていたが、吸引は医療行為ということで吸引することができず、夜間はずっと起きて自分で吸引しなければならなかった。そのためにゆっくり眠れるのは、昼間の数時間(訪問看護師が来てくれる)だけだった。
 「こんな理不尽なことはない」というご主人の訴えに共感し、日本ALS協会や日本神経学会の支援も受けて、当時の坂口厚生大臣の理解もあって、厚労省に委員会ができた。私も委員の一人として参加し、一定の条件下で介護者にも吸引が可能になる道を開くことができた。現在ではこの吸引行為は、養護学校の教員などにも拡大されている。
Q: 医療安全対策への具体的な内容を。
 何事をするにも、一人の力でできることはしれている。ところが多くの人が一つの目標に向かって力を合わせると、思いがけない仕事を成就できるものである。私が行ってきた「難病の地域ケア・システム化、筋ジストロフィーのケア・システム化、そして医療安全対策のシステム化」という作業は、全てこの「システム化」という言葉でくくることができる。
 医療安全活動は、トップダウンとボトムアップとの融合が肝要となる。
 院長は「安全で安心できる医療の提供こそ、病院の最重要課題」であるという強いメッセージを常に職員に発信し、周知徹底をはかることが重要である。また医療安全管理者など医療安全に係わるメンバーに対する励ましと評価を忘れてはならない。そして全体の活動のプログラムを提示しシステム構築を行い、ヒヤリハット報告や事故報告書などの積極的な提出を命じる。
 一方職員は、それぞれの領域で医療の高度化、複雑化、専門化に対応した知識と技術の習得に努め、自分の業務におけるリスクの把握、整理、分析(敵を知る)を行うことになる。常にリスク感性を磨き、日常の仕事では確認の習慣を身につけることである。
 医療安全活動は、日頃の地道な改善への努力の積算でしかない。具体的な医療安全管理に関する組織図は、病院の規模や診療内容によって若干異なるが、その基本は同じである。
 当院では医療安全管理委員会が病院全体の要としリスクマネジメント部会と看護部リスクマネジメント委員会へと連携する縦型組織を軸として、各部署がスムースな情報の共有が図られる体制になっている。この各組織のパイプ役をになうのが、専従の医療安全管理者ということになる。
 ただ医療安全管理者は転勤なども必至であり、そのレベルを落とさないために看護部長の任命による医療安全管理者を補佐する看護部リスクマネジャーを配置している。輪番制で、病棟の二人の副看護師長が一月交代で週に2日間その業務に専従することになっている。この制度により、病院の医療安全対策の質の平準化とともに副師長の教育にも効果を発揮している。
 なお国の医療安全行政に係わる主な仕事としては、委員長として「リスクマネジメントスタンダードマニュアル作成委員会(平成12年)」に、また座長として「医療安全管理者の質の向上に関する検討作業部会(平成19年)」に参加した。そして現在、日本病院会の医療安全対策委員長として、日本各地の病院の医療安全管理者の養成と質の向上に努力している。
■ 人事院総裁賞への道(5)
Q: 氏だからこそできたその功績について具体的に。
 近代外科学の父といわれたアンブロワズ・パレの有名な言葉に、「ときどき治すことができる、しばしば和らげることができる、いつでも慰めることができる」というものがある。的確な治療法の少ない神経難病を対象にしてきた私にとっては、いつも励ましの言葉に思えてくる。
 もともと書字が下手で原稿用紙を埋めるようなことは、学術論文の作成以外にはしてこなかったが、ワープロやパソコンが使えるようになって生活が一変した。
 8年ほど前から、毎朝5時15分に家を出て6時前には病院に着くという生活を続けている。そして約一時間かけて1600字ぐらいを目途に、パソコンで「院内ラン」として「雑感」を書き、そのまま院内に情報発信してきた。当初は、職員に病院の現状(患者数や平均在院日数など)、その日の私の動静などを知ってもらうことを目的に考えたが、それだけでは毎日は読んでもらえないので、付録として「雑感」を付け加えたということになる。
 「よく、毎日書くネタがありますね」と不思議がられるが、そこは医師の特権で、外来患者さんとの言葉のやりとりや、現在の医療の諸課題(胃瘻や終末期医療、病名告知など)、またさまざまな会議での模様など、話題に事欠くことはない。結果的には、この雑文が職員に対する私からの情報発信となり、職員に私自身の考えや病院の現状など知らしめることになり、結果的には病院経営にも役だったかと思っている。またこの作業がきっかけで、新聞の連載や数冊の随筆集を刊行することにつながった。
 私の本を読んで、一人の青年は弁護士志望から厚労省への入省を決めたと、学生への入省勧誘のパンフレットに書いてくれていた。また河合塾の模試(現代文)の問題に取り上げられたのも「ちょっとしたうれしい」事件だった。
  「功績」といわれると、ちょっとすくんでしまうが、自著に「先生の好きな言葉を書いてください」と求められることがある。そのときには、「普通に生きる」とか、「てげてげに生きる」と書くことが多い。
 「普通に生きる」は、何事も特別なことではなくて、自然体で普通が一番いいと思っている。また「てげてげ」は鹿児島地方で使われる方言で、「大概大概」というような意味である。「いい加減」ということとは少し異なり、車のハンドルにも遊びがあるように、少し余裕があるぐらいがいいということである。
 ある講演で、「治療法のない難病とか、進行がんと告知されたら、どのように生きていけばいいでしょうか」と質問を受けたことがあった。あれやこれや考えたが、詰まるところシンプルに「一生懸命に生きることだ」と答えた。この言葉は、私が長年関わってきた筋ジストロフィーやALSの患者さんから教えてもらったことでもある。
 私の恩師の井形先生(名古屋学芸大学学長)に、自著(病と老いの物語、平成23年)への寄せ書きをしてもらった。
 「・・・『障害も個性だ』という新時代に対応して、筋ジストロフィーを中心に難病研究を組織し、温かいヒューマニズムを軸に新時代の医療と研究を推進してきた。つまり福永先生はどの分野でも、激動する新時代にチャレンジし、常にかくかくたる成果を挙げてきており、正に時代のマルチタレントである・・・」という過分な推薦の言葉を頂いた。
 具体的な意味での「功績」と言われれば、多くの難病の「研究班」に係わってきたことと、現在進行中の「難病医療の法制化」という仕事かと思う。
 前者に関しては、平成11年に厚生省QOL研究班の「難病の地域ケア・ガイドライン」分科会長としてまとめた「難病患者の地域ケア・ガイドライン」がもっとも印象に残っている。後者では、現在厚生科学審議会難病対策委員会の副委員長の任にあるが、昨年末からこの8月まで、十数回にわたる委員会での議論を「中間報告」にまとめた。今後年末まで6回の委員会が予定されており、「最終報告」となる段取りである。そして来年度からの「法制化」につなげられればと願っている。
■ 人事院総裁賞への道(6)
Q :業務を行う上でのやりがい、苦労、喜びなどを具体的に(エピソードを添えて、積極的なPRを)
 私の専門とする神経難病では、現在の進んだ科学でも根治的な治療法の確立できていない病気が多いので、多くの場合は患者さんとの出会いは、結果的には悲しい別れとなる運命にある。それでも医療に従事するものにとって最もうれしいことは、患者さんや家族からの「ありがとう」という感謝の言葉である。
・ わずか二十歳で亡くなった筋ジストロフィーの患者のお母さんからの手紙である(病む人に学ぶ、平成16年)。
 ○○は、あっという間に逝ってしまった、そんな感じです。思い起こせば、先生と初めてお会いしてから17年6ヶ月、折に触れて私たち親子を励ましてくださり、また最後の在宅医療も先生のご配慮であったこと、心より感謝します。・・・私は○○の母親で本当に良かった、幸せだった。先生、○○の最後は入浴中で、私の腕の中でした。「母さん」、最後の言葉はいつもより大きな声でした。私がヘルパーんの仕事を始めたころ、先生に「母さんはえらい」と言われ、そしてまた「ヘルパーをすることで、○○にいつか役立つことがある」と言われた言葉通りになりました。私の心の支えはいつも先生の言葉、○○の存在でした。在宅から入院、そして在宅へと、先生の励ましのもとで続けてこられたのだと思います。これからの私の人生、先生との出会いを心の糧に、一杯頂いた心を今後は仕事を通して他人様に返していけたらと思っています・・・」。
・私に人生を教えてくれた小川内さん(ALS、74歳)は、「ALSになって先生を始め多くの人に出会うことができた。一日一日を精一杯生きたいし、病気と友だちになった気がする」と語ってくれた(難病と生きる。平成11年)。
・ 在宅医療で長い間付き合いのあった85歳のパーキンソン病の女性は「先生が帰られるときには、ガラス戸を少し開けておいて、後ろ姿にお辞儀をしながら『今日も無事にお仕事が済みますように』と祈っています」(早起き院長のてげてげ通信、平成19年)という言葉など、医者冥利に尽きる。
・ 私の発刊した本を読んで、「福永先生、お懐かしゅうございます。先生はきっと、13年前に入院していた国分市の○○を覚えてくださると思います。その節は大変ご心配をおかけし、またやさしく見守ってくださいました。・・・主人は福永先生のことが大好きでした。昨年、13回忌の法要をしましたが、私はあれで良かったのだと安らかな感謝の気持ちで毎日を過ごしています・・・」(病と人の生き方、平成21年)という手紙を頂いた。
 この方のご主人はALSで、呼吸が苦しくなったときに人工呼吸器の装着を拒んで自らの意思で従容と死地に赴いた。ただ奥さんは、当初ご主人の親戚から「あなたがしっかりしないから早死にさせた」と攻められたようである。私の本を読んで、「大変だったんだねえ」と、少し親戚にも理解してもらえたということである。
・ 先日、回診の途中、4人部屋に入ったら、ALSの患者さんと3人のパーキンソン病の患者さんが歌いだした。「院長の回診 待ちわびて、今か今かと待っている、お声するけどあらわれない 一人ひとりに優しいのね・・・」。
 ALSの患者さんの作詞で、歌そのものは決してうまくはなかったが、「臨床医になってよかった」と感激した。
・ 筋ジス病棟では、予後を含めて子どもたちにどこまで病気のことを話していいものか、よく悩んだものである。当時、入院していた岩崎義治さん(脊髄性筋萎縮症)は、次のような短歌を詠まれた。
『治るよね』問いくる子等の澄める眼に うんと言う嘘神許されよ
 いかにも岩崎さんらしい、やさしさや思いやり、そして戸惑いの感じられる歌である。想像するに、小学生の筋ジスの少年が、薬を飲んでも訓練しても病気は一向に良くならない。かえって力が抜けてしまって歩き難くなってくる。心配になった少年は意を決して、岩崎さんに、「きっと治るよ」と言ってもらいたくて尋ねたのだろうと思う。
 私も同じような経験を何度もしたことがある。(前)徳島病院の多田羅先生は、このような状況では「模範解答はありません。その時々、みんなで考えていかなければなりません。ただ一つはっきりしていることがあります。それは嘘を言わないことです」と書かれている。「うん」という嘘は、やはり許されないのだろうかと思う。ただこの問題は、死の受容とともに、徐々に解決することができた。
・ 外部評価というわけではないが、当院の筋ジス病棟をノーベル賞受賞者のガジュゼック博士が2回も訪問してくださり、次のようなコメントを残してくれた(私が日本語訳)。
 鹿児島には夕方到着しましたが、空から大きな噴火口を見たり、また美しい景色にめまいを覚えるほどでした。私は思わず、ニューギニアやニューブリテンの島々を思い出していました。夕暮れの中、南九州病院の筋ジストロフィー病棟を訪問しました。そこはかって私も経験した、短命を宿命とする患者たちの重苦しい雰囲気の病棟のはずでした。ところが、皆さんの努力で、一人一人の患者さんが生き生きと楽しそうに生活されていることに驚きました。
 私のニューギニアでの経験からは、クル(Kuru)の患者さんも隣人も、この宿命的な病気を前にして、ただ打ちひしがれるばかりでした。ところがここでは、高い文明を持つ市民社会が確立し、ヒューマニティと知性に溢れるスタッフが、この困難な病気と真摯に向き合っている姿に感動しています。
 ただただ私は、あなたがたの献身に頭がさがります。私は病棟で、幸せそうな少年たちと話をしているうちに、涙が出てくるのを止めることができませんでした。私をここに招待して下さり、あなたがたとこのような素晴らしい機会を共有できたことに、心からの感謝の気持ちを捧げます。
 嬉しく、思いがけない評価である。
 最後に、蛇足であるが、「鹿児島で嫌われる人」は、次のような人である。
 まず、「げんねこちょ知らん人」である。これはあの司馬遼太郎が鹿児島に取材に来られたときに最も興味をもたれた鹿児島弁だそうである。薩摩では何事にも晴れがましいことを嫌い、すべてに控えめであることを美徳としてきた。この教えは昭和、そして平成の世でも変わらず、なにかといえば「げんね(恥ずかしい)」と口にだす。そうでない人間には、「あいつは、げんねこちょ知らん」という批判が集まる。
 でもここでは「積極的なPR」ということなので、あえて「げんねこちょ知らん」と思われるかもしれない話を、図々しく紹介させてもらっている。
 ついでに言うと、「よかぶいごろ」ということばがある。標準語では「いい格好をしたがる人」ということになり、「げんねこちょ知らん」から「よかぶる」という図式になる。

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