院長雑感詳細

院長雑感(138号)

新政権になって、公共工事の拡大や補修工事の前倒しが取り沙汰されている。新幹線も高速道路も造るのは易しいが、長年の保守管理が難しい。1980年代、私がアメリカに留学していたころ、アメリカの財政赤字と不況は深刻で、高速道路は荒れ果てて惨憺たるありさまだった。おそらく日本も、今後老朽化してくる新幹線や高速道路の維持管理に多額の費用が必要になってくるが、今の財政では果たして十分な手立てができるだろうかと不安になる。政治家も、新たな路線を造ることには熱心でも、地味な部分には手を抜きそうである。
 そんな折の中央自動車道・笹子トンネルの天井崩落事故である。偶然その場に居合わせたNHK記者が事故の瞬間に乗っていた車のアクセルを思いっきり踏み込み、損傷は受けたものの奇跡的に脱出した。乗っていた車はスバル「インプレッサ WRX STi」。ボディの剛性と加速性能のよさに、インターネットでは「さすが走りのスバル」と、賞賛する声があがった。私はエコを重視したプリウスだが、プリウスに乗っていたタクシーの運転手は、市内ではエコモードで走るだけでも危険だと言っていた。
 何事も二兎を追うことは難しい。
■ 患者数
 11月の入院患者数は366.0人で、計画に対し19.7人の大幅減となった。平均在院日数は、調整前で16.5日と問題はない。外来は171.9人と、計画比で8.6人の増となった。10月と同じ傾向が続いている。
■ 診療報酬点数
 11月の診療報酬点数は、計画比で入院では24,562,点の減、外来は420,791点の増で、対計画では入院・外来合わせ1,104,432点の増となった。累計では2,850,166点の増となっている。11月は入院患者数は減少したが、手術の増加などで一件当たりの点数が増加し、収支的には好調であった。
 経常収支率では調整後で114.7%で、累計では109.7%である。
□ 授与式と御接見(1)
 12月10日は、私の人生にとって「記念すべき一日」となった。
 午前中に人事院総裁賞の授与式が、そして午後から皇居で天皇・皇后両陛下とのご接見が予定されていた。そこで9日の朝、東京へと鹿児島空港を飛び立った。上京の時にはいつも単独で行動してきたが、今回は配偶者同伴ということで家内を伴っての珍しいパターンである。元来家内は出不精で今回も予想通り渋っていたが、両陛下にお会いできることは滅多にないことだと説得して一緒に出かけることとなった。
 日曜日の早朝ということもあってか機内は空席が目立ち、座席もたまたま窓際だったので、冠雪した富士山をカメラに納めることができて、まずはラッキーな旅立ちである。荷物もあったので浜松町からタクシーで赤坂見附のエクセル東急に直行して、その荷物を預けた。そして二重橋の楠公の銅像の近くのお土産物店で、お土産物を選んだ。太陽は顔をだしているが木枯らしの吹きすさぶずいぶん寒い日だった。ホテルに帰り、夜はニンニクの利いた肉料理でもと思ったいたが、陛下の前でニンニクの匂いでは失礼にあたると思って断念した。
 さて当日は雲一つない快晴で、朝方は風もなく予報の温度は2度だったがさほど寒くは感じなかった。10時15分に明治記念館に集合となっていたので、ホテルを9時半前に出て、丸ノ内線と総武線と乗り継いで信濃町駅で降りた。記念館は元赤坂にあり、駅から歩いて数分の距離にあり、基本的には結婚式場のようである。気品ある美しい建物で、手入れの行き届いた中庭の樹木など歴史を感じさせるものがある。
 指示されていた部屋に着くと既に他の受賞者は席に座っており、早速人事院の担当の方から日程の説明があった。授与式は11時15分に始まり、金屏風の前で総裁から一人一人に表彰状と副賞(七宝焼きの赤富士)の目録が渡された。受賞者の各府省代表者も陪席して下さり、機構本部の桐野理事長も自ら出席していただいた。そのあと記念の写真撮影があり、お昼の昼食会まで庭内の散策などで過ごした。職域部門の受賞者の一人である法務省の沖縄女子学園長の渡辺さんと話す機会があったが、彼女は鹿児島市の出身で私の高校の後輩で、父親が在宅クリニックの五反田先生にお世話になったという。昨年この園に異動して(園としては、更生者に対する沖縄織物や陶芸など40年近くの活動に対する評価だという)今回の受賞に至ったということで、私の場合もそうであるが宝くじに当たったような幸運である。
 12時半から人事院幹部と選考委員も交えた昼食懇談会である。まず人事院総裁の原恒雄氏が、「この賞は現在の天皇陛下が皇太子の時代に始まったものですが、天皇陛下となられてからも『ご接見』を強く希望されて続いているようです」と話された。そのあと、選考委員長の樋口公啓氏から各受賞者の受賞理由の説明があったが、私の説明が最も長く、毎朝早く病院に来てこの「院内ラン」で情報の発信をしていることも紹介された。
 私の前は作家の西木正明氏(直木賞受賞者)で、作家で編集者もしていたというだけあっていろいろ面白い話題を提供されていた。作家は品性の悪い人ほど美しい文章を書く人が多いとか、悪筆の代表は石原慎太郎で、あとで編集者が聞きに行ったら自分でも読み解けなかったとか、パソコンで書くようになてから文章のセンテンスを一度頭の中で作ってから打つようになった(万年筆で書く頃は、考えたことと書く事が時間的に一致していた)ことなど。私は読売新聞社の橋本五郎さんと話をしたかったが、遠く離れていたのでその機会が取れずに、会の終了後に挨拶するだけにとどまった。
□ 授与式と御接見(2)
 いよいよ14時15分に、マイクロバスで皇居へと向かった。以前は二人ずつお召しの車で行かれたようであるが、今回はご一行様ということになりこれも経費節減の一環かもしれない。どうせなら二重橋から皇居に入りたかったが、工事中ということで皇居前広場を突き抜けて、坂下門から「北車寄」に到着した。
 そこで制服に身を固めた宮内庁の職員が恭しく出迎えてくれた。階段を登るといよいよ宮殿の入り口となる「北溜(きただまり)」である。天井がやけに高く、中央にはクリスタルガラスを散りばめたシャンデリアが2基下がっており、入り口の横には馬に乗った天女の銅像が置いてあった。後でインターネットで調べると、この北溜は山口県産松葉石(黒御影石)・熊本県産市房杉・宮崎県産日向松・沖縄県産勝連(大理石)などが使用されているという。
 そこで15分ほどの休憩という説明があったので、尿意はなかったがトイレを利用した。ゆったりとしており、陶器製の純白の小便器が3つ置かれていたが、「一歩前にお進みください」などといったような野暮な注意書きなどはなかった。お手拭きの紙は当院のものを何枚も重ねたような厚さで、ずいぶん高価に思えた(家内によると、女子トイレには手鏡などの化粧直しができるような備品も備えられていたという)。
 14時50分頃、宮内庁の職員の案内で20段ほどもある階段を上り、北の間から白砂の敷き詰められた中庭の回廊を歩いていく。私の院長室と違ってふわふわの萌黄色の絨毯が敷かれており、体が沈みそうになる。豊明殿の前を通り、接見の間である「連翠」に着く。「連翠」の間も宮崎県産や神奈川県産の松材が使用され、桂離宮の松琴亭一の間の白と濃い青の市松模様の襖がモデルとなった四段からなる無双窓がある。部屋の片隅には小さな台の上に、花瓶に花がいけられている。
 早速宮内庁の職員から、受賞者の立ち位置(家内はそれぞれ左側に)とご接見の手順の説明がある。しばらく整列して直立不動の姿勢で待っていると、両陛下が侍従長や女官長を従えて静かに歩いてこられた。この時ばかりはさすがに緊張して、横目で見ながらぎこちなく一同礼の挨拶でお迎えした。
 両陛下は大きな部屋の中央に立ちどまる。皇后陛下は一歩引いた位置に立たれ、両手を前に組みながら少しうつむいておられる。事務総長が一歩進み出て、ご挨拶を申し上げる。その後、一人一人の受賞者の前で、両陛下に所属と名前、顕彰理由を含めてご紹介されると静かに頷かれる(それぞれの左の胸には、事前に名札を付けてあった)。その後両陛下は、二手に分かれて受賞者と親しく懇談となった。
 私は右から2番目の位置に立っていたので、天皇陛下からである。にこやかな表情で来られて、ホーキング博士の病気(ALSのこと)の治療の現状や今後の見通し、そして患者さんを介護しておられる家族の苦労について聞かれた。また筋ジストロフィー患者さんの治療で苦労されていること、生命予後や闘病中の患者さんの気持ちなどについてもおたずねになられた。家内には「こんなに忙しいご主人を支えていかれるのは大変だったでしょう」などのねぎらいの言葉も賜った。以前、天皇陛下のスーツやズボンには(何の理由かは忘れてしまったが)ポケットがないと聞いたことがあったが、確かに一つもポケットもなかった。私など、これでは大変不自由だと思うのだが、お財布などを自分で持たれることはないのだろう。
□ 授与式と御接見(3)
 皇后陛下がおこしになられるまでにちょっと時間が空いたら、(お気遣いなのか)女官長がしずしずとお話にこられた。昔はさぞかし美しかっただろうと思われる小柄で上品な女性で、「鹿児島からの道中、大変だったでしょう、お帰りの時には見物などなされてはいかがでしょうか」に始まって、随分長いあいだ話し込まれた。「陛下は昨年の大震災の時には大変お心を痛められて、私たちが陛下のお身体のことを大変心配いたしました。今朝も両陛下とも義肢装具サポートセンターをご訪問なされるなど、激務でいらっしゃいます」など、かねての生活ぶりも紹介してくださった。
 帰ってからインターネットで調べてみると、この女性は桂小五郎(木戸孝允)とあの幾松の玄孫( やしゃご/ひ孫の子)にあたるということである。
 しばらくして皇后陛下が来られて、「鹿児島からですか」とやさしくお声をかけてくださったので、「第三内科の井形先生の門下です」と、ちょっとピント外れを承知でお答えした。「病気の患者さんの胸を押されて、呼吸を助けられておられるのですか」と言われたので、「今は性能のいい人工呼吸器がありますので、直接胸を押さなくてもすんでおります」などとお答えした。私の顕彰の理由など事前に読まれている感じだった。家内には「お忙しい方を陰で支えて行かれるのは大変なご苦労がおありでしょう」と、天皇陛下と同じようなねぎらいのお言葉を賜った。
 両陛下とも、ゆっくりと丁寧なお言葉でお話しされるのでよく聞き取れる。そして部屋の中は物音一つもせず、実に静寂な空間である。東京のど真ん中にありながら、これだけの静寂さが保たれるのも不思議な気もする。
 この間、白い制服の宮内庁の若い男性職員が、日本茶と和菓子を配られた。お茶はお湯に近いほど薄く、お菓子は白い紙の上に載せられており、色鮮やかで8の字をしたような物や木の葉を模したような形をしていた。片手の掌にお茶を持っているので、お箸ではつまみにくいので行儀が悪いと思ったが素手で取った。それでも気を付けないとお茶をこぼしそうになる。両陛下も同じようにお茶碗を持ってお話しされるが、さすがになれておられるのか、自然なお振る舞いである。
 30分近く経って、事務総長がお礼を申し述べた。最後に天皇陛下から「日本国や国民のためにご貢献いただき、ありがたく思います。今後もお体を大切にして国民のために尽くされることを希望します」と言うようなお言葉を賜りご接見は終了した。一同で両陛下をお見送りして、来た道を帰ることになった。
 途中、長和殿や豊明殿、一般参賀の場所などを説明してもらった。部屋や廊下の壁などに名だたる画家の絵も飾られていたようであるが、事前の「学習」がなかったのでそのまま素通りしてよく思い出せない。宮殿を出て、「松の塔」の前で記念の集合写真を撮り、マイクロバスに乗りこんだ。約一時間半の皇居滞在はつつがなく終わった。
 宮殿の建物は簡素で清潔で、有名な産地の杉や松などを利用しており、日本古来の「わび・さび」の伝統を守っている感じを受けた。また両陛下は80歳近くになられておられるが、毎日このような執務は大変なことだろうと察せられた。特に天皇陛下はいくつかの病気も抱えておられるし、もう少しお役目を制限できないものかと思ってしまう。でも、今回のようなご接見は、お会いする側のわがままからいえば「是非とも」ということになる。
 ご接見の翌朝、「お茶などお召し上がりになられますでしょうか」とは家内の言葉である。急にやさしい言葉遣いに変身していたが、翌々日からはもとの言葉に戻っていた。
 後で考えてみれば、皇居に入るにあたっての注意事項は、携帯電話の電源を切ることと加治木まんじゅうのようなお土産を渡さないことの2点のみであった。健康のチェックや不審物の携帯などのボディーチェックもあるのかと思っていたが、「公務員の鑑?!」という信頼の上に立ってのことだろうがちょっと拍子抜けした。
 それでもこのような機会はめったにあるものではないので、得難い経験をさせてもらったことになる。 
□ 国立病院機構総合医学会(1) 
 今年の国立病院総合医学会も、忙しい「スケジュール」になりそうな予感がしていた。いつものことながら、研究発表を聞くことよりも種々の委員会への出席が優先されるからである。
 学会前日に早朝から様々な会議が予定されていたので、前前日の水曜日(14日)の夕方、16時10分のJAC機で鹿児島空港を飛び立った。17時半頃に伊丹空港に着き、そのまま神戸三宮駅行きの高速バスに乗ったが、少し渋滞していて15分遅れで三宮駅に到着した。停留所には、野崎園子先生(兵庫医療大学教授、以前NHO徳島病院の臨床研究部長もされていた)が待ってくれていて、そのまま地下道を歩いて、国際会館内にある日本料理店に入った。彼女とは久しぶりの再会だったが、事前に現在日本神経学会で作成中の「ALSガイドライン」についての相談を受けていた。
 「実はALSガイドラインの嚥下障害の箇所では、多少苦戦しております。神経内科医で、温度差があることを実感いたしました。かなり仕上げの段階に入っておりますが、評価委員であられる福永先生に、非公式にご相談申し上げたいと思っております」というものだった。おいしい日本料理を食べながら、嚥下の問題(リハビリの教授をされていることもあり、この方面での日本の第一人者である)について少し話をした後、久しぶりの再会を楽しんだ。国立病院機構から大学にトラバーユされた一人であるが、講義などに忙殺され結構忙しいらしい。あっさりしていて、率直で、いつまでも年をとらない不思議な女医さんである。
 21時過ぎに、インターネットで予約していた旧居留地にあるヴィアマーレ神戸に、地図を片手にして歩いていった。3階にある部屋に入るとタバコの匂いがしたが、空気清浄器もありそのうちに気にならなくなる。インターネットを使用できるのはありがたく、オマーン戦のサッカーをみながら寝込んでしまった。
 15日の朝は3時過ぎには目が覚めた。最近このような早い時間帯に目が覚めることが多く、もう少し熟睡したいのだが睡眠薬は使いたくない。
 実はこの日は東京での厚労省による難病対策委員会と重なってしまい、検討内容が「医療供給体制」ということだったので是非とも出席したかったが、今回は機構の院長協議会の役員会や総会を優先した。
 私の宿泊したホテルからポートアイランドに行くには、10分ほど歩いて貿易センター駅でポートライナーに乗ることになる。途中の東遊園地には、慰霊と復興のモニュメント「1.17希望の灯り」がある。そういえば、あの大震災から17年もたつことになるが、神戸の街は見違えるように復興している。
 10時から重症心身障害協議会役員会、12時から院長協議会役員会、14時から総会、そして17時30分から意見交換会と続いた。役員会では副会長ということで、司会の楠岡先生の隣のひな壇で、眠ることもできなかった。また意見交換会ではやはり副会長という立場で乾杯の音頭をとることに。でもこのような役柄は、どうもはまり役ではない。ただこれらの会議にもほぼ15年間、院長として毎年出てきたが今年が最後の年になる。
 16日の朝も早く目覚めてしまった。ところが6時のNHKニュースをみると、「難病の報告が半分以下」というようなタイトルで15日に開催されて難病対策委員会の模様が報じられていた。そして各県からの特定疾患受給者の意見書が厚労省に半分も送られていないことが報じられ、その会議の模様がテレビカメラに写しだされていた。このニュースを見た人から学会の時に「先生もお忙しいですね、とんぼ返りですか」と言われたが、実はニュースに出ていた私の写真は、前回の委員会の時に撮られたものである。NHKも、「痴漢」のアナウンサー同様、おおらかというか「てげてげ」である。
□ 国立病院機構総合医学会(2) 
 さて学会の一日目は、8時20分から国立病院学会の理事会、評議会があり、9時から開会式、そしてオープニングリマークとして桐野理事長から「新しいNHOを目指して」というタイトルで講演が行われた。平成16年に独歩化したときのNHOと現在の姿を対比しながらすばらしい発展をみた機構であること、そして今後のNHOを、アメリカのVAホスピタル(在郷軍人病院)をモデルにしていきたいというような話であった。
 ポスター展示場に行くと、当院の磯邊さん(4病棟)や荻本さん(指導室)に会うことができた。またたまたまプログラムをめくっていると、同じ会場の座長に佐々木奈美子という名前があった。この人は数年前の「医療」という雑誌に「若い頃の筋ジス病棟での体験が自分の看護を作ってくれた」というような寄稿をされており、いたく共感したこともあって時々講演でも使わせてもらってきた。早速そのポスターセクションまで行ってみると思っていた通りの人で、八雲病院から現在は北海道医療センター(看護副部長)に異動になっているという。
 いろんなところで、いろんな出会いと縁があるものである。
 縁といえば宿泊していたホテルでの朝食の時に、「鈴木です」と声をかけられた。この女性は私が筋ジストロフィー研究班の班長をしていたときに下志津病院の師長さんだった。司会などよくお願いしていた師長さんだったが、「すっぴんで・・・」と恐縮されていたが再来年で定年だという。
 その後、11時からの「ここまで来た筋ジストロフィーの治療研究」というシンポに参加したが、未来のある話で面白かった。司会の川井先生は聴衆が少ないのではと心配していたが、メインホールは結構な人数で埋められていた。いつ頃、人工遺伝子で根本的に遺伝子病を治せる時代が来るのだろうか。
 昼は「重症筋無力症治療の現状と展望」というランティオンセミナーで昼食をとり(食事を摂ることが目的のようだ)、15時からの重心協議会の総会に出席した。時間が重なったので医療安全の委員会には出席できなかった。
 その後ポートピアホテルのロビーで18時からの全員交流会を待っていると、今日わざわざ写真撮りをかねて出かけてきてくれた宮森課長や上別府さんと出会い、しばし歓談した。待っている間にも、多くの友人から「おめでとう」の声をかけられた。
 交流会は18時に始まり、会に先立って理事長表彰授与式が執り行われた。水戸医療と熊本医療が救急医療功労厚生労働大臣表彰を受賞されたということで、また私の人事院総裁賞の受賞が決定したということで理事長表彰を受けた。個人表彰としては一人であり、ありがたい幸運である。壇上のすぐ前のテーブルには、上別府看護部長他当院のスタッフが陣取り祝福してくれた。本当に晴れがましいことで、いい思い出にもなった。もう少しこの会場に居たかったが、隣のホテルで筋ジストロフィー施設長協議会が予定されていたので席を移すことにした。会議終了後、タクシーで三宮のホテルに帰った。
 17日は朝から小雨である。私の宿泊していたホテルがたまたま神戸市立博物館の隣にあり、現在マウリッツハイス美術館展を行っていた。なんとあのフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が鑑賞できたのである。この絵を見るためだけの理由でオランダまで出かける人がいることを思うと、なんとラッキーなことだろうか。先日亡くなった横手さんも、みることは叶わなかったがとても楽しみにしていたものである。小雨の中を歩いていくと、開館時間前(9時30分)にもかかわらず、もう長蛇の列である。それでも10分ほどでお目当ての「少女」の前にたつことができたことはラッキーで、お土産にポストカードを買ってタクシーで学会会場へと向かった。
□ 国立病院機構総合医学会(3) 
 震災関係のシンポに引き続いて、10時50分からの田部井淳子さんの特別講演(人生は8合目からが面白い)は、タイトル通り面白かった。
 真っ赤なスーツ(と思っていたら、伸縮性のいい登山着だと言うこと)で現れたが、意外に小柄なきゃしゃな女性である。「講演にスピード違反はありませんので」と前置きしてから話されたが、実にテンポがよく、とても73歳という年齢を感じさせない素晴らしい講演だった。
 田部井さんは1975年に女性で初めてエベレスト登頂を果たした人だが、38年前に35歳の時だったという。三春の桜(しだれ桜)で有名な福島県三春町で生まれ、虚弱体質だったという。10歳の時に担任の教師に誘われて初めて那須連邦に登ったが、生まれた街は名前のように一面緑に囲まれており、登った那須の草も木も一本も生えていない落差に驚く。砂と岩ばかりで、川には水ではなくてお湯が流れていた。この時の体験があまりにも強烈で、その後の人生を変えることになった。
 大学時代から登山にはまり、本格的な岩山登攀の経験は社会人になってからだという。
 最近、NHKテレビで登山歴一年の内多アナウンサーと夏の北アルプスを3週間かけて縦走した経験を話されたり、NHK教育テレビの登山入門という番組で、生徒役のルー大柴と10回にわたる登山教室について話しながら、登山の基本的な装備などにも触れた。私自身、半月ほど前に開聞岳登山をしていたので、なおさら興味深く聞くことができた。「ゆっくりゆっくり周りの景色を楽しみながら登る」という言葉にちょっと「反省」し、「一歩一歩の積み重ねが確実に頂点に達する」という言葉には「同感」できた。
 また現在、登山を通じて行っているさまざまなボランティア活動にも触れられた。現在73歳の今、年間150日ほどは山の中にいるという。「山登りはヨーイ、ドンじゃない。ゆっくりでも一歩ずつ歩いていけば、みんなと同じように頂上に立てるわけでしょう。ただ苦しくてもだれかが交代してくれるわけじゃない」、そして「平均寿命まで10年あまり、自分だけの歴史、そしてその歴史を豊かなものにしたい、目的を持って生まれてよかったと思える生き方をしたい」と締めくくられた。
 13時からは国立病院神経内科協議会総会を開催、私が数年やってきた会長を来年度から川井先生と交代することになった。最初の会長が西谷先生で、その後岩下先生、齊田先生、そして私が引き継いでいる。西谷先生とは名誉院長・院長の合同意見交換会でお会いした。83歳になられたということだったが、まだまだお元気な姿だった。私にとっては井形先生同様に、国立病院に来てからの恩師ともいえる存在である。
 振り返ってみると神経内科協議会の運営は何かと難しい。重心協議会や筋ジス施設長協議会と異なり病棟単位の協議会ではないので、会員の構成がはっきりしていない。NHOの神経内科の中でも、会員は旧療養所系の神経内科の先生で、いわゆる旧国立病院系の神経内科の先生で今回出席されているのは水戸医療センターと相模原病院のみである。同じ神経内科でも脳卒中などの急性期医療と、セイフティネット系の神経内科とは様相が随分異なる。さて今回の総会には26人ほどの参加があり、一人一人に簡単な自己紹介と病院の近況報告をしてもらった。その後、新法人化での神経内科の位置づけや、現在検討が進んでいる難病対策基本法での核になる部分について議論した。
 会議は予定通り15時頃には終わったので、総会を手伝ってくれた園田先生とタクシーに乗り新神戸駅に向かった。
□ ジンザイ(前)          
 私が講演の時によく使用するスライドに、清水義昭さんの講演から借用した「ジンザイ」という表題のものがある。
 縦軸が情熱・やる気(マインド)で、横軸が機能的・専門性(スキル)で、それぞれ起点から遠ざかるほど「優れている」ということになる。
 そして両者を兼ね備えた人が本当の「人財」で、スキルはまだなくてもマインドの高い人は「人材」、スキルはあってもマインドの低い人が「人在」、そして両者とも欠落した人はなんと「人罪」ということになる。いくら才能に恵まれていても、やる気がなくて行動に移さなければ宝の持ち腐れである。スキルよりマインドを重視することは理にもかなっており、私もそうだろうと思っている。
 さて日経の「大学開国」のシリーズの第4部、「沈む大学院」(2012年8月24日)によると、日本の企業では「修士号」取得者などに対する評価が低く、企業と大学の「溝」が深まっていると報じている。すなわち、大学側はここ10年あまり、大学院の充実に努めてきたが、企業側はそのような修士や博士課程を卒業した学生に、思ったほど期待はしていなかったということである。
  そのような現実を裏付けるかのように、読売新聞では「教職大学院、半数で定員割れ…メリット少なく」という記事を報じている。
 学力向上からいじめまで、教育現場が抱える様々な問題に対処できる高い専門性を持つ教員育成を目指す教職大学院の12012年度の入学状況は、全国25校のうち13校で定員を下回っていることがわかった。制度発足から5年連続で、4割超の大学院で定員割れが続いている。中央教育審議会は、教員の養成期間を6年に引き上げる答申をまとめるが、受け皿となる大学院の中には、定員削減に踏み切る動きも出ている。・・・・ 教職大学院は、学力向上、いじめ、不登校など、学校が抱える様々な問題に対処するため、生徒の指導方法や学校経営などについて実践的な手法を学ばせる場としてスタートした。しかし、大学院を修了してもメリットが少ないことが課題。教員採用試験では、修了者に対する優遇措置がほとんどなく、現役教員が修了しても待遇などは不変で、こうしたことが不人気の背景にあるとみられる
 また経済同友会が「企業の採用と教育に関するアンケート調査(2010年)」の結果を、図表で紹介している。
 それによると、「大学院卒の学生に、新卒採用選考の際に特に重視している能力」は、第一位が「熱意・意欲」で、以下「実行力・行動力、協調性、思考力・論理的、研究内容・専門知識」となっており、ここでもスキルよりマインドを重視している姿勢がうかがえる。いくら能力が高くても、やる気がなければ大成しないというわけで、大学院で知識を詰め込んでも、実際の現場では役立つ部分は少ないということになる。
□ ジンザイ(後)          
 早いものでもう三月ほど前のことになるが、8月23日に東京青山のホテルで、2日間にわたって全国国立病院協議会合同会議が開催された。このような会議は3年目となるが、各協議会(機構を構成するあらゆる職種がそれぞれ協議会を作っている。ちなみに私は神経内科協議会の会長である)間の情報の共有や、機構本部への要望のすり合わせに役立っている。
 さて各協議会からの説明と討論は23日と24日の両日にわたって行われた。そのなかで、事務長会から説明の後、「人材の確保と養成」ということが話題になった。
 具体的には現在は国家公務員に属するということで、事務職を含めて多くの職種は国家資格や国家公務員試験に合格した人から採用している。ところが26年から新法人になると、脱公務員となるのでその資格は不要となる。そのため、いかにいい人材を集められるかは機構の力量にかかっている。また採用時期(試験の時期)も問題に挙がった。例えば看護職など試験の時期が次第に早くなっているが、職種によってはすでに内定してしまっている時期に採用試験が行われている。
 また新法人になった時に、今までどおり「国立」という看板がなくなって、いい人材が集められるかは大きな問題になりそうな気がする。現在、新法人の名称が検討されているが、おそらく「国立」という冠はなくなると思われる。いつまでも税金で運営されている病院という誤ったイメージを払拭するいい機会であるが、特に地方では職員の父兄から「国立だから安心できる」ということで就職を勧められた人も多いのではないだろうか。
 いずれにせよどこの病院でも、いかに有能な人材を確保できるかが病院の発展を左右するという共通認識に立っている。当院でも来年度の看護師採用試験が終わったばかりであるが、人材の登用は就職試験から始まる。今年は看護部長をはじめとする看護部、事務部が総力を挙げて頑張ってくれた成果が出て、目標の40人を確保することができた。でもいつも思うことだが、わずか10分ほどの面接で、人のよし悪しを判断することは、非常に難しいということがよくわかる。
 さて最初の「人材」の問題に帰るが、会議の時に私の隣に座っていた某病院の院長の話になるが、来年の「後任」のことで難しい問題を抱えているという。
 数年前に大学から来た副院長は、「研究は好きで、IF(インパクトファクター)では、大学でも彼を上回る人はいないだろうと言われている。ところが患者さんを診たり、病院の雑用をするのは好きでない・・・」というのである。院長職になると、研究だけで病院運営が上手く回るわけではないので、「さてどうする」と頭を抱えているということだった。「人間、その地位になったら、それなりにできるものですよ」と、私は話したが、往々によくある話である。
□ 奇妙な符合
  今日の難病相談・支援センターでの医療相談のトップバッターは60歳の銀行員(というより、お偉方という風貌)で、自己免疫性膵炎の診断と今後の治療法への相談ということである。
 その日の相談者の病名などは事前にセンターから資料が送られてきていたが、どういうわけかこの日は連絡がなかった。私の専門の神経内科系の病気だったらさほど問題はないのだが、相談内容は多領域にわたっている。そして難病を抱えた人は罹病期間も長く、またインターネット情報など「耳年増」な人が多いので、当方も一定の知識を持ち合わせていないとうろたえかねない。
 実はこの自己免疫性膵炎については、本来ならほとんど知識を持ち合わせていなかったはずなのに、たまたまその日に送られてきた医学会新聞(2012年11月12日号)で、「日本発の新たな疾患概念、IgG4関連疾患の潮流」と題して、都立駒込病院消化器内科部長の神澤輝実先生が寄稿されていたものを読んでいた。
 この病気は「すい臓がんという診断で切除したら慢性膵炎だったという症例が腫瘤形成性膵炎として取り扱われていたものを、神澤先生などが整理し直して、一つの疾患概念として提唱したもの」である。診断基準として、臨床的に単一、あるいは複数臓器に限局性腫大、結節様病変を認め、血液中のIgG4が高い(135mg/dl)事などが挙げられている。
 さて相談者のこの方も、無症状で人間ドックで腫瘤を発見されて市内の有名なある病院を紹介された。担当の先生はいろいろな検査をして、「がんの疑いも完全に否定はできませんが、腫瘍マーカーも正常値ですので、ステロイド剤で様子を見ましょう」ということになり、現在減量して5ミリとなっているということである。ところがこの間受診したら、主治医が代わっていたこと、このまま様子を見ていいのかということ、MRIの撮影頻度(胸部と腹部を一緒に撮れないか)と腫瘍マーカーの検査頻度(毎月して欲しい)などに関するものだった。
 そこで、この病気の概念についてお話をして、また検査の頻度などは保険医療で回数など制限があることを話すと、納得してくれたようだった。
  次は10年ほど前から手がこわばり、最近手指の変形が強くなってきたという63歳の女性である。
 リューマチでは名の通った市内のクリニックから、専門のN病院を紹介された。そして大学病院の整形外科と神経内科に紹介されたが、関節リューマチでもパーキンソン病でもないということで、「適当な薬もない」と言われている。特にN病院の主治医は、ほとんど言葉もかけないし、手の変形について相談すると「手術で曲がったところは伸びますが、今度は曲がりませんよとだけ言うだけで、真面目に見てもくれない。もう二度と見たくもない」と言う剣幕である。
 ところが、この日はよりによってN病院の主治医の先生が医療相談会の講師としてセンターに来られる日で、寸前のところで鉢合わせになるところだった。この相談者が帰られたあと、医療相談を終えた先生が3階にあるセンターまで登ってこられ、しばし雑談をした。物静かないかにも人柄も良さそうな先生だが、自ら「私は話をするのが下手で・・・」と言われる。
 孔子に、「巧言令色鮮なし仁」という有名な言葉があるが、誠実な医師でも「時間」と「巧言」が少なすぎると、誤解を生んでしまう。
□ 30数年の歳月を超えて
 KKBテレビのニュースチャンネルで、今回の人事院総裁賞の受賞にちなんで、取材を受けることになり、キャスターの樺山さんという女性がカメラマン二人を伴って私の部屋に訪れた。初対面だったので、「この病院は初めてですか」と聞いたところ、「実は、私の母がずいぶん昔のことですが、ここの養護学校の先生(臨時)をしていたことがあり、私が遊んでばかりいると『エツコさんは病気に負けずに頑張っているんだよ』とよく言われたことを覚えています」という。時代的には合わないこともないので、あの「私たちの悦子」かも知れないと思って、「悦子ならまだ生きているんだけど・・・」と、早速病室を案内することになった。
 長い当院の廊下を、カメラマンの撮影にちょっと緊張しながら歩いて病室にはいる。「悦子、樺山先生という先生、知っている?」と藪から棒に聞いてみると、呼吸器をつけてベッドに仰向けに寝ている悦子が、びっくりしたように大きく「うん」と頷いた。「このアナウンサーのお母さんが樺山先生だって」。
 いろいろ話を総合すると、樺山キャスターのお母さんは現在73歳で、武町で薬局を開いている。薬剤師の資格を持っていたが、昭和50年代前半に、どういう訳か養護学校で教師をしており、悦子の4年生の時の担任だったという。
 この日は取材もかねていたので、樺山キャスターが「福永先生は悦子さんにとってどのような存在ですか」と問いかけた。気管切開をして人工呼吸器をつけているので声を出すことは難しく、私の掌に自分の指で文字を書いていく。文字を再構成すると、「おとうさん」ということになった。私は「お兄さんじゃなくてお父さんか・・・」とちょっとがっかりしたが、30年の付き合いともなると、ある意味では家族のようなも野かも知れない。
 その夜、樺山キャスターから、次のようなメールが届いていた。
 お忙しい中で、取材に協力いただき本当にありがとうございました。悦ちゃんに会えるなんて、とってもとってもうれしかったです!早速、母に連絡したらものすごーく驚いて本当に本当に喜んでました。当時、悦ちゃんからもらったお湯呑茶碗を今も大切に持っているそうです。こんなうれしい機会をくださってありがとうございました。
 そして悦子からのメールには
 今晩は。悦子です。昨日はお会い出来てとても嬉しいでした。先生、いつも私が会いに行くといっつも留守なんですもん。そして今日もお会い出来、しかもあんな形で吃驚でした。カメラがありましたが、私は写らないですよね?
 先生の取材でいらしたのですから。あんな恥ずかしい場面は写りたくないので(^^;)それにしてもあのアナウンスの方が、私の小学校の時の担任の先生の娘さんだったのには吃驚しました。樺山先生…良く覚えてます。とても優しくしていただきました。気切する前ぐらいまで年賀状を出してた覚えがあります。お元気そうで安心しました。それにしても凄い偶然と言いますか、世間は狭いと言いますか、人生何が起こるか分かりませんね。先生、改めまして大きい「賞」を頂きおめでとうございました。そんな恐れ多い先生とお知り合いの一人悦子は幸せで誇りに思ってます。先生又、お部屋にいらして下さいね。KKBの取材放送はいつですか?
□ 普通にやれるところがすごい
  世の中には、ごく普通の方で肩ひじ張らずに淡々とした生活者が、それでいて「凄いことだなあ」と思わせてくれる人がいるものである。とても自分には真似のできそうもないことで、いつの日かそのような心境にたどりつくことができればと思ったりする。
 先日、多田羅先生が講演にいらしたとき、その夜、熊襲亭で小児科の佐野先生も交えて歓迎会を開いた。その時、障害を抱えた親と子のことが話題になり、佐野先生が話してくれた「いい話」のことを、みんなにも紹介したいと思った。私は当人には会ったことはなく、またかなり酒を飲んでいたので不正確な部分は許してほしい。
 佐野先生の外来に、毎月小さな子どもを連れてきている50歳をちょっと過ぎたご夫婦がおられる。里子としてもらった赤ん坊が、たまたまてんかんの発作が見られ、悪いことに脳症を起こしてかなり重度の発達障害を伴っているという。そのご夫婦は病院からちょっと離れた山村で、理髪業を営んでいるようだ。
 お二人ともお店で働いており、佐野先生も「子どもの状態を考えると、重症児病棟への長期入院もやむを得ない」と思っていた。ところがそのような兆しがないので、外来に来られたときに聞いてみた。すると「私たちも、最初のころは入院をお願いしなければならないだろうと考えていました。ところが、病院での診察を終わって家に帰り着くと、この子どもの表情がうれしそうに笑って見えるのです。どうも、自分の家がわかるようなんですよ。それで、この子の家は、やはりここしかないのだと思うようになりました」と言われたそうである。
 お二人とも働いているので、おそらく日中は傍で面倒をみることはできないので、理髪店の片隅に小さなベッドを置いて寝かせているという。そうすると、きっと来てくれたお客さんが話しかけたり、あやしてくれるのだろう。なんとなく、ちいさな理髪店の店内の、ほほえましい情景が目に浮かぶようである。
 佐野先生に聞いてみると、このご夫妻には取り立てて大それたことをしているというような自覚は全くないようで、生活の一部として自然に淡々と受け入れているという。でもよくよく考えてみると、かなり重度の障害持つ幼児を、仕事もしながら養育するということは誰にもできることではない。本当に、すごいことではないかと思うのである。
□ 嬉しいニュース~日高君のグラフィックがノーマライゼーションの表紙に~
 障害者福祉の月刊誌、「ノーマライゼーション」の編集者の薄さん(11月3日に、一緒に開聞岳に登った)からとっても嬉しいニュースである。なんと2013年のこの月刊誌の表紙を、我が日高くんのコンピューターグラフィックが一年間、飾ることになった。「ノーマライゼーション」は障害者福祉の方面ではもっとも名の売れた月刊誌で、歴史も古く31巻を数えている。私も、今まで数回書かせてもらったことがある。
 先日、その薄さんから次なようなメールが届いた。
 毎年表紙の選定は、3,4人の作家さんの候補作品を職員内部の投票で数の多いものに決めています。これまでは、「アートビリティー」に所属する障害をもつ作家さんの作品をお願いしてきました。今年は、日高さんの作品が一番投票が多かったので、引き受けていただけるかお伺いいたします。
 ただ、1月号と期限が切迫していること、日高さんの体調によってはすぐに日高さんと直接のやり取りは難しいかもしれませんので、窓口となっていただける方をお知らせいただければと存じます。
 福永先生が前に院内ランで紹介されたのを見て、色が美しくて優しい雰囲気のある絵と思ってきました。また7月にオリーブ(麻布十番のお店)でいただいた写真や、4日に病院におじゃました時に他の作品を日高さんがみせてくださってたくさんの作品があることなどが、今回の候補につながりました。
 私にとっては願ってもない話で、早速、窓口になってくれそうな当院の指導室にそのまま転送し、日高君本人と指導室から快諾を得ることができた。でも日高君の描かれた絵はいずれも粒ぞろいで、私から見れば選ぶのに苦労するだろうと思っていたのに、「納得いく絵は少ないのに、大丈夫だろうか」と不安がっていたという。
 翌日、たまたま医学生のポリクリになっていたので、日高君のベッドサイドを訪ねた。いつものように上を向いたまま、穏やかな表情で迎えてくれたが、発語は難しいのでコミュニケーションは取りにくい。でもアウンの呼吸で、一ミリほど動く右手の親指でカーソルを器用に動かし、学生に今までの絵を見せてくれた。「あと、一年は生きておらんといけんごとなったね」と言うと、わずかな瞬きで返してくれる。最重度のデュシェーヌ型筋ジストロフィーで43歳まで生きてこれたのは、本人の節制とやる気、そしてこのグラフィックという生きがいを持てたことが延命を可能にしたと思われる。よく、「禿げた筋ジスなんて、見たこともない」という悪口は、この日は品がないのでやめることにした。
 私も日高君の作品は、今まで何度も患者向けのガイドブックなどの表紙に利用させてもらっている。名前は忘れてしまったが、スタッフの誰かが「私たちも使わせてもらっています」という人がいたので、「今後はタダでは使わせないよ(今回の表紙には、多額の使用料を払ってくれるという)」と、いつの間にかマネジャー気取りになっていた。
 日高くんは大変な親思いであり、また両親は大隅半島の最南端の佐多で小舟で魚を釣っており、時間を見つけては何時間もかけて見舞いに来られている。きっと日高君にとっては、何より嬉しい両親へのプレゼントになるのではないだろうか。
□ 忙しい二日間(前)
 12月6,7日は寒気団が日本列島の上空に居座り、寒い日が続いた。
 鹿児島空港10時5分発ANA622便に乗るために病院から空港に出かけると、駐車場の工事のためかなり遠方に駐車せざるをえず、木枯らしの強風の中を背を丸めながら建物へと急いだ。こんなことなら次回からは、周辺の駐車場に停めて送迎してらった方が賢いやり方といえる。
 飛行機は定刻より10分ほど遅れて11時50分に羽田空港に到着した。モノレールとJRを乗り継いで有楽町で降りて、いつものように吉野家の牛丼(なんと大盛り)をかけこみ有楽町線に乗る。14時から厚労省の難病対策委員会が開催されることになっているが、担当の課長補佐から一時間ほど前に来れないかとの打診があった。都道府県会館の14階でコーヒーを飲みながら、打ち合わせをして委員会に臨んだ。委員会は今までの議論をおさらいをする形で、特に紛糾することもなく16時には終わった。委員長の金澤先生に、「今夜講演を6時から頼まれていますので、4時に終わって頂ければ助かります」と前もってお願いしていた。「先生は、今日は聖徳太子でしたね」と茶化すと、「そうなんですよ、私も用事があって」と笑いながら答えておられた。というのも、会議中に何度も携帯電話で連絡を取っていたからである。
 でもこの委員会、法制化への準備ということもあってか、今年だけで十数回開催された。今回の選挙で「政権交代」となり、振り出しに戻るというようなことはないだろうな。というのも、医師法の21条(医療事故での24時間以内の警察への届け出義務)の撤廃をお議論していた委員会は、「事故調」の成立に向けて最終局面にさしかかっていたのに白紙となり、未だに枠組みさえできていない状況にある。
 18時からNHO相模原病院で医療安全の講演を頼まれていたので、YAHOO路線情報を頼りに、赤坂見附駅、四谷、新宿、町田と乗り継いで、ほぼ時間通りに17時19分には小田急相模原駅に着くことができた。駅には長谷川一子先生と、医療安全管理者の小宮さんが迎えに来てくれていた。
 実は数ヶ月前に、かねて懇意にしている長谷川先生(パーキンソン病に関する一般向けの本を、一緒に3冊出版している)から医療安全の講演を頼まれていた。数ヶ月先のことでもあり、当時はこれほど忙しくなるとは思わなかったので安請負してしまったのである。
 講演の前に、院長の秋山先生の部屋で看護部長や事務部長も交えて四方山話に花が咲いたが、ざっくばらんな雰囲気でいわゆる「権威勾配」も感じられなかった。
  講演は18時から一時間ほど行い、質疑応答に入ったが、その内容から病院全体として医療安全に対する意識は相当高い病院であると感じられた。整形外科医だという一人の医師はRCA分析についての質問を、また検査技師長からは若い人に興味を持ってもらうにはどうすればいいかというような質問があった。
 20時過ぎから田園都市線の中央林間駅前のイタリアンで、長谷川先生と小宮さんの3人でおいしいワインと料理を楽しんだ。ただ帰りが各駅停車となり一時間以上かかったのでホテルに着いたときには11時をまわっていた。
□ 忙しい二日間(後)
 翌朝は、よく眠れないまま早起きして、今月の25日に予定されている機構本部での療養介助職に対する医療安全の研修会の資料作りに着手した。14日が資料の締め切り日になっていたので、時間的に余裕のないことがわかったからである。対象が療養介助職であり、現場での実際的な話題の方がいいだろうと大幅に改変することにした。山鹿市の講演では出席者の職種を見誤ったし、相模原病院では焦点がぼけてしまったような気がする。講演はいつも難しい。
 朝食を摂りチェックアウトを済ませて8時前に、渋谷のセルリアンタワーホテルのロビーへと急いだ。前日、急に話がまとまり、お会いすることになったHさんとの待ち合わせの場所である。Hさんとはメールや手紙でのやりとりは何度もしていたが、直にお会いするのは初めてである。Hさんは東大法学部卒業後、大蔵省(当時)在任中の30歳前後に若年性のパーキンソン病を発病する。同期のKさんの話でも、すこぶるできる才媛で、人もうらやむ順風満帆の役人生活を送っていたときのことである。それから30年近く、抗パーキンソン病薬を服用しながら生活されてきたという。主治医の的確な判断と、ご本人の賢明な生き方があってのことかと類推されるが、軽度のジスキネジア以外には大きな異常は認められないようである。学生時代に司法試験にも合格していたので、最近患者さんからの相談に生かされているということだった。立場からして当初私は、どなたかお付きの方がおられるものと思っていたが、ほとんど単独での行動である。聞くところでは、オフ時(調子の悪い時)などで困ったときには、周りの人にお願いできるようになったとのことだった。おそらくいい意味で、開き直ることができたのではないだろうか。人間なかなか、この開き直りが難しいが、「そのままのスタンス」でとエールを送りたい。
 初対面ではあったが、私の毎朝のメールの読者であることもあってか、時を忘れて話し込んだ。私は素晴らしい才能に恵まれた筋ジストロフィーの患者に出会うと、よく「病気がなければ・・・」とふと思ったりするが、この女性もそのまま仕事ができていたら、どのような人生を送られていたのだろうと思ってしまう。でも「家庭や夫に恵まれて幸せ」そうであり、現実にどのようなスタンスで向き合うかが大切な部分であると思うことだった。この後、歯医者さんに行かれるということでタクシーを見送り、私は機構本部へと向かった。
 13時から定例の理事懇談会、14時から役員会と続き、17時過ぎに羽田空港に着いた。パックでなければ一便早い飛行機で帰れるのにと思いながらラウンジでパソコンに向かっていると、突然天井がゆっくりと揺れ始めた。しばらく長い周期の揺れの後、結構強い揺れに変わった。3月11日の記憶(この日も偶然出張中で、目黒駅近くの車の中で遭遇した)がまだ鮮明に残っているだけに、室内にも緊張が走った。もし東京から遠い場所で地震が起きていたら、相当大きな地震だということになる。
 私のパソコンに情報が届く前に隣の青年が、秋田で震度5弱らしいと言う。5強なら被害も出るかも知れないが、5弱だったら大丈夫だろうと思っていたら、パソコンにも地震情報が流れるようになり、三陸沖でのM7.3という規模の地震であることがわかった。昨年の巨大地震の余震という位置づけらしいが、揺れを感じたら避難、そしてやはり高台に移転ということが必要になるのかも知れない。
 一昨日、人事院総裁賞を職域で受賞された国土交通省東北地方整備局長の話では、三陸沖でマグニチュード8以上の地震は5回あり、その前後(15年以内だったかな)に東海、東南海の地震がいずれも誘発されているというデータがあるという。本当だとすれば、今後十数年以内に、また大地震を経験することになるかもしれない。

院長雑感

交通アクセス

トップへ戻る