院長雑感詳細

院長雑感(139号)

  長期入院していたO君が退院するということで、見送りに行った。筋ジス病棟(現在の正式な名称は療養介護病棟であるが)での退院は「死亡退院」が常なので、喜ばしい限りである。おまけに3ヶ月になるという可愛い赤ちゃんと奥さんも迎えに来てくれていた。
O君は幼少時から脊髄性筋萎縮症で障がい度は極めて高いが、常染色体劣性遺伝であるので子供さんが病気になる確率はほとんどない。
 今後は奥さんの両親の近くの家に住むらしいが、福祉サービスを利用しながら日常の生活は組み立てていくという。きっといい家庭を気づいてくれるものと信じている。世の中の幸不幸は、お互いの心の中にあるのだということを実感させてくれる。
■ 患者数
 12月の入院患者数は350.7人で、計画に対し16.9人の大幅減となった。平均在院日数は、調整前で17.4日と問題はない。外来は176.9人と、計画比で0.4人の増となった。11月と同じ傾向が続いているが、手術件数なども下がって一人あたりの単価が下がっていたのが痛い。
■ 診療報酬点数
 12月の診療報酬点数は、計画比で入院では1,509,576点の減、外来は148,996点の増で、対計画では入院・外来合わせ1,360,580点の減となった。累計では1,885,815点の増となっている。貯金をだいぶ食いつぶして、後がなくなった。
 経常収支率では調整後で100.8%で、累計では108.5%である。
□ 2013年の新年にあたり
 新年、明けましておめでとうございます。
 お一人お一人にとりましては、どのような気持ちでこの新年を迎えたことでしょうか。
 私は、今年は人生における一つの区切りの年でもあり、格別な気持ちで迎えた新年でありました。
 といいますのも、長年務めてきたこの愛すべき南九州病院とも別れの年になるからです。振り返ってみますと、実に29年もの長い間、また院長としても15年間、本当にお世話になりました。
 そこで今年は「年始」にあたり、皆さんへの期待を込めて、また自戒の気持ちを含めて、少しお話ししたいと思います。
 まず人生には、いろいろなことがあるということです。明日のことはわかりません。
 いいことも、悪いことも、いろいろな経験をすることになります。ただその時に私たちがどのような姿勢で受け止め、どのように対応していくかでその後の人生は大きく変わっていくものと思います。「失意泰然、得意淡然」という言葉があります。いいことがあったときには有頂天になることなく淡然と慎ましく受け止め、悪いことの時にはる焦らず落ち着いて次のチャンスの到来を静かに待つことです。「まあ、どうにかなるわ」と、前向きに楽観的に考えた方がいいように思います。私にとっては、院長になった年に起きた「病室火災」こそ、「災い転じて福となす」ことだったように思います。
 また医師をしていますと、忘れられない印象に残る患者さんがいるものです。
 私が院長になった年に亡くなった轟木敏秀君もその一人でしたが、彼の言葉で忘れられないのは「一生懸命に生きる」というものでした。私たちは、がんや難病などで不治の病と宣告されたとき、どのように生きていけばいいのか、彼は「一日一日を、一生懸命に生きる」という言葉で表現していました。今や死語になりつつある言葉ですが、私は日本人は一生懸命に努力する以外に、この難局は切り開くことはできないように思います。
 最後に、先日対談する機会のあった厚労省の村木厚子局長の言葉を紹介したいと思います。対談の最後に、「国立病院機構の職員へのメッセージを一言」というリクエストに対して次のように答えられました。
 「あのような思いがけない経験をして思ったことは、萎える気持ちになったときに一番支えになり頼りに思ったことは二つありました。一つはプロの技でした。具体的には有能な弁護士からの正しい助言です。皆さんは医療のプロとして、それぞれの職域で腕を磨いて、患者さんの期待に応えて欲しいと思います。そしてもう一つが、私を精神的に支えてくれた家族や友人の励ましです。皆さんは日常の医療の現場で、患者さんの傍に寄り添って、いつも励まして力強い味方になって欲しいと思います」。
 この言葉は、私がいつも講演の時に紹介しているもので、「人財とはスキルとやる気の両方が備わった人である」という言葉と全く同じで、共感する言葉でした。
 これからの1年、「病む人に学ぶ」という言葉を思い出しながら、南九州病院のさらなる発展のために、みんなで心を合わせて頑張って欲しいと思います。
 なお、今年の具体的な取り組むべき課題については、新春の院内広報誌で「新しい課題に、前向きに真摯に向き合う」というタイトルで触れました。
□ 合同祝う会
 私の人事院総裁賞を祝して、嶋森組と敏秀追悼登山グループが合同で福寿司に集まることとなった。発起人は一昨年、「医療安全」の研究班の班長だった嶋森さんで、私が東京に出張している日の夜に合わせて、「お祝いする会」を提案してくれた。そこで私から「どうせなら、敏秀グループにも声をかけていいですか」と話したところ、皆さんから快諾を得ることができたのである。
 希少性・難治性疾患の研究班の西澤班のあった12月14日の夜、この日は赤穂浪士の討ち入りの日だったが、幸いにも雪は降らずに私は17時半頃、ホテルから銀座線で浅草に向かった。少し早く着いたので、浅草寺にお参りした後で福寿司の扉を開けると、鮎澤さんと嶋森さん、そして貴志さんはすでに着かれていた。貴志さんは「私はカメラマンです」と謙遜されるが、銀座に事務所を持つ監査法人の公認会計士で、実に多彩で広い人脈をお持ちである。
 扉を開けてびっくりしたのは、壁に貼ってあった「福永先生の嬉しい嬉しい人事院総裁賞を盛大にお祝いする会」という大きな横断幕である(鮎澤さん制作とか)。そこには所「用や水疱瘡などでで来れなかった長尾さんや五十嵐さんの写真も添えられており、見事な出来栄えである。なお、この会には、敏秀グループの重鎮、岡本さんもとある事情で出席できなかった。
 その後、薄さん、戸島さん、小澤さん、小林さん、穴見さん、望月さんが三々五々集まり、真打の合志さんも間に合って、予定していた11人が全部出揃った。
 まず、発起人の嶋森さんの挨拶の後に、記念品として印傳屋の立派な財布と万年筆入れを頂いてしまった。財布はだいぶくたびれていたので、本当にグッドタイミングで「ありがとう」の気持ちでいっぱいである。ちなみにこの印傳屋の漆は、すごい貴重品ということである。選んでくださった小林さん(甲府から)本当にありがとう。
 その後、それぞれの方から、私とのつながりも織り込みながら素晴らしい自己紹介をしていただいた。そのあとで、乾杯となり、その後はいつもの福寿司のおいしい刺身や寿司などに舌ずつみをうった。今夜は、ことのほか美味しく感じられた。また私が先に送っていた焼酎「伊佐美」のロックも、寿司に意外にも合っていた。
 また色紙も用意してくれており、それぞれ思い思いにコメントを寄せてくれていた。持ってきた色紙を眺めながら、その夜来られなかった長尾さんと五十嵐さんのコメントもある。「そうか」とまた合点したのは、「この色紙は、それぞれの用紙に書いてもらったコメントを貼ることになっています」と言われたが、あらかじめ送っていたら、手際よく貼ることができる仕掛けである。一人一人のコメントを読みながら、ジーンとくるものがある。人の縁とは不思議なもので、敏秀グループと嶋森組、そして福寿司ファミリーの貴志さんと、お互いはたおやかなつながりだが不思議なハーモニーが醸し出される。
 帰りには、あらかじめ私が今日のために徳永屋から送っていた「さつま揚げ」を持って帰ってもらった。
  次は、参加者からの嬉しいメールであるが、承諾を得ることもなく勝手に「いいとこ取り」で紹介したい。
・またまた福永先生に「広がるご縁」を画にかいたような楽しい時間を創っていただきました(九州大学の鮎澤さん)。
・また、敏秀追悼登山グループの方々にもお会いでき感謝致します。あまりお話できなかったので、またこれからも、福寿司でお会いしたいですね。それを楽しみに、そろそろ余韻から抜け出さなければ・・・(山梨県立大学の小林さん)。
・初めての福寿司での美味しいお寿司とお刺身、すべておいしかったのに、今、書きながらすぐに浮かんできたのは、いかの歯ごたえがありながらあの柔らかさ、あなごのとろける甘さです。貴志さん、王さんの色紙の入った福寿司ファイル、私達にもいただきましてありがとうございます。嶋森班のお仲間にいれていただいたような気がしまして、皆様の懐の広さに感謝しつつ大切にいたします。皆さんとの仲をつないでくれた日高さんの表紙の1月号ができましたら、おおくりさせていただきます(ノーマライゼーション編集部の薄さん)。
・年明けにも、機会がありましたら、ご一緒できれば良いなと思います。当日ご参加できなかった方も声での参加ありがとうございました。鮎澤さん横断幕(?)ありがとうございました。小林さん素晴らしい”インデン”のプレゼントを探してくださってありがとうございました。貴志さん、いつもながらの写真のファイルありがとうございます。(東京都看護協会会長の嶋森さん)。
・福永先生を中心に笑顔で話が弾んでいる写真を拝見して当日の楽しい雰囲気が甦りました。一瞬のきらめきをキャッチして、何十年後も楽しめる写真の力は凄いです。(伝の心の生みの親の小澤さん)。
・ 受賞の主旨をご本人から伺う不届きものでございましたが、お祝いの空気充満の末席に加えていただきありがとうございました。お久しぶりの方、初めての方こんごともよろしくお願いします(朝日新聞の合志さん)。
・貴志様、お忙しい中すぐに写真を整理しておおくりいただき、深謝いたします。良い笑顔がならんで、写真を見る度に、にんまりしてしまいます。また、皆様におめにかかれますのを楽しみに、たまった仕事との格闘に頑張りたいと思います(ラオスから帰り現在は厚労省の穴見さん)。
・皆さんの笑顔がすばらしいです.横断幕も用意されていたのですね.はじめてお顔を拝見する方も,写真だけでも皆さんナンか旧知の方のように感じます.参加できず,申し訳ありませんでした.そしてとてもとても残念です.(敏秀グループ生みの親の岡本さん)。
□ 2012年病院忘年会
 昨夜は私にとって、南九州病院での最後の「病院合同忘年会」であった。おまけに、定年になる年に人事院総裁賞を授与されたので、職員みんなから盛大に祝ってもらい、本当にありがたいことである。
 忘年会の翌朝、京セラホテルの一室でパソコンに向かいながらこの原稿を書いている。普段は鹿児島市外での宴会の後は代行で帰ることを常としてきたが、今回は忘年会の行われた京セラホテルに泊まることにした。ホテル側が終了後には加治木にある病院までバスで送ってくれるのだが、そこから代行に連絡して帰るとなると23時前になる。おまけに明日の朝は難病相談・支援センターに出勤することを考えると、泊まった方が賢明だという結論に落ち着いた。インターネットで簡単に予約もとれた。
 思い起こせばバブル期の忘年会は、妙見のホテルなど宿泊を兼ねることも多かった。当時は、今考えるとちょっと恥ずかしくなるような「武勇伝」もあった。例えば医局の忘年会を2年連続であの有名な「石原荘」でしたのだが、2年目には会場が離れの体育館のような殺風景な場所に代わっていた。事情を尋ねると、「お客様の昨年のお行儀が、目にあまりましたので」と言われて、合わす顔がなかった思い出もある。それでも、傍若無人の振る舞いだったかも知れないが、「お客様」にここまですることはないだろうと一同憤慨したものである。
 そういえば今は亡きN先生(初代院長)は時間と服装にはやたら厳しく、権力を思う存分発揮していた(発揮できる時代だったのかな)。宴会ではN先生から離れた座席に座るようにしたものだが、私は会の始まりの頃は近くにいて、盛り上がる頃にはできるだけ距離をおく知恵を取得していた。当時は、俗に言うところの「酒癖」の悪いおじさんも多かったのである。
 さて今年の忘年会であるが、ホテルにチェックインしてから18時過ぎに会場に行くと、人影はまばらである、受付で年末ジャンボ宝くじをそのままパクッタような「南九州病院宝くじ」券を配っていた。実に精巧にできており、本物そっくりである。表紙には私の似顔絵(山田君による鉛筆画)も付いていて、院是や病院の郵便番号、住所など、後の抽選会での「仕掛け」もちゃんと用意されていた。
 会は病院からのバスが少し遅れたこともあって、予定より15分遅れで始まった。私の院長挨拶や副院長の乾杯の音頭に引き続いて、余興も多く用意されていた。師長会、指導室、副師長会、事務部や地域連携室などの合同チームなど、それぞれ趣向を凝らした素晴らしい出し物だった。特に、指導室のDVDと連動した趣向には驚いた。最近はIT技術を利用したりして、上質で面白い出し物が増えている。
 また抽選会は、幹部が抽選箱から一枚の当たりくじを引いて、「南九州病院宝くじ」券にあらかじめ印字された番号と一致した人が壇上に上がる。そして肥後君が「クイズ」を出して、めでたく答えられたら商品をゲットするというものだった。田中さんと迫田さんは、わざと誤回答を演出して会を盛り上げてくれた。
 それにしても当選「商品」も、様変わりしている。一昔前は、いわゆる電化製品が多かったように思うが、今年の景品はワインやコーヒーセット、そして一等はルイビトンの手帳カバーだった。パナソニックなど電化製品のメーカーの衰退に思いを馳せるとともに、若者の趣向が変わっていることにも驚くのである。
 最後の万歳三唱の時、統括診療部長の川畑先生から「院長、メガネを外して壇上に」と言われた。なんのことだろうと思いながらも、言われるままに上がると、なんと医局員や若い男性職員で三回も胴上げされてしまった。初めての経験だったが、素直に嬉しかった。
 今年は例年より多い140人余りの職員が参加してくれた。私との最後の忘年会という思いも、少しはあったのかもしれない。
□ 上原ひろみ
 世の中には信じられないような演奏をできる天才がいるものである。その指先はまるで機関銃のような早さで鍵盤をたたきつける。このような曲芸的演奏スタイルには専門家の中に眉をひそめる人もいるということだが、エンターテイナーとしてはすばらしいの一言に尽きる。とても人間わざととは思えなかった。
 11月18日、防府市公会堂、満員の聴衆を前にこの演奏会は3時間近く繰り広げられた。年々存在感を急激に増している、世界的ジャズピアニストの上原ひろみの演奏会である。エレクトリックベースのアンソニー・クレイボーン・ジャクソンとドラマーのサイモン・フィリップスによるトリオ編成だったが、二人とも長い活動歴を誇る世界的にも有名なミュージシャンだという。
 私はジャズにはほとんど無知(時にCD買う程度)なのだが、山口に住んでいる娘から防府市でのこの演奏会の情報が入り、神戸での国立病院総合医学会の帰りに寄ってみることにした。山口市の湯田温泉から防府市までは30分ちょっとでいけるのだが、この日は数か所で渋滞があり、到着したのはコンサートの開演時刻の数分前だった。
 上原の経歴を調べると浜松市の生まれで6歳からピアノを始め、ヤマハ音楽教室で作曲を学び、16歳の時にヤマハで来日公演のためのリハーサルを行っていたチック・コリアと対面した。「弾いてごらん」とうながされてピアノに向かった彼女の技術に感銘を受けたチックと、その場で即興での共演となる。公演の最終日にチックから舞台に呼ばれて今度は観客の前で共演し、チックから熱い称賛を受ける。その後、国内外のコンサートに出演し、日産自動車や花王などのコマーシャル・ソングを作曲。20歳でバークリー音楽大学に留学する。音楽院を首席で卒業後国内デビューし、毎日放送製作のテレビ特集番組『情熱大陸』にとり上げられて日本での知名度も上昇、2004年(平成16年)の日本ゴールドディスク大賞でジャズ・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
 高校は浜松北高で井形先生や、故天野先生の後輩ということになる。
 まだ30歳をちょっと超えたばかりと思われるが、日本のジャズ界で世界に通用する若手のミュージシャンとしては、他には小曽根真ぐらいだろう。小曽根はANAの機内オーディオ番組のジャズ部門のパーソナリティーを長いこと務めていた。ちなみに12月のジャズでは上原ひろみのBrand New Dayを聴くことができる。
 さて上原に対する批判の理由は、先にも述べたように「速弾きなだけ」というのがほとんどで、深みや味わいという点で魅力にかけるとするものである。ただこの日の演奏を聴いていると、ジャズには全くの素人の私でも楽しく聴くことができたし、そのエネルギッシュな演奏スタイルとパフォーマンスはエンターテイナーとしては抜群である。おそらく文字通り世界的なジャズミュージシャンとして大成するのではないだろうか。
□ ある家族との絆
  「先生には四半世紀にわたってお世話になったことになります」と、今年83歳になるという見るからに上品な物腰のMさんが、私の院長室の古びたソファーに腰を下ろしながら笑顔で話される。「やっと落ち着きました。一度はご挨拶にと思いながら、100日が経ってしまいました。主人は几帳面でしたので、手帳を読み返しますと、先生が朝の8時半にお見舞いに来てくださったとか、○○看護師さんが丁寧に清拭してくださったとか、書いてあるのを見ますとまた思い出したりするのですよ。また主治医のH先生には、女性らしい細やかな配慮をしていただきました」と静かに振り返られる。
 もう数ヶ月前の出来事になった。
 Mさんとの縁は、いつ始まったのかよく思い出せないので尋ねてみた。昭和から平成に変わるころだったかと思うが、Mさんのお母さんの歩き方がおかしくなったということで中西医院を受診し、そこで大原整形外科を紹介された。そこから当院の神経内科を紹介されたようである。大原先生は大学時代の軟式テニス部の顧問で、当院の川向いで開業されていたが、脳出血で診療ができなくなり今は廃院となっている。
 Mさんのお母さんの病気は「パーキンソン病」で、在宅医療に組み入れられた。ちょうど病院として組織的な在宅医療が始まった頃で、姶良市のイオンの近くのご自宅に、月に二回ほど定期的に訪問したものである。偶然にも、前院長の川嶋先生がMさんの隣に土地を購入されて、家を新築されたのも不思議なご縁である。
 Mさんのお母さんの在宅医療は数年間続いたと思うが、行き届いた介護もあって大きな問題もなくスムースに経過した。平成10頃に老衰も加わって病院で亡くなられたが、その後もMさんご夫妻との関係は続いた。筋ジス病棟の患者さん主催するViewの会にも協力していただき、「秋のイベント」のチケットの販売や、当日はMさんの息子さん(以前、放送関係の仕事をされていた)にイベントの模様を録画してもらっていた。
 また年末には、毎年NHKのカレンダーが送られてきた。お孫さんが上智大学を卒業された後NHKのアナウンサーになり、現在は子育てのために休まれているということを初めて知った。その後、Mさんのご主人が腹部大動脈瘤の手術をされたり、胸部の病気で当院に入院されたりしていた。
 「主人はやっと天国で、宮原さんと一緒に昔の思い出でも楽しく話していることでしょう。入院する一週間前に眼鏡も変えましたので、きっとよく見えるのではないでしょうか」と言われる。ご焼香にMさんのご自宅を伺った時、ご主人の部屋の鴨居に大きな写真が飾られていた。戦後6年ほどシベリアに抑留された時の仲間の写真で、その一人が前副知事だった宮原さんだという。
 「どうしてご主人とはご縁があったのですか」と聞いてみた。「一高女の専攻科を卒業して生活改善普及員という仕事をしていた時に、曽於郡のある町で働いていました。主人はシベリアから帰還して県庁に入り、そこで障害者の担当をしていました。そのような仕事をしている人だったらいい人だろうと思って結婚しました」という。
 Mさんの鑑識眼は正解で、いつも穏和で優しい紳士だった。病気になってからも冷静で取り乱されるようなことはなかった。89歳と思い残すこともない大往生だったと察せられる。
  先日、このMさんから立派な胡蝶蘭を頂いた。私の人事院総裁賞受賞のニュースを聞いたそうである。早速お礼の電話をすると、「お母さんや夫に、先ほど報告することでした」と言われる。また年末には、NHKの暦と婦人之友社の「アートカレンダー」が送られてきた。アートカレンダーは「平福百穂(へいふくひゃくすい、1877~1933)」の日本画である。
□ 村木さんとの対談(前)
 過ぎ去った2012年の寒いクリスマスの朝である。いつものように病院にちょっと立ち寄って空港へと車を走らす。途中、長いこと工事の続いていた加治木インターと空港の駐車場とも、来年へとそのまま年を越しそうである。
 今日は上京して朝は厚労省で社会援護局の村木厚子局長との対談(「NHO便り」用)、そして午後から機構本部で、「療養介護サービス研修」の医療安全の講師を頼まれている。
 鹿児島空港を定刻に飛び立った飛行機は予定時刻に羽田に着陸し、モノレールとJR、そして丸ノ内線と乗り継いで、厚労省には10時40分頃着くことができた。地下の通りで、読売新聞の記者をしている甥の嫁さんに、久しぶりに偶然出会って立ち話をする。障害者の就労関係の取材だという。そのあと一階の待合室の椅子に腰を下ろしていると、今回の対談の仕掛け人でもある機構本部の藤木理事が現れた。藤木理事は村木局長の後任の社会援護局時代の企画課長だったということもあって多忙を極める中、今回の対談が実現したようである。
 私自身は局長には今まで面識はなかったが、例の「事件」当時、大熊さん(元朝日新聞論説委員)からの「えにし」ネットで、逐次情報が提供されていたので、その推移は人並み以上に関心は持っていた。
 その「事件」を概略すると次のようなものである。
 村木局長が社会・援護局障害保健福祉部企画課長時代に、自称障害者団体「凛(りん)の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、不正に郵便料金を安くダイレクトメールを発送させたとするものである。2009年6月、特捜部長の捜査方針の下、虚偽公文書作成、同行使容疑で特捜部主任検事により逮捕された。逮捕時に舛添要一厚生労働大臣は「大変有能な局長で省内の期待を集めていた。同じように働く女性にとっても希望の星だった」と、容疑者となった局長に、賛辞ともとれる異例のコメントを発表した、2009年7月、虚偽有印公文書作成・同行使罪で起訴されたものである。
 かねての村木局長をよく知る人はこぞって、「村木さんに限って・・・」というようなコメントを発していたし、私も当時、局長のとられた態度に好感を持っていた。そんなこともあって、今回の対談は非常に楽しみにしていたし、クリスマスの日のプレゼントのようにも思えたのである。
 2011年に、この院内ランに「社会貢献と達成感」というタイトルで一文を寄せている。その時にも局長について触れているので、その最後の部分を転載する(この年の鹿児島県老健協会での講演を受けて)。
 2010年9月22日、郵便不正事件で無罪が確定し、1年3ヶ月振りに登庁した村木厚子氏は勤務を終えた後の記者会見で、「やっと社会のために働くという大きな柱を取り戻せた。厚生労働行政の基本は人の幸せを実現していくということ。そういう分野で一人の公務員として仕事ができたらいい」と語っていました。
 ただ今回の「事件」の顛末を考えるとき一番重要なことは、村木氏が語ったように「社会のために働いているというモラルを持ち続ける」ことではないでしょうか。先ほど紹介した寓話で言うならば、「子どもたちの学校を造るためにレンガを積んでいる」ということになります。もちろん目の前の日々の出来事は、いつも「社会」を強調するほどの大それた事ではありません。それでもどんなに小さな事であっても、結果的に社会に役立っているというモラルがなくなったら、長い人生を歩んで行く過程では”しんどい”ことになり、どこかで道を踏み外してしまいそうな気がします。
□ 村木さんとの対談(後)
 最近の若者人は、いわゆる精神論で諭されるのを嫌がるということはよく承知しています。私の経験では、物事をスムースに成就させるには、理にかなったシステムを作っておくことと、人材の育成が重要です。どちらが欠けてもうまくいきません。その人材ですが「スキル(技術)」も大切ですが、それ以上に大切なものは「やる気」であるように思います。このやる気も社会との関係、すなわち自分のやっている仕事の内容が他の人に喜ばれているという実感がわかなければ長続きはしません。利用者のQOL向上は、職員のQOL向上があってはじめてかなうものです。
 日本は今後、未曽有の高齢社会を迎えます。「長生きして良かった」という実感が持てるかどうかは、皆さんの肩にかかっています。自分たちの仕事は社会に貢献しているのだという誇りを持って、毎日の職務に励んで欲しいと願っています。
 さてクリスマスの朝に戻るが、当初は対談は11時半頃からということだったが、レクチャーが中止になったので、当初の予定よりも早く11時過ぎには時間がとれるということになった。事前に社会援護局の幹部名簿を調べてみると、なんとかねて懇意にしてもらっている古都さんと西辻さんが社会援護局の課長職にあったので挨拶した。
 そのあと局長室で村木局長に初めてお会いした。「事件」当時、何度もテレビで拝見していたためか、以前よりよく存じていたような錯覚に陥る。先日ご接見頂いた皇后陛下同様、姿も話しぶりもかねて予想していた通りの印象だった。飾り気がなく率直で、いつも笑顔を浮かべながら落ち着いた話しぶりだった。小一時間ほど、特にテーマを設けることなく話したが、私にとっては楽しいやりとりだった。
 まず局長は高知の生まれで土佐高校出身と伺っていたので、私が医療安全の師としてかねて尊敬している川村治子先生も土佐高校の出身と聞いていたので、そのようなところから話を切り出した。そして私が関わってきた筋ジストロフィーや難病医療を中心にして話は進んだ。主に私が話し役で、局長は聞き役に回ってくれたが、相づちを打ちながらよく理解していただいたように思う。
 私にとって最も関心の強かった「あのような極限状況で、どうして強くなれたのですか」という質問には、「やはり家族の存在が大きかったと思います。特に二人の娘には、どのような状況でも母親として正しいと思える姿を範で示さなければならないと思っていました」と言われたが、さすがだと思った。
 最後に藤木理事から、「国立病院機構の職員へのメッセージを一言」というリクエストがあり、次なような答えだった。
 「あのような思いがけない経験をして思ったことは、萎える気持ちになったときに一番支えになり頼りに思ったことは二つありました。一つはプロの技でした。具体的には有能な弁護士からの正しい助言です。皆さんは医療のプロとして、それぞれの職域で腕を磨いて、患者さんの期待に応えて欲しいと思います。そしてもう一つが、私を精神的に支えてくれた家族や友人の励ましです。皆さんは日常の医療の現場で、患者さんの傍に寄り添って、いつも励まして力強い味方になって欲しいと思います」。
 私もいつも、スキルとやる気を兼ね備えた「人財」になってください、と職員に呼びかけてきたが、くしくも同じような内容でびっくりした。
□ 「福岡かつよ」さん
  新年早々、福岡さん自ら私の部屋を訪ねてきて下さり、「お年賀」を置いていかれた。中身は、明石屋の美味しい生菓子である。
 福岡さんといえば、先日、エグゼクティブ向けの雑誌「プレジデント20131.14号」の「リーダーの眼」欄に、「福岡かつよ ラ・ポール株式会社代表取締役」~「満足」を超える「感動」の接遇力が組織の競争力を高める~で紹介されている。今やカリスマ的接遇コンサルタント、研修講師で、オフィスを東京(帝国ホテルタワー15F)と鹿児島に持ち、日本国内を所狭して駆け回って活躍されている女性社長である。このような女性に「さん付け」は失礼かもしれないが、昔からのよしみでお許し願いたい。
 ところで職員の中にはこの福岡さんを知らない人もいるかと思うので、簡単な説明を加えると、前院長の川嶋先生が設立された「南九州医療福祉研究会(2003年)」の事務全般を担っておられた。川嶋先生がいわゆる公募で採用された時には、普通の家庭の主婦だったと思われる。ところがこの研究会で「ホームヘルパー研修」などの諸事務を管轄していく中で、素晴らしい能力を発揮された。事務処理は言うまでもなく、円滑な会の運営や根回し、研修者の相談などあらゆる面で活躍され、南九州医療福祉研究会が長い間存続できたのは、福岡さんの手腕に依るところが大きい。       
 そして社会で必要なヘルパー資格研修者の充足もあって研究会が終焉することがわかると、自ら東京などに接遇やマネジメントなどの研修に参加され、2007年に「ラ・ポール株式会社」を設立した。この会社は医療・介護期間を中心に、コミュニケーション力および接遇力向上のためのコンサルティング事業と研修事業を実施している。その先見性と実行力にも脱帽である。
 この本の中で福岡さんは、接遇の「多様性」と、顧客自ら考えることの大切さについて触れておられる。すなわち研修で「なぜ笑顔が大事なのでしょうか」と研修生に問いかけて、さまざまな意見を引き出す。そして笑顔一つでも、受け手によって一人一人感じ方が違うということに気づくことが、相手(患者)に寄り添う心への大きな一歩につながると話されている。全く同感である。
 そして心が伴った接遇を提供できなければ意味がなく、接遇やコミュニケーションにおいてはベストはなくバターがあるだけであると述べておられる。重要なことは、患者に接するとき、自分が患者だったらどうして欲しいかという観点から、どう対応すべきかを徹底的に考えることだという。このことも全く同感で、相手の気持ちになって考えることが接遇の基本であり、ここでも自ら考えて行動することの重要性に触れている。
 この項の最後には、「『相互信頼』の連鎖、これこそが私が社名に託した我が社のミションです」と、それこそ「笑顔」で締めくくられている。
 このような会社こそ人財こそが資本であり、今までのような地道な経営を続けていけば、今後も更なら発展が期待されよう。
□ 親友の死
 大学時代に親友だった今和泉寛寿君(中山生協クリニック院長)が、長い闘病生活の末、2012年1月10日(木)の朝方、亡くなられた。6年前に口腔がん、3年前には食道がんを患い放射線照射などさまざまな治療を受けながらも、最後まで医師として患者さんの診療にあたっていたという。
 11日に朝、丸山征郎先生(システム血栓制御学講座教授)から訃報を聞いて、通夜や告別式の日取りを伺うと、あいにくのことに東京出張と重なってしまった。
 12日の朝、東京のホテルでパソコンを開くと、丸山先生からメールが届いていた。 
 昨夜、今和泉君の通夜に行ってきました。私はます子夫人や家族が取り乱しているのではないかと気がかりでしたが、笑い声や笑顔の飛び交う、気の置けない会で、ある意味ではホッとしました。家族は、闘病してきた彼に「ご苦労さんでした」と言いたい気持ちなのだと思います。一番、悲しみにくれれおられたのは、年老いたお母さんでした。
 本当に人の命は、限りあるものですね。なんといっても学生生活の時間の多くは、先生と今和泉君と過ごしましたので、最後のお別れを言ってきます。相前後しましたが、あのタバコがねー」と言ったら、ます子夫人やお子さんは「いやー、あの深酒がですねーと言っておりました。「へぇー」と意外な気がしました。そんなに飲んでおりましたかねー。天国に行ったら彼と飲みたいものです。しかし彼にもつらいことが意外とあったのかもしれませんね。しかし天真無垢な、いいやつでしたねー。想い出は尽きません。メールには当夜の懐かしい出席者の名前や、同級生で「あ行」の友達が彼を含めて7人も亡くなったというような衝撃的な報告は省略するが、丸山先生と全く同じ感慨を持ちながらメールを読むことだった。
 今和泉君との出会いは大学に入学した年で、1966年である。鹿児島市内とはいえ、郊外の犬迫町に生まれ鹿児島中央高校を卒業して入学、社会医学研究会で6年間一緒に活動したので無二の親友の一人になった。彼は家の農作業の手伝いもしているということもあって、マツダB360というおんぼろの小型車で通学していた。それでも当時は自家用車を持っている人は少ない時代で、彼の車にはよく乗せてもらっていた。学生運動とか社医研の活動で、福岡市にも車で一緒に行ったこともあった。訃報を聞いた夜、よく整理されていない写真を探してみたが、意外にも彼の写った写真はこの車をバックにしたものしかない。よくよく考えてみると、機械マニアでカメラにも凝っていて、もっぱら「撮る人」だったのである。そのため自分の写った写真は少ないのかも知れない。
 彼の性格を一言で表せば、丸山先生の言われるように「天真爛漫、純真で一本気な竹を割ったような性格」と言ってよい。いわゆる戦略的な学生活動家というようなイメージはなかったが、正義感から学生運動にも足を突っ込み、卒業後は生協病院に就職した。研修病院が秋田県の中通り病院だったことや、徳之島に勤めたことが彼を酒好きにしたようである。
 奥さんのます子さんも社医研の部員(伊敷にあった国立病院付属看護学校の卒業)で、今和泉君の性格をよく理解する賢夫人だった。十数年前に奄美大島の生協病院で講演を頼まれたとき、彼にそっくりの息子さん(内科医)に出会ってびっくりしたことを覚えている。
  13日の朝、魚見町の自宅に伺って、焼香させてもらった。祭壇の写真は6年前だということだったが、ふさふさの黒髪で年齢より大分若く見えた。愛媛大学の血液内科にいるというお婿さんと話したが、社医研のことは飲んだときなどによく聞かされていたという。彼はメカに強く一つのことに熱中する性格だったので、「基礎系に行けば大成しただろうな」と言うと、お婿さんも同意されていた。でも人生は二つのことは選べないので、彼の選んだ道が一番よかったのだと思いたい。
 「いい奴ほど早死にする」とも言われるが、彼もその典型かも知れない。いつも笑顔を浮かべた彼が、「おお、福永!」と呼んでくれているような気がする。もう少しこの世で仕事をしたら、そんなに遠くない日にあの世で一緒に、好きだったというウイスキーでも酌み交わそうではないか。 
□ 麦の目の30周年記念会               
 「昨夜の会は本当に心が温まるような会でしたね。息子さんはすごいことをされたと思いますよ。舞台でジャンベを無心に叩くダウン症の青年の姿を見ながら、息子さんがいなければこのような『いい顔』を見ることはかっただろうと思いました。それでいて、いつものように裏方に徹して、一度も表には出られずに。でも30年記念誌を読むと、この会の発足から今まで、息子さんが中心になってこられたことは、理事長の清原先生も何度も書かれています」。
 祝賀会のあった翌日、私の外来を訪れたご両親(お父さんが軽いパーキンソン病)に話すことだった。「今までこんな会には出なかったのですが、隆司からきっと最後になるだろうからと言われて、出席しました。知らない人から、息子さんのおかげで生きてこられましたと言われたりして、驚いています」と、80歳を超えたお母さんが嬉しそうに話される。
 「むぎのめ30周年記念祝賀会」がサンロイヤルホテルで開催されるということで、招待状をもらっていたので出席することにした。開催時刻の10分ほど前に着くと、会場受付には何十人も並んで長蛇の列である。それもそのはず、大ホールには600人を超える人で溢れかえっていた。「ねがいでつながる、時代をつくる」というキャッチフレーズが掲げられていたが、30年前に蒔かれた数粒の麦が立派に芽を出して、これほどまでに大きな組織を創ったのである。会場で中村隆司さんが私のテーブルまで挨拶に来てくれたが、ネクタイ姿を見たのは今夜が初めてだった。
 記念誌の中で、「麦のめ福祉会」創設時の中村さんのことが、「むぎのめ物語~麦の芽共同作業書は何もないところから始まった~」でも取り上げられている。
 中村さんは甑島の出身だが、川内高校から関西大学に進学したが退学し、思うところあって(お母さんの弁)日本福祉大学に転学した。
 さて「むぎのめ物語」から引用すると「いつもブルージーンズで、首にタオルを巻き、草履ばき、そして夏場は上衣は肌着だけといういでたちで中村隆司が1980年に学生の身で鹿児島の町に飄然と姿を現したことから、鹿児島の共同作業所づくりは急ピッチに展開し始めた。
 大学の夜間部に在学中に、障害者問題研究会というサークルに在籍していた頃、『働く中でたくましく』という本に出会った中村は、それまで見てきた入所施設とは違う「障害者の生活と権利を守れる所-共同作業所」に興味をそそられた。
 そして理事長の清原先生は、中村さんが清原先生の研究室に現れた時にことを「中村隆司の印象は好印象。色黒でハンサムな青年。全国の取り組みを見てきた話や思いを真っ正面に語る姿はとても真摯で信頼できる人だと感じた」と書かれている。
 中村さんは最初の思いを、一つもぶれることなく、30年間同じスタイルで貫き通した。私も時々会うのだが、いつも奇想天外な発想で福祉を語り、その夢を確実に実現させていくところはすごいことだと思う。そして無心でいることが、多くの仲間を引きつけてきたのだろう。
□ 博樹、本当に良かったね
 「博樹、よかったねえ、本当におめでとう。心からお祝いの言葉を贈りたい。実を言うとね、最近消息を聞いていなかったので、元気で頑張っているのかちょっと心配していたんだよ。そんなこともあって、今回の受賞の情報、何よりうれしかったね」
  先日、年に3回発行されているという「ATOE525」が送られてきた。
 発行は山下ヤス子さんが理事長をされている「まほろば福祉会」の一つの事業所である身体障害者療護施設「翼」である。山下さんは自ら筋ジストロフィーという病気を背負いながら、同じ病気の人にも働く喜びとお金を稼ぐ尊さを実感させたいと思って身体障害者共同作業所「自立センター」を1986年に設立した。「短命ならそれでいい。自分らしく、生きよう」という強い信念に基づいていた。
 その後20年あまりで、宮崎市の郊外の「跡江」に大規模な複合型の福祉コンチェルンへを築き上げた。彼女の努力、無心、そして支える仲間たち、行政や多くの団体の支援もあってのことだが、やはり山下さん個人の魅力(笑顔と才覚と気迫)に負うところが大きい。
 私は個人的には筋ジストロフィー協会での付き合いや、またいくつかの冊子を出版してもらったことが縁で、古くからの親しい友人として遇してもらっている。
 さてこの季刊情報誌を開いてびっくりしたのは、博樹が「優秀勤労障がい者」として県知事賞を受賞したという記事と、そのインタビュー記事である。2012年9月3日に、宮崎県庁で障がい者を雇用する優良事業者(1社)と優秀勤労障がい者(4人)が表彰された。
 博樹のことについて触れたいと思うが、もうずいぶん昔の話になる。博樹はお兄さんが同じ筋ジストロフィーで加治木養護学校に入学していたこともあって、小学校の5年の時に養護学校に転校してきた(同時に南九州病院に入院)。入院当初不安も大きかったようだが、「同じ病気で一生懸命に生きている先輩や友人の姿を見て励まされ、自分も頑張らなければならない」と思ったという。父母が畜産の仕事をしていたので、経営や管理面の手助けをしたいと思って、養護学校から小林商業に入学し商業簿記など学んだ。入学に際しては当初高校側は反対したが、当時養護学校の先生をしていた上村先生などの努力で入学を認めてくれた。3年間で圧倒的な成績(筆記試験では2番を100点も引き離していた!)を上げ、卒業時には「博樹君のお陰で、学校に人のことを思いやる雰囲気が生まれ、いじめなども少なくなりました」というような賞賛の言葉を校長先生からもらった。高校時代に獲得するのは難しいとされる商業簿記1級にも合格した。校内での日常の移動は、友達が全面的に介助してくれたのだった。
 高校卒業後、宮崎市の産業経営大学に入学し、簿記など本格的に学んだ。卒業後は山下さんの配慮もあり、まほろば福祉会に就職する。当時の心境を鹿児島県立南高校で生徒さんを対象にした講演の中で、次のように述べている。
  現在、まほろば福祉会で経営や経理の仕事をしています。病気になって不安になったり、病気を恨んだこともありました。ただ目標を持って生きてきて、たくさんのことを成し遂げることもできまし、多くの友人にも巡り会うことができました。今では病気に感謝する気持ちになっています。そして障害とともに生き、人の援助を受けながら、どうして自立できるか自分の課題としていきたいと思います
 平成17年には、私たちの病院が前年に国立病院機構となり、経営スタイルが官庁会計から企業会計に移ったこともあって、会計の基本を学ぶ必要に迫られた。そこで博樹を講師にお願いすることを思いつき、加治木まで来てもらった。「会計の基本理解への道」というタイトルで一時間ほど、堂々とした講演をしてくれた。この時には呼吸が苦しくなって夜間や食後は鼻マスク式の人工呼吸器を使用していたが、そのようなハンディキャップはみじんも感じさせなかった。
 さてインタビューの模様を少し紹介する。
 受賞された感想として「翼が開設された翌年から勤務させて頂いて、今年で14年目になるので古株の部類にいると思いますが、表彰されるとは夢にも思っていませんでした。日常の生活もそうですが、仕事をするときにも人の手助けなしには何もできないので、これまで私の生活を支援してくださった全てのみなさんに感謝しなければならないと強く感じました」。
 そして山下さんとの関係では「・・・山下さんの厚意に甘えて、自分と家族の一部がまほろば福祉会の一室でお世話になるようになりました。大学生活4年目は施設の住居から通いましたが、就職の厳しさに打ちのめされそうになっていたときに山下さんが再び手をさしのべてくださいました。大学卒業と同時に、施設の事務員として雇って頂きました。その後、全国で初めての障害者とその家族を対象にした三階建てのアパートが翼の隣に建設されて、家族ごと入居し、現在もそこから徒歩一分で通勤させてもらっています」。
 これからの目標を聞かれて「・・・人工呼吸器を装着して、身体機能や活動に制約をますます感じるようになりましたが、できるだけ長く貢献できるように体調管理に努めながら、明るく楽しく過ごせたらと思います」
 博樹に限らないことだが、筋ジストロフィーのような難病を抱えながら健気に頑張っている姿に接すると、「この子が病気でなかったら・・・」というような感慨が沸いてくる。でも考え方を変えると「このような病気だったからこそ・・・」と思い返してみる。敏秀がまだ元気だった頃、半分冗談、半分本音でよく言っていたものである。「お前は、筋ジスでよかったなあ。もし元気だったら、暴走族になっていたかも知れないよ。今や、多くの人に尊敬された『敏秀さん』だからね」と。
□ 博樹、本当に良かったね(後)
  現在、まほろば福祉会で経営や経理の仕事をしています。病気になって不安になったり、病気を恨んだこともありました。ただ目標を持って生きてきて、たくさんのことを成し遂げることもできまし、多くの友人にも巡り会うことができました。今では病気に感謝する気持ちになっています。そして障害とともに生き、人の援助を受けながら、どうして自立できるか自分の課題としていきたいと思います
 平成17年には、私たちの病院が前年に国立病院機構となり、経営スタイルが官庁会計から企業会計に移ったこともあって、会計の基本を学ぶ必要に迫られた。そこで博樹を講師にお願いすることを思いつき、加治木まで来てもらった。「会計の基本理解への道」というタイトルで一時間ほど、堂々とした講演をしてくれた。この時には呼吸が苦しくなって夜間や食後は鼻マスク式の人工呼吸器を使用していたが、そのようなハンディキャップはみじんも感じさせなかった。
 さてインタビューの模様を少し紹介する。
 受賞された感想として「翼が開設された翌年から勤務させて頂いて、今年で14年目になるので古株の部類にいると思いますが、表彰されるとは夢にも思っていませんでした。日常の生活もそうですが、仕事をするときにも人の手助けなしには何もできないので、これまで私の生活を支援してくださった全てのみなさんに感謝しなければならないと強く感じました」。
 そして山下さんとの関係では「・・・山下さんの厚意に甘えて、自分と家族の一部がまほろば福祉会の一室でお世話になるようになりました。大学生活4年目は施設の住居から通いましたが、就職の厳しさに打ちのめされそうになっていたときに山下さんが再び手をさしのべてくださいました。大学卒業と同時に、施設の事務員として雇って頂きました。その後、全国で初めての障害者とその家族を対象にした三階建てのアパートが翼の隣に建設されて、家族ごと入居し、現在もそこから徒歩一分で通勤させてもらっています」。
 これからの目標を聞かれて「・・・人工呼吸器を装着して、身体機能や活動に制約をますます感じるようになりましたが、できるだけ長く貢献できるように体調管理に努めながら、明るく楽しく過ごせたらと思います」
 博樹に限らないことだが、筋ジストロフィーのような難病を抱えながら健気に頑張っている姿に接すると、「この子が病気でなかったら・・・」というような感慨が沸いてくる。でも考え方を変えると「このような病気だったからこそ・・・」と思い返してみる。敏秀がまだ元気だった頃、半分冗談、半分本音でよく言っていたものである。「お前は、筋ジスでよかったなあ。もし元気だったら、暴走族になっていたかも知れないよ。今や、多くの人に尊敬された『敏秀さん』だからね」と。

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