院長雑感詳細

院長雑感(140号)

南九州病院での、そして筋ジス病棟との深いかかわりも終わりを迎えようとしている。多くの患者さんとの思い出が去来するが、博樹君もその一人である。1月のこのランで「博樹、本当に良かったね」という小文を掲載したことに対して、メールをもらった。
 大変ご無沙汰しております。博樹です。思いがけない先生からのメールで驚きましたが、施設の機関紙を読んで下さったのですね。仕事の傍ら編集にも携わっているのでとてもうれしいです。それにも増して、受賞を祝っていただけたことに感激しています。ありがとうございます。「すべての皆様のおかげ」の一言に尽きます。これまでのご恩に対して少しでも恩返しになるよう、可能な限り働いてみようと改めて思いました。
 最重度の筋ジストロフィーでありながら、いつも前向きに生きており、そして健康な人に伍して重要な仕事を任されている。このようなけなげな青年が、筋ジスの患者には多かったことを、あらためてうれしく回想している。
■ 患者数
 1月の入院患者数は350.0人で、計画に対し16.8人の大幅減となった。平均在院日数は、調整前で16.8日と問題はない。外来は164.8人と、計画比で0.6人の減となった。12月と同じ傾向が続いているが、手術件数などが多く、一人あたりの単価が上がっていたので収支的にはまあまあというところ。いわゆる縮小均衡である。
■ 診療報酬点数
 1月の診療報酬点数は、計画比で入院では698,658点の増、外来は124,78999点の増で、対計画では入院・外来合わせ823,447点の増となった。累計では2,709,262点の増となっている。貯金をだいぶ食いつぶして、後がなくなった。
□ サービス精神の極意
 東京に住んでいる(と思っていた)従姉に、「さつま揚げ」を山形屋からクロネコ便で送った。ところが届いていないという。数日して山形屋から「正確な住所が分かりましたら、再度送らせて頂きます」という実に丁寧な電話があった。悪いのは私の方で、東京から横浜に転居していたのを失念していたのである。
 病院と老舗の百貨店、そして運送業、いずれもサービス業に属するが、この顧客に対する「サービス」の幅の広さと質について改めて考えさせられてしまった。もしこれが病院だったら、「悪いのはあなたでしょう」という本音が見え隠れして、このような清々しい応対はとてもできないのではないかと自戒したのである。
 最近、ヤマトホールディングスの「サービス精神」が話題になっている。
 そこでインターネットて調べてみると、創業は1976年で今や伝説的なカリスマ経営者である小倉昌男によって始められた。創業当時から親方日の丸の官業にはない徹底したサービスを追求し、「サービスが先、利益は後」と繰り返してきた。思えば私は1974年に東京に引っ越した時には、「チッキ」と呼ばれていた国鉄の小口の荷物輸送を使った。現在、飛行機に乗るときに大きな荷物は空港で預けて引換預かり証(チェック)を受け取り、到着地の空港で受け取る仕組みと同じものである。ただ荷物は着いた時にすぐ受け取れるわけではなく、数日後になるなど利便性は極めて悪かった。現在の即日配達からクール宅急便が日常化していることを考えると、この40年足らずの間に物流業界は長足の進歩をはたしたことになる。
 さてヤマトの「社訓に込められた基本精神」の一番目は、「ヤマトは我なり」で、次のような言葉にまとめられている。
 ヤマトグループは、お金や設備以上に、「人」が最大の資本となって成り立っている会社です。社員を単なる「人材」ではなく、会社の財産としての「人財」と考え、何よりも「人を尊重」します。社員一人ひとりの「和」の力、「協力・結束・調和」が、ヤマトグループの企業としての力を生み出します。この「自分自身=ヤマトという意識を持ちなさい」という言葉は、ヤマトグループの全員経営の精神を表しています。
 そして続けて、「ヤマトグループの社員一人ひとりが“どうすれば、お客様にもっと満足していただけるか?”という『興味と熱意』を常に持つことの大切さを示しています」となる。
 実に素晴らしい社訓で、私たちの病院の理念にそのままあてはまる。そしてこの理念が、一人ひとりの社員に行き渡り、日々の行動として実践されつつあるというのがもっとすごいことである(なおヤマトグループを誉めすぎた感もあるが、私は単なる顧客の一人であり利益相反は一切ない)。
 私も30年近く、誰よりも愛してきたと自負しているこの南九州病院で、最後を終えることができることを心より幸せと思っている。さらに職員一人ひとりがヤマトの社員と同様に、自分が病院の看板を背負っているのだという自覚を持って働いてくれていることに喜びを感じている。そして、「患者サービス」という言葉で代表されるように、常に相手の立場に立って物事を考えていく習慣をつけていくことが大切なことではないかと思う。
 当院の職員は、誰もが素晴らしい「人財」である。慢心することなく、常に高い頂を目指して、みんなで力を合わせて頑張っていって欲しい。
□ 遂に部屋の掃除に着手(前)
 古来、年が明けてからの年度末の3ヶ月間は瞬く間に過ぎていくことを、「いく、にげる、さる」と表している。私にとってはこの3月で29年余りも勤めてきた南九州病院を去ることになり、その蓄積してきた澱を始末しなければならならない。そうでなくても私の部屋は積もりつもった書籍や資料で溢れかえっており、初めて部屋をのぞかれた人は「引っ越しですか?」とよく尋ねられたものである。
 夢にうなされたわけでもないが、このところ目が覚めたときに「そろそろ部屋の片づけに取りかからなければならない」との焦燥感に駆られている。いつも部屋を掃除してくれてきた内村さんには、「手伝いますからいつでも声をかけてください」という優しい脅迫めいたお言葉をいただいているし、上別府看護部長からは「看護部用」「外来用(こちらは捨てるもの)」「センター用」と、マジックで書かれた仕分け用の大きな段ボール箱まで届けられている。
 論文を書くときもそうだが、「まず意を決して、書き始めなければ何も始まらない」ということはよく熟知しているので、1月20日(日曜日)、いつものように朝早く出勤した後、これもいつものようにテレビ体操をして、いつものようにコーヒーを飲んでメールの整理をした後、机の背後にある作りつけの本棚の書籍の仕分けを始めてみた。
 過去の日本神経治療学会などの学会誌、英文、和文の教科書、研究班会議の書類、文芸書などさまざまで、手に取って直観(今後利用するかどうかという基準)で仕分けていく。ただ自分が投稿したり頼まれたりして書いた論文や総説が掲載された書籍やジャーナルは捨てるには名残惜しいが、できるだけ心を鬼にして捨てることにする。そうでもしなければ、現在住んでいる自宅は2DKの狭いマンションであり、とても新しい荷物を持ってくる余裕はない。ハートピア内の難病相談・支援センターの本箱は限られているし、4月から勤める予定の病院の部屋はまだ決まっていない。
 さて一度捨てたものの中で、「ぼくのデコボコ人生」(福山貴志)、「薔薇の花のように」(森隆志)、「オーストラリア旅行記~赤道をこえて~」(宇都栄一、岡村祐一、坂元貴博、中村健一郎、山口丈晴)、「つぶやきノート」(末増広)の四冊を再び手に取って、とうとう読みだした。当時、筋ジス病棟で働いていた指導員の今村葉子さんが手作りで作成したものである。今考えると、あまり陽のあたらない患者の作品をよく取り上げているところが今村さんらしい。みなそれぞれに思い出があり、懐かしい名前ばかりであるが、現在では岡村君と坂元君だけが生きていることになる。オーストラリア旅行は平成7年3月3日から9日までで、ずいぶん心配したが元気で帰ってきた。当初はイタリアを希望していたが、長さや時差を考えて、私が無理やり場所や期間も変更させたのだった。旅行記にはその「恨みやつらみ」も書かれている。
 その中に、福山貴志君の書いたものが面白い(書かれた時期は、二十歳を過ぎたころかな)。私は主治医ではなかったので、福山君のことは深くは知らないのだが。
          「筋ジスの野球人生」
 はじまりは一個のボールである。訓練室にボールとバットがあった。訓練時間に職員が投げたボールを僕たちが打つことから始まった。基礎のキャッチボールもした。健一郎君がピッチャーとして投げたのが始まりだった。それから芝生で本格的な野球の練習が始まった。グローブは使えないことから先輩たちがしていたように網(虫取り)を使用した。ベースはタイヤである。
 僕ははじめピッチャーをした。しかし投げ終わったら体制が崩れ、起き上がるのが難しい。時間がかかるうえにコントロールも悪くなる。みんなから「やめろやめろ」の声が上がり即座に代打か補欠という立場に立たされた。
 野球をやりたい気持ちは薄れていったが、やりたくないと仲間にパンチをくらったりした。ここにもれっきとした上下関係があり抵抗できなかった。(当時の体罰にはまずねじりがあった。腕をぞうきん絞りしたり、指の裏折りというものがあった。筋ジスの弱点を利用した技もあった。僕たちは足の膝をたたかれると弱い。すぐに倒れてしまう。へたをすると足首をひねる。これがよくやられていた)
□ 遂に部屋の掃除に着手(後)
 チーム名は「ブラックジャガーズ」。そう、名前だけはかっこう良かった。しかしまとまりはなく、ちぐはぐに練習していた。計画性はまるでなく、急きょ集まっては練習していた。
 そうこうするうちに重心病棟から試合の申し込みがあった。ある土曜日に試合をした。最初の年は勝った。重心の人たちの足は急に動いたりするので、倒されたりする人もいた。倒された人はベンチに帰ってきて「わざとやったんだー」と言ったりしていた。ところが試合の方は、健一郎君の素晴らしいピッチングで点を取られることはなかった。我々は4,5点取ったと思う。
 2年目を迎えた。はじめ2点の先取点を取った。そのまま回は進み、8回にまた1点を入れた。その後健一郎君が肩を痛め、まさかの満塁になった。ピッチャーの控えには清君や馬ごめ君がいた。しかし健一郎君は自分が投げると最後まで意地を見せた。しかし満塁ホームランをうたれてしまい逆転された。9回の裏も三者凡退に終わりチームは敗れた。怒ったキャプテン健一郎君は、バットとボールを投げて「解散だ」と怒鳴った。ブラックジャガーズは3年目にしてつぶれた。それ以来、試合をすることはなかった。
       病気について
 高校時代よく「がんばれ」と言われました。今振り返ると「無理をするな」と言ってほしかったと思います。一日でも長く、車いすに乗って遊びたかったと思います。
 今は僕が本当にきつかったり痛みがあるときに、「考えすぎだよ」と言われたり、聞き流されたりすることがあります。「いつも同じことを言っている」と言われたりして、真剣に取り上げてくれないと思うことがあります。
 衣服やポンチョがしわになっていると、勝手が悪いこともありますが、心の中までしわくちゃになってしまうような気持ちになることがあります。
 身体の痛みはどうしようもないことがあるので、ゲームをしたりおしゃべりをしてストレス解消についても僕なりに考えています。
 僕は「無理をしないで今をがんばるしかない」と思っています。
 「逃亡と盗み」というタイトルの小文も面白いが、長いので最初と最後の部分だけにする。
 小3のある日曜日の昼下がりのこと、ヘッドサポーターをかぶった三人の少年がいた。その時何を考えていたのか、今は知る由もない。
 病院を抜け出した。コカコーラ工場の裏を抜け、姶良温泉の横を通った。途中の店で立ち止まり、中をのぞいた。三人はその時小銭を持っていた。店のおばさんは居眠りしていた。こっそりと話し合い、ガムを盗むことにした。三人の中のリーダー(私)が見本を見せた。そのあと手下の二人がそれに続いて、同じような手口でガムを盗むことができた。その後は、何事もなかったようにガムを食べながらさらなる旅を続けた。・・・・・
 「もうそろそろ帰ろう」と立ち上がったところに看護婦さんが自転車で探し求めているのが目に入った。三人は隠れようとしたがすでにおそし、捕獲されてしまった。その後、詰め所でさんざんおこられたが、我々は冗談半分に聞いていた。 そののちみんなから「脱走兵」として語りつがれた。
 僕たちが見つかったキーワード「サポーターをかぶった少年をみませんか」、これが看護婦さんが僕たちを探す糸口だった。(終わり)
 貴志の小文には何ともいえないユーモアがある。「重心の人たちの足は急に動いたりするので」は、ヒョレアやバリスムスのような不随意運動を言っているのだろうし、ポンチョも今や懐かしい。また健一郎の短気もよくわかる。「無理をしないで今を頑張るしかない」もその通りである。「盗み」はよくないが、当時は牧歌的な雰囲気のあった時代である。「サポーターをかぶった少年をみませんか」には、思わず吹き出してしまう。・・・ こんな調子では、この作業、いつごろ終わるのだろうか。
□ 北の無人駅から
 今日の「ラン」は渡辺作品「北の無人駅から」の書評である。この作品、今回もダブル受賞に輝き、サントリー学芸賞の授賞式(祝賀会)には渡辺氏のご厚意で招待されたが、所用で出席できなかった。出席した河原先生の言では、「酒はさすがにうまかったが、料理はそれほどでもなかった」ということである。渡辺さんは文芸春秋2月号に、「ノンフィクションの力」という小文も寄せている。とうとう、遅ればせながら中央文壇にデビューである。
                        北の無人駅から(書評)
  この9月に札幌で「日本難病医療ネットワーク研究会」が開催され、その夜に渡辺さんと焼き鳥屋で少し飲んだ。風貌は浅見光彦に引けを取らないイケメンの44歳だが、フリーのルポライターの家計は大変なようで、「生活保護以下じゃない!」とつい口走ってしまった。帰りしな、「『北の無人駅から』が平成24年度の石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞の最終候補にノミネートされているので、それに希望をつないでいるんですよ」ということだった。
 それから数日後、大賞獲得という嬉しいニュースが飛び込んできた。思わず「副賞の50万円が何よりですね」と言うと、「ほんとうに・・・」という声には実感がこもっていた。
 渡辺さんからこの本が「突然」郵送されてきたのは、ほぼ一年ほど前のことである。「夜バナ以来、恐ろしいことに苦節8年ということになってしまいましたが、ようやく2冊目を刊行することができました」という書き出しの手紙が、本とともに同封されていた。
 夜バナ(こんな夜更けにバナナかよ、の略)は2003年に刊行された長編のノンフィクションで、(一見、わがままな)筋ジストロフィー患者シカノさんの在宅での療養生活を3年にわたる丹念な取材で生き生きと蘇らせた力作で、同年の大宅賞と講談社ノンフィクション賞のダブル受賞に輝いた作品である。実は私と渡辺さんとの付き合いは、この「夜バナ」の中に、拙著「難病と生きる」を紹介し引用してもらったことに始まる。
 一般的に新人作家に何がしかの賞が授与されると、出版社の意向もあって次々に新作を世に問うのがこの業界の習わしだと聞いたことがある。ところが渡辺さんはこの通例に反し、「無人駅の取材を続けている」という話は聞こえてくるものの、なかなか新作を眼にすることはなかった。単なる怠惰のためとも思えたが、実は「納得のいく作品でなければ出したくない」という生真面目な信念に基づいていたことが、今回の作品を読みながら納得することである。
 「無人駅」の出版社は「夜バナ」と同じ北海道新聞社で装丁もほぼ同じだが、「夜バナ」より厚く791頁の大作である。読破するには気合いを入れないと読み切れないと思いながら、第一章「駅の秘境」と人は呼ぶ「室蘭本線・小幌駅」を読みはじめた。この本は7つの無人駅にまつわる「物語」で構成されている。ところが読み始めると、「予想通り」というべきか、「夜バナ」のときと同じように「渡辺ワールド」にいつの間にかはまってしまい、私の貴重な時間を奪ってしまう「罪作りな本」となった。
 それぞれの「無人駅」を通して、20年間の北海道生活で見たこと、感じたこと、考えたことの集大成がこの本といえる。「おわりに~北海道と私~」のなかで、「北海道について書きたい、地方について書きたいとの思いで悪戦苦闘しながら最初の取材から12年、この本のための再取材から8年をかけて上梓に至った」。そして「その地域にとりたてて興味を持たない人を、その世界に引き入れていくことは可能なのだろうか」と渡辺さんは心配していたが、2000キロ離れた鹿児島に住んでいる私が、瞬く間に引き込まれたことを考えると杞憂であったことは明白である。なおこの本は2012年度のサントリー学芸賞も受賞し、ダブル受賞ということになる。(日本病院会雑誌、2013年1月号)
□ 鹿児島県の保健・医療・福祉を担ってきた人たち(前)
 ラ・ポール社長の福岡さんとALS協会鹿児島県支部の里中さんが実行委員になって、その昔「南九州医療福祉研究会」を中心に活動していた仲間たち(実行委員会の呼びかけ文を借りれば、今日の在宅重症難病医療・介護環境づくりのための勉強会を重ねてきたメンバー)に呼びかけて、私の「人事院総裁賞受賞を祝う会」を企画してくれた。1月の3連休の最後の日、成人式の日に城山観光ホテルのムーンライトで18時から開催され、29人の方が集まってくれた。
 私もこの日のために、国立病院機構のホームページに掲載されている「人事院総裁賞、個人部門受賞」などの資料や、なにか気の利いた記念品をと思ったが思いつかずにハンカチにすることにした。
 当夜、里中さんの司会で始まり、私の挨拶(一言ということだったが、この夜は欲張って二言ほど)のあと、南風病院の貞方理事長のお祝いの言葉を皮切りに、出席者に近況なども含めてテーブルスピーチをお願いした。貞方さんは会の始まる30分ほど前には既に会場に来ておられたが、「私のような部外者がこのような会に出席していいものか迷ったのですが・・・」と謙遜されていたが、難病医療に対する大きな理解者のお一人である。その表れの一つが採算を度外視して、西俣院長の提案された難病患者のための「療養通所介護事業所」を立ち上げておられることである。
 出席者は鹿児島県の保健・医療・福祉に取り組んでこられた方々で、一人一人のスピーチを聞きながら私もコメントを加えたかったが、時間の関係で遠慮したので、このランを利用させてもらうことにする。
 まず福岡さんは、開催に至る経緯も含めて話された。彼女こそ南九州医療福祉研究会の事務を一手に担ってきた人で、現在では接遇やコミュ二ケーションのための事業を展開する女社長である。さすがに終始笑顔で、勘所を外さずに話される話術はさすがである。
 患者さんでは、長い間筋ジストロフィー病棟に入院していた吐合姉妹と岩崎さんが出席してくれていた。彼らは障害者自立支援法の運用に伴って12年ほど前に退院し、NPO法人「自立生活センターてくてく」を設立して、我々の心配をよそに素晴らしい活躍をしてくれている。私とは昭和51年からの40年近くの付き合いで、何でも言い合える関係にある。
 美智恵は「季節の変わり目には欠かさず入院していますので、南九州病院の経営に大変寄与しています。先生は入院した時にはいつも一番に見舞いに来てくれて、『まだ生きていたんか』と、きわどく励ましてくれます。ちなみにメールアドレスのhikuhikuは、私が痰が絡んで苦しそうに『ヒックヒック』言うので、先生が付けてくれた名前です」。
 また美由紀はアルバムに貼られた一言に、「てげてげ先生がこんな立派な賞をもらわれて、私たち患者としては涙が出そうに嬉しいです」と、かねての発言からは想像できないような殊勝な言葉を寄せている。岩崎さんは、「私も短歌をしていますので、皇居で行われる新年の歌会始めに毎年応募してきたのですが、天皇陛下にお目通りすることでは先を越されました」。岩崎さんは10年ほど前にはよく「朝日歌壇」に選ばれていたので、10回選ばれたら城山でご馳走しようと約束していたことがあったが、幸いにもその約束はまだ実行されていない。
□ 鹿児島県の保健・医療・福祉を担ってきた人たち(中)
 上室さん(保健師)には、数年前に東京の研究班会議にも参加してもらったことがある。「私が出水保健所の時に、講師をお願いしたら断られました」とちょっと嫌味を言われた。確か翌年だったかと思うが、たまたま義父の通夜の日に、その出水保健所で(罪滅ぼしに)講演したことを覚えている。森木(保健師)さんは姶良市にお住まいで、「両親とも、南九州病院には大変お世話になっております。先生のファンで、新聞を読んだ父は真っ先に切り抜いて私に見せてくれます」。
 共生ホーム「よかあんべ」からは、黒岩さん(全国小規模多機能型居宅介護事業者連絡会理事)と福満さん(看護師)が参加してくれていた。黒岩さんは「ALSの南さんの在宅介護を担当したとき、当時ヘルパーは吸引できませんでした。先生はこの問題を取り上げ、厚労省に設置された委員会の委員の一人として、介護者にも吸引できる道を開いてくれました」。この時には黒岩さんのもつ全国ネットを利用して、データの収集などお願いしたものである。福満さんは、阿多さんの訪問看護の思い出なども話されていた。阿多さんも、長いこと介護されていたお母さんも先日99歳で亡くなられた。
 馬場さん(鹿児島大学医療連携室ケースワーカー)が伊瀬知さん(鹿児島県ALS協会支部長)の姪御さんにあたる人であるのはびっくりである。「先生のことは叔母からよく聞いていました。こんなご縁で一緒に仕事ができるようになって嬉しいです」と。武田さん(保健師)は「先生とは伊集院保健所時代に難病について、またネットワークの重要性について勉強させてもらいました。研究班会議にも連れて行ってもらいました。現在、西之表健所で働いていますので、是非今年は研修の講師として来ていただきたいと思います」。「島に行ったのに色白になったね」と茶化すと、「きっと先生からそのように言われるかと思って、今夜は精一杯努力してきました」。
 田代さん(みなみ風訪問看護ステーション)は療養通所介護事業所にも関わっておられるが、今や在宅の療養困難な難病患者のレスパイトの場所として重宝されている。福元さん(保健師)は加治木保健所時代にお世話になったが、「地域のネットワークの核としての役割」をお願いされた。
 角さん(パーキンソン病友の会の事務局、看護師)とは最近、パーキンソン病友の会などの講演で仲良くなったが、母親の介護を通して患者会の仕事をされる献身的な女性である。「講演などで、大変お世話になっておりますが、患者目線で話していただいてよくわかります」と。また上園さん(姶良郡医師会訪問看護ステーション)は「南九州病院から紹介をいただいている患者さんで、姶良郡医師会訪問看護ステーションは仕事させてもらっています。また先生には研究班会議で発表した内容を、論文(難病と在宅ケア)にまで完成させるという機会も頂いて、いい経験をさせてもらいました」と言われたが、お世話になっているのは南九州病院の方である。私は常々、「病気をした人にしかその辛さはわからないし、看護や介護の厳しさもやった人にしかわからない」と考えてきたが、厚労省などから地域ケアの実情について相談された時には、よく上園さんを紹介している。先日、森さんという厚労省の医系技官が研修に来られたときにも、万事お願いした。この日、たまたま座席が隣になった角さんとは同じ看護学校で一年違いの先輩、後輩ということが分かり、世の中のこと狭いものである。
□ 鹿児島県の保健・医療・福祉を担ってきた人たち(後)
 日向さん(ひなた居宅介護事業所)は息子さん(作業療法士)とご一緒に出席してくれたが、「先生とはスミセイさわやか介護セミナーでシンポジストの一人として、ご一緒させてもらいました」。同じように林田さん(鹿屋長寿園)とも年度は異なるが、同じセミナーでご一緒したことがある。「今後、鹿児島県の介護分野で働く有能な若い人を育てられるように、黒岩さんなどとも協力して頑張りたいと思います」というような決意表明もされていた。当院からはMSWの前田が、前日の菜の花マラソンへの出場にもかかわらず元気に参加してくれていた。
 中俣さん(鹿児島大学保健学部講師、看護師)とは里中さんを通して吸引講習などで関係はあるが、直接的な関わりはなかった。寄せ書きには「私も患者さんから学びながら社会貢献できるよう頑張りたい」と書いておられる。久保さんとも当院を退職されて以来、久しぶりにお会いした。「私の南九での仕事の大半は先生と一緒でした」と言われるように、南九州医療福祉研究会では主導的な役割を担ってもらった。大窪先生(鹿児島大学医学部講師)は「先生の跡を金魚の糞のようについてきました」と謙遜されたが、平成3年から2年間、当院で一緒に神経内科医として働かれた後も、研究班や鹿児島・宮崎両県の難病のケアシステムの構築に果たした役割は極めて大きいものがある。現在も、南九州病院と大学との大事なつなぎ役や難病相談・支援センターの仕事などでも、大変お世話になっている。
 今村さん(鹿児島県庁母子保健部、保健師)は「先生には4回ほど、研究班会議に同行させてもらいました。一度は鹿実のサッカー部が決勝で国立競技場で対戦したときでした。テレビに映らないようにと、鹿実の大きな旗の下で応援しました」。 里中さん(日本ALS協会鹿児島支部事務局長)は「先生にはいつもひどいことを言われていますが、本当に困ったときには適切な助言などで助けてもらっています」と、神妙な挨拶をされた。
 西俣南風病院長は「福永先生には数年前から、私たちの病院の理事をお願いしております。今後は私たちの病院の特徴である消化器や整形外科の病気に加えて、認知症や難病医療にも目を向けていきたいと考えています。ところで私は消化器内科を専門にしていますが、ずいぶん昔のことになりますが、難病の一つであるクローン病や潰瘍性大腸炎について勉強したことがありました。当時から考えると、難病も随分研究が進んできたと思います。またみなさんの発言を聞きながら、難病にかける情熱がよくわかりましたし、そしてとても暖かい会で、相手の気持ちになって考えておられることもよくわかりました。今後も鹿児島県の難病医療や介護の分野で力を合わせて頑張ってください」というようなエールも贈られた。
 最後は、代表して今村さんからの立派な花束をいただき、黒岩さんの一本締めでお開きになった。本当に最後まで、暖かい雰囲気に満ちた祝賀会をしていただいた。
 一番びっくりしたのは、帰る時間に今夜の会の模様を写したアルバムをいただいたことで、すごい近代兵器による早業で、お一人お一人の写真や集合写真が、一言メッセージとともに整然と整理されていた。
 さて南九州医療福祉研究会が設立されたのは平成3年で、十数年間にわたってヘルパー研修や難病の研修を行ってきた。この研究会でヘルパーの一級や二級の資格を取った人は膨大な数に上るが、その使命は一応終わったということで数年前に解散した。でも人のつながりはいろいろな形で続くものである。
□ 新しい課題に、前向きに真摯に向き合う
  「最後の退官の挨拶ではない」という趣旨での本号への寄稿を求められた。ところが書いているうちに、「退官の挨拶」っぽくなったので書き直している。
 思い起こせば、1984年に当院に赴任し、2010年から15年間という長い間、院長職にある。この間、霧島病院との統合、筋ジスや緩和ケア棟の新築やすべての病棟の増改築、国立病院機構への移行、医療機能評価機構の受審、そして全面電子化など、その時々の重要な課題に対して職員みんなで力を合わせて取り組んだ結果、大きな問題も生じることなく乗り越えることができたように思う。
 また経営面でも、霧島病院からの60人を超える職員の受け入れなどで多少の困難な時代もあったものの、ほぼ順調に推移し多額の負債を返済しながら15億円を超える剰余金を持つことができるに至っている。
 ただ今後の病院経営の見通しを考えるときに、平坦な道だけが待っているわけではない。でもこれはいつの時代にもいえるわけで、先人たちはその壁を一つ一つ乗り越えながら新しい歴史を作ってきたのである。
 思いつくまま、当院の直面する具体的な課題を挙げると次のようになる。
 まず、結核患者の減少に伴う病棟の再編の課題である。
 当院は鹿児島県の結核の最終拠点病院であり、また今後とも県民に安心できる医療を提供しなければならないという責務を考えたとき、何らかの形で結核病床を存続していかなければならない。そこで、現在の5病棟に一般病床と結核病床を併存するという「ユニット化」を考えたい。具体的には2病棟から感染症を中心にした呼吸器系の患者を20床移し、それに伴い1病棟を46床に、2,3病棟を42床に変更し、26床を休床とするものである。一個病棟をまるまる削減するという実質的な病棟の集約は避けたいので、今後大学の医局にも働きかけて循環器内科医(ないし消化器内科)の増員をお願いして、本格的な新診療科の増科ができたらと考えている。
 もう一つの課題は、「夜間の救急医療への対応」である。
 今まで当院は専門医療が中心で、県内各地から専門的な医療を必要とする患者を受け入れてきた。ところが県内各地にそれぞれの分野で専門医療に取り組む医療機関が新設されたり、一方では市町村合併による姶良市の出現で姶良市民病院的役割も要望されている。先日、姶良市長と姶良郡医師会長が来られて、「霧島医療センターが行っているような夜間救急を、当院の敷地内で行えないだろうか」という要請があった。ご存知のように当院では数年前までは小児を中心とした二次救急を行っていたが、小児科医の欠員などもあり対応できなくなっている。
 この課題、色々な部分で困難なことがあることも承知しているが、当院の更なる発展を考えるとき、前向きに考えた方がいいのではないかと考える。当院が専門医療とともに地域医療にも力を入れている(地域支援病院の取得も視野に入れて)ということを、地域住民や医師会員にも示す絶好のチャンスになるかもしれない。そして病診・病病連携をさらに強め、開放型病床などにも取り組んでいく必要がある。
 「必要は発明の母」とも言われる。必要とされる課題に真摯に向き合うことで豊かな未来が開けていくものと確信する。
□ 老稚園(前)
 人は誰しも確実に年を重ねていく。そして足腰が弱くなり、物忘れもひどくなり、わがままになり、節度を保てなくなる。この事実は、若いころの教養や判断力とは全く関係はない。
 私の母も今年94歳になるが、8年ほど前に脳梗塞になり右半身が不全麻痺となった。車いす生活を強いられるようになってから活動範囲も狭くなり、記銘力障害が年々進行している。それでも生来の勝ち気でせっかちな性格は残っているようで、デイサービスに行くと我先にとリハビリ器具に向かうそうである。幼い頃からブランコを人より先にこいでいたのが忘れられないのだろう。
 先日、ある人が面白い話、というより身につまされる話をしてくれたので紹介してみたい。
 しばらくぶりに田舎に帰って来た娘に、母親がしみじみと語って聞かせたという。このような話が、私にとっても人ごととは思われない切実な歳になっている。
 「お隣の○○さんとこの旦那さん、デイサービスの迎えのバスに乗せるのが一苦労らしかの。首から小さなバッグを下げて、その格好は幼稚園の子供みたいなんだそうだけど、いつも『行きたくない』とだだをこねるらしか。歳をとって都会から引っ越してきやったので、デイサービスに行っても知らない人ばかりで面白くないらしかの」。
 80歳を超えた老人が、健康チェックや生活記録などの入ったバッグを首から下げて駄々をこねている姿を想像すると、哀れさを通り越してほほえましくなる。でも奥さんの方は旦那さんがデイサービスに行くことを想定してその日のスケジュールをたてているので、どうしても行ってもらわなくては困るのだろう。
 「それに比べて、亡くなったうちのお父さんは友だちも多くて、結構デイサービスが楽しかったみたい。塗り絵がうまいと、担当の職員からほめられることをよく自慢していたもん。若い頃商売をしていたんで、人付き合いもよかったのかも。一度も行きたくないと言ったようなことはなかったもん」と誇らしげに言われたそうである。
 でも幼稚園とは異なる厳粛な命の摂理も存在する。
 「年々歳々花相似たり 歳歳年年人同じからず」の世界であり、「入院しやった△△さんは、いつ戻ってきやっどか。また来れればよかどんな」とか、「いつのまにか□□さんはおらんごとなった。けしん(死ぬ)やったとか」というような会話が頻繁に取り交わされるそうである。「お父さんが亡くなって一月になったけど、迎えのバスに乗っている人の数は変わらん。でもメンバーはずいぶん替わってしまったらしかの」という言葉が、その現実をよく物語っている。来が開けていくものと確信する。
□ 老稚園(後)
 同じような話は、もう数年前に亡くなられたパーキンソン病のTさんの場合も同じだった。80歳を過ぎて少し判断力が鈍っておられたが、奥さんの話ではだましつけて迎えの車に乗せてもすぐに電話が来て、「帰る。迎えに来い」と駄々をこねておられるということだった。私が「どうして行きたくなかの」と聞くと、「女の人はぺちゃくちゃしゃべることが多くて楽しかろどん、男は何もすることなか。退屈だし、遊戯も面白くなか」と、在宅医療で訪れた私に、たどたどしい語り口でよく訴えられたものである。
 「せめてお風呂だけでも入れてもらわないと。自分一人では入れられないし」と、奥さんはこぼされていた。「本当に幼稚園と同じで、老稚園だもんね」と、一緒になって笑ったものである。
 この「老稚園」という言葉、その時には私の造語かと思って悦に入っていたが、インターネットで調べると、うどんの「老稚園」とか、室戸市にはデイサービスの「老稚園むえんの舎」という施設まである。うどん屋の名前はいいとしても、デーサービスの名称まで使うのは、ちょっと悪のりという感じがしないでもない。
 またブログで、老稚園という言葉を使っている人もいる。その中で、okabetの「人生の楽園」というホームページからの一文が面白かったので勝手に引用した(少し改変)。
 「デイサービス施設は老稚園だ」と、朝の送迎の仕事を終えて帰ってきたお父さんがこんなことをお母さんに話していました。「今日のお客様は59名だよ。年末の忙しいこの時期、家庭ではお年寄りの面倒を見ている暇がないのかな、まるで保育園へ子供を預けるようにいっぱい来ているよ。センターとしては嬉しいのかもしれないけど、世の中、本当に介護が必要な方と違う趣旨で、現場では介護保険制度が使われているような気がするよ。まるで幼稚園みたいだよ。確かに自宅で入浴できない環境の人は、センターで介助されながら入浴ができることがあるので利用価値はあると思うけど、もう少し近親者の努力もしないと本当に介護のための制度と違うところで税金が使われてしまうような気がするね。困った問題になるぞ!」って。福祉事業は成長市場かもしれないけど、建築・土建会社が資本を出して、自社施工の建屋にデイサービスセンターを開設して、広い部屋の店賃をとりながら低賃金のパートを主体に介護保険の適用の中で公費を売り上げるのは、企業として本来の在りようとは違うのではないでしょうか。むしろNPO法人に国が安い賃料で場所を提供し、市町村の介護福祉部門とNPO法人が市民ボランティアとともに収益のための介護でなく、愛しみの心をもって接することが本来の在るべき介護なのではないでしょうか。私はそう願いたいです。
 私もこの人の考えに賛成である。
 高齢者は家にひきこもっているより、みんなと一緒に話をしたり体を動かした方がいいに決まっている。ただ今後の高齢者人口の爆発的増加を考えるとき、現状のように車で送り迎えして大量のお年寄りを一カ所に集めてサービスを提供していくやり方は、事業としては勝ち組かも知れないが、国の財政を考えるとき安定的に運営していくことは無理ではないだろうか。消費税をあげて税金をいくら高くしても、財政の破綻をすぐに来てしまいそうである。また現在のサービスの内容もお年寄りが本当に願っていることなのか、再検討してみる必要もありそうである。私は個人的には「お遊戯」には加わりたくないと思っているが、「そう言っていた人が最も楽しんでいる」という話も聞いているのでその時になってみないとわからない。
 いずれにせよ、今後は公助だけでなく、自助や共助を積極的に活用しなければならないのではないだろうか。
□ NHOだより
 国立病院機構の機関誌である「NHOだより」(平成25年1月発行)が送られてきた。既に読まれた方も多いと思うが、老婆心でここに採録したい。
 今月号は特集が、難病医療と医療安全のシステム化への「ながい道」~人事院総裁賞(個人部門)を受賞して~で、その次が、「プロの支えと多くの人の支えに助けられました」と題した村木厚子さんと私の対談が掲載されている。表紙も私と村木さんの対談時の写真で、気恥ずかしくもAKBならさしずめセンター取りというところである。このような企画をして頂いた本部広報文書課に感謝したい。
 特集の部分をもう少し詳しく説明すると、私が今回の受賞に際しての感想などつれずれなるままに書いたものに、本部からのリクエストに応じて診察風景を、当院のスタッフ(稲森さんだったかな)が撮ってくれた写真が数枚添えられている。その中の一つ、○○さんの背中の洗濯ばさみはお愛嬌というところである。
 ただ今月号のメインな企画は村木さんとの対談であるが、仕掛け人は機構本部の藤木管理担当理事である。藤木さんは社会援護局時代、村木局長の後任の企画課長だったということもあって今回の対談が実現したのである。写真や対談のテープ起こしなど結構苦労されたことと思うが、よくまとめてくれている。
 村木さんとの対談については既にこのランで書いたことがあるが、読み返してみるとそれなりに要点をついており、自然な流れでちょっと安心した。というのも対談に際して、事前にテーマなどを設定することもなく、ぶっつけ本番で対談に臨んだからである。もちろん初対面で、私の方は村木さんについては郵便不正事件で逮捕、起訴され、164日間にわたって不当に拘留されたことなどよく存じていた。
 その対談の中で、「よくねばり強く闘うことができましたね」という私の質問に、「何がよかったかというと、一つはやはり、考えても仕方ないことというのは考えないということだと思います。例えば、なんでこういうことに巻き込まれたんだろうかとか、なんで逮捕されたんだろうかとか、そんなことはいくら考えてみてもそういう事実がなくなるわけではない。そうすると、そういうことをあんまり悩まなかったというのがよかったと思います。あともう一つは、制度が悪いとか、何とかが悪いとか言ってみても始まらない。今の状況の中で自分ができることをやろうと思った。相手があるときには、相手は簡単にはこちらの思うとおり変わってくれないので、そのなかで自分ができることとか、自分の見方をしてくれる人とやれることっていうのに集中したのが良かったと思います」と答えてくれた。
 「まさに人事を尽くして天命を待つ」という心境ではなかっただろうか。
□  個人と組織           
 機構本部での月例の役員会の時のディスカッションの一コマである。
 関東・信越ブロックでは、既に機構全体で行われている看護師の任用候補者試験(副師長などへとキャリアアップしていくときの資格)とは別に、薬剤師や診療放射線技師、臨床検査技師、栄養士、理学療法士、作業療法士、児童指導員、保育士の8職種でも任用候補者選考を実施しているということである。この報告が端緒となって、「ジェネラリストとスペシャリスト」についての議論に発展した。
 ジェネラリストとは会社でいえば総合職で、一般的には文系の人に多く、将来的には組織の幹部へとキャリアアップしていく人が多い。一方、スペシャリストは理系出身の人に多くある分野での専門性を高めていくが、幹部になっていく人は少なかった。もちろん理系でも年齢を重ねるうちにジェネラリストへと変身し、社長などのなる人も増えている。
 ただ日本の社会では、どちらかというとジェネラリストが優遇される傾向もあるようで、生涯獲得金額では4000万円の差が生じるとする統計もあるそうである。そしてスペシャリストの処遇を軽視したツケとして、定年を迎えた優秀な技術者が韓国などの企業に高給で引き抜かれた結果として、サムスンなどの企業の躍進の原動力にもなったのだという。
 また桐野理事長の話では、国立国際医療センターの総長時代、優秀な臨床家だが会議などには一切出席しない医師がいた。どのように処遇すればいいのか悩んだが、特任の部長職を設けたという。そしてドラッガーの言葉として、「名誉で報いる」のも一つの方法だと紹介した。
 私はこのディスカッションを聞きながら、よく講演で使わせてもらっていた「個人尊重の組織論」(太田肇)を思い出していた。
 それは、個人の仕事や組織(会社や病院など)への関わり方には二通りあるというものである。
 一つは「直接的な統合」で、昔の日本の会社のように個人は組織に直接取り込まれるが、会社はその身分を保障し終身雇用で報いてきた。ところが時代とともにこのようなやり方ではさまざまな齟齬が生じて、「間接的な統合」の時代になってきている。すなわち個人は仕事を介して組織と関わることになる。個人は専門の仕事のうえで能力を発揮することを求められるが、組織への一体化は要求されない。仕事で貢献しておればそれ以上の関係は要求されず、人格的には自由になれるのである。ただし、個人がこのような自由を保てる条件として、仕事の上で業績を上げそれによって組織に利益をもたらすことが必要だということを忘れてはいけない。そして個人は、仕事の上では高次の欲求(自尊や名誉、自己実現)も同時に満たすことができるのである。
□ 川村さんとの久しぶりの再会
 実に久しぶりの再会となる。私は数年会っていないと思っていたが、彼女は「2年くらいじゃない」と言っていた。
 2月8日、毎月恒例の機構本部での役員会の夜、「川村さんに会って、医療安全を含めて諸々の話を聞こう」と思い立った。ダメもとと思ってメールすると、メールアドレスもそのままで「快諾」の返事、吉祥寺駅で待ち合わせることにした。その日はたまたま三鷹にある杏林大学病院で医療安全の仕事のある日だという。吉祥寺など中央線沿線の街は、40年ほど前に都立府中病院に勤めていたので、何となく土地勘もあり懐かしい。
 川村治子先生には個人的にも、また病院としても多大な恩恵を被っている。私が平成10年に院長に就任して4ヶ月後に院内火災があったことは何度も書いてきたが、このようなことが契機となって、医療安全を含むリスクマネジメントと取り組みたいと思っていた。当時川村さんは九州医務局(現在の厚生局)の医療課長で、副院長時代から親しくしてもらっていた縁で医療安全対策の指導をお願いした。ちょうどこの時期は、横浜医大で患者取り違え事故が発生して、日本国中で医療安全への機運がにわかに高まっていた。
 当時、当院の医療安全管理者は中尾さんだったが、川村さんは職員の意識改革に始まり、ヒヤリハットの収集・分析、そして医療安全対策に至るまで、何度も講演に来て頂いて病院としての医療安全対策に礎を築いてくれたのである。私はこのような実績があったからか、平成11年につくられた厚労省のリスクマネジメントスタンダードマニュアル作成委員会の委員長をすることになり、その後の国のさまざまな医療安全対策に係わることになる。
 さて役員会が終了して機構本部の吉住医療課長と「筋ジスを難病対策にどのように位置づけるべきか」について話し合った後、一階のロビーで川畑君(機構で人工呼吸器の標準化作業の取りまとめをされていた事務官で、現在東埼玉病院経営企画室長)と歓談しているとき、「30分遅らせて、7時にお願いします」という川村さんからの電話、「いつも遅れますね」と言うと、「ちゃんと電話しているからいいでしょう」と相変わらずである。「吉祥寺だったら渋谷から京王井の頭線がいいですよ」という川畑君の進言に従って、そのようにすることにした。
 約束の10分ほど前に吉祥寺駅に着いて、ほどなく携帯に電話があり、南口から「沖縄料理店」に向かった。寒風の吹きすさぶ中を歩いて数分、「どうしてもゴーヤチャンプル食べたいの」という川村さんの言葉に従った。沖縄といえば、院長になりたての頃に「経営改善」への議論が盛んで、わたしも九州院長会の共同主催者の一人として沖縄で、当時の次長だった長谷川敏彦先生や川村さんをお呼びして、ホットなディスカッションを展開したことも懐かしい思い出である。
 座席に座り、注文したゴーヤ料理や沖縄豆腐、ソバなどをおいしく食べながら2時間ほど楽しい語らいとなった。
 高知に住んでおられる90歳を過ぎたお母さんが、圧迫骨折で介護のために頻回に帰っているらしい。「あんたの傍で死にたいと言うので、また一緒に住むことになるかも」と話されていたが、娘に看てもらえるほど幸せなことはないだろう。「頭がしっかりしていて、特養などには行きたくないというのよ」と、どこの親も同じである。
 「先生、受賞のこと、どうして知られたのですか」と聞くと、「鮎ちゃん(鮎澤純子さん)が教えてくれたのよ。福永先生が大きな賞をもらったと」ということだったが、いわゆる年に2回発表されるいわゆる「叙勲」と勘違いされていたようである。
 村木さんのことに話は移って、「あの事件当時も『土佐の女は部下に罪をなすりつけて平然としておられることは絶対にない』と思っていたのだけで、えん罪だとわかって、本当に嬉しかった。彼女とは面識はないのだけど、土佐高の数年後輩なのよ」。私もすぐ、「薩摩の男は」と講演でも言及するが、生まれ育った土地の歴史は誇りに思いたいものである。
 お開きになる頃にやおら紙袋を開いて、大きな箱を取り出した。「先生のお祝いにと思って、さっきビッグカメラで、最後に残っていたWindows 8タブレット(富士通)を買って、ワードやエクセルも入れてもらったのよ。新しいものに挑戦しないと、頭がぼけるわよ」という。そういえば、パワーポイントが導入されたときも川村さんはいち早く飛びついて、瞬く間にマスターして、理解の悪い私を小馬鹿にしていたことを思い出した。結局、この夜も私の反応が悪いのを見抜いたのか、「先生の息子さんは喜ぶと思うけど・・・先生には別の贈り物に考えるから、このタブレットは私が使うわね」と、この辺りはいつもの気っぷのいい判断である。
 川村さんとは18年にわたる付き合いで、彼女は狩猟民族、私は農耕民族的な発想であるが、基本的な価値観や考え方が似通っているのか、男と女という関係を超えた、私にとっては代え難いいい友である。
□ ぼんのぎり
 煩悩(ぼんのう)とは仏教の教義の一つで、「身心を乱し悩ませ、智慧を妨げる心の働き」と定義されている。ところが鹿児島では昔から、「ぼんのをかける」とか、「ぼんのがなくなった」というように表現されており、本来の「煩悩」とはいささか違っているようにも思われる。
 最近、ある人から「ぼんのぎりが始まった」と言う話を伺ったが、私にとってはこの「ぼんのぎり」も初めて聞く言葉で鮮烈な印象を残している。
 鹿児島県の田舎に、80歳を過ぎた老夫婦が、仲相むつまじく暮らしていた。ところが年をとってからご主人の方は病気がちとなり、奥さんは長年にわたりかいがいしく介護していた。
 ある日、ご主人が寝ているところを見計らって、介護の疲れを癒やそうとお風呂を沸かし、久しぶりにゆっくりと浸かっていた。するとご主人が足を引きずりながら、たどたどしい足取りで風呂場の近くまでやって来て、「お前はよかなあ、風呂に入ることができて。俺なんかもう長いことはいっちょらんど・・・」等々、聞きようによって恨みがましく思えるような棘のある言葉を連ねたそうである。
 その後もたびたび自らの命を短くするような異常な行動が続くので、奥さんは「なんでそんなことすっとね。そんなことしたらけしん(死ぬこと)がね」といさめていた。様子の変わってきたご主人のことが腑に落ちず、世間話のついでに近くに住んでいる90歳を過ぎた古老に話してみた。すると「やっぱりそうやね。いよいよ『ぼんのぎり』が始まったのだねえ」と、しみじみと語ったという。そしてまもなく、そのご主人は古老の見通したようにあの世へと静かに旅立たれたそうである。
 この話を聞きながら、日本の隅々で日常の出来事になった「おくり人」と、「おくられ人」との微妙な「心もよう」を考えることである。
 一般的には、亡くなる前には「本当にありがとうございました。なにも思い残すことなく旅立てます」というような、きれいな感謝の言葉を残して逝くことが好ましいことだとされてきた。しかし現実には、どうしても煩悩を振り払えずに、思い残すことをたくさん抱えて旅立つ人が多いように思われる。
 さてこの「ぼんのぎり」とは、「おくられ人」がここまで頑張って看病してくれた「おくり人」に、意識的にではなくて自然な形で煩悩を切ってもらうために、あえて嫌な言葉や異常とも思える行動をとるということになるのではないだろうか。ここまで精一杯尽くしてくれたのだから、「おくり人」に煩悩が残らないようにという、いわば逆説的な細やかな配慮とも受け取れる。そのように言われることで「おくり人」も、「おくられ人」への煩悩が切れて、煩悩を残すことなく旅立たせる準備ができる。もちろんこの「ぼんのぎり」は、いわゆる愛想づかしなどとは異質のものである。
 病院や特養施設のように介護のプロとして働いている人との間には、「ぼんのぎり」は存在しないだろう。夫婦や親子など、肉親の情の厚い間柄で、他者を深い部分で互いに思いやる気持ちがあって、この世の諸々の煩悩を打ち切ってあの世に旅立つための人間の智慧ではないかと思う。
 私は一時期、良寛に関する書物を読み漁ったことがあった。そして良寛のすごさは地位や名誉や金銭など自己の外にあるもののために生きることを完全に放棄し、己の心の平安や真実の自己の充実のためにだけ生きる道を選んだことにある。人間にとって、煩悩を捨てることほど難しいものはない。
 「ぼんのがきれた」と口には出しても、「しようないなあ、病気が言わせる言葉だろう」と全てを赦すような気持ちのなかで、「おくられ人」との繋がりを少しずつ断ち切っていくプロセスが「ぼんのぎり」のように思われる。
□ 米城さんのメール
 再春荘病院の米城看護部長からメールが届いた。米城さんには川棚医療センターの看護部長時代に、難病看護研修会での講師を依頼されたりと、旧知の仲である。
(米城さんのメール)
 「聞き飽きたと思いますが、人事院総裁賞受賞おめでとうございます。この賞がどのようなものかは、西間先生が受賞されたときに知りました。先生にはぴったりの賞だと思います。NHOだよりを昨日読んで感動しました。先生が書かれていること、胸にしみこんできました。さらに村木厚子さんとの対談を読んで、同じ女性として感動を超してしまいました。
 昨日当院の師長・副師長に必ず読むように伝えました。そして筋ジスの患者さんで本も出している藤本猛夫くんにも読ませました。この子(子ではないですね)は、少しひねた言い方をするときもあるのですが、今回は本当に素直に感動していました。私に来たメールを添付しますので読んで頂けますか」。
(藤本君のメール)
 「昨日名越師長さんから受け取りました機関誌ですが、早速読ませていただきました。南九州病院の福永院長は、筋ジス協会関係で3回程講演を傾聴したことがあり、とてもユーモラスなお方で、患者家族に対する熱い思いと相手の立場で訴えるわかりやすくて、引き込まれていく講演でした。特に数年前の宮崎で開催された、日本筋ジストロフィー協会の全国大会でも講演されていた記憶があります。
 私は『毎回治して、常に和らげて、いつも慰めて欲しい人間』です。そんな弱虫です。確かに平均寿命が20歳に満たないといわれていた時代からすれば、福永院長をはじめ、志ある多くの医療従事者がいらして、私たち患者の今があると言えます。それは米城看護部長様をはじめ、熊本再春荘病院で働かれている全ての職員様にも通じることです。ですから時代、時代で周囲の人々との関係性も変化し、その場その時で入れ替わりはありますが、出会い支えられている患者は貪欲に生きる義務があり、生命の執着心を持たなければいけないと思っております。
 村木さんのような方はとてもまれな方で、国に立ち向かったエネルギーの根幹はやはり周囲のプロ(弁護士)と呼ばれるの支えがあり、また自ら家族の将来を見据えた信念には頭が下がります。普通ならば思い半ばで心が折れてもおかしくなさそうですが、大切な人間が傍にいると人間は強いんですね。そして、その後国から支払われた賠償金を母国の未来のために寄付する行動はなかなか出来ることではないでしょう。村木さんも国家公務員の鑑ですね。
 私も多くの人々に生かされてきた、そして今も生かされている現状に感謝しながら貪欲に生きていこうと思います。多少は心を入れ替えることが出来ました。ありがとうございました。
(私のメール)
 米城さんにこのようにほめていただくと、正直にうれしいです。それほど特別なことでもなく、普通に仕事して、本当にありがたいことだと感謝しています。月並みですが、多くの患者さんの支えがあってのことです。現在の筋ジス病棟は呼吸管理病棟になってしまいましたが、あの時代は子供たちと遊びながら楽しかったですね。でもこれも時代には逆らえないわけで、ある種の恵まれたユートピアの時代だったのかもしれません。もちろん、時には心不全で志半ばで亡くなったたくさんの患者さんもおられたのですが。
 藤本君からのメールも、素晴らしい励ましになります。同時代を歩んできて、ピッタシ共感できます。よろしくおっしゃってください。
 米城さんも機構を一緒に卒業ですね。いろいろな見方ができると思いますが、国立病院、そして機構はやはり素晴らしい職場だったと肯定的に考えております。院長協議会支部長、機構審議役、そして今回の受賞と、西間先生の後塵を拝しながらの医師人生だったとつくづく思います。いつも引き立てていただいて感謝しております。またいつか、ゆっくりお話しいたしましょう。お元気で。
(なお、米城さんと藤本君のメールは、公開の承諾は取っていません。事前お許しを)
□ テレホンカードがお守り
 医師として長い間働いてくると、「本当にありがたい」と心から思ってしまう患者さんがたくさんいるものである。この3月でこの病院を辞めることが知れ渡って、いろいろな方から身に余る暖かい言葉をいただいている。今朝はその中から、特別な二人の女性を紹介したい。
 早朝、いつものように病院に着いて部屋に入ると、大きな段ボール箱が置かれている。送り先をみると、大分県豊後高田市の東さんからのもので、中身は自分の店で作ったお菓子の詰め合わせと麦焼酎である。ここ10年ほど、いつもこの季節になると送ってくださる。小さな手紙が添えられており、昨年、私が大分で講演する機会があったときにわざわざ聴きに来られていたが、その時に差し上げたお茶のお礼だと書かれている。
 東さんはもう20年以上前に、お菓子作りの職人だったご主人がALSという難病を患った。大分県の患者会を立ち上げたりしながら懸命に看病されたが、7年間の闘病生活の後に亡くなられた。ご主人が亡くなられた後も家業を継ぎながら、大分県のALS協会の仕事も続けられ、私はその縁で親しくなったように思う。実際には病気だったご主人とはお会いする機会は持てなかった。10年ほど前には、ご一緒に宇佐神宮などを参拝したこともあった。
 電話をすると、早速出て来られて、「もう70歳になりました。孫も大きくなり、自分が一番小さいのですよ」と笑いながら話される。そして「先生もお辞めになられると伺いました。いろんなことを相談させていただきました。いつまでもお元気で」。ちなみにお婿さんは、あの「家栽の人」などで有名な毛利甚八さんである。
 またこの日は、田ノ上さんが年に一度、間質性肺炎で浜田先生の外来を受診する日にあたっていた。ご自宅は大口で、わざわざタクシーを使って来てくれている。私はいつ頃から親しくなったのかはよく覚えていない。亡くなられたご主人も私の兄の患者さんで、田ノ上さん自身は私の本のファンだったのかも知れない。ただご主人から亡くなられるときに、「福永先生を頼りなさい」と言われたという。「毎朝、先生にいただいた本を声に出して朗読しています。またテレホンカードはお守りとして大切にとっております」。このテレホンカードは私が院長になった平成10年に作ったもので、桜島が描かれている。
 先日、突然電話があった。
 「先生、年賀状を読んでびっくりしました。先生はいなくなるのですか。宮崎に住んでいる娘が、先生がいないのだったら、わざわざ南九州病院にまで行かなくても、近くの北薩病院でもいいんじゃないのと言うのですよ。私も85歳になって足腰も弱くなりましたので、そのようにしようと思います」。「思いがけず、娘が亡くなって気弱になりました。先日は東京などの友達40人ほどに、香典返しに伊佐美を送りました。もうみんな亡くなって、送る人も少なくなりました。先生にもまた送っていいでしょうか」と言われる。何でも、田ノ上さんと伊佐美の醸造元の奥さんが大口高女の同級生で、毎年割り当てがあるのだと聞いたことがある。「そうだね、病院までは遠いから、私が北薩病院の知り合いの先生に電話してあげるから、予約を取ってから行ってね」ということになり、さっそく浜田先生に紹介状を書いてもらって郵送することにした。
 先日、その焼酎が送られてきたのでお礼の電話をすると、「先生の病院には本当にお世話になりました。朝早く電話したとき、担当の受付の人の言葉使いが丁寧なことに、びっくりしました。また診察券に、○○様と書かれていたし、男、女ではなくて、男性、女性と書かれていて、80歳を過ぎても女性と言われるのはうれしいものですよ。これもやっぱり院長の気配りだと感心しました」。
 意外なことでほめられて、それでもちょっぴりうれしかった。
□ 傘寿を迎えた渡辺淳一
 日経新聞の「私の履歴書」は毎朝楽しみに読んでいるが、先月は渡辺淳一であった。ちょうど1月31日が30回目となり終了となったが、いささか尻切れトンボの感じがしないでもない。というのも、高校・大学時代の恋愛に多くのページを割き、直木賞で二十数回を数えたので、どのような終わり方になるのか気をもんでいた。
 最後の項では、「ここから先は、改めて書くまでもない。なぜなら、これ以降のことは、このあと書いたわたしの作品を読んでもらえば、ほぼわかるからである。その意味では、わたしは私小説作家であるかもしれない」とある。
 たまたま鹿児島空港のラウンジで週刊新潮を読んでいたら、渡辺の担当している連載の随筆の中にこの辺りの状況に触れている。30回と限られたスペースに何を書くかはだいぶ吟味され、取捨選択したとのことで、「書き足らなかった分をこの連載で書きたい」と述べている。
 渡辺はご存じのとおり札幌医科大学卒業の整形外科医であるが、和田心臓移植事件を題材にした「小説・心臓移植」の執筆なども多少関係したのか大学を辞め、上京して作家生活に入る。その作風は「遠き落日」のような伝記と、「白い宴」のような医療もの、そして「化身」や「失楽園」などの恋愛ものである。
 今回の履歴書でも高校時代からの恋愛関係を赤裸々につづっているが、多くの場合、それなりのモデルが存在したと書かれている。
 私は本格的な小説は書いたことはないが、随筆でもなんでもそうだが、書かれた人に迷惑をかけるのではないかということがいつも気にかかることである。そのために没にした原稿も多い。渡辺のようにプロとして生きていくには、開き直って自らも赤裸々にすると同時に、モデルになる人にも多くの迷惑をかけてきたのだろう。そのあたりについては次のように書いている。
 「この身勝手さと軽薄さは、なににたとえたらいいのだろうか。しかし、そうであるからこそ、わたしはこれまでモデルか、あるいはモデルらしく扱われた人々に、心からお礼と感謝の気持ちを述べたいと思っている。『本当に本当に、ありがとうございました』あなたがいてくれたから、あの小説は成り立ったのです。そして、あなたが黙って見過ごしてくれたから、あの小説は無事、終えることができたのです」。
 正直な弁明であるが、どこまでも身勝手を貫いている。ただ身勝手さと軽薄さがなければ「私小説的な物語」は書けないだろう。
□ 院長協議会九州支部総会の思い出
 平成13年2月15日、とうとう最後の院長協議会九州支部総会、そして役員会となった。平成10年に院長になり、たまたま厚労省のリスクマネジメントスタンダードマニュアル作成委員会の委員長をしていた関係で、全国の院長協議会の理事となりそのまま九州支部でも理事をすることになった。当時、福岡病院の西間院長から「3階級特進みたいなもんだね」と皮肉られたものだが、以降15年間にわたり理事(平成21年から24年は支部長)を続けたことになる。その後、平成16年に国立から独立行政法人国立病院機構に移行したが、この15年の間に多くの院長は退任したので、一番の古参になってしまった。
 さて九州支部総会は通常年に2回開催され、通常2月は福岡で、秋は各県の持ち回りとなっている。支部長の時にたまたま沖縄での開催になり、台風とかち合うことを心配したが、好天に恵まれてホッとしたことも思い出される。
 今年の支部総会はいつものホテル・コムズ福岡で開催された。今年は定年の院長が多く、6人の院長が最後の挨拶をした。私は、部屋の片づけが順調に進んでいることを報告し、また院長としての病院経営はいつでも前向きに楽観的に考えていくことだと先輩としての「教訓」を忘れず、そして人事院総裁賞受賞へのお礼などを述べた。
 支部総会に引き続いてブロックの事務連絡、人事調整会議とあり、場所を移して懇親会となった。たまたま齋藤統括部長と歓談したとき意外なことを言われたが、「そうだったのか」とちょっと嬉しかった。日本の最南端(沖縄を別にすれば)の病院の出来事を、厚労省や機構本部の中枢もよく気にとめていてくださっていたのだと思いがけずも感謝である。
 というのも、院長になって苦労したことといえば、一つは病院統合に伴う職員間の融和と経営、そして古い建物の改修(新築)だった。
 もう20年以上前のことになるが、当時経営が悪く国から多額の運営交付金(借金)を重ねていた国立病院の統廃合の一環として、鹿児島県では阿久根、霧島、そして志布志の3つの国立療養所が廃止と決まった。ただ職員の解雇は行わないということだったので、個々の職員の希望調査で、多くの職員が当院を選んでくれた。例えば全国でも統合の第一号となった阿久根病院からは20数名の職員が大型バスで、2時間近くもかけて通勤するという異常な状態になった。通勤する職員の肉体的、精神的負担は想像するにかたくないが、病院としてもバスの運行費用など相当の負担を強いられた。
 一方、平成12年には霧島病院からは60人を超える職員が一挙に当院の職員として採用された。個々人は有能な人材も多かったが職種的には重複する人も多く、総定員としては過剰になったので、しばらくの間は必要な職種の人材を採用することもできなくなった。ある年齢になってから、仕事の内容を変えていくことは思っていたより難しいことである。その結果、人件費の増大と職種の調整、そして病院間の「文化」の融合に数年を要したが、それでも職員の協力でどうにか切り抜けることができた。
 齋藤部長は「一般的には統合病院の経営はどこも悪いのが普通なのに、南九州病院は珍しい、いい例外でした」と言われた。確かに霧島と統合した年が経常収支がわずかに100%前後に落ちたが、そのほかの年は全て黒字を続けることができた。毎年数億の減価償却をこなしながら多額の預託金を蓄えることができたのは、ひとえに職員の努力のたまものといえる。
 第三地点に病院を新築できれば別だが、全病棟の増改築のために、平成13年から5年間ほどは、常に患者の移動をしなければならなかった。見方を変えれば、昨日、看護部長などとこのころの苦労話をしていたとき、「病棟の工事が次々に始まって、常に目標に向かって一緒に仕事ができたので、自然に団結心も芽生えたのではないでしょうか」と分析していたが、まさにその通りだと思う。
 ただ負の遺産は、建物の改修が国立病院から機構に移る時期にかち合ったため、一度ですむ建物改修を2回もしなければならなくなったことである。現在の新築予算からすればもうすんでいたものを、耐震なども考えると重心病棟の建て替えのあとに一般病棟の新築をしなければならない。
 次世代の人に託すことになるが、力を合わせれば何とかなる。

院長雑感

交通アクセス

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