院長雑感詳細

院長雑感(141号)

3月29日、今日が実務的には南九州病院での最後の日になりました。そしてまた、この30年、東京への出張のため鹿児島空港に病院から数え切れないほど車を走らせましたが、今日もまた明日の神経学会の会議に出席するために空港に向かいます。
 毎朝6時前に玄関の扉を鍵で開け、廊下を歩いて新聞受けから南日本新聞と日経新聞を取り出し、盗難センサー解除のための部屋の番号を押して院長室の鍵を開けて中に入るというような、判で押したような生活をしてまいりました。本当に長い間お世話になり、お一人お一人の職員の皆さまには心より感謝いたしております。
 昭和59年に赴任以来、医長として7年間、副院長として7年間、そして15年間院長として働いて参りましたが、みなさんと一緒に働くことのできた日々を誇りに思っております。いろいろな出来事もありましたが、総じていえば大きな波乱もなく、陳腐すぎる言葉ですが「大過なく定年を迎える」ことができました。これもひとえに、皆さま方の支えによるものであります。また定年の年に「人事院総裁賞」を頂くことができましたのも、言葉を換えていえば病院がいただいたものであり、そして職員一人一人のお陰だと感謝いたしております。
 ご存じのように当院の院是は「病む人に学ぶ」というものであります。
 当初はちょっとなじめないこともありましたが、今は心から医療というものの本質をよく言い当てている言葉だと思うようになりました。苦痛を伴う厳しい闘病生活の中でも笑顔を失うことなく明るく振る舞われた緩和ケア棟の女性、わずか16歳でこの世と別れなければならないのに、その前日まで英語の勉強にいそしんだ筋ジストロフィーの少年、明日は亡くなるという前夜、私をベッド脇に呼んで旅行にでも出かけるような別れをしてくれた筋ジストロフィーの青年など、数え上げればきりがありません。多くの患者さんが私たちに、医学・医療の勉強を、そして人としての有り様(よう)まで教えてくれたのです。
 でも人間、過ぎ去ってしまえば「災難」の方が印象に残るもののようで、いろいろ経験した「リスク」が走馬燈のように去来していきます。
 平成10年に院長になって4ヶ月、院内火災には仰天しました。この時も皆さんの的確な判断で消火活動が行われ最小限の被害で収めることができました。当時の九州医務局長からは一つもおとがめもありませんでしたし、まさに「災い転じて福」としました。平成14年には売店の弁当を食べた職員や家族に集団食中毒(ノロウイルス検出)が発生し、外来は野戦病院のようになったこともありました。また平成17年7月の医療機能評価機構の審査の時には、調理室の温度が30度を超しているので万事休すと覚悟していたのですが「神風」が吹いてくれました。平成18年6月には受電機に落雷し全ての電源が焼失、数時間も全館停電になったこともありました。そして平成22年の機能評価の更新の時には、紛失したカルテが時間切れ寸前に出てきてくれました。
 私は「ふがよかった」と思っております。ただいずれのリスクに対しても、職員が一致協力して対応してくれたからに他なりません。
 今日で本当に最後の別れになりますが、皆さま方を忘れることはありません。今後、私たちの南九州病院がますます発展し、病む人や地域の方々に、より身近で信頼される病院であり続けることを信じて、そして切に願っております。
 最後に改めて、本当に長い間、ありがとうございました。みなさん、お元気で。
■ 患者数
 2月の入院患者数は362.2人で、計画に対し19.0人の大幅減となった。平均在院日数は、調整前で16.2日と問題はない。外来は157.6人と、計画比で2.8人の減となった。
1月と同じ傾向が続いているが、手術件数などが多く、一人あたりの単価が上がっていたので収支的にはまあまあというところ。いわゆる縮小均衡である。
■ 診療報酬点数
 2月の診療報酬点数は、計画比で入院では808,942点の増、外来は273,581点の増で、対計画では入院・外来合わせ1,082,523点の増となった。累計では3,791,785点の増となっている。
 なお、経常収支率は107.6%と良好で、年度末賞与もほぼ満額いただける見通しである。
□ 鑑真和上没後1250年(前)
 今年は鑑真和上没後、1250年にあたるということである。
 鑑真というと唐代(日本では奈良時代)の名僧で、日本に何度も渡航を試みて、遂には盲目となる。そしてやっと日本にたどり着いて唐招提寺を建立した人だと日本史の教科書で習ったものである。その辿り着いた場所が、薩摩半島の坊津の近くの秋目津の港である。
 1月16日、栗山君を鹿児島中央駅近くの西鉄ソラリアホテルでピックアップして、私の車で南薩路を川辺から坊津、そして鑑真記念館のある秋目津に行くことにした。
 栗山君は学生時代からの親友であるが、3年前に福井大学医学部教授を辞めて、現在は福山市の太田記念脳神経センターの院長として活躍している。私が世話人として担当することになった姶良地区の認知症研究会の講師としてお願いしていたのだが、その日に私は福岡市での院長協議会支部総会が予定され、重なることが判明した。そこで司会を加治木記念病院の岩城先生(当院でも働いたことがある)にお願いした。その罪滅ぼしというわけではないが、翌日の16日、彼の希望である坊津と秋目津を案内することになったのである。
 私は南さつま市に隣接する頴娃町(現在の南九州市)に生まれ育ったが、枕崎市までは何度も行ったことがあるのに、坊津は初めてであり、彼の提案を喜んで受け入れて一緒に回ることとなった。ちなみに栗山君はいつごろからか知らないが、医学史や郷土の歴史に強い興味を持っている。
 鹿児島市から武岡トンネルを経て谷山インターまで高速道路を、そして川辺道路を一時間ちょっとで、坊津歴史資料センターに到着できた。この日は県下一周駅伝の初日であり渋滞も予想されたが、特段なんということもなくスムースに通り抜けることができた。資料センターには一乗院の遺物の展示品などが並べられていたが、鹿児島では明治維新後に廃仏毀釈が激しくて、多くの寺院が取り壊されてしまい、この一条院も廃寺となり遺品しか残されていない。一条院はかって真言宗の寺院で、対外交易港として栄えた坊津とともに繁栄し、16世紀には後奈良天皇から勅願寺とされた由緒のある寺院だったようである。
 この日は運良く快晴に恵まれたが、すごい強風が吹いていた。センターの展望台からは国指定の名勝の双剣石を眺めることができる。この奇岩は江戸時代に、安藤広重の浮世絵としても有名である。
 この坊津の町から海岸沿いに曲がりくねった小さな道を車で走って30分ほどで、秋目津地区に入る。よくぞ陸の孤島といったもので、漁港となっているリアス式海岸の谷のような部分に小さな集落が点在している。ただ陸路からはアクセスが悪いが、海から見ると天然の良港であり、遣唐使の時代から江戸時代までこのあたりの港は大いに繁栄したのである。またこの地は、原耕や玉川学園の創始者の小原国芳の生まれ故郷でもある。
 まずお目当ての鑑真和上上陸記念碑と記念館を訪問する。館内には実によく勉強されている古老のおばさんが、丁寧にあれこれと説明してくださる。あとで昼食をとった「がんじん荘(きびなごが実に美味しかった!)」の女将さんの話では、もともとは福島県の人で旦那さんの故郷のこの秋目に嫁いだのち、独学で鑑真について勉強したようだという。
□ 鑑真和上没後1250年(後)
 (この後の記述は、インターネットの「文芸ジャンキー・パラダイス」などからの引用を交えて)
 鑑真の話にうつるが、奈良時代(753年)、鑑真を乗せて中国から日本に帰国した遣唐使船が上陸したのがこの秋目津とされている。当時、日本には正式な授戒の仏法を知る者がいなかったので、興福寺の2名の僧侶、栄叡と普照が遣唐使船で渡航し、「授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」との勅命を受けた。二人は様々な困難を乗り越えて9年目に差し掛かった時に、過去4万人に授戒を授けてきた名僧・鑑真の存在を知る。鑑真は仏道を究めていただけでなく、貧民や病人の救済など社会活動に力を注ぎ、当時民衆から大師として仰がれていた。でもこの当時の日本の学問の高さ、また向学心たるや、その後の空海などをみても恐るべしである。
 ただ実際に日本の土を踏むまでは困難を極める。
 2人の叫びに近い思いを聞いて鑑真は強く心を動かされ、「仏法の為に生命を惜しむことがあろうか。お前達が行かないのなら私が行く!」と宣言する。師の揺るがぬ決意を聞き、弟子21人が随行することになった。すでに鑑真は54歳になっていた。ところが唐の第6代皇帝玄宗(あの楊貴妃の時代である)は、鑑真の人徳を惜しんで渡日を許さなかった。必然的に、出国は極秘作戦となる。東シナ海を越えるのも命がけだが、出国するまでがまた大変だった。以降、6度の渡日大作戦が敢行、その実現までになんと11年を要した。
 753年(鑑真65歳というと私の年)、第6回目の渡航で、日本側は遣唐使の帰国便で鑑真と弟子5人を非合法で連れ出す作戦に出る。遣唐使船は4隻600人の大船団。「1隻でも日本にたどり着ければ仏法を伝授できるように」と鑑真らは別れて乗船した。11月16日に出航。沖縄、種子島と東シナ海を北上していく。嵐に遭遇して大使の船は南洋に流されたが、副大使の船は持ちこたえ、1ヶ月後の12月20日に鑑真と普照は薩摩の地を踏んだ。第1回の密航計画から実に11年、6度目の正直で悲願が達成された。
 翌754年2月4日(66歳)、鑑真は大阪難波、京都を経て平城京に到着!行く先々で熱烈な歓迎を受けた。鑑真は朝廷から仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命される。4月、東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440名に国内初となる授戒を行なう。755年(67歳)、常設の授戒施設となる東大寺戒壇院を建立。戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨、米粒ほどの大きさ)が埋められており、ここで250項目の規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認めた。これで乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善された。
 ただその後の思惑の違いから、朝廷との関係は悪化する。
 759年(71歳)、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進してくれた。鑑真は私寺となる『唐招提寺』を開き戒壇を造る。「招提」は“自由に修行する僧侶”という意。この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされなかったが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来た。鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組んだ。
 763年3月、弟子の忍基は日本初の肖像彫刻となる鑑真の彫像を彫り上げた。その2ヵ月後、鑑真は永遠の眠りにつく。西に向って結跏趺坐(けっかふざ、座禅)したまま息を引取ったという。享年75歳。来日から10年、唐招提寺創建から4年目の春だった。
 鑑真ほどの名僧が危険を顧みず渡日を決意されたことに驚くが、おそらく正しい仏法を広めたいという使命感(キリスト教の伝道師と同じか)と、日本からの遣唐使の情熱と知性の高さに心を打たれたのだろう。尖閣諸島の問題で日中関係が険しくなっている折、1250年前にはこのような想像を絶する関係が築かれていた歴史を、今一度思い出すことも必要ではないだろうか。
□ プレゼンテーションのやり方の変遷
 本棚の一番奥に収納していた大量の「スライド・ファイル」を処分することとなった。私は筋病理を専門にしていたので、その他のスライドと合わせると何千枚という膨大な数に達する。
 時代が進みパワーポイントの時代になったので、まったく利用価値はなくなってしまった。それでも一枚一枚のスライドにはそれぞれの思い出が詰まっており、一挙に処分してしまうのは忍びない気もしてくる。
 私が大学を卒業したのは1972年であるので以降40十数年、学会での発表のやり方もずいぶん変わってきた。
 1960年代の学会発表では、大きな広用紙にマジックインキで研究内容を書き込み、一枚ずつ剥がしていくこともあったようであるが、私が卒業したころは既にスライドプロジェクターが普及していた。ただそのスライドを作ることが大変な仕事で、写真に撮るための原稿は手書きか、ワープロが普及するまでは活字印刷を行っていた。当時、都立神経病院の院長だった田辺先生のスライドは、その独特の字体ですぐわかったものである。
 次にこの出来上がったスライド用の原稿をスライドにすることになるが、当時写真屋や専門の業者が一枚何百円かで白黒スライドに仕上げてくれていた。時間に余裕のない時には車で持って行って、出来上がるのをじっと待っていたものである。
 その後、医局の隣の図書室の片隅にカメラと複写台、照明ランプを購入し、自分で写真を撮り、暗室でネガフィルムをジアゾフィルムに転写してアンモニアでブルー反転していた。
 1980年代になるとカラースライドができるようになり、また写真屋などに依頼することもあった。ただこの時期にはワープロが普及し、原稿はワープロで書くことが多く、さすがに手書きは少なくなった。
 ほどなく、原稿から40秒で、ポジのマウント(枠)付モノクロ・スライドを作り上げる世界で初めて暗室のいらない自動スライド作成機「パナコピー」が医局にも導入された。今までの苦労が信じられないほど容易にスライドができて、ビックリ仰天したものである。ただできあがりは、さほど美しくはなかった。
 2000年前後になると、ノートパソコンが使えるようになり、液晶プロジェクターの性能が良くなると、PowerPointを使ったいわゆる液晶プレゼンが盛んになった。私は1999年から2004年まで筋ジス研究班の班長をしたが、この時には班会議での発表は全て従来のスライドを使用させてもらった。今考えるとかなり時代遅れの時代錯誤になるが、当初はパワーポイントでのやり方ではトラブルも多く、進行がスムースにいかないことも多かったからである。
 もう一つのプレゼンの方法としてオーバーヘッドプロジェクター(OHP)があるが、私は使用したことはない。スライドと違って会場を暗くしなくてすむ利点がある。
 現在のパワーポイントでは動画を組み込んだり、彩色に工夫を凝らしたものが多くなったが、白黒やブルーの昔ながらのスライドがシンプルでわかりやすい気もする。自分で上手く細工のできないひがみかも知れない。
□ 京都から東京、そして富士山(前)
 京都府主催の「第11回難病医療連絡協議会」での基調講演と助言を頼まれて、2月22日の朝、鹿児島空港から伊丹空港へと飛び立った。雲の中での飛行のあと、紀伊半島にさしかかったとき、南紀白浜空港の滑走路が鮮明に見えてきた。いつもは特段気にもとめないのだが、今朝は一昨日の外来での患者さんとの「やりとり」が思い出されたのである。
 70歳を過ぎたパーキンソン病の患者さんで、娘さんに連れられて鹿児島市から通われている。数年前、それまでの市内の病院の主治医と折り合いが悪くなり(どうも、娘との折り合いだったようだが)、「お引っ越し」されて来られた患者さんだった。「先生、お土産です」と、小さなお菓子袋を差し出されたので、「和歌山に行ったの」と聞くと、「田辺市です」と。「なんで行ったの」と尋ねると、「ジェット機です」というので、「そしたら、関空、それとも伊丹」と聞くと、「白浜空港です」というのである。「息子が自分のジェット機で運転してくれました」とのたまうではないか。
 いろいろ聞くと、車の販売を手がけている50歳を過ぎた息子がアメリカでジェット機の操縦資格を取り、12人乗りのジェット機を購入したのだという(ヘリコプターも持っているという)。鹿児島空港のノエビアの格納庫を借りていて、いつもはそこにおいている。「全然揺れなかったし、30分しかかからないのですよ」と言うが、「そんなに大金持ちの息子がいるようにはとてもみえないのになあ(息子さんには会っていないが、母と娘の雰囲気からして)」。それにしても自家用ジェット機を簡単に購入できる時代なのだろうか。帰りしな、「○○さんは、4月からもここの病院がいいと思いますよ」と言うのだが、「先生のあとをどこまでも着いていきます」と、脇から気の強そうな娘に言われてしまった。第一次「仕分け」の失敗である。
 さて無事定刻に伊丹空港に着いて、高速バスで京都に向かい、地下鉄で会場の「平安ホテル」に近い今出川の駅で降りる。平安ホテルは御所西と標榜されていたが、今出川駅から地上に出ると、道路を挟んで京都御苑の塀がずっと続いていた。そこで 乾御門から京都御苑の中に入り、よく整備された砂利道を歩いていく。御所の中には、あらかじめ許可をとっていなければ当日では入れてくれないのだという。
 歴史の長さを偲ばせる松の巨木を眺めながら「平安の御代には、紫式部もこの辺りを散策していたのだろうか」と思いながら歩いたのだが、ホテルに帰ってからインターネットで調べると、京都御所は鎌倉時代中期から明治時代初頭まで歴代天皇が住んでいた宮殿だという。幕末には大久保利通や西郷隆盛らの薩摩藩の志士たちは、三条実美などの公家たちとさまざまな策略を練ったり、天皇に奏上されたことはあったのではないだろうか。
 ところで「うれしいひなまつり」の歌詞に出てくる「お内裏様(ダイリサマ)と おひな様」の内裏であるが、古代、宮城における天皇の私的区域のことを内裏(だいり)といい、別名で御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などと呼ばれていた。元々平安京での正式な皇居は平安京の中央部付近に位置する内裏であったが、戦乱などによって荒廃したために里内裏に移った。この里内裏とは平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指すのだそうだ。(3日間、飛行機の窓越しに撮影した富士山の山容を提示したい)。
□ 京都から東京、そして富士山(中)
 平安ホテルは京都御苑中立売御門の真向かいにあり、地方職員共済組合京都宿泊所の建物となっているが、リニューアルされたのかなかなか立派である。玄関で京都府健康対策課主任の田中さんの出迎えを受け、控え室に案内された。そして窓の外の大きな庭園を「由緒のあるお庭だということですよ」と言いながらパンフレットを渡された。それによると「池泉回遊式日本庭園」で、公家屋敷の庭園として江戸時代につくられた。その後大正11年に、近代日本庭園作庭で有名な小川治兵衛により改修されたものだという。ちなみに小川は南禅寺や桂離宮、修学院離宮なども修築している。
 用意された昼食のお弁当を食べて、京都府難病医療連絡協議会は午後1時に始まった。この会議は鹿児島県難病対策協議会と同じ趣旨のもので、会長は宇多野病院の小西院長が務めておられる。委員には京都府立医科大学の中川教授や、京都市立病院の大井部長、南京都病院の宮野前院長など、かねて懇意にしてもらっている人も多い。私は一時間ほど「難病とともに40年~今後の日本の難病対策~」というタイトルで基調講演をさせてもらった。私の講演があるということで、委員の他にも京都府や京都市の保健師も多数参加してくれていた。
 そのあとの協議事項にも参加し、会議は予定より30分ほど早く3時過ぎには終わった。私は小西会長の隣に座っていたが、厚労省や鹿児島県では用意されている時間を細かく書き込んだ「シナリオ」は用意されていなかった。
 少し時間があったので、今夜宿泊する京都駅近くのホテル京阪にチェックインした。しばらくメールのチェックや電話などしてすごしたのち、6時前にタクシーで祇園に向かった。「山玄茶」という日本料理店だったが、祇園は小さな路地が交錯しており運転手さんが「この辺りだと思いますよ」と言われて降りたのであるが、結局辿り着けずに宮野前先生に来てもらう羽目になった。
 南京都病院の宮野前院長と、少し遅れて来られた杉山副院長の三人での食事となったが、お互いに「共通項」も多く、楽しい食事会になった。出される逸品はいずれも工夫された素晴らしい日本料理だったが、一皿ごとに店の若い職人の詳細な「口上」があり、「過ぎたるは及ばざるがごとし」とか、「すんなごっ、食べさせっくれ」というのが正直な感想である。
 翌朝、9時頃の新幹線で東京に向かうことにした。窓越しに富士山の写真を撮りたいと思って、自動発売機で窓席を予約したいと思ったが塞がっており、結局自由席にした。混んでいたが、名古屋で幸いにもお目当ての窓席に代わることができた。そして静岡あたりからカメラを取り出してスタンバイした。よく晴れており、きっと冠雪の富士を撮ることができるだろうと期待したが、肝心の富士は山麓から頂上にかけて雲で覆われており、まったく見ることもできなかった。世の中、うまくいかないものである(でも、この執念は帰りの飛行機で実現する)。
 品川駅で降りて、荷物を品川プリンスホテルに預けて、日本病院会の役員会に出席するために半蔵門駅に急いだ。途中のコンビニで昼食のためのサンドイッチを買って、会場に着いたのは開始の20分ほど前だった。
□ 京都から東京、そして富士山(後)
 会議では日本病院会の監事でもある石井公認会計士の「今後の日本の医療体制分析」が面白かった。すなわちTPPの最大のターゲットは農業ではなくて医療や介護であるというのである。すなわち日本の国民皆保険制度を少しずつ変質させながら、いわゆる基礎部分と高額医療などを含む二階建てになる方向だという。この二階建て部分は自由診療で、そこにアメリカやオリックスなどの民間保険が参入してくる仕掛けである。ただ民間保険の加入者は若者と富裕層で、当然のこと医療の格差が生じてくる。
 また参入した保険会社は、病院と保険契約を結ぶことになる(アメリカ同様)。当然、公私にかかわらず評判のいい大病院や急性期病院と契約を結ぶので、それから外れた病院は立ちいかなくなる。このような話を聞きながら、アベノミックスの行き着く先は、また格差社会の広がりなのだろうかと心配してしまう。
 もう一つは、国立国際医療研究センター院長の木村先生による「診療行為に係わる死亡・事故の原因究明制度の在り方について」の説明である。自民党政権時代に、いわゆる異状死を警察に届けずに、第三者機関で原因究明などを行っていくというスキムが出来上がりつつあったが、民主党政権になって新たに仕切り直しが始まった因縁のものである。
 医師にとっては異状死と判断された時には24時間以内に警察に届けなければならないという医師法21条の解釈が大きな問題となってきた。この席上でも平成12年の国立病院部のスタンダードマニュアルが異状死の解釈を広げて、警察への届け出の道筋を作ったかのような話しぶりだった。そしてもう一つが、広尾事件(平成11年)で裁判所は「都立広尾病院長が誤って消毒液を点滴され死亡した事件で、届け出がなかったことに関して医師法違反などの罪に問われた」ものである。確かに異常ではなくて異状であることから、たとえ普通の医療行為による死亡事例でも警察に届ける必要はなく、外見的に異状と思われた時に(事件性など)届ければいいわけだが、私が委員長としてまとめた平成12年当時の空気は、とりあえず異状死(異常死)と思われた時には警察に届けた方が病院にとっては好ましいという雰囲気だった。もし届け出ずにあとで問題になると、隠ぺいなどとマスコミなどからも指弾を受けかねないという雰囲気があったように理解している。今回、厚労省の医事課長が「診療関連死を届け出るべきとは言っていない。国立病院以外はマニュアル作成指針に拘束されない」とも発言している部分は、ちょっと言いすぎなような気がする。
 役員会の後、委員長会議が6時過ぎまで行われ、私は麻布十番の「オリーブ」へと急いだ。オリーブはかねて岡本さんの懇意にしているお店で、ワインがおいしく、またいろいろな家庭料理に近い料理も出してくださる。この集まりには、敏秀グループの岡本さんと戸島さん、児玉弁護士、慶応の中島教授、ノーマライゼーションを編集されている薄さんの5人のメンバーが集まった。それぞれ全く違う異業種であるが、それだけに話題は尽きず時間を忘れて談笑した。
 9時過ぎにタクシーに分乗して、私は横浜に変えられる中島先生と品川駅の前で降りた。
 さて翌朝はホテルで早い朝食を摂って、羽田空港へと急ぎ、8時15分発の飛行機に乗った。幸い窓際の席がとれて、ひょっとすると今度は富士山をカメラに収められるかもしれないと窓ガラスに顔をあてながら見下ろしていた。飛行機は約6500メートルと低い高度で相模湾上空に差し掛かった。そしてお目当ての冠雪した富士が陽光を受けてまばゆいばかりに現れた。私は隣の席の見も知らないご婦人に、「きれいですよ」といらぬお節介までしてしまった。それほど美しい富士の山容だったのである。
□ 患者さんはありがたい
 いつもは外来日となっている水曜日(今日6日)が、たまたま看護学校の卒業式と重なったので、代わりに3月4日の月曜日に外来をすることになった。パーキンソン病のような慢性疾患では一ヶ月処方が多いので、次回の診察は4月3日の予約となる。この3月末日で定年になるので、この日に受診された患者さんとは最後の診察となった。一月の南日本新聞のインタビュー記事を覚えていてその心づもりで来られた人、突然知らされて驚く人などさまざまなだったが、「医者になってよかった」と心から思わせてくれるいい患者さんに恵まれた。
 Kさんは91歳のパーキンソン病の男性で、蒲生町からいつも奥さんと娘さんの3人で来られている。記憶力が抜群で、数年前までは戦争中の硫黄島の話や若い頃に走ることが得意でさまざまな大会に出場していたことなどを得意げに話されていた。ただ最近では病状が進み、声が小さくなって表情でしか喜怒哀楽を表現することが難しくなっている。「Kさん、今日が最後の診察になったよ。元気でね」と言ったとたん、予想だにしない展開となり、顔をしわくちゃにさせながら嗚咽が始まった。声は出せなくても、その表情を見ながら私も目頭が熱くなった。「また、会うこともあるかも知れないから、元気でいてよね」と声をかけるのが精一杯で、車いすに押されながら部屋を出て行く後ろ姿を、しんみりと見送ることだった。
 Uさんは87歳の女性で、私が南日本新聞の「こころ散歩道」を執筆していた頃に何度も登場して頂いた機転の利く面白いおばあさんである。「先生、葛根湯は、はよ(早く)飲まんと効かんど」と教えてくれたりした。「きゅ(今日)は娘もドッグに行ったんで、嫁を連れてきもした」と言いながら、「なげこっ(長い間)、お世話にないもしたなあ。ついて行きたかどん、とえ(遠い)しな・・・最後じゃしたら、目薬いも葛根湯もいれくれやんせ」と、相変わらず気持ちの切り替えが早く、そして肝心なことは忘れない。
 70歳のパーキンソン病のこの男性は、遠く大隅半島の南端から2時間ほどかけて奥さんの運転する車で来てくれている。大きな牧場を持ち、畜産物の加工まで大々的に事業を展開されている。「社員に訓示するとき、時々言葉がもつれますが、まあどうにか続けられています」と話されている。「今後、どうされますか」と話しかけると、「垂水フェリーに乗ったら、時間的には同じようなものです。先生の4月から行かれる病院は、以前大腸のポリープも取ってもらった病院ですからよく知っております」と言う。
 63歳のこの女性、私と年齢が近いということもあって共通の話題も多く、気の置けない関係である。38歳の時に筋生検で多発性筋炎と診断し、幸いにもステロイド治療でほぼ完全に緩解が維持できている。いつものため口は消えて「先生は私の命の恩人です・・・」と涙ぐみながら殊勝な言葉遣いである。「次の主治医には、私に話すようなぞんざいな口の利き方ではいけないよ。ちゃんと丁寧な言葉を使わんと」と言うと、「わかっていますがね」と答えてくれる。
 多くの患者さんから「先生、体の方もくれぐれも気を付けて、達者でいてくださいね」と、医師・患者関係が逆転してしまいそうなありがたい言葉をもらった。長い患者さんは20年を超える場合も多く、お互いに感慨ひとしおというところである。
 いつも思うことだが、患者さんほど有り難いものはない。
□ 「頼まれたことは断らない」と「感謝する心」
 これまでいろんな折に、恩師の井形先生が医局員に「頼まれたことは断らない」と言われていた言葉を紹介してきた。若いころは深く考えることもなく「できるだけ断らないで引き受けるようにしよう」と単純に思っていたが、年を経るにつれて実に大切な言葉であったことを自らの体験で実感している。
 井形先生は、例えば一見くだらなそうに思える総説(原著と違って、病気の一般的な説明で、自分の学問的な業績にはならない)の依頼原稿でも、「そこで断ったら二度と頼まれないものだよ。自分が本当に書きたいと思う原稿の時にも」とおっしゃっていたように記憶している。そして「人に頼むということは、いろいろな状況を踏まえて頼むことが多いのだから」と。確かに私自身も、人にものを頼むときにはさまざまなことを熟慮して頼んでいる。ところが頼んだ相手方から断られると、この人には二度と頼むまいと思ってしまう。頼まれた人は、おそらく軽い気持ちで断る場合もあるのだろうが。
 これまでの人生の中でも、「頼まれて断らなくてよかった」と思えることを何度も経験している。その最たるものが、平成11年の医療安全に関するスタンダードマニュアルに関する委員会の委員長で、当時の国立病院政策医療課長だった小田先生の酔狂によるものだと思っている。その時私は、田舎の国立療養所の新米院長に過ぎなかったわけで、一方委員には、ナショナルセンターや大きな国立病院の院長、著名な評論家、また法曹関係の学者など多士済々のンバーで、私に会を仕切れるとは思わなかった。でも苦労しながら、6回ほどの委員会を経て、どうにか「報告書」としてまとめることができた。非力を承知で引き受けてしまったことだが、以降の医療安全の分野への関わりの第一歩となったことは確かで、現在の日本病院会での医療安全対策委員長の仕事にも引き継がれている。
 今回また、厚生科学審議会委員や疾病対策部会の部会長、難病対策委員会副委員長など、いずれも過ぎたる大役を仰せつかっている。決して適任とは思わないが、担当者がいろいろなことを考慮しての人選だろうと思って、ずうずうしくも引き受けさせてもらった。
 また「人に感謝する気持ち」も、長い人生をつつがなく全うするうえで大切な要素だと思っている。
 人にものを頼んで引き受けていただいたり、お世話になったら、いつか別の機会に恩返しをしたいと思うのも人情である。私は15年にわたる院長時代、実に多くの方々のお世話をいただき、感謝の気持ちで一杯である。
 例えば、病院運営に最も重要なことの一つである大学からの医師派遣もその一つである。当院のような国立の医療機関では、医師派遣に対する医局への奨学金や学会の時などに賛助することもかなわない。医局からすると金銭的には何のメリットもないのに、長い間特段の要求もなく淡々と有能な医師を派遣してくれた教授、そして医局には感謝の念で一杯である。
 何事でもそうだが、感謝の気持ちを忘れると人間おしまいである。取り立てて表立ってその気持ちを言葉で表現することはなくても、お互いの気持ちは通じ合うものである。
□ 有馬君の絵
 「僕の将来の夢の一つ目はパソコンデザイナーです。・・・二つ目は野球選手です。・・・三つ目はシェフです。・・・」と、中学部1学年の時の有馬貴大君の「将来の夢」という作文の一部である。
 先日、お兄さんの弘貴君の見舞いにベッドサイドに行ったときに、お母さんからいただいた二冊の画集の「がんばる」という貴大君の画集に書かれている(ちなみにもう一冊は、弘貴君の「スマイル イズ ベスト」という画集である)。
 ところが貴大君はいずれの夢も達成することなく、約一年前の2012年3月15日、筋ジストロフィーに伴う拡張型心筋症のために帰らぬ人となった。わずか14歳という短い人生だった。
 2013年、2月21日の南日本新聞で、「弟の遺志継ぎ兄弟展」という大見出しで、蒲生のふるさと交流館で開催されている兄弟展に関する記事が掲載されていた。
 実は昨年のことになるが、読売新聞でも「筋ジスの20歳、被災地励ます絵」という大見出しで、弘貴くんのことが取り上げられていた。この記事の中で「病気が判明したのは生後8ヶ月。一時は運動会のかけっこにも出場できたが、徐々に歩けなくなり、小学校を卒業した2005年、同市の国立病院機構南九州病院に入院した。今は全身の運動機能が失われ、自由に寝返りも打てない状態。鼻からチューブで流動食を取り、人工呼吸器をつけて生活している」。そしてタブレット端末とペン型マウスを使って絵を描き、東日本大震災の被災者を励ますために三箇所に送った。「絶望の中の光」と題するもので、暗闇の中で見出した光に手が導かれる様子が表現されている。
 弘貴君は震災の起きた昨年の3月は体調を崩していて、「自分のことで精一杯だった」。そして今年は強い心の絆で結ばれていた弟の貴大くんが、同じ病棟で亡くなった。貴大くんも絵が上手で、小学4年の時に描いた「キラキラ光る桜島」は朝日新聞社厚生文化事業団賞を受賞した。そしてその絵は当院の外来の壁に掲げてある。
 そしてこの記事の最後には、弘貴君の願いでもある「どんな境遇でも、人は希望を持ち、希望を与えることができるということを知って欲しい」という言葉で締めくくられていた。
 その弘貴君であるが、今年になって心臓の機能が落ちて予断を許さない状態が続いていた。主治医をはじめとするスタッフの必死の努力で、幸いにも回復してきたようである。「どうね」と声をかけると鼻マスク式の人工呼吸器を付けながら「よくなりました」と元気な返事を返してくれる。「よかったね、頑張るんだよ。被災地の人たちも、有馬君の絵に元気づけられたということだったよ」と言うと、「うれしいです」と答えてくれた。自分の病気が大変なのに、いつも他の人のことを気遣う少年である。
 2月26日、その「ふるさと交流館」に、事務部長を伴って出かけてみたら、お母さんが待ってくれていた。壁に兄弟の絵や、壁の前の机には作文や陶芸なども展示されていた。二人の絵に共通することは、絵のうまさなどという技巧の前に、自分の「生きたい」という生への凄いエネルギーが感じられる。そしてなんといっても、原色を中心にした色の選択と配色が素晴らしい。本当に元気のもらえる絵とはこのような絵をいうのだろう。
 いつも思うことだが、「筋ジストロフィーで早逝してしまう子供たちには、どうしてこんなにもけな気な子供が多いのだろうか」と。
□ 「家族」に近いかもなあ
 Nシスターズのお母さんは、ALSで療養介護病棟(旧筋ジス病棟)に入院されている。娘さんのKさんとRさんは交代で、夕方にはほぼ毎日お見舞いに来てくれている。同じ部屋に悦子も入院しているが、先日Kさんからメールをいただいた。
 今日、悦子さんと話をしたら、「院長先生が退任される、寂しい」と指で書かれるので、「私たちより長いお付き合いですね」と言うと、「家族」と書かれました。大学に戻るはずが、悦子さんたち、難病の子供たちを残したままでは、去れなくなられた院長先生のお優しさを思い、家族と慕われる所以だと思うことでした。
 悦子は声を出せないので、コミュニケーションはこちらの手のひらに、悦子の指先で文字を書いてもらっている。私はすぐわからないことが多く、悦子をいらつかせている。悦子に限らず筋ジス病棟の何人かとは40年近くの付き合いであり、「家族」のようなものかも知れない。名前を呼ぶときにも君やさん付けでもないファーストネームだし、私の言いたいことや思っていることの先読みをする患者も多い。
 メールをもらっていたこともあって、先日、悦子の所で雑談をした。小学1年の時に入院したということは、私が最初に南九州病院に赴任した頃と一致する。確かそのころは、ゆっくりとではあるが歩いていたように記憶している。福山町にある自宅にも、訪問したこともあった。悦子は字を書ける頃は物語を書くのが得意で、養護学校のハンサムな先生や指導員だった西村君などを主人公に、きわどい「恋愛もの」をものにしていた。
 22年前に気管切開を受けたということだったが、呼吸不全で亡くなる寸前に「気管切開をする」と決断した日のことを鮮明に思い出す。それまではどちらかというと「私は気管切開をして人工呼吸器は着けたくない」と言っていた。
 早速、悦子からメールをもらった。
 早いもので2月も今日で終わります。今日は嬉しくて幸せで一生忘れる事のない日でした。先生と長い時間、気切前の話や天皇陛下との話など出来たんだもの。丁度矢富さんも居て、気切前当時の事を知っているのは、先生と矢富さんぐらいです。私も知らない事が沢山あります。(笑)あの後、矢富さんと当時の話で盛り上がってました。あの頃はホント色んな事がありました。あれから22年。先生、私、気切してて良かったんですよね?声も出ないし、色んな人に迷惑かけるので、時々思うんです。
 でも先生に会えると元気が出ます。先生の暖かい「悦子~」と言う声が心地よくて安心します。先生、大好きです。南九を離れても筋ジス患者皆の家族で居て下さい。
 3月一杯はおられるんですよね?又、部屋に居らして下さい。
 先生、富士山の写真、有り難うございました。凄く綺麗に写ってます。今度は天皇陛下との写真も宜しくお願いします。
 悦子は私を喜ばせる「術(すべ)」を心得ており、南九州病院を辞めても筋ジスの仲間との関係は続きそうである。
□ 全国難病センター研究会あれこれ(前)
 3月2,3日の両日、かごしま県民交流センターで「全国難病センター研究会、第19回研究大会」が開催されることになった。前日の1日には北海道難病連事務局長の伊藤さん(難病対策委員会の委員で、患者団体の代表者)と厚労省社会援護局課長補佐の田中さん(阪大卒の医師で、初対面だったがあこがれの先輩~なんと私!に会えてうれしかったという)、疾病対策課の加藤さんなどが南九州病院を訪問してくれた。そして筋ジス病棟に入院中の石橋さんや日高君、山田君などを紹介できたが、病気にも負けずに絵やグラフィックなどに挑戦しながら頑張っている姿に感銘を受けたようである。
 病院案内を終えて3時半頃、3人を車に乗せて都城に向かった。この3月にオープンする「サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)」を見学するためである。雨の中を5時過ぎに到着したが、理事長の森山ご夫妻の出迎えを受け、「住宅」の内部も詳しく見学させてもらった。この建物は宮崎県で最初の国土交通省-高齢者居住安定化推進事業に採択され「サービス付き高齢者向け住宅第1号」として登録されたものだという。外見はまさにアルハンブラ宮殿(絵で見ただけだけど)をも思わせる壮大なもので、森山先生の長年の夢とロマンが散りばめられている。中庭を囲むように三角形の住宅が三棟立つ配置で、最も長い棟は120メートル(4階建て)にもなる。中庭には新燃岳の火山灰を利用したという保水性のいい煉瓦が敷き詰められ、中央部にはギリシャ彫刻のサモトラケのニケが配置されている。また建物の外側には地下水を使った小川が流れ、将来的には蛍の乱舞する姿も夢見ているという。
 パンフレットには「森山ウエルライフパーク」を地域住民の拠点・情報拠点として開放し、地域住民・入居者および施設が、地域の中で一体となって豊かな街づくりに貢献します、そして「国土交通省のバリアフリー基準への適合は、廊下・隣室との隔壁は1時間耐火壁に設定、安心の住まいを実現します。また、広い中庭、ラウンジなど、快適な居住性を入居者へ提供します。医療と介護をウエルライフ1号館・2号館での豊富な経験・実績をもとに密接に連携した在宅医療・介護サービスを提供、24時間の見守りと安心を提供します。入居者から異変が通報された場合の支援体制も万全を期しています。食事は高齢者にとって大きな楽しみ、満足感を得られる時間です。美味しい・食べ易い・健康的、全てに配慮した食事を 栄養士の指導の下、朝・昼・夜365日提供します。人の絆、入居者と家族・友人・主治医・看護師・介護士・職員・近隣の住民の方々、それぞれの人との強い絆から、入居者の幸福なくらし、それを支える職員の充実した仕事が生まれます。
 聞くところでは当院の吉原看護部長の自宅の近くだということで、将来的には住居者の一人になっているかも知れない。ちなみに居室は大きさでABCの三つのタイプがあり、基本生活費は63,000円から14,8000円となっている。私も思わず「いつかここに住みたいので、一部屋確保していてください」と、半分冗談、半分本音でお願いすることだった。
 一泊した後、翌日2日には、同じ3人のメンバーを車に乗せて会場となる鹿児島県交流センターに案内した。
 さてこの全国難病センター研究会であるが、主催事務局は全国難病センター研究会で、実質的には北海道難病連とNPO法人難病支援ネット北海道が仕切っている。年に二回開催され、一回が東京で、もう一回が全国各地で開催されている。ただ私自身、この研究会を主催(共催?)しているという理解がなく、一日目の「特別講演」とその夜の交流会に参加すれば一応義務は果たせるものと軽く考えていた。そのため、ずっと前から約束していた全国各地から来られる昔からの友人を南薩路に案内する約束をしていたため、二日目の大会は朝から欠席してしまった。後でよくよく考えてみると、「大会長?」で県のセンター所長が終日留守にしたことは無責任だったと少し反省することだった。
□ 全国難病センター研究会あれこれ(後)
 さて第一日目の研究会は、疾病対策課長の山本さんをはじめ厚労省の3人の担当者の「特別報告」の後、私は40分の時間をもらって「難病と40年を40分で」という基調講演をさせてもらった。大分砕けた内容だったが、司会をして頂いた糸山会長からは、うれしい賛辞の言葉をいただいてホッとした。
 二日目の朝のパネルでは、「かごしま、難病相談・支援センターができるまでの闘い!」を里中さん(日本ALS協会鹿児島県支部事務局長 )が、「鹿児島県難病相談・支援センターの活動状況」を笹原さん(県難病相談支援センター、保健師)が、「ピアカウンセリングの成果と課題」を黒木さん(鹿児島難病支援ネットワーク、RA患者)が立派に発表し、好評だったということを多くの方から聞くことができた。
 さて問題の日曜日、朝方はちょっと曇っていたが、予報は快晴となっている。9時に中央駅近くのホテルに行くと、4人のオバタリアン(失礼!)のメンバーは時間通りロビーで待ってくれていた。新潟の若林さん、金沢の永井さん、千葉の川上さん、東京の吉本さんで、いずれも日本ALS協会の活動を支えてきた面々である。
 まず、産業道路沿いにある焼酎工場の「無双蔵」を案内した。事前にこの会社の相談役をしている88歳の叔父に連絡していたら、なんと8時から待ってくれていたという。社長室で「焼酎にかける情熱」を一くだり拝聴し、無双天を一本ずつお土産としていただいた。そのご知覧の特攻基地、私が4年生まで在籍した松原小学校の校庭、開聞岳を最も美しく眺めることのできる背平公園、砂むし温泉、そして夜は熊襲亭まで「フルコース」で案内できた。天気がよかったこともあって、大変満足していただけたよう(後述のメール、勝手に紹介)で、肝腎の会をサボって案内しただけのことはあったと(こちらも)勝手に喜んでいる。確かに「福永学級の還暦を過ぎた修学旅行」という感じでした!(永井さんのメール)
  言葉に出来ないくらい楽しい、贅沢な旅でした。どんな風に“ありがとう”の気持ちをお伝えしたらいいのか・・・。母が亡くなって父との珍道中が数回、その父も亡くなって10数年。あちこち出掛けはしましたが、いつも心の何処かが醒めてて「行ってきた」って気持ちが強かったのですが、今回は若い頃、自由にウロウロしてたのと同じ気持ちになっていました。感謝です。自分で自分を縛っていた「 」かが、ゆるゆると緩んでくれたのでしょうか。先生をはじめ今回お会いした皆さんに感謝です。木脇さん、崎田さん、日高さんもお元気で嬉しかったわ。
 先生の母校、開聞岳、砂むし・・つま先がドクドクしてきてびっくり、知覧の会館での出撃前夜の寝ている写真には涙が止まりませんでした。次ぎは屋久島、奄美大島めざして仕事を選ばずちょっと頑張ります。
 帰りの車中から、雪に覆われたいつもの白山が良い姿で見えたのですが、頭の中の8割は開聞岳が・・・・・。お忙しいお時間を頂いて本当にありがとうございました。(若林さんからのメール)
 この度は大変お世話になりました。福永学級の修学旅行みたいで、楽しく想い出深いこと、この上ありません。焼酎工場・知覧・砂むし温泉・松原小学校・熊襲亭、鹿児島を満喫しました。なんといっても松原小学校校庭での先生が可愛い!!童心に帰って弾けてます!
 ひとつの時代の終わりをご一緒できて、ほんとによかった。おもてなしの数々心から御礼申し上げます。夜6時すぎ、新潟へ到着すると4度とか、寒くて震えました。
   難病を少し扶けし時もあり 余福の旅を薩摩に遊ぶ
□ 延命治療の選択(前)
 「先生は日曜日も、でっきやっと?(出て来られるのですか)」と、外来待合室の自動販売機の前の椅子に腰を下ろしたIさんから声をかけられた。私は毎朝、5時45分にここを通るのだが、このIさんも入院以来、一日も欠かすことなくここの椅子に座ってお茶を飲んでいる。
 Iさんは50歳代、当院からは車でも2時間ほど離れた大隅半島のある町から、「診断確定」の目的で入院されている。去年の3月ごろ、野球をしたときにボールが投げられなかったという。5月ごろから頸部に張ったような感じがあり重い物が持てなくなり、また右手で箸は持てるが食事ができなくなった。整骨院に行ったり、あんまをしてもらったがよくならず、脳外科や整形外科で脳のMRIなどの検査してもらったが、「異常はない」と言われたという。
 当院に入院し、筋電図などの検査でALSに間違いないことが分かった。
 先日、たまたまポリクリの学生とラウンドした時のこと、「どうですか」という質問に、「ちょっと飲み込みにくいことがあるけど、息苦しさはまだ感じない」という。「息苦しくなったら、人工呼吸器を着けますか」と単刀直入に聞いてみた。「ううん、今は着けたくなか、と思っている」という。その理由は、たまたま前に入院していた病院にALSの患者が入院しており、「あのようにはなりたくなか」と思ったそうである。「それでは、呼吸器を着けるとき、『あのようになった時には』外せるということだったら着けますか」と訊ねてみた。「今は、わからんなあ」という。「呼吸器を着ける、着けないは難しい決断なので、その時になってから決めてもいいですよ。今着けたくないと言ったことに縛られることもないですし」と付け加えた。
 ALSの長期療養では呼吸器を着けるかどうかという選択は、ほとんどの患者さんが通らなければならない厳しい試練である。まれには球麻痺症状の出現しない患者もおられるし、嚥下障害と構音障害はあっても呼吸障害の出現しない場合もある。全国的に人工呼吸器を装着している割合に関する正確な統計はないが、おそらく2割から3割ではないだろうか。ところが鹿児島県ではその比率が高く、5割以上の患者が呼吸器の選択をしている。
 先日、あるALSの研究会で、福岡の病院でもっともALS患者をよく診てくれている院長が、「私の関わっている患者で、気管切開して人工呼吸器を着けた人は最近はいません」と、私にとっては意外とも思える発言だった。その病院ではレスパイト入院などを組み合わせながら理想的に思える長期療養体制の整備ができており、そのような病院で人工呼吸器を着ける選択が少ないのはどうしてだろうかと思った。察するに、Iさんの「あのようにはなりたくない」という一言に集約できるのではないだろうか。
 正直なところ、私にはどの選択がいいのか分からない。病気の説明で、特に経過や予後を話すときに、かなり進行した患者のベッドサイドに連れて行ったとすると呼吸器を選ばない患者が多いのかもしれない。
 私に今できることは、「あのような状態をできるだけ回避して、QOLの高い療養環境を整えよう」ということだが、思い通りにはいかないことが多い。
  人の生死にかかわる出来事は、いつも難しい。
 □ 延命治療の選択(前)
 ある日の早朝の出来事、いつものように院長室に入ると心肺蘇生中(CardioPulmonary Resuscitation; CPR)との院内放送があった。筋ジス病棟に急ぐと、当直の先生がアンビューバッグを押しながら的確な指示を行っていた。患者さんは60歳台の筋緊張性ジストロフィーの男性である。痰が気道を閉塞して、急性の呼吸不全を起こしてしまったらしい。
 患者さんも落ち着いたところで、主治医の先生と話をする。
 「家族は気管切開をして、呼吸器の装着は望んでいません」という。私も「そうですか」と納得するのだが、「患者の自己決定を優先するという立場にたてばどうなるか」などと考えると、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
 この病気では多くの場合、加齢とともに筋力低下はもとより呼吸障害など全身の病気を併発するし、知的障害も進行すこともある。おそらくこの年齢の患者さんでは、病気のことを詳しく説明しても正しく理解できたかどうか疑わしい。そんな場合、家族の判断に呼吸器装着の可否を委ねることになるのだが、はたしてそれでいいのだろうかという問題はおきる。
 何が何でも延命を優先する立場からは、医師の判断で命の継続をするべきだという意見もあるだろう。ただこのような患者の場合、寝たきりの状態で呼吸器につながれて延命することが最善だとは思われない。誰しも命は有限であり、いつの日か終末を迎える。数日、あるいは数ヶ月の延命で患者や家族に負担を強いることになるとすれば、好ましいと思われる時期に、みんなでその命を見送ることも「いい死に方、死なせ方」ともいえるのではないだろうか。
 このことに関してはいろいろな議論があることは承知しており、私自身の考えも堂々巡りに陥ってしまう。
 人間の命を、知的なレベルで判断してもいいものだろうか。もちろん基本的にはノーであるが、「90歳を過ぎた認知症の患者さんが、食事が摂れなくなった時に、胃ろうなどの人工栄養処置をすべきか」という議論があったとしたら、私は家族であっても胃ろうを付けるという判断はしたくはない。ただ患者さんの家族がどうしても胃ろうを希望される場合には、その気持ちに添うような処置はするだろう。例えば当院でも、多くの福山型筋ジストロフィー の患者さんは、最近では人工呼吸器を着けることが多い。このことに関してもデュシャヌ型筋ジストロフィーには呼吸器を付けるのに、知的障害があるということで福山型には付けないということはおかしいという議論が昔からあった。
 腎透析の適応の判断に、イギリスでは年齢により区別を設けているということを聞いたことがある。お金で命の判断をしたくはないが、資源は有限であることを考えると野放図に延命に走ることも「次世代につけを回すような」気もする。
 いずれにせよ、もっとオープンにこの「いのち」の問題を議論すべき時代になっている
のではないだろうか。
□ 南風病院の院長就任にあたって
 30年という長きにわたって勤めてきた(そのうち15年間は院長として)独立行政法人国立病院機構南九州病院をこの3月に定年退官し、4月から公益社団法人鹿児島共済会南風病院の院長に就任することとなった。
 ご存知のように南風病院は胃がんや大腸がんなどの消化器系疾患の診断と治療、そして整形外科などの専門医療や急性期医療の分野では長い伝統と実績をもつ地域中核病院であり、患者さんから確固たる信頼をかちえてきた病院である。私はこれまで筋ジストロフィーやパーキンソン病など主に慢性疾患に軸足をおいた医療にたずさわってきたので、南風病院の得意とする分野とはかなり異質の立ち位置にあった。
 3年ほど前に、西俣院長と鹿島先生(顧問)から院長への就任を打診された(もちろん貞方理事長の内諾も得てのことだが)。これまで南風病院とはさほど深い縁もなかったし、西俣院長とは全く面識はなかった。文字通り、寝耳に水という感じで大いに戸惑ってしまった覚えがある。「そんな気はありません」と即座にお断りしたが、一応「理事なら」ということで無報酬の理事に就任させてもらった。
 その後、一年に数回開催される理事会に出席して、病院の理念や診療の内容も少しずつ理解できるようになった。そして理事長の病院を愛する強い気持ちや院長の医療に対する先見性と病院経営に対する熱い情熱を肌で感じることができた。そして何より、縁もゆかりもない私のような平凡な男に声をかけてくださったということへの男気と、理事長や院長と多くの点で価値観を共有できるという喜びを感じた。
 定年も間近になって、家内からは「もう少し、ゆっくりした病院の方がいいのじゃないの」と言われたが、いつもの優柔不断さと恩師の井形先生の「頼まれたことは断らない」精神のまま、ついつい引き受けてしまったという次第である。
 西俣院長からは特段注文はつけられていないが、幸いにも医療に対する考え方は不思議なほど一致しているし、これまで同様に南風病院を質の高い高度医療、そして患者さんに親しまれる病院にできたらと願っている。また今後増加していくものと思われる認知症やパーキンソン病など、変性疾患に対する医療にも目を向けていきたい。
 人は誰しも生まれてこのかた、しつけやさまざまな教育を受けながら成長し、就労し、そして老いて亡くなるというライフステージを経験する。時には思いがけない病気に罹患して、大きな不安を抱えながら病院の玄関をくぐることになる。幸いにも南風病院は、がんを中心として、予防医学(健診など)から緩和ケアまでの包括的な医療を支える立派な受け皿が整っている。マスメディアやIT化の進歩で医療情報は氾濫し新幹線効果も加わって、ともすれば鹿児島県民が福岡や大阪、東京などの大都市の病院に流出しつつあるという懸念も現実味を帯びている。
 私としては人生の最終章を、鹿児島で生まれ鹿児島で教育を受けた医師として、郷土の人が誇りをもって安心して医療を受けられるような病院作りに参画できることを幸としたい。南風病院には、それぞれの分野で有能で意欲に満ちた医師がたくさんおられる。もちろん最近の医療は、医師のみならずコメディカルスタッフとの協働作業そのものであり、職員みんなが「いい医療を提供したい」という思いを一つにしてベクトルを合わせることが何より肝要である。患者さんに高度医療を提供し、健全経営を堅持し、そして働く一人一人が生きがいと将来への展望を持てるような病院でありたいと思う。

院長雑感

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